第10話 おじさん
僕は今までにないってくらいに、力いっぱい羽ばたいたんだ。たくさんの会ってきた生き物たちに心の中でありがとうって呟きながらね。
しばらく飛んでいると、見覚えのある景色が見えてきたんだ。見覚えのある懐かしい家や、見覚えのある懐かしい車に、見覚えのある、懐かしい海と船。そして嗅ぎ覚えのある匂いだよ。
「戻ってきたぞ!」
思わずそう叫んだ。それから僕は、おじさんの船を探したんだ。あの赤いラインに、たくさんの傷をね。それはすぐに見つかったよ。ありがたかったね。そこから中へと入ってみたんだ。
でもね、そこにおじさんはいなかったんだ。
おかしいなって思いながら、おじさんのお家へと向かったんだ。海の近くにあるから、本当ならそっちを先に探すべきだったんだろうけど、いつもおじさんと会うのは船だったから、なんだか変な感じだったな。
木でできていて、窓ガラスにはヒビがある、ぼろぼろのおじさんの家は船と同じですぐに見つかったんだ。
そこの二階に入ってみたよ。窓が開いていたからね。
部屋は、いつもの通り汚れていた。海の本や、船や釣りの道具。そして、家出したおばさんの写真が飾っている。でも不思議な事にね、写真を飾っているのは、とても豪華で大きな置物なんだ。しかも金ピカで、二本の煙が立ち上っているんだ。おばさんは、今頃元気なのかな。
入ってすぐに、おじさんはいたんだ。でもね、おじさんは煙を吸っていなかったんだ。珍しいこともあるもんだって思ったね。
でもさらにおかしなことがあったんだ。おじさんは布団の中で、目を閉じていたんだよ。体は細くなってるし、顔は白くなっていたんだ。
「おじさんおじさん、僕だよ。ジョンだよ。帰ってきたよ」
僕はいつもより大きな声でおじさんに呼び掛けたんだ、寝ているところ悪いけど起きてもらわないと困るからね。
おじさんはすぐには起きなくて、ゆっくりと目を開けたんだ。その目には、今まであったギラギラした光は殆ど無くて、まるで氷のようだったんだ。
「……おお、お帰り、ジョン」
「ただいま、おじさん」
前よりもしゃがれた声で、おじさんは僕に手を伸ばしたんだ。声の速さも少しだけゆっくりになっている。何が何だか分からなくて、少し怖かったのはよく覚えているよ。
「どうしたんだい?もう船には乗らないのかい?」
僕は、あの大きくて温かくて、優しい何かの正体が分かった事を伝える前に、まず気になった事を尋ねたんだ。だって気になるだろ?今まで元気に運転していたのに、急にしなくなるなんてさ。
「まあ、年のせいさ。あと、タバコか……馬鹿やっちまったよ、タバコなんて、さっさとやめてしまえば」
「本当にね」
僕はおじさんの事なんか気にも留めずに、そう吐き捨てたんだ。だって、おじさんの喋る力なんて、殆ど無いなんてこと、これっぽっちも気が付かなかったんだから。
「馬鹿、そういう時は、『そんなことない』って言ってほしいもんなのさ。相変わらずの鳥頭だな…」
こんな時にまで説教してくるんだよ?呆れたさ。
「そんなことよりおじさん、聞いてよ。実はね」
おじさんは、僕が何かを言う前に遮って言ったんだ。
「わかったのか、お前さん。あれが」
僕は力いっぱい頷いたさ。だって、あんなに苦労したんだからね。だから僕はおじさんに答え合わせをしてもらうために、見つけた答えを言おうとしたんだ。
「うん、ところで、何でわかったの?」
「そりゃお前、俺が海の男だからだよ」
またいつもの調子だ。でも弱弱しくて、なんだか茶化す気が失せちゃったんだ。そういう気分になれなかったのさ。
「僕ね?がんばったんだよ?たくさんの動物たちに出会って、たくさんのところに行ったんだ。羽根は疲れてくたくたになっても、えさがなくてふらふらだった時も、頑張ったんだよ?それでね、僕はついに見つけたんだ!」
そして僕は息を吸い込んで言ったんだ。
「あの大きくて、温かくて、優しい何かはね……誰かを好きで好きでたまらないってものが重なってできたものなんだ。それは一人や二人を好きって感情じゃ無くて、たくさんのものを好きになってしまって、それで、苦労したり、悩んだり、そういうものが重なって、山みたいになったものなんだ。どうだいおじさん、これで合っているかい?」
おじさんは僕の答えにどんな反応をしたと思う?僕は感動して、『よくやった、それが答えだ』って言うもんだと思ってたんだ。でも実際は全然違っていたんだ。
「はっはっはっは!」
おじさんは馬鹿にしたみたいに笑いだしたんだ。信じられなかったよ。僕が精一杯考えて出した答えを、笑い飛ばすなんてさ。
「なにがおかしいんだい!おじさん」
「いや、すまんすまん。お前さんはなにも間違っていないよ。だがな、お前さん、自分の写真を誰かに見せたとするだろ?カラスのお前の写真をだ。それで、これは何だときいて、『それは黒くて羽根がある、鳥の仲間の生き物です』なんて答えは答えなのか?」
僕はその言葉でがっくりきたね。でもその通りだ。僕が長々とした説明を指す、言葉がない。もしかしてそれは、何かの一言で表せるものなのかって、僕は初めて理解したんだ。
「違うだろ?」
僕の致命的な間違いを強調するように、おじさんは言った。
「まあいい、一応理屈はわかってる。だから答えだけは教えてやろう」
おじさんはそこまで言って、ごほごほと急に咳き込み始めたんだ。僕はなんだかさっきの不安が増した気がしたんだ。まるで、腐った果物を食べた時みたいに、胸がもやもやとしだすんだ。
「すまん……ちょっと疲れたみたいだな。いかんなあ……」
「おじさん、大丈夫かい?」
「カラスに心配されるほど、落ちぶれては……おらんさ」
おじさんはそう言うと目を閉じたんだ。びっくりしたよ。だって、まだ答えを教えてもらってないからさ。
「おじさん、目を醒ましてよ。どうしたんだいさっきから」
おじさんは目を閉じたまま、にやりと笑ったんだ。
「いや、なんでもない」
「なんでもないなら目を開けてよ」
「まあいいだろう。許してくれや、これくらい」
おじさんはそう言うと、また咳をしたんだ。さっきよりも長い咳をね。すると、真っ白な布団に、赤い物がとんできたんだ。最初は果物の汁かと思ったよ。でも違ったんだ。それはおじさんの口から出てきたんだ。
「……おじさん」
「 って言うのさ……ジョン」
おじさんは、短いことばを言ったんだ。簡単で、短い言葉をね。僕は、それが答えだって咄嗟に理解したよ。
その後に、静かに、こう言ったんだ。
「よく頑張ったな、ジョン」
その言葉は、僕がずっとずっと欲しくて欲しくて、堪らないものだったんだ。
多分、僕が旅を続けていたのは、何もできない僕だったから、ずっと認められたかったんだ。
僕も、アンくんと同じだったんだ。
なにもできない僕のままでいたくなくて、ただがむしゃらに頑張ったんだ。それしか、僕にできる事はなかったんだな。きっとね。
おじさんがさっき言ったその短い言葉を知った僕は、次に、僕は何であんなにあの大きくて、温かくて、優しい何かの正体を知りたがっていた理由は、もう一つあったのがわかったんだ。
僕は、その短い言葉を、その簡単な気持ちを、おじさんに伝えたかったんだ。
生まれてからずっと、一緒にいてくれて、喧嘩もしたけど、ご飯もくれて、一緒に笑ったおじさんに、その短い言葉を、伝えたかったんだ。
「おじさん、僕はね!」
そう、伝えたかったんだ。精一杯言ってやろうとしたんだ。それを言って、おじさんに笑ってほしかったんだ。照れくさいけど、この気持ちをね。
それを伝えるために、僕は、長い長い、旅をしたんだ。
でも、遅かったんだよね。
おじさんは、それから目を開けなかったんだ。僕が何度羽根で顔をつついても、くちばしで叩いても、まるで石みたいに、ぴくりとも動かなかったんだ。
何が何だかわからないうちに、エプロンを着た女の人が、部屋にどたばたと入ってきたんだ。
「きゃー!しっし!」
おばさんに僕は追い出されたんだ。そう言えばいつか聞いた事があるな。
カラスってのは、死の象徴だってね。
それを思い出した瞬間、途端に涙が出てきたんだ。
そしてね、僕は海の向こうへと羽ばたく事しかできなかった。自分がどこへ進んでいるのか全く分からないままね。
だって、その時に僕は始めて理解したんだ。
おじさんが死んだってことをね。
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