第2話 状況隔認


(うーん。これ。屈辱的でありながら…ふ〜む。やめられん…。)


思いながら人肌にかぶりつく。


今の身体のメカニズム上、これはしょうがないことなのだと自分に言い訳しながら、しかし一心不乱に吸い付いて離せない。

集中し過ぎて、眉間にシワよせ、瞼まで閉じている。

その瞼を薄く開けて見れば、自分の頭よりも大きな体積を誇る巨大な球体。

ギュっと何かか凝縮されて今は本来の柔らかさではなく、少し硬い…のだろうか?おそらくはだが。


“本来の本物”を触ったことがない彼には、その違いが具体的には分からないのだが多分そうなのだろう。


分かることは、何が詰まってこのように硬くなって…張っているのかだ。なんとなくだがそれは解る。


母の愛?今自分の心をつかんで離さないこの魅惑で魔性な食料?

その両方。


触れば温かい、落ち着く。眠くなる。

吸い付けば美味い、幸せ。アゴが疲れる。

そしてまた眠くなる。


確かに魅惑で魔性。


女性の胸。


それは今の彼にしてみれば巨大。




  いわゆる、オッパイ。




…まだ夢は覚めないでいた…。自分は小さいままだ…。赤ん坊のまま……とか思いながら、さすがに彼ももう、気づいていた。というより、諦めていた。


(俺……今…どうっっしよ〜〜うもなく赤ん坊なんだよな〜…はぁ。夢じゃねーのかぁ。……しかし美味えな母乳ってのは……つーか、美味く感じるようになってんだろうな。なんせ赤ちゃん舌だから。今わ。)


などとしつこく言い訳して、このファンタジーな現実を前に、素敵に開き直ることが出来ない自分が逆に恥ずかしく思え、また目をつむる。


そして考える。


その間もチュッチュが止むことはない。




(これって転生なの?…転生なのに前世の記憶ないとかあるのか?…美味いな。いやいや記憶がないのが普通だろ転生なんて。ラノベじゃあないんだから…にしても美味いよな、コレ。でも前世の知識は残ってる…ぅわ美味いっッ!…薄っすらだけど記憶も…まじで薄っすらだけど…まじで美味いわ。…薄っすら覚えてんのは…俺、日本人だった?でも日本のどこに住んでたんだっけ?そんで、高校生で…うわまじで美味いよ〜コレ止まんねッ。…あ。あと前世で父さんとか母さんとか…いたのかな。つか、忘れていいのかそんな大事なことっ…つか、今新しい母さんの胸吸いついつきながらソレ言ってどうなの俺?……だぁっって!美っ味いんだものコレ!…つかまてまて冷静になれ。美味くとも冷静であれッ!…そもそもこのうっすい記憶が本当の記憶とは限らな…うまっウンっま!コレッほんっと…あ〜、だめだ。集中できん。………美味すぎて。)




母乳は命の源であると同時に、人をダメにしてしまう魔性までも兼ね備えているのかも知れない。


…きっと、そうだ。


乳児の頃の記憶が無くなってしまうのも、成人した男性がいつまでたってもオッパイに夢中なのもそのせいだ…などという本当にダメな言い訳をしながら考えるのを止めて、食事に集中する。


じゃあ成人した女性はどうなんですか?と言ってやりたくなるだろうが


…今は記憶にない前世の母も…このようにして愛情を注いでくれたのだろうか?もしそうなら、それを忘れてしまった自分はなんと不孝者であるのか……


と想う殊勝な心も、彼にはあった。



「ふふ。カワイイ…。ほんとにワタシのオッパイが好きなのね。」



という今世の母が言うのを聞いて眉間のシワをより一層に深める。眉間だけが赤ん坊ばなれしている。

彼女にしてみればその発言は我が子に対する何気ない愛情の発露であるのだろうが、彼には前世の記憶なくとも知識はあるのだから、背徳な行為を無邪気に観察されているような、むず痒く、恥ずかしく、屈辱的な気分にどうしてもなってしまうのだった。



つポンッ



と口を離して眉間のシワそのままに、いや、さらにと深めて、母に閉じたままの目で合図を送る。

彼なりの、『あのぅ…スミマセン…大変申し上げにくいのですが〜…』という顔だ。


赤ん坊らしく泣いて知らせるべきなんだろうが、精神年齢を赤ん坊に傾けることにどうしてもリアリティを感じなかった。


というより普通に恥ずかしい。


身体だけ赤ん坊になってみて解ったことだが、どんなに「しょうがない」という場合でも抵抗感が消えない。


抵抗感を通り越してもう、喪失感。


今のところ羞恥心というものはどうしようもない。



「あ。くちゃい。まぁたやったな〜」



(ああ…っはい…毎度毎度…っほんとスンマセ…っ)



申し訳ない気持ち。

そう。毎度毎度のオムツ交換。

毎度毎度のことなのに、慣れない。

心の声での謝罪も消え入りそうなものになってしまう。


この世に生を受けて二週間…くらい経って…いる?いや、本当は一週間も経っていないのかも知れない。

とにかく赤ん坊というのは寝て吸って排泄→寝て吸って排泄…の繰り返しで一日が終わってしまうので、まともなサイクル感覚というのを保てない。

とにかく寝るか、この〈お食事タイム〉以外では身体も動かせず暇過ぎるので、観察と考察で時間をつぶすことしかできなかった。

その間に目もはっきりと見えるようになり、耳も十分に聞き分ける機能が備えられた。さらに両親が使っているあの意味不明でしかなかった言語まで早くも覚えてしまった。まだしゃべることはできないが。


トモカク。



赤子の脳発達恐るべし。



(…なわけねーよな。何が何でも早すぎだろ…。)



転生云々でもうお腹一杯なのに、自分自身の発育にまで認識追い付かず違和感…という事態。いや、もはやそんなことなど霞んで見えなくなってしまいそうなほど見過ごせない発見というのが、他にいくつもあって…。

二週間もしくは一週間経った今でも、コレは夢ではなかろうかと彼がしつこく思ってしまうのは、それら見過ごせないいくつかが原因であり…。



「ハイハイじゃあキレイキレイしましょうね〜。」



なぜそんな嬉しそうにしているのか意味不明。

自分で致したブツであるのに彼自身、この強烈な臭気には辟易としてしまうのであった。



(毎度毎度ホント臭えな)



我ながら…と忌まわしく思わずにいられない排泄物で汚れた彼を、なんの忌避感もなく、むしろ嬉しそうに抱いてくれる今世の母。

愛情のなせる業であるのだろうがこちらとしては大変ツライ。

まさかこんなシチュエーションで“愛の重さに戸惑う自分”を経験するとは前世では想像もしなかっただろう。


母はオムツを剥がすことなく彼をただ掲げるだけ。

毎回このようにしてキレイキレイしてもらうわけだが…



(また…やるのか“アレ”を…)



彼は首が座らず安定しない頭をもどかしく思いつつ極限まで目線をずらして、いまや恒例となった“アレ”を見ようと苦心する。

自分を両手で掲げた母が、真剣な顔をして目を閉じ、唱えるのを。



『浄化…。』



母がそれを言うと同時に、母の手から謎の光が伝わってくる。

それに包まれると、サラサラと清らかな音をたて身体を汚していた色々なモノが落ちていくのを彼は感じた。そのサラサラが止まると、ベッドの上に戻される。。


(なんというコトでしょう…!)


彼の心の中、発せられるは感嘆の声。

いや、感嘆ではなかった。これは驚愕。何度見ても慣れることがない。


汚れも臭いも完全に消えて無くなってしまったのがわかる。

尻の割れ目から股にかけての“べっとり感”が完全に消失し、何かサラサラとした粒子状のものがオムツの中に残っている。


母は身体から剥がしたオムツをパンパンとはたいて、光に反射してキラキラと透明に光る粒子を取り除いたあと、またオムツを履かしてくれた。


あのキラキラがう○この成れの果てであるとは…

あまりにも理解の範疇を超えたビフォーアフター。



「魔法見るの、そんなに好き?」



笑顔のまま、顔をノゾキこむようにして母が聞いてくる。



(魔っ法ぉーーー!?やっぱりか!魔法なのかコレやっぱり!魔法なんですねやっぱり?うーん…やっぱ夢だわこれ。)



母の笑顔に引きつった嗤いで返す赤ん坊の図。



「ぷ…っ面白い顔っ。」



難なく、非日常などは軽く越えてしまったその“奇跡”を顕現してみせた母が魅せるは、日常を彩る邪気のない笑顔。


その笑顔が証明する。


〈この世界〉で母が言う【魔法】とは、日常のもの、つまりは当たり前のものであるのだということを。つまり…

〈この世界〉は、やはり、そうなのだ。

…地球では、ない。



つまり、ここは異世か…ゴロゴロ「ただいま〜。」ゴロゴロゴ…。



岩で出来た戸がスライドして誰かがこの部屋に入ってきた。

そしてまた

ゴロゴロゴロ…ゴン

スライドして岩戸が閉まる。

岩戸が開閉する際にその表面になにやら魔法陣らしきものが明滅して視えた。

この原始的外観の自動ドアもおそらくは魔法の一種であるのだろう。

入って来た人物の正体、それは父…であるらしい男。


父、帰還。そして父、血だらけ。



「ちょっとユウジ。返り血がスゴイことになってるんだけど?教育上差し支えありすぎない?」



そういって母に咎められた父…であるらしい男が不服として答える。


「おいおいレマティア。そりゃね〜よ。結構命懸けだったんだぜ?無事帰ってきた夫を優しく迎えるのも妻の務めとも言え……」


「ハイハイオカエリナサイ。この子今キレイキレイしたばかりなんだから…またバッちいのが付いちゃう前にサッサと浄化済ますわよ?ハイ浄化〜。」


父の全身を染め上げていた紅がまた先程見たのと同じサラサラとした粒子へと変換されていく。


「あ。ついでにコレも浄化頼む。」


そう言うと父…であるらしいその男は何もない空間からとんでもない長さと幅の、血に染まった大剣を取り出した。


「一度で済ましてよね。もう。…浄化。」


また当たり前のように“サラサラ”とキレイになっていく大剣。


(あぁほら、出た。…大剣だよ…。しかも身の丈大の大剣だよ……。)


『そんなもん人間が振れるわけ無いだろう?!』


と突っ込みたいが地に着けることなく軽々と片手で持ててしまっている父…であるらしい男の余裕の表情と、べっとりと大剣にこびりついていた血糊が


『いや普通に振れるし、斬ってますよ?』


と物語っている。…というより、もっと見過ごせないのが



(今何もないトコからツルンて出したよな?こんなに馬鹿でかいもんを…っ!)



こんな真似、地球では有り得ない。もしも手品の類いであるというなら、母はもっと驚いたリアクションをとって然るべきだ。


…やはり、そうなのだ。ここは、おそらくは、異せ…「…で?どうなったの?」母が父…であるらしい男に訊く。


「ああ。中心部までは到底辿り着けそうにねーな。中心部に向かうほど魔詛が濃くなってる。半端なくな。そうなりゃ当然、魔物だって強くな…」バリバ(こいつ今魔物って言った?)リバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバ「ふんげあああああああああ!」リバリバリバリバリバリバ(えええええええええええええ!?)リバリバリバリ!


父…であるらしい男がまだ話している途中だというのに、母は突然に容赦ない電撃を食らわして遮った。

やはりこれも魔法であるのだろうが…



(なになに?急にどうしたのママン??!!)



あまりに脈絡なく放たれた電撃。

哀れ父…であるらしい男はアニメでしか聞いたことのないような悲鳴をあげ、プスプスと漫画でしか見たことのないような煙を頭頂から立ち上らせている。

…というか、さっき教育上がどうたら言ってなかったか?とハイパーDVな母に向け恐怖の眼差しを送っていると



「何トンチンカンなこと言ってんのよ!この子の名前よ!すぐには決められないからちょっと待ってくれ…って言ってからもう10日経つのよ?名無しの我が子と二人っきりじゃ、いい加減間が保たないってのよー!」バリバリバリバリバ「アババばかったわかった悪かったはばばばば!」リバリバリバリバリバリ!



フウフウとまだ鼻息荒くご立腹の母をなんとか宥めて、父…であるらしい男がコホンと咳払いしたのち我が子を抱き掲げ、名付けた。




「お前の名前は“シン”だ。」




遂に今世での名前が決まった。



  彼の名は、シン。



「俺の親友から一字もらった。俺の故郷じゃ進むとか、真(まこと)とか、神とか、新しいとか、慎みとか、深いとか、清いとか、親しいとか、とにかくいい意味がいっっぱい詰まった名前だ。…かといって無理したり、背伸びしたり…そんなふうに生きろとは、言わねえ。お前はどんな道だって選べるんだ。好きに選んで突き進んでいい。ただ願わくば、人を好きで、いてくれ。人を可愛いと、思ってくれ。そんな想いだ。そんな想いがギュっと詰まった名前だ。シン。改めて、ヨロシクな。…レマティア、俺にはこれ以上のもんは思い浮かばねぇ。こいつの名前、シンでいいか?」



シンは、ふンすっと力強く鼻を鳴らす。


シンは前世の記憶の殆どを無くしこの世に転生した。


…なのに、何故だか、このユウジという名の男の顔も、声も、薄っすらとだが、覚えがあって。


どこの誰で、何故覚えがあるのか不明だが、もしも自分と関わりがあったとするなら、それは前世なわけで。


だとするなら、前世ではどのような関係にあったのか…と思い出そうとすれば、やはりわからなくて。


思い出そうとすると、きゅーと胸が締め付けられるような、苛つくような、複雑な想いが何故か伴っていて、落ち着かなくて。


出産時に雑に扱われたこととか、未だ根に持っていたりして…。


そんな相手であった…ユウジという名であるらしい、この、父。


とにかく、なぜか父だと認めたくなくて『…であるらしい男』を付け足さずにはいられなかった、そんな父。


シンはユウジを見上げる。



シンは初めて、今世の父を、父として見つめた。


 

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