第7話

■■7


「お父さん、待って。お腹が空いたよ」

 ボールが止まった。戻ってくる。「ここ、ここに入ろう。ここのラーメン、美味しいの」

 父はひょいと暖簾を見上げたように見えた。脇に抱えた私のトートバッグの中に小器用にすとんと入ってくる。見えない誰かに独り言を言っているように見えたのか、メガネのおばちゃんがいぶかしそうに私を見た。曖昧に笑う。暖簾をくぐる。「らっしゃーい」と威勢の良い声が響いた。


 壁に掛かった時計を見るともう二時近かった。お昼時を過ぎた店内は客もまばらだ。私は四人掛けの椅子に座る。

「チャーシュー麺を」

「はい、チャーシュー一丁」

 待っている間にトートバッグの中の父に小声で話しかける。

「お父さんさ、私がラーメン作ると絶対かっぱらって食べてたよね」

 中学の頃、バトミントンの部活で忙しかった私はいつもお腹を空かせていた。母も私も映画好きで九時からは映画やドラマを観るのだが、ちょうどその頃、夕飯はがっつり食べたというのにお腹が鳴った。私はインスタントラーメンを作った。母が「太るんだから」と言うが、我慢できなかった。そのラーメンをいつも父が奪うのだ。

「一口くれ」が定番の台詞。一口食べるともう一口。三口、四口。ぜんぜん器を離さなかった。何度もそんなことがあって、「お父さん、ラーメン作るけど二つ作る? お父さんも食べる?」と台所から声をかけても、父は必ず「オレは要らん」と言った。でも、私がラーメンを食べ始めると「一口くれ」とまた言うのだ。

「お父さん、食べないって言ったじゃん」

「ケチケチすんな。もう一杯作ればいい」

「映画が始まっちゃったじゃない」

「知らん」

 出てきたチャーシュー麺を啜りながら私は「ふふふ」っと笑った。アレは一体何だったんだろう。毎度親子ゲンカになった。それでも父は「オレの分もいっしょに作ってくれ」とは決して言わないのだった。


 小バエがブーンと飛んできた。手で払う。あっちに飛んでいったハエが餃子とか担々麺とかの札の貼られた壁に止まる。チャーシューの匂いに引き寄せられるのか店内を一周してまた戻ってくる。「ダンッ」と大きな音が鳴った。私の座るテーブルの上で。びっくりした。ハエが潰れて死んでいた。父だった。トートバッグの中から飛び出した父が一撃のもとにハエを仕留めたのだ。ハエの死体が転がっている。白くて丸い父が見えなくても音だけは聞こえたらしい。店内の人がみな振り返った。

「あ、あはは、はは。ハエが居て……」

 店員さんがやってきて「すみません」とテーブルの上のハエを布巾で拭っていく。

 私が手で仕留めた、と思われただろう。どんながさつな女だと思われてるんじゃないか。カーッと頬が熱くなる。お父さんは向かいの席でコロコロと転がり、おどけているように見えた。

「もう信じらんない」独りごちた。


 店を出たところで呼び止められた。化粧っ気のない女性だった。覗き込むようにして私を見る。胸に何か紙の束を抱えている。

「あの、ちょっといいですか? 私今見えて……」

「え?」父のことだろうか。さっきのハエの。

「見えたんですか?」

 私の問いに逆に女の人はびっくりしたようだった。それでも一拍おいてコクッコクッと頷いてくる。

「えぇえぇ、あなたにもお分かりなのね。あなたの額にぱあっと光が。輝いて。あなた人生の転機ですよ」ずいっと顔が迫ってきた。

「ち、ちょっと」

 宗教だ。この辺でよく勧誘をしている。ボールが見えてるんじゃなかったんだ。しくじった。

「あなたの為に祈らせていただけませんか? 大丈夫。あなたの道は開けます」

「いえ、私は……」

「ほんの短い時間ですから……あうっ」

 宗教の人が額を押さえてのけ反った。父がいきなり頭突きしたのだ。

「い、今のはなに?」キョロキョロと辺りを見回す。お父さん、ナイス。私は笑う。

「あはは、あなたも転機ですよ。今、額にご神託を感じたでしょ?」

「え、え?」

「あなたはあなたの為に祈るべきね。私はいいわ。父が逃げろって言ってるから」

 父は走り出していた。人波を器用にぬって跳ねていく。父を追って私も早足になる。振り返ると困惑顔の女性が立ち尽くしている。


「ねぇ、お父さん。人生の転機だってさ」

 自販機で買ったジュースの缶をプシュッと開けて一口飲んで私は言う。

 公園に来ていた。ブランコに座って、離れたところで遊ぶ子ども達を見ている。父はトートバッグの中から跳ね出てくると、隣のブランコの上で小さくテンテンしている。

「不思議だね。すっかり忘れたと思ってたのに、いろいろ思い出しちゃう」

 ジュースの缶には緑色に白い字で「くりぃむそーだ」と書かれている。また思い出す。私の絵が優秀賞を貰った時だ。父が「瞳子」と私を呼んだ。顎をくいっとやって付いてくるように促す。

 なぜか早足で歩いて行く父を追って小走りになった。どこに行くのかと思っていたら、近所の喫茶店に父は入った。父のよく行く茶店だったが、私は一度も来たことがなかった。カウンターの椅子が高かった。私は足を所在なくぶらぶらとさせていた。


「コーヒーとクリームソーダ」

 赤くて丸いビニール張りの椅子に座る私の前にソーダが置かれた。

 初めてクリームソーダを見た。いや、ファミリーレストランなんかでメニューに載っている写真を見たことはあった。でも父も母もこういうものは飲ませてくれたことが一度もなかったのだ。

「……シュワシュワしてる」

「長い柄の匙があるだろ? アイスはそれで食べるんだ」

 柄の長い匙も初めて持った。あのクリームソーダは美味しかった。クリームを匙で付くと緑色の液体の中に沈んでしまう。上手く救えない。それでもあのクリームソーダは美味しかった。

帰り道「お母さんには言うなよ」と父は言って、あの日、私はクリームソーダが贅沢品だから母に内緒なんだと、そう思った。母にはずっと言わなかった。でも、違ったのかもしれない。父は照れていたのではないか。


 滑り台で遊ぶ子ども達の歓声が聞こえる。秋の日はつるべ落とし。そろそろ日が暮れてくる。キィーキィーっとブランコを揺らす。河川敷まであと少しだった。ボールになった父を河に投げ捨ててやろうと思っていた気持ちがいつしかしぼんでいた。

「ねぇ、お父さん。お父さんの忌引きで私明日も休みなの。お母さんのお墓参りに行こうか」

 父は変わらず答えない。

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