第2話
男は車を運転しながら、時折バックミラーで後部座席に座り、髪を一生懸命に拭いているエスメラルダを見た。全身びしょ濡れで、茶色のワンピースや、黒のレギンス、黒のスニーカーと濡れていないところはなかった。傘は走る際に邪魔になるので、店に置いてきたままだった。
(ここまでは上手くいった・・・・・・。後は、どうにかして目的を果たさないと。もう、時間がない)
「俺の相方が別件で持ち場を離れる事になって、ついてたな」
彼女は視線を落として何も答えない、少しの間ができたが、男は二の句をついできた。
「いたら、確実に揉めてたよ。君を車に乗せるなんて」
「・・・・・・何を誤解されているのかは、分かっているつもりです。なので、こうして一度、直接お話させていただく機会が欲しかったのですが」
男が眉を潜める様を、バックミラーを介してエスメラルダの目は見ていた。男の右手が微かに戦慄いているのも目の端でとらえた。彼は自分をそういう対象として見ているのだ、とエスメラルダの心に寂しさが訪れた。
「違うのか? 何の用で私に会いに来た?」
「警告に。これから、この街に良からぬ事が起きるという警告です」
「君が何かを仕掛けるっていうのか?」
「あの子は、サンフランシスコにいます」
その言葉だけで、男に意味が伝わったのを見た。ステアリングをきる動作に力が入りすぎ、運転がぎこちなくなっていた。
「何故それを知ってる?」
「彼女に出会ったからです。・・・・・・ご存じありませんでしたか?」
「ないな。姿を消した彼女をFBIは血眼で探してる。だが、君の言っている事は嘘だ」
男は乱暴に右折し、坂の上からサンフランシスコの都市部を一望できる○○通りに入ってすぐの路肩にSUVを寄せ、急停車させた。そしてシートベルトを外し、脇のホルスターから拳銃を抜き、スライドを引いた後、エスメラルダに銃口を向けた。彼女は口をつぐんで、男のなすがままを眺めていた。彼女は動じず、男の所作全てをその目で捕らえていた。
「嘘じゃありません」
エスメラルダは凛然たる態度で、男に言った。
「・・・・・・嘘だな。君の事は監視下に置いている。昼夜交代の厳戒態勢ってヤツだ。私も相棒も、あの女を見ていない。情報提供者からもだ。悪いが電話の会話内容だって把握している、彼女と接触した形跡はない」
「お言葉ですが、それはあなたがたの捜査能力では太刀打ちできないという証明になります。確かに私はテューダに会ったので」
男の目が
いつもこうだった。少なからず好意的であるはずの人間の目が、表情が、マグマでとろけるように溶け崩れたと思えば、次の瞬間には憎しみに染まるのである。そのたびにエスメラルダは寂寞とした心地にさいなまれる。
「・・・・・・銃なんか、怖くないか」
「撃たれる理由がありませんから」
エスメラルダは男の仕草に注意を払いながら、これからの事を考えていた。問題は、目の前の男や、背後の組織の信用を得、テューダを止めなければならない事だった。彼女の心の中には、いくつものクリアしなければならない難題が横たわっていた。それは、大河をせき止めている積上がった灌木の山のように思えた。彼女が沈思する間に、男は銃を下げた。
「
「私を本気で警戒しているのなら、車の中に招き入れたりはしないはずです。タオルまで用意してくれて・・・・・・」
そう言うと、何故か男が困り顔をして、小さくうつむいた。これに関してはエスメラルダは男の心情が読めなかった。彼女は単純に、本気で殺しにくるなら、数や武器をそろえてくるものだと思っただけだ。彼はそれをしなかった。強引に接触を計った事で、男は彼女の話を聞かざるを得なくなっただけのはずだ。脅しに近い行為をとったと思っていたが、男の様子から、それに関する憎しみのような感情が無かった。
「君が煙の魔女と会ったのが本当の話だとして、だ。君は単なるメッセンジャーとして私に会いに来たのか?」
「警告と、テューダを止めるお手伝いをするために」
「・・・・・・あの女、この街で何をする気だ?」
「具体的に何をするかは私にも見当がつきません。ただ、テューダの仲間に入るように誘われた時、断ったんです。そうしたら、目を覚まさせてやる、とだけ言って彼女は帰ったので・・・・・・」
「目を覚まさせる、ね・・・・・・」
「彼女を止めると言ったね。どんな、お手伝いをしてくれるんだ?」
「私がFBIに入って、率先して彼女と戦おうと考えています」
「それは無理だ」
「えっ・・・・・・」
「君とテューダの事は調べがついている。不思議な能力を持っているね。どうやら、君たち二人が体内に入れた薬の影響らしいが、FBIはそれについて驚異を感じている。十日前のニュースは見たか?」
「・・・・・・はい」
十日前に起こった全米を騒がせた事件だった。桃色の霧が○○の街の一角を漂い、迷い込んだSWAT隊員は無事に出てくる事はできなかった。誰一人として。
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(後編)
エスメラルダの返事は消え入りそうだった。マークは当時、現場にいてテューダが使用した異能を見ていたと語った。異様な光景で、同僚達が煙に首を締められて、宙に浮き、周囲の粒子が体を圧迫し、皮膚に赤みが増した。野ざらしにされた後、皮膚の色は青へと変わった、と。謎の桃色の煙に包まれたSWAT隊が意識不明、もしくは殉職した記事は写真入りで新聞に掲載された。それが、テューダの能力、人知及ばぬ魔法の力だった。
「あの煙による犠牲者が五名だ。全て我々の仲間だった。特殊部隊の訓練も受けてる。女性一人に負けるはずがない、はずがないんだが・・・・・・」
マークは何かを言いかけてやめた。話の途中で当時を思い出して物怖じしたようだった。エスメラルダは彼を気の毒に思い、また、異能がFBIに強い不審となって印象づけられている事を知った。だから、彼女がFBIに入る事ができないのだ。
雨は先ほどよりは大分落ち着いて、小降りになっている。ワイパーの動きも幾分、ゆったりとしていた。
「君も、桃色の煙を出したりできるのか?」
エスメラルダは俯いた。背が丸くなり、ただでさえ小さな背丈がより縮んだように見えた。どう答えるべきか、悩んでいた。何を言っても人を遠ざけてしまう事になるような気がした。
「正直な話、君を遠くで見ていた時は、銃を撃つに値する女性だと思っていた。だが、今は違う。それは俺の頼りない直感なんだが、それでも彼女に類する何らかの能力は持っているんだろう?」
「・・・・・・はい」
「それを聞かせてくれないか?」
マークという男は、多少なりとも自分を信用してくれているのだと、エスメラルダは感じ、それを嬉しく思った。
「目に映るものが、非常にゆっくりと・・・・・・動いている様を眺める事ができます。鳥が羽ばたく動作の一つ一つ、飛んでくる銃弾の軌跡。そして、煙の粒子の動き、一粒一粒が精緻に見えます」
エスメラルダは緊張しすぎているからなのか、疲労しているからなのか、声に覇気がなく、時折、変な場所でアクセントが強くなった自分の声に驚いた。首を左右に振り、再び力強く同じ説明をした。信用を少しでも得られるように。
「それだけなのか?」
「それと同時には行えませんが、体を強くする事ができます。重いものを持ち上げたり、早く走ったり」
「どのくらいの重さを持ち上げられる? 早さはどうだ?」
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「ちょっと難しいかな。FBIには適正検査もあり、アカデミーで厳しい訓練もつまなきゃならない。何より、皆、君の友達の活躍で特殊な能力には恐怖を持ってしまっている。嬉しい申し出だけど、ウチでは預かれないな」
彼女は強い目で、マークの背中を見ていた。
マークはエスメラルダを刺激しないように、慎重に言葉を選んだ。機嫌を損ねれば、テューダのような悪魔が表出する可能性を捨てきれないようだった。彼女を否定せず、丁重に扱う。美女をエスコートするのではなく、爆弾のような危険物を取り扱うよう丁重に。だが、彼はしくじっていた。その危険物の導火線には既に火が付いてしまっているからだ。
「いつのまに抜き取ったんだ?」
マークは両手を上げた。エスメラルダの握った拳銃の銃口が彼の横腹に押しつけられていたからだ。
「こんな事はしたくないんです、でもまた犠牲者がたくさんでてしまう。それも私のせいで」
マークは肩越しに振り返った。彼は毅然とした態度で、その冷たい青い目をエスメラルダへと向けて一喝した。
「忠告するが、それは逆効果だ。気付け、そんな脅しが不審を生むんだ。不思議な能力で拳銃を奪われ、脅しかける人物を仲間の元へ連れて行くと思うのか? いいぞ、私をここで殺してみろッ」
エスメラルダは苦悶し、手にした拳銃を落とした。
「君をFBIには連れていけない」
話は打ち切られた。マークはエンジンをかけ、SUVを発進させた。○○ストリートの下り坂を軽快に進んでいった。エスメラルダはモダンなアパートが立ち並ぶ な景色が流れていく様を車窓からボンヤリと眺めていた。ふと、ある事に気づく。自分の家とは全く違う方向にSUVは進んでいる。
「どこへ向かってるんです?」
「ホテルに」
「えっ!?」
エスメラルダは素っ頓狂な声を上げて、いぶかしんでいる。
「誤解するな。まず、その濡れた衣服を何とかしないとダメだろ。君に合いそうなサイズの服も用意しておくので、後はフロントに言って係の者に持って行かせる」
喜んだのも束の間、エスメラルダは俯き、しょげ返ってしまった。
「FBIには連れてってくれないんですね」
「さっきも言ったろ。君はテューダと同列に見られている、それがFBI内での評価なんだ。じゃなきゃ、監視なんかつけないさ。行かないほうがいい、それが君のためでもある」
「私は違う・・・・・・なんて言い分は通らないんですよね」
「それを証明できれば、それで納得できれば別だが。そもそもその能力は一体何なんだ? 君の養父<おとうさん>から話を聞いたが、要領を得なかった。君達は本当にあの薬を飲んだだけで、そういった魔法のような力が身についたのか?」
「はい・・・・・・厳密には手順があるようですが、私は知りません。ただ、テューダに言われるままに行動したら特異な能力が備わっていました」
「あの街で作られていた薬、新種の液体ドラッグだった。まだ、一般には情報が出回っていないが、この街にも中毒者が何人か出ている。だが・・・・・・」
「私達は医療品だと聞いていました」
「医療品なんかじゃない。あれは、人である事を放棄する過去最悪の麻薬だ。君は、あの薬を体内に入れた者がどうなったかも知らないようだが、君が身体に入れたのは、本当にあの街の工場で作った薬なのか?」
麻薬の話になり、マークの言葉の端々には苛立ちが混じっていた。それに関しては、エスメラルダは全く知らなかった。
「監視については悪く思わないでくれ・・・・・・という方が無理があるよな。だが、君を張っているのは基本、女性だ。外出時は、私のような男が担当するが、それでも最低限の範囲でだ」
「・・・・・・そんな言葉で納得するわけがないでしょう」
大人しく振る舞っていたエスメラルダに僅かに怒りの色が出る。
マークは反論できずに、目が泳いでいた。
「ホテルの料金は気にするな、FBIの経費で落としとく」
「じゃあ、お礼の必要はないですね。あなたのお金じゃないんだから」
マークは苦笑した。それから、何も言わずに彼はSUVで走り去ってしまった。エスメラルダは走り去っていくSUVの背を見送っていたが、やがて手元に視線を落とした。彼女は手の中にある黒革の二折りパスケースを開くと、中にはFBIの身分証が入っていた。忘れ物は届け出なくてはならない。
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サンエスペランサ7番通りは乗り捨てられた大量の車両が、子供が遊んだ後の散らかった積木のように雑然と路面を埋めていた。
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