西洋伝-神器-

@Xib

隠者

久々に、雨の匂いがした。

少年は、窓を開ける。途端に、風に流された雨粒が、少年の肌を冷たく濡らした。

一面灰色の空に、少年の心は躍っていた。急ぎ寝台から降り、寝間着のまま外に飛び出す。途端、湿った空気が、少年を包み込んだ。微かに混ざる自然の香りが、空気に溶けている。

少年は伸びをした。久々の湿った空気を吸うのは、心地が良い。

「こりゃ、散歩でもしないと、損かな」

少年は一つ呟き、着替えるべく再び家に入る。

着替えると言っても、寝間着とさほど変わらない。身体に余裕のある幅の服を好む少年は、昼夜問わず同じ様な服を着ている。少年にとってはそれが一番落ち着く服装だった。

寝間着を洗濯用の籠に放り込み、普段着に着替える。玄関にあった荷を背に外に出ると、近くに住む女が、雨避けの位置を細かに調整しつつ庭木の手入れをしていた。

道端では良人と女が笑顔で世間話をしている。直ぐ側では子供達が雨だ雨だと、はしゃぎながら素足で外を走り回っていた。

少年の住む村、チチェンには雨は滅多に降らない。故に、雨が降ると、人々は外に出て雨を楽しむ。少年もまた、その一人であった。

着替えたばかりの服が、天の恵みにより湿ってゆく。その心地良さに、少年の心は躍っていた。それ程、雨は貴重なものであり、悦ばれるべきものであった。一方、その珍しさ故に、災厄の前触れではと、恐れる者もいた。

且つての伝説も、然り。

「雨だねえ、ツツィ」

少年──名をツツィと言った──に女が話しかける。

「久々ですね。雨なんて。いつ以来だろう」

「いつだったかねえ。あたしは雨の日を記録してる訳じゃないし、別に災厄とも思っていない。全く、恵みを災厄にすり替えるなんて、困ったもんだね。神様も良い迷惑だよ」

女の言葉に、ツツィは微笑で返した。神についての発言は控えたかったからだ。

いつからか、ツツィは神というものは本来、口に出すものではないと思う様になった。いつからその考えに辿り着いたのかは、ツツィ自身でも知らない。だが、それで良いと思っていた。呪言は避けておきたいからだ。

雨の音が空気を震わす。雨を受け止める家などの人工物が、自然とはかけ離れた、異様な音を出して雨粒に耐えていた。

自然からできたものであっても、手が加えられた瞬間、それは自然を超える。その事を、雨が訴えているかの様であった。どことなく、虚しげな嘆きに感じられる。

「ツツィ、あんた、シグの雫でも採りに行くつもりだろ。足元には気をつけなよ、泥濘んでるからね」

「あ、はい」

ツツィが素直に返事をすると、女は手を小さく振り、中心街の方へ去っていった。その姿を見送ると、女の行った方向とは反対方向に向かって歩き出す。その先は、チチェンの人も滅多に訪れない、鬱蒼とした森だ。

ツツィは森に入る。当然、道など無く、目印になるものも何一つ無い。普通の人なら間違いなく迷うが、ツツィは何度入っても迷う事が無かった。どういう訳か、全て、勘でどうにかなったのだ。

その才を見込まれ、村に数人しかいない、シグの雫を採る者となった。

今回も、採る者として、森に足を踏み入れた。途端に、森によって浄化された空気がツツィの肌に纏わりつく。

「さて、泉に行くか。今の時期なら、イシクが泉を癒やしきっている筈」

何の目印もない森を、ツツィは普段通りの表情で走り出す。その目に、迷いは無かった。

目指すは、シグの雫ただ一つである。


シグの雫は、森に埋もれる様にひっそりと生える、イシクの木からしか採ることは出来ない。

泉の傍にのみ生えるイシクは、その葉から浄化作用のある雫を生み出し、泉に垂らすことで水を浄化し、その水を栄養分に成長する。イシクによって浄化された泉には治癒の力が宿る為、万能薬としてチチェンの人々に重宝されていた。

ツツィ自身も泉の水によって病を癒やした時がある。その時は風邪をこじらせた程度の病気だった為、泉の水で充分だったが、重病者はシグの雫を原液のままで飲む必要があった。

今、チチェンの村には、シグの雫は無い。在庫も、切らしてしまっている。故に、今回は原液も採っておかなければならない。

無言のまま、森を歩く。時折雨が、枝を擦り抜けてツツィの頭に落ちてきた。

見渡せど、森。視界にはそれしか入ってこない。

だが、それでも、何となくではあるが泉の方向を察していた。ただひたすらに、目の前の道なき道を進む。

何処かで、獣の鳴く声がした。

チチェン付近の獣は、人間を襲うことが無い。チチェンの人々もまた、野生の獣を狩ることはしない。彼等は獣を家畜として飼い、その家畜を屠る事で、肉を得ていた。故に、獣は人間を恐れず、人間もまた、獣を恐れない。互いに、己の域を知っていた。

良くも悪くも、チチェンは己の聖域を護り続けていると言える。

ツツィを初め、人々はそれを当たり前と認識している。同時に、それを永遠と信じて止まなかった。

獣が、鳴き止んだ。

再びの静寂に、考え込んでいたツツィは顔を上げる。

雨以外、何も音がしない。強いて言うなら、今ツツィ自身が歩く、その音位である。

その音も、雨にかき消され、身体を伝わなければ響かない。

ゆっくりとツツィは右に方向を変えた。勘が、右にある、と伝えている。何となくではあるが、右の方から湿った匂いが漂って来ている。

匂いの方向へ、犬の様に匂いを嗅ぎながら、歩く。

どれ程歩いたのか。一瞬にも、永遠にも感じられるこの時間の中、漸く一筋の光が差す場所を視界に捉える事ができた。

近寄ると、泉であった。泉の傍、数本のイシクが、泉の上に枝を伸ばし、葉から滲み出る雫を落としていた。イシクによって浄化された泉は澄み切っており、シグの雫特有の、やや青みがかった色が表面を覆っていた。

ツツィは早速、背負っていた荷を下ろし、中から先端に紐の付いた竹筒を五本と、背負える紐の付いた、漆の塗られた筒を三本取り出す。竹筒を全て泉に沈めると、自身は泉に入り、イシクの枝を手で掴む。慣れた手付きで漆の筒を葉の下に三本ぶら下げると、ツツィは素早く泉から上がった。

シグの雫が垂れた泉は、酸性になり、皮膚を溶かしてしまう。長時間入れば、見るも耐えない姿になるのは、容易に想像できた事だった。しかし、専用の竹筒に入れると、どういう訳か中性になり、人が飲める様になる。不思議ではあるが、生憎ツツィはその謎を解く程の興味を持ち合わせていなかった。

紐を引っ張り、竹筒を上げる。あまり触れない様にしつつ、水で満ちた竹筒に蓋をした。後はぶら下げた漆の筒に、シグの雫が貯まるのを待つだけである。ツツィは泉の傍に立つ、イシクの木に寄りかかった。

シグの雫が貯まるのは、少し時間がかかる。

なんの気も無しに荷物を漁ると、待機時間中に食事が摂れるようにと、前に自身が入れていた干肉が袋に入っていた。何処かの砂漠の民は、旅の際、肉を干して携帯食とする、という話を聞いたので試しにやってみた物だった。

「そういえば、朝食忘れていたな」

ツツィは暫く干肉を眺める。これで腹を壊したら大変な事になるが、空腹には逆らえない。

いざとなれば、泉の水もある。そう思い直し、思い切って干肉を口に入れた。意外にも、肉はしっかりしており、しゃぶっていると少しずつ柔らかくなっていく。噛み切ることは難しいが、飲み込めない大きさでも無い。

念の為、中性になった泉の水で肉を流し込む。食べ切ると、そこそこ腹が膨らんだ事が実感出来た。特に不調も来ない事から、まだ平気だったと思われる。

飲んでしまった水の分を、泉から注ぎ足す。ぶら下げた筒の方は、まだ貯まりきっていない。

イシクの木に寄りかかったまま、雫が貯まるのをぼうっと待つ。雫を貯める度、こうして待っていた。そうすると、ふとした考えがツツィを果てに運んで行く。

雫を待っている間、よく村の事を考えた。チチェンの村は、外界との交流を断った村だった。周囲が森に囲まれているのもあり、外界の人間がチチェンに来る事も皆無に等しい。それ故、チチェンは宿屋など無く、酒屋なども無い。人々は皆、結託して互いを支え合っていた。

それが良いのか悪いのか、ツツィには判断出来ない。外界に出た事など無いツツィには、判断基準となるものが無かったのだ。自分の居るこの村が、自身の全てだった。外に憧れた事は勿論あったが、今となってはその感情は無い。

そう思う度、心に虚しさが満ちていく事を否定は出来なかった。何処かに、憧れがあるのかもしれない。それを押し殺し、普通の人間として振る舞っているだけなのかもしれなかった。

虚しいが、これが唯一の安定の道だと、ツツィは思っていた。

ふと、筒から雫が零れ落ちた。一杯になったのだろう。泉に入り、ぶら下げた筒を取ると、再び泉から上がる。筒に満ちた水は、少し揺らすだけでも零れ落ちそうになる。

溢さないよう蓋をし、荷に詰める。後は、筒を医療施設に渡せば完了である。来た道は分からない。帰りも勿論、勘だった。

再び、歩き出す。水の入った荷物は重い。それでも、速度を緩めずツツィは歩いた。

帰り道は早かった。あっという間に、村に着く。朝、女と話した道路を抜け、施設まで歩いて行く。

物々交換をしている市場を抜け、医療施設まで辿り着く。裏口を開けると、切羽詰まった顔の院長、タンラが目の前に現れた。

タンラはツツィを見るや、「おお、ツツィ。シグの雫を採ってきてくれたのか」と目を輝かせた。

「はあ、まあ、そうですが」

ツツィは背負っていた荷物から漆、竹筒を二本取り出した。それを見るや、タンラの目は一層輝きを増し、

「ああ。助かったよ。早速だが、それをくれないか。代金は後で支払うから」

と、すがる様な声でツツィの肩を掴んだ。

「必ずですよ」

そう言いながら、タンラに筒を手渡した。タンラは安堵したように目を閉じると、大事そうに筒を抱えて走っていった。

「ツツィ、御苦労様。これ、お代ね」

側にいた看護婦が、絹の袋を差し出した。ずっしりとしていて、重い。それを受け取ると、看護師に黙って会釈する。

「ごめんね、今、重病の方がいるから院長も忙しくて。シグの雫を今か今かと待ち侘びていたの」

「ロア、何をしている。手伝ってくれ」

遠くからタンラの声が聞こえ、ロアと呼ばれた看護師は、はいはいと言いながら声のする方へ歩いて行く。

二人が何やら話し合っているのを背後に、ツツィは外に出る。扉を閉めたところで、溜息一つつくと扉にもたれかかった。

残りは、小分けされて市場に出る事になっている。代理の者に渡せば良いのだが、それが億劫に感じられた。

二度目の溜息をついた所で、「君」と話し掛けられた。同時に、村の者とは違う、いわば異国の香りが鼻を突いた。顔を上げると、見知らぬ男が立っている。

服装からして、チチェンの者では無い。よく見れば、顔付きも何処と無く異国の顔であった。

「宿を求めている身だが、何処かに宿は無いだろうか」

声は柔らかく、同時に固い。優雅でありながら、無骨。正反対な声を備えた者に、ツツィは興味を惹かれた。

「この村に、宿なんか無いけど」

「そうか。なら、野宿するまで」

「貴方、旅人さんですか」

「然り」

旅人。今まで見た事の無かったツツィにとって、それは新鮮な事だった。驚愕を隠し切れず、ツツィは男を見つめる。

「そう見つめても、何も出ないぞ。穴が空くわけでも無い」

「あ、えっと」

「何かね」

「宜しければ、俺の家でもどうぞ。大した持て成しは出来ないけど」

男は漸くツツィの視線を受け止めた。

「必要としているのは宿だけだ。突然押しかけて持て成せ、などとは言わぬ」

そう言いながら、歩き出すツツィの後ろを付いて来る。

ツツィにとってはあまりにも珍しい出来事だった。異国の風の香りは、今まで嗅いだことのあるどの香りとも違っていた。何とも言えぬ香りを嗅ぎつつ、ツツィは歩く。

歩く足並みは全く揃っていない。だが、旅人がツツィの歩く速度に合わせているのは分かった。

歩きすがら、話しかけてみる。

「旅人さんなんですよね。一体何処から来たんですか」

「此処より遥か東、草原と砂漠を越えて来た。この村は西洋でも東に位置しているからな、東洋の塵を払うのに丁度良い」

へえ、とツツィは感嘆の声を上げる。草原と、砂漠。噂に聞いた事はあったが、何処にあるかは本を見ても不明なままだった。本の一部が破れている事が多かったのだ。

「此処から東にそんなものが。行ってみたいなあ」

「下手をすると死ぬ、厳しい土地だ。慣れていないと砂漠はおろか、草原も越えられんぞ。まだ西の方が楽だろう。土地は」

「此処から西の方が、良いんですか」

「気候が悪くはないしな。都市もある。歩きやすい土地だ。人間は少し、癖があるが」

「癖、ですか」

「然り。癖だ。西洋の者は自己主張が激しくてな」

へえ、とツツィは声を上げる。この様な情報が入る事自体無いこの村には、新鮮な情報だった。もう少し聞いてみたいが、やり過ぎて質問攻めになっても失礼か、とツツィは思い直し、後は黙って歩いていた。旅人もそれ以上は話さず、黙って付いてくる。

足音は、相変わらず合わない。


ツツィの家は、住宅街から外れた場所に、建っていた。

周囲は森であり、木々に隠れるようにしてツツィの家は建っている。家までの道は舗装されておらず、雑草が歩く道を覆い隠していた。

元々はツツィの父親が倉庫代わりに使っていた建物であり、ツツィがシグの雫を摂る者となった時、父が倉庫を家に改修したのだった。素人が改修した為外見は悪いが、それでも中は人が住めるよう頑丈になっており、事実ツツィは住み始めてから一度も改修をしていないが、それでも不都合な事は一度も無かった。

「こんな所に住んでいるのか」

「はい。別に誰かが来る訳でもないので」

森の中にぽつんと竚む、くすんだ青色をした建物を見た男は、信じられんといった顔をした。

「こっちですよ」

ツツィは門を指差した。門には蔦が無造作に絡みつき、塗られた青色の塗料が所々剥げている。押すと、木材の擦れる音がした。

背丈まで伸びた草をかき分ける。家の扉もまた、塗料の剥げた、まるで家畜小屋か何かのような扉だった。

「鍵はあるんですけど、面倒だからかけていないんです」

どうせ盗みに来るものもいない。万一来たとて、盗む物など殆ど無いのだ。

ツツィの家の鍵は、螺を回して支え棒を抜くという簡単なものだが、肝心の螺が長く、外すのに時間がかかる。それに、夜にもなると一面闇で包まれる為、螺穴が見えなくなるのだった。

扉を押す。門の時と同じ様な音と共に、扉が開く。

「邪魔をする」

男は一礼すると、玄関へと足を踏み入れた。そして、周りを見回す。

台所や手洗い、風呂場といった最低限の設備はあるが、棚や机、椅子といった家具は一切置かなかった。箪笥と戸棚だけは、それぞ寝室に一つ、台所に一つだけあるが、それも小さい。

ツツィは家具の代わりに、木箱や樽を使っている。引越した当時は金が無く、渋々始めた事であったが、今となってはこの生活に慣れてしまい、金がある今、家具を買う気にはならなかった。

おかげで金は貯まる一方だった。

「こんな生活で、不満は無いのか」

「ありませんよ。俺自身が望んでやっている事ですし」

呆気にとられた様な表情をする男に対し、ツツィは笑顔で答えた。

事実、不満は無い、と堂々と言える。

「こんな所ですけど、旅の塵でも払っていって下さいね」

昨日飲み残した茶を端に寄せ、温くなった湯を温める。可搬型の焜炉の為、火力は低いが、それでも生活には不便しない。

戸棚を漁る。そして、一つの包を手に持った。

包には、自身で作った茶葉が入っている。偶然外に紅茶の材料になる草木が自生していた為、それを摘んで茶葉にしていた。

口がなんとなく寂しいとき、それで癒やしていたのだった。

「紅茶、飲めますか」

「一応」

男はそれだけ言うと、背負っていた荷を下ろした。

「それにしても、何も無いな。普段、どうしているんだ」

「その辺の木箱で食事取ってます。外には井戸もありますし、それで水問題は解決しますから」

「それはそうだが」

尚も複雑な表情を浮かべる男に、ツツィは微笑で返す。

「滅多に人も来ません。だから、俺一人が生活できれば充分なんです。それに、不便だからこそ運動になりますよ」

男はそれ以上、何も言わなかった。何か考え事をしている様にも思えた。

湯が沸いた。茶葉を包みごと湯に浸す。大体三、四分で色がでる。味は薄いが、濃いよりはましだ。

「苦手な食べ物ってありますかね」

「この身故、肉と酒は断っている」

「へえ。それだと力が出ないのでは」

「そんな事はないさ。そう考えるから力が出ないだけの事」

「根性論ですか」

「そうとも言う」

ふうん、とツツィは感心の声を上げた。今時根性論とは、珍しい事だ。根性ではどうにもならない事は、シグの雫を採る者として身を持って知っていた。同時に、この旅人に異国の風を強く感じ、興味を持ったのも確かだった。


味の薄い茶の湯気だけが、時の経過を冷静に告げていた。

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