第5話バルザックと岸本センセー

 さんさんと、陽の光がさす渡り廊下に、人影はない。

 オレは、堂々と真ん中を歩いた。

 保健室はあたたかく、消毒液のにおいがしている。

 オレは、バルザックによる長々しい最初の数ページを思い出した。

「すりきれた貧困より、つつましい富貴にこそ幸福はあるのですよね」

「どうしたの? 桜木クン」

「いや、言ってみただけっす」

「器用にもじりましたね」

「うん」

「他にはどういうことを読んだの?」

 読むっていうのかな、眺めてるだけで、目についたキーワードを抽出する速読法だから、自分は決してうまい読み手ではないと思うんだが。

「『どんな不幸にも同情しなくてよいという権利』ってうらやましいなって」

「『……なぜなら、彼女はおよそ可能な限りのあらゆる苦しみをなめてきたから』ね」

 オレは二つあるベッドの一方のシーツにもぐり、側頭部を枕におしあてた。

 本当に眠い。

「オレ、まだまだ未熟なんすね。あいつらが、ひょっとしたらかわいそうって思えちゃうオレって、甘ちゃんなんだ……」

 そのまま眠ってしまおうかとも思ったが、保健室のエンジェルこと岸本先生がひっそり笑ったのがわかったから、起き上がった。

 オレ、馬鹿にされたくないんだよね。

「ホント、女子って何考えてんでしょうね。俺が正真正銘の変態や悪党だったら。病気持ってたら、とりかえしつかないじゃないかって、思うんですけど」

「うんうん」

 いつものように、岸本先生は微笑んで頷いてくれた。

「オレ、ウソついたんす。オレ、ホモだし、役にたたねえよって」

「ふうん」

 先生の顔は変わらない。

 安心してオレは続けた。

「そしたらね、サイテーって言われたんすよ。サイテーって……サイテーなんすよね。確かに。だから、どうしてそういう男を好きだなんていうのかがわからない」

「桜木クンはやさしいね」

 どうして?

「女の子を傷つけちゃわないように、ウソをついたのね」

「そ、すかね。めんどいんで、てゆーかキライなんで、そういうの」

「何が、嫌い?」

「その、おつき合い、とか……」

 先生はコロコロと笑った。

「だってそうでしょ? 好きって気持ちに、Hしたいっていうのがまじっちゃったら、それはもうキレイじゃない。ドロドロしてニチャニチャして、キタならしいもんだって思います」

「そっか、純粋でいたいのか、桜木クンは」

「あ……」

 言い当てられてしまった。

 そう、オレはまだ子供でいたい。大人になりたくなくて、世の中のキタナイもんを直視したくなくて、将来と責任とに、楽観的でありたい。

「大丈夫!」

 岸本先生がオレの肩に両手をのせると、ハンドクリームの匂いがした。

「桜木クンは、ヒーローになれるよ!」

 ハハッ。

 エンジェル岸本、根拠がなさすぎ。

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