第5話

■■5


 私の目の前では、謎の未確認弾性球体がただひたすら跳ねている。

 父なんだろうな、と思う。不本意ながら。言葉を話す訳でなく、表面に顔が浮き出ることもなく、明確な意思の疎通があるでなく。それでも、このボールには僅かばかりの人間味が感じられる。なにしろ形も……ほら、「魂」というくらいだ。「タマしい」だ。白い色もいかにも霊魂を思わせる。白という色が父に似合うかどうかは知らない。


 見かけ丸い。きっと中身がない。弾むだけは調子よく弾む。低い方へと転がりたがる。表面はのっぺりしていて掴み所がまるでない。父の魂そのものだ。玉と魂。ボールそのもの。

 こんなものになり果てて化けて出たか、と思う。怖いという気持ちは浮かばなかった。そうだ。父は怖い人ではなかった。母と始終口論していたが、母にも私にも手を上げたことは一度もない。金のある時には母にも生活費をやっていた。月に四〇万貰ったこともあるのよ、と母が言っていた。けれどない時にはやらない。借金する。寧ろそういう月の方が多い。そんな人だった。


 母の位牌の前で小さく跳ねているのに「お母さん死んじゃったんだよ。三年も前に。お父さん知らなかったでしょう。お父さんの所為だよ」そう言うと、神妙そうに更に跳ねが低くゆっくりになった。衝動に駆られてテーブルの上のテッシュボックスを投げつけてやる。器用に避けた。鳶職だった父は身が軽かった。腹が立つ。

「私もう三十だよ。お父さん、私の歳なんか覚えちゃなかったでしょう」

 テレビが今日の天気を告げていた。


 ボールがテーブルの上に飛び乗った。コロコロと転がってコーヒーのカップにそっと近づく。コーヒーと焼酎。父はその二つしか飲み物を飲まなかった。コーヒーが欲しいのだろうか。第一飲めるのだろうか? 知らん振りを装う。


 ベランダに出て私はタバコに火を点けた。ちょっといろいろ整理したい。狭いベランダだ。干している洗濯物を払いながらタバコを吹かす。ベランダから見える景色はいつも通りだ。灰色の屋根が建ち並び、少し離れたところに銭湯の煙突が見える。今は煙が出ていない。カアカアとカラスが鳴く。ごく普通のありふれた日常。でも居るんだよね、ボール。室内を伺うと、突然ボールが額にぶつかってきた。

「痛っ」タバコを落としてしまう。父はタバコを吸わなかった。そしてタバコを吸う女が大嫌いだった。

「今更父親ぶるのは止めてよ。お父さんの所為でこんな不良になっちゃったんだからね」

 言うと、テテテテとベランダの天井と床を交互に激しくぶつかり跳ねる。私の背より高く跳ねたボールはそのままベランダの柵を乗り越え、三階から一気に落ちた。テーンテーン。

「え、ちょっと……」思わず手摺りを掴んで下を見る。テンテンテン。

「ちょっとこっちに来い」

 そう言っているような気がした。父は私を叱る時いつもそう言った。

「ナニよ、今更父親風吹かそうって言うの?」私は階下に向けて声を荒げる。「行きませんからねーだっ」落ちたタバコを拾い上げる。これ見よがしに吹かしてやる。

 テンテンテン。

「コッチニ来イ」

 テンテンテン。テンテンテン。

「あー、もうっ」

 私はタバコを揉み消す。習慣でトートバックをひっつかむと階段をカンカン降りていった。

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