第8話

■■8


 すっかり暗くなってしまった。肌寒くなってきた。シゲさんが「こんな日は熱燗だよ、そろそろね」と言う季節と時刻。

「お父さん、飲みに行こう」

 父がテテンと鳴る。

「お父さんに似てお酒強いんだよ、私」くふんと笑う。父がテンテン付いてくる。


 広い河川敷の橋を渡る。風が吹き抜けて、私はトートバッグから薄手のストールを取り出した。巻き付ける。昼と違った顔になる夜の町。赤提灯が点々と灯っている。そのうちの一件に私は入った。シゲさんと時折行く飲み屋だった。

「熱燗と、揚げ出し豆腐と……。あと焼酎のお湯割りも下さい」

「お待ち合わせですか?」

「いえ、もう居るの」

 店員が解せない顔をする。

「とにかく、熱燗とお湯割り。お願い」

 お通しが出てくる。冷や奴だった。豆腐が被ってしまった。本日オススメのぶりの照り焼きを追加注文する。


 お酒が来た。私は向かいの席にそっとお湯割りを置いた。父はテーブルでコロコロしている。

「お父さん、乾杯」

 私は手酌で徳利からお酒をよそうと猪口を目の高さにあげた。父がその高さにテンと跳ねた。コップの縁にちょんと飛び乗る。焼酎が減っていく。どういう仕組みか分からないが、そういやこのタマしいは分からないことばっかりなんだった、と思い直す。どうでもいいや。どうでもいい。お父さんが居て、いっしょにお酒を飲んでるんだから。

「すみませーん、もう一杯下さーい」

「はい、ただいまー」

 結構いける口だった母と大酒飲みの父は時折夜更けまで飲んでいた。ぼそぼそと何事かおしゃべりしながらたまに笑い声が混じる。遅くまで楽しそうだった。私が入る余地のない空間だった。私は一人布団の中で羨ましいなと思っていた。


 河川敷に戻ってきた。私は沢山飲んだ。父も飲んだ。父はテテンテテテンと千鳥足だ。

 私はススキの生える土手に体育座りした。ロングスカートの下、それでも足が葉に当たってチクチクする。父はテーンテーンと飛んで行って、土手を下り原っぱを大きく丸く回った。酔うと父はよく歌を歌った。今も歌っているのかもしれない。

 はーるの うららの すみだがわ のーぼりくだーりーの ふーなびーとーがー

 夏でも冬でもこの歌だった。母が居ると低音部を歌って、ハモって二重奏になった。私は酔った父が好きだった。この歌が好きだった。


「お父さーん」

 手をラッパにして私は呼んだ。

「お父さーん、寒いよ。もうかえろー」

 思いがけず。父はポーンと飛んだ。高かった。真っ直ぐに空に飛んだ。そのまま。降りてこない。私は慌てて立ち上がると、父の真下まで転びそうになりながら降りていく。降りていっても、父は落ちては来なかった。そのうちすぅっと白の色が透ける。透けていく。

「お父さん!」

 タマしいはじわじわとシャボン玉みたいに透明になって鈍く七色に光りながら空へ空へと登っていく。「行かないで!」そう言おうとした言葉を私は飲み込んだ。あの人はやっぱり唐突にふつりと行ってしまう人なんだ。また行ってしまうんだ。遠くへ。遠いところへ。ふわふわ飛んで、薄れていって、そしてとうとう見えなくなった。


 携帯が鳴った。シゲさんだった。体が動いて無意識に出た。

「瞳子ちゃん、どこ行ってるんだ? こんな夜更けに鍵も掛けねぇで……」

「シゲさん、シゲさん」私は言う。ぶわっと思いが溢れ出た。今日一日と今までの父との思い出が走馬燈のように頭の中をぐるぐると駆け巡る。なぜ父が出て行ったのか、去ってしまったのかをとうとう聴けずじまいだった。身勝手な人だった。非道い父親。

「お父さんが行っちゃった、死んじゃった。死んじゃったんだよぅぅ」

「瞳子ちゃん、瞳子ちゃん……」

 月が出ていた。白くてまぁるい月だった。お父さんみたいな月だった。涙に滲んで瞳をこらそうとしてもそれも見えない。

「また独りぼっちになっちゃったよぅ。お父さんが死んじゃったんだよぅぅ」

 河川敷に私の声が響く。さーっと風が吹き抜けた。寒空の下、私は独り泣いていた。「お母さーん」と泣いたり「お父さーん」と泣いたり。私は小さな子どもの頃に返っていた。不思議なほど涙が溢れて止まらなかった。鼻水を垂らしながら泣きじゃくる。

「河川敷ぃー。河川敷にいるの。シゲさん。迎えに来てぇー。独りぼっちはもうイヤだよぉぉ」

 シゲさんが携帯を握ったまま迎えに来るまで。私はわぁわぁ泣いていた。

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