2020年 8月9日
例によって、国道には誰もいなかった。ときおり、路上駐車して放置されたままの車を見つけるだけ。
人だけがいない街は、まさに抜け殻みたいだった。
そんな道を、わたしは自転車で飛ばしている。隣街の小学校で暮らす集団と連絡を取るためだ。
社会は、本化現象による急激な人の減少に置いていかれてしまっていた。インターネットのような通信手段はもう使えない。
だからこうして、わざわざ定期的に人のやり取りをしなくちゃいけないのだ。
「大変そうだな、ミライ。汗がすごい」
後ろの荷台に腰かけるキリノが涼しげに言う。
彼女はママチャリの荷台に腰を掛け、風を楽しんでいた。風で身体がめちゃくちゃにならないのは、あくまでも彼女は霧ではないということなのだろう。
「そりゃ、ね……ていうか、きみは暑くないの」
「私は人間じゃないから。感覚だって曖昧だ」
「『理論的存在概念』……だっけ」
キリノは自身をそう呼んでいた。
彼女曰く、超時空間に無数に存在する超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超上位存在の1つであるところの『ナギ』という存在から、この世界を守るために発生した自然装置としての理論的存在概念なんだとか。
まったくもって意味が分からない。彼女はまだ、詳しい話をしてくれていなかった。
そもそも、一見普通の女の子がそんなことを言っても信じられるわけがない。
だから最初は、あまりの暑さに頭がおかしくなったのではないかとも疑った。けれど、彼女は温度をあまり感じていないようだった。
何より、普通の人間は半透明になったりできない。
そこに気づいて、ようやく信ぴょう性を感じるようになった。
「そう。ナギは言葉に憑つかれた言語フェチの変態だ。世界のすべてを言語化し、明確に定義できるか試す。たったそのためだけに、禁止されている下層世界――つまりこの世界への干渉を始めた」
わたしの見ていた幽霊というのは、ナギが下層世界への干渉に使う『超理論人形』というエージェントで。ナギを倒す前にその数を減らすため、わざわざキリノはこの世界に立ち寄っている、というのが彼女の説明だ。
目もくらむような日差しと、途方もないスケールの話に、わたしは目を細めた。
「奴の干渉によって、この世界で淘汰されかけているものがある。“曖昧さ”だ」
「曖昧さ……」
「人間が言語化・定義されることで、誰もが内に孕んでいる曖昧さがかき消される。暗闇に松明を投げ込むように、すべてが鮮明になる。特に人間は曖昧で揺らぎやすい存在だから、手始めにちょうど良かったのだろう」
これがあなたたち人間の言う本化現象の実態だ、とキリノは継ぎ足す。
「それなら、あの本はナギの言葉によって記述化された個人そのものなの」
「そう」
風になびく髪を、キリノがかき上げる。
「だが、完全にすべてが明確であるということはこの世界の法則的にあり得ない。明確と曖昧。どちらかが極端に勢力を増すと、そのバランスを保とうとする世界の意思のようなものが働く」
「世界に意思があるの……」
「……いや、そう言っては語弊がある。世界に意思と呼べるものはない。“システム”とか“真理”って言う方が正確だ」
「つまり、そういうものって割り切るのが1番手っ取り早いわけか……」
「そう。それが私たち理論的存在概念。なかなか、あなたは呑み込みの早い人間で助かる」
「は、はあ……」
自称・理論的存在概念の少女キリノは少しの間、わたしと行動を共にすることになっている。
「私や幽霊を視認できる人間は滅多にいないし、狙われやすいからあなたは餌に最適だ」と、彼女は会って間もないわたしに、少しも悪びれずに説明していたのだ。
まあ、そこは別にどうでもいいのだけれど。
ペダルを漕ぐ足を止める。道がゆるやかな下り坂になり、シャーっと軽快な音を立てて風をきる。
時刻は午前10時。
入道雲が視界の端に見えた。
汗で貼りついた体操着のシャツをパタパタと仰ぐ。
アスファルトは陽炎を立ち昇らせながら、日差しの熱光線を反射していた。これからどんどん暑くなるだろう。
少しの間、会話が途切れた。
「……でも、人間を曖昧なものなくすべてを記述化するって、いまいちピンとこないんだけど……。“すべて”って、一体どこまで?」
沈黙が居心地悪くなって、わたしは口を開く。
「すべてはすべて。例えばあなたがどんな人間で、どんな風に思考をしていて、そしてこの先の未来、どうなっていくか。文字通り“すべて”を言語によって記述し、明らかにするということ」
「それって未来予知ってこと……」
「超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超上位存在にとって、下層世界の時間軸をいじるなんて、絡まった糸をほどくくらいのものだ。見ようと思えば簡単に見ることができる。ナギにとってこれは、それを言語によっていかに明確化するか、というゲームに過ぎないんだよ」
「未来を明確化……」
下り坂が終わり、再び平坦な道が始まる。
「……それって、ちょっと羨ましいかも」
降り注ぐ蝉時雨の中、ぽしょりと呟く。
「何か言った」
「ううん、何でもない」
チェーンを軋ませながら、ガシャガシャとペダルを漕いだ。汗が頬を伝い、顎先から落ちてアスファルトに小さな染みを作る。
「あと少しで目的地だからね。もし超理論人形が出てきたら、そのときはキリノに任せるよ」
「当然。それが私の仕事だから」
***
数分後、わたしたちは目的地である小学校前に自転車を止めた。
だけど、そこに人がいる気配はなくて。
校庭の隅の花壇は雑草で荒れ放題だった。
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