2020年 8月7日
「暑い……」
校庭の隅に作られた畑にホースで水をまきながら、わたしは1人ぼやく。
体操着から露出した腕を、夏の強い日差しが焼いていた。
こんなことならジャージを羽織ればよかったとか、そんなことを考えるけど、それはそれで熱さに耐えられなくなる。
世界がこんな風にならなければ、真夏に中学校で住み込み農業体験なんてアホなこともせずに済んだはずだ。
でもそうは言っていられない。以前とは違い、わたしたちは自分である程度の食料を作らなければいけなくなっていた。
この学校が元から野菜を育てていたのは幸いだ。
本化現象で人がいなくなった社会はまともに機能しなくなり、あらゆる物流がストップした。今頼れるのは、不定期で来る自衛隊からの配給くらいだ。それもいつ途絶えるかわからない。
すっかり世界は変わってしまったが、この馬鹿みたいに蒸し暑い日本の夏に変わりはない。こうして中腰で休んでいても、滝のように汗が噴き出す。
だだっ広い校庭を見やっても、水やり当番のわたし以外には誰の姿もない。皆、この猛暑を避けて校舎内にこもっているのだ。
立ち上がり、頭から冷たい水をかぶった。一瞬で汗が流され、爽快感が全身を駆け抜ける。
「うん、気持ちいい」
顔についた水滴を払い落とし、作業を再開する。
しっかりやらないと、わたしだけじゃなくこの中学校で一緒に暮らしている約20人がこの先、飢えることになるかもしれない。
野菜についた水滴が太陽を反射し、きらきらと輝いて見える。
なんやかんや言いながらも実のところ、わたしはこの世界が嫌いではなかった。
だって以前より、未来がくっきりと鮮明に見渡せるから。
直に誰もが、本になって世界は滅ぶ。そう確信が持てることに、わたしはどこか安心していた。
***
突然だが、わたしには幽霊が見える。
始めて見たのは、今年の2月15日――つまり、担任が本になったあの日。パニック半分、興奮半分で皆が沸き立ち、スマホを取り出す教室で、そいつは霧のようにこっそりと溶けて消えた。
最初は見間違いか何かだと思っていたけれど、本化が珍しくなくなったころには、その存在を確信せざるを得なかった。1 日に何度もその姿を見るようになったからだ。本当に世界はおかしくなってしまったらしい。
幽霊には顔がなくて、まるでマネキンか何かのように無個性だった。半透明なその体には物理法則など関係ないようで、壁をすり抜けたり空を飛んだり、あるいは突然消えたりとやりたい放題だった。
彼らを見つけても、わたしは見えないフリをしていた。他の人たちには、まったく見えていないようだから。
それにもし見えていることを幽霊たちに気づかれたら、何をされるかわからない。
そして今も、見えないフリをしている。
校舎裏の、薄暗がりになっている日陰。そこに、幽霊が3体も歩いていた。
わたしは倉庫に用があった。畑の肥料がそろそろなくなっているらしく、追加であげる肥料を取りに来た。
その倉庫は、幽霊の向こう側にある。
「…………」
正直なところ、彼らに触れたくはなかった。
だが避けてしまえば、見えていることに気づかれてしまう。見えていなければ、避けられるわけがない。
意を決し、じめじめと湿った土を踏み込んだ。そのまま幽霊の方へと歩いていく。
だがそのとき、横から何者かに突き飛ばされた。
「な、なに……!?」
ひんやりとした地面に手をついて起き上がり、驚きに目を見張る。
そこに、わたしと同じくらいの歳の女の子が立っていた。
半袖のセーラー服にプリーツスカート、紺のソックスにローファー。ボブで艶のある黒髪。背丈は小学生にも見えるほど小さく、可愛らしい。
だけどその手には金槌を握っていて、何より体が幽霊のように半透明だった。
いや。幽霊どころか、まるで“霧”だ。輪郭はなく、ただぼんやりと見えるだけ。風が吹けばあっという間に原形を失ってしまいそうに頼りなかった。どこか冷たい雰囲気を纏っているあたりも霧みたいだ。
思わず、訊く。
「きみ……何なの……?」
「……あなた、私が見えるの」
鳥がさえずるような声。
わたしの質問に、少女は質問で返した。
「え、いや、その……」
「じゃあ――」
彼女は3体の幽霊を順番に流し見た。
「こいつらも見えるんだ」
「……うん」
彼女の声は穏やかで淡々としていたけれど、有無を言わさない何かが確かにあった。
思わずうなずいてしまう。
「――私は、キリノ」
「え」
「キリノ。それが私の名前」
「……ミライ。わたしはミライ」
「わかった。よろしく」
短く答えると、キリノはいきなり金槌を空へとかざした。そして、こちらに振り向いた幽霊の脳天めがけて思い切り振り下ろす。
音はしなかった。
だが幽霊はあっという間に動かなくなる。そしてその体は、瞬く間に霧散して消えてしまった。
それが3回繰り返される。
幽霊がいなくなる。
「終わった」
そう言って、彼女は揺らめきながら振り向く。
そのとき、わたしはただ茫然と立ち尽くしていた。
これが、わたしと彼女の出会いだった。
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