2020年 8月13日

 この季節でも、夕方6時を回れば暑さも幾分かマシになる。


 西の入道雲は橙に色づき、陰になる部分とのコントラストがより鮮明に。蝉の声も、昼に比べれば少しは和らいだような気がした。


 屋上のプールサイドでは湿った風が吹き、洗濯バサミでヒモに固定された服を揺らす。貯水池代わりに使われているプールの水面は、西日を乱反射してきらきらと輝いていた。


 1日の中で、わたしはこの時間が嫌いではなかった。乾いた洗濯物を取り込みながら、夕焼けに染まる街を眺める。

 今までは、たったそれだけのことが癒しだった。


 そう、今までは。


「キリノ……」


 彼女のことを思い出し、思わず手に力が入る。服に、くしゃっと皺が走った。

 彼女は、この世界を救うと言った。曖昧なものを排除し、すべてを明確化しようとするナギの干渉を阻止する、と。


「余計なこと、しないでよ……」


 声が漏れた。

 彼女は昨日の夜、教室でわたしに言った。


「明後日、超時空に移動する」


 つまり、ナギと戦いに行くということだ。

 彼女曰く、超理論人形はキリノたちの予想以上のペースで送り込まれているという。このままでは手に負えなくなるので、その前に本体を叩くことにしたらしい。


 わたしはその真剣な声を聞いて、彼女がそのために生まれた存在だということを思い出させられた。

 そして、もし彼女たちがナギを倒せば、この世界は元に戻ってしまうということも。


 たとえ滅びが待ち受けているとしても、わたしにとってこの世界は安息そのものだった。


 それがなくなってしまうというのなら。

 あの轍の先が続いていくというのなら、このまま生きていたくはない。先の見えない、まるで霧に覆われているかのように曖昧な未来が怖い。


 だからわたしも、皆と同じように本になることにした。

 洗濯ものを取り外し、丁寧に畳んでいく。1枚1枚シワをなくし、持ってきた籠に入れる。


 どうせいなくなるなら、仕事なんてほっぽりだしてもいいはずだ。それでもやってしまうのは、立つ鳥跡を濁さずというやつだろう。

 それに屋上なら、誰にも見られずに済む。そのついでだ。


 すべて畳み終え、籠をプールサイドの隅にやった。


「……出てきなよ。いるんでしょ」



 声を虚空に投げかける。

 すると、何体もの超理論人形が物陰から出てきた。わたしがキリノといるところを見ていたのだろう。わたしに姿を見られていると気付いているようだ。


 この場にキリノはいない。彼女は今、街に出て人形を追っている。すぐには戻ってこないはず。


 四方を無数の人形に囲まれる。皆、わたしよりも頭1つ背が高くて、こうしていると妙に威圧感があった。

 正面にいた奴が、わたしの顔を両手で優しく挟み込んだ。そして、顔を近づけてくる。


 のっぺらぼうだった顔に1つの大きな目玉が現れた。その瞳孔に吸い込まれて、そこに映るわたしの目にまで引き込まれる。


 自分の中で、すべてが急速にはっきりとした色を持って見えた。言葉にならないような感情や、語りつくせない想い、思い出せない景色。そういったものが簡潔な言葉で、綺麗に幾何学的に再構成されていく。


 これが言葉になるということなのか。研ぎ澄まされる自らの内と、消えていく外部感覚の狭間でそんなことを考える。


 ただただ、恍惚だった。

 だが、彼女はそれすらも許してくれない。


「――――何をしている、ミライ」


 聞き覚えのある声に、はっとする。

 瞬間、冷や水を浴びせられたような感覚とともに意識が自らの瞳から引きずり出され、人形の瞳孔を経由して元に戻った。


 キリノの顔が目の前にあった。


「私も少し驚いた。戻ってみたらあなたの姿は見えないし、屋上から人形の気配が異常なほどした」


 平然とした顔で彼女はわたしから人形を引きはがし、その目玉に金槌を叩き込んだ。


「ミライ、動かないで」


 返事をする間もなく、白い嵐が巻き起こった。自らの身体を気体のように溶かし、キリノが目にも止まらぬ速度で周囲を蹂躙している。あまりの暴風に人形の身体は瞬く間にちぎれ、崩壊した。


 ほんの一瞬だった。

 視界が晴れると、そこには1体の幽霊も残っていなかった。


「もう大丈夫、ミライ」


 無表情でキリノが振り向く。

 その顔は、わたしの気持ちなど微塵も知らないような、ただただ無邪気な真顔だった。

 

 それがわたしの感情を逆なでする。


「……どうして、わたしを助けたの」

「どうしてって、本になりたくはないだろう」

「なった方がマシだよっ!」


 思わず怒鳴っていた。ハッとして、声を潜める。


「……わたしは、この世界が好き。生きるか死ぬか、ここにはたったそれだけしかないから、先が見える……だけど、理論的存在概念きみたちは世界を元に戻そうとしている。元の、複雑怪奇で何が起こるかわからない、あの世界へ……わたしは、それが怖い」

「だから、本になろうというの」

「……そうだよ。そんな世界に生きるくらいなら、すべてを知って死んじゃったほうがいい」


 あのときみたいな後悔はしたくないから。


「私にはわからない」

「そうだよね……だって、人間じゃないんだから」


 彼女はわたしの理解の範疇の外にいる存在だ。だから逆に、わたしだって彼女の理解の外にいたっておかしくは――


「え……」


 いつの間にか、視界が真っ白に染まっていた。


「私には、わからない。それでも、理解をすることはできる」


 すぐ耳元で、キリノの声がした。わたしは彼女に抱きしめられていた。


「私たちは、存在そのものが曖昧だ。だから性格らしい性格も、人格もすべてが曖昧。でもだからこそ、ナギにとって最強の刺客となりうる。力が未定義だということは、すなわち無制限に強くなれるということだから。あなたの未来だって、それと同じ」

「同じ……」

「曖昧さは、可能性とイコールだということだ」


 彼女は断言する。


「確かに、曖昧で何もわからない未来は怖いのかもしれない。その気持ちは十分推測できる。だけど、悪いことが潜んでいるのと同じくらい、未来には良い事だって待っている……私は、その希望のために生まれ、戦う。それだけが存在意義なんだ。だから……」


 そのとき始めて、彼女は微笑んだ。

 まるで、一瞬だけ晴れた霧間から差し込む日差しのような、優しくてあどけなさの残る笑顔だった。


「だからせめて、あなただけはそれを否定しないでほしい。私の、友達だから」

「…………」


 まるで彼女に恋をしてしまったかのように、その瞳から目を離せなかった。

 

 キリノは人間じゃない。魂はない。そうわかっているはずなのに、そうなのではないかと思ってしまう。

 これも彼女の言う「曖昧の可能性」という奴なのだろうか。


「ねえ、キリノ……」


 そっと、口を開く。


「少しだけ、考えさせて……」

「わかった」


 霧が広がり、わたしの身体全体を覆った。2人の境界が曖昧になり、1つに溶けあうような感覚。わずかな安心感を覚えた。


 それはこの世界に抱いたような絶対的なものではない。ふとした瞬間に掻き消えてしまいそうな、淡い想い。


「……いつかわたしも、未来を信じられるようになるかな」


 さっきまで彼女のことを嫌いだとさえ思っていたのに、虫が良い話だとは思う。これだから人間はナギに付け込まれてしまったのだろう。


 それでもわたしは、そんな想いにすがってみたくなった。彼女の言葉なら、信じられる気がしたから。


「これからあなたがどうなるか、私にはわからない。でも私は、私がこれから取り戻す未来の世界が、あなたにとっての希望になってほしいと思っている」


 すっと、霧が晴れた。

 太陽が地平線に沈みかけ、最後の輝きを放とうとしている。西の空から淡色のグラデーションが続き、東の空は深い紺を帯び始めている。


 そんな空の下、わたしと彼女は見つめ合った。

 これから、夜がやってくる。薄闇に覆われた、先の見えない世界が。

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