第6話

■■6


 父は私が来たのを見るとテーンテーンと雑草生い茂る敷地の外へ出た。ちょうどゴミ出し途中の人とすれ違う。散歩途中らしい老人も父には気づかないようだった。私の頭はおかしくなったんだと思う。これは私にだけ見える幻なんだ。母が逝った時も私は狭いアパートの中に何度も母の幻を見た。ご飯を作っている母、洗濯物を畳む母。父がボールに見えるのは父の面影をもうよく覚えていないからかもしれない。父が失踪してから一五年。一五年……。

 そうだ、と思った。幻でも何でもいいや、父をどこか遠くへ捨ててやろう。河川敷が良い。河に投げて捨ててやろう。今度は私が捨ててやろう。


 そういう私の思惑を察したのか否か。ボールはテンテンと坂道を転がり始めた。重力の法則に従って加速していく。

 私は足を速めた。待ちなさいよ、絶対捨ててやるんだから。そうして、ただどこまでも楽な方へ、安易な方へと転がって行く気なんでしょ。私が怖いんだ。後ろめたいんだ。絶対に許さない。この手に捕まえてやる。秋の風がピューと吹いた。寒くはなかった。寒いのは心だった。



 逃げた、と思った父は坂道の終わりで電信柱にぶつかりながらテンテンと私を待っていた。少しほっとする。ちょうど病院の前だった。電信柱に寄り掛かり私ははあはあと息を整える。走ったのなんて久しぶりだ。病院から出てきた親子連れが怪訝な顔で私を見た。私の横で跳ねている父にはやっぱり気づいていない様子だった。


 鳶の仕事中に父が落ちて足首を折ったことがある。母と走って病院に行った。足を天井から吊られたベッドの中から、父は「おー、来たか。すまんな」と言った。痛いそぶりは見せなかった。幼稚園の時、私が高熱を出した。夜中だというのに父は私を負ぶって走った。かかりつけの病院のドアをドンドン叩いて「センセイ、急患です。急患です」

 月の明るい晩だった。お月様がこっちを見ていた。

 なぜ思い出すのだろう。

「お父さん、お父さん知らないでしょう? 私も高校の時、自転車に乗ってて転んで足折ったんだよ。すごい痛かったよ。なんで……」

 なんで、お父さん私が「痛い?」って聞いた時「痛くないよ」って笑ったの?


 私の息が整った頃、父はまたテンテンと歩き出した。私はその後を付いて行く。「ほら、ここに入りなよ」とトートバッグの口を広げて見せたが父はイヤなようだった。私の幻のくせに言うことを聞かない。憎たらしい。いっそ鍋で煮てやろうかと思う。

「瞳子、石川五右衛門って知ってるか?」一緒にお風呂を使っていた。父の声がタイルに跳ね返って響いた。「知らない」と小さな私が答えると、身体を洗い終えた父はザバーと湯船を溢れさせて湯に浸かった。

「石川五右衛門は大泥棒だ。捕まって釜ゆでの刑にされた時、息子も悪い奴の子だってんで、一緒に窯に入れられた。五右衛門はこう息子を両の手で頭の上に抱え上げて息子だけは釜ゆでにならないように守ったんだ。五右衛門の心に感じ入った役人は息子を無罪放免にしたそうだ」

 父が両手を掲げる。いっしょに湯船に浸かる私の目の前に父の大きな胸があった。胸毛が濡れて貼り付いている。

「オレも釜ゆでになったら瞳子を抱き上げて守る」

 ありえもしないことを父はエラソウに言った。後でネットで見た話だが、石川五右衛門の話は諸説あるらしい。最初は父の話通りに息子を抱え上げていたが、熱さのあまり耐えきれなくなり、息子を足の下に踏み敷いたとも言われている。


 お父さんも最初は意気揚々と釜ゆでの大釜の中で私を抱え上げるだろう。でも熱さに耐えられず私を踏み敷いてしまうだろう。いや、踏み敷くことはしないかもしれない。術を使って窯から一人ドロンと消えそうな気もする。

「お父さん、どうして消えちゃったの? 私達の前から」

 そんな言葉が口を突いて出た。父はテ、テンと歩調を乱した。しかし何も言わなかった。またテンテンと歩いて行く。



 商店街に出た。人が増えたが、やはり誰にも父は見えないようだった。父は器用に人波をぬって相変わらずテンテン跳ねている。花屋の前を通った。

 シゲさんが夕べ菊の花を持ってきてくれたんだった。お礼も言っていなかった。「あ……」小さく息が漏れる。シゲさんとキスをした。父の骨壺の前で。父は見ていたんだろうか。それとも壺の中だったから気づいてないか。悪いことはしていない。そう思う。恥ずべき事はしていない。


 乳母車を押すお母さんが居た。赤ちゃんがむずかっている。父はテンと跳ねて赤ちゃんの腹にぽとんと落ちた。「へ?」と思っていると赤ちゃんがタマを握るようなそぶりを見せる。「あー」と発して笑い出した。

「赤ん坊には見えるんだってよ。霊魂って奴が。純粋だから」

 誰に聞いた話だっけ。父はポーンと跳ねて乳母車を降りるとまたテンテン先に行った。

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