第3話

■■3


 さて。1DKの安アパートで、私はさっそく父の箱の置き場に困っている。ローボードの上の母の位牌と一緒に置くのは業腹だった。テーブルの上は私がイヤだ。だって今からご飯である。父と食卓を共にするなんて御免被る。本棚やタンスは背が高いし、ベットの上に置くのもイヤだ。結局、フローリングの床の隅っこに父を置いた。そうして昨日の残り物をレンジでチンしてご飯にする。


 食事をする視界の端に白い物がよぎる。見たくもないのに目が行ってしまう。食欲が湧かない。里芋の煮たのを箸でつつく。子どもの頃、給食で出る煮物はいつも生徒に不評だった。私も嫌いだったが三十を超えた頃から好きになった。母の味を思い出しながらこしらえた物だ。

「給食費……」

 嫌な事を思いだした。小学校の給食費。三年生だった。当時四四〇〇円だった給食費を父は札だけ盗んだ。気づかぬまま封筒を学校に持っていき、担任の先生に「藤田さん、きっとお母さんが入れ忘れたのね。明日持ってきてね」と言われた。父の仕業だ、と私はすぐに察した。母がそういう粗忽をするわけがない。小銭は残しているのも父らしかった。鳶の父は働いたり働かなかったり金欠病のくせに、細かいお金にはとんと無頓着だった。「コーヒー代にもならねぇ」そう言って「財布が膨らむのはかっこが悪い」と二〇〇円だの三〇〇円だのを私にくれる時があった。私はその日、とぼとぼと家に帰ってきた。また夫婦ゲンカになってしまう。また父と母の怒鳴り合いを聞くのだ。イヤだイヤだと思っても子どものお小遣いで四〇〇〇円は到底出せない。給食費の不足を母に伝えると母は存外に怒らなかった。目頭を赤くして、ただ「情けない……」とだけぽつりと言った。


 部屋の隅に置いた白布で覆われた箱を見る。蹴ってやりたい衝動に駆られた。箸を握る手が白く震える。借金を負わせ、子どもの養育さえせずに全てを母に押しつけた男の骨だ。何故引き取ってしまったんだろう。

 高校を卒業し、私が工場で働くようになって、借金返済のメドも付いた。やっと母と私は息が出来た。そうして母が癌になった。母は「小さいけど保険に入っていてよかったね」と笑った。笑った……。

「瞳子、一人で生きていけるわね? 大丈夫よね?」

 父を見て育ってどうして結婚に夢を抱けるだろう。「結婚なんかしない。男なんかいらない」いつもそう言っていた私を病床からじっと見据えて母は言った。母は一人っ子の私にいい人が出来る日を夢見ていた。

「瞳子、きっとワクワクする様なことに出会えるから。お前が私にとってのワクワクだったから。いいわね。生きて行きなさい」

「お母さん……」

 母の骨壺を抱いた時、涙が溢れて止まらなかった。そういえば、父の骨には嫌悪しか沸かないことに気づく。

「蹴ってやりたい」

 そう父の骨に聞こえる様につぶやいた。


 ピンポーンと玄関の呼び鈴が鳴った。シゲさんだ。席を立って急ぎ足にドアを開けると菊の花を持ったシゲさんが立っていた。

「瞳子ちゃん、大変だったね」

 シゲさんがそっと抱きしめてくれる。温かい。

「はい。……いいえ。大丈夫です。母の時とは違いますから」

 そうだ。母の葬儀の時、項垂れた私の肩にそっと手を置いてくれたのがシゲさんだった。「独りぼっちになっちゃった」私がぽろぽろ涙をこぼすと、ぽろぽろぽろぽろシゲさんも涙をこぼして「藤田さんには人情がある。人情のある人間はきっと人情に助けられる。強く生きていくんだよ」と、母と同じようなことを言った。他の工場の人も見ている前で私は子どもの様にわっと泣いたのだ。その後もシゲさんは私を何かと元気づけてくれた。母の一周忌にも一人だけ来てくれて。二人だけのこの部屋で私は「シゲさん、寒い。温めて」と言ったのだった。シゲさんはぎこちなく私を抱きしめて、そして抱いた。

「五十のジジイが若い生娘に手を出しちまった。お母さんに面目が立たねぇ」

 私は処女だった。生娘という言い方にこそばゆい喜びを覚えた。そんなシゲさんに捧げたかったのだ。

 ベットの中で私の頭を撫でながら、シゲさんは何度も「すみません、すみません」と謝っていた。



「仏さんは?」

 シゲさんは見回して、床の隅っこに父を見つけた。

「瞳子ちゃん、これはいけねぇ」

 シゲさんが遺骨を持ち上げ、ローボードの母の位牌の横に父を置いた。花瓶を取って――いつも造花が入っている。生花は高い――持ってきた菊の花を台所で活けてくれ、それを白い包みの隣に置いた。

「幾ら悪い父親でも骨になっちまえばそれは仏だ。粗末にしちゃあいけねぇ」

 ロウソクに火を点け、線香に火を灯す。チーンを鐘を打った。手を合わせて焼香してくれる。

「さ。瞳子ちゃんも祈りな」

 シゲさんが数珠を渡して促す。

 死んでしまえば仏。そうだろうか。父が行方知れずになったその日。父は十五の私に無心した。

「瞳子、三〇〇〇円だけ貸してくれ。すぐ返すから」

 高校生の私はバイトをしていた。そのくらいのお金はあった。絶対に返してくれないだろうお金。分かりきっていたのに何故だろう? 私は財布から三〇〇〇円出した。私が働いたお金。大事なお金だったのに……。父が卑屈な笑いを浮かべ、

「ごめんな」

 と言った。ちっともすまなそうではなかった。たった三〇〇〇円。三〇〇〇円ぽっちをねだる父。イヤだった。この人の娘であることに虫ずが走った。居なくなれば良いと思った。まるでゴキブリでも見る様な目で父を見ていた、と思う。父は私のそんな目に気づいたのか、一瞬怯んだ。そしてそそくさと家を出て、それきり戻ってこなかった。

「イヤ」私は言った。即座に口を突いて出た言葉だった。

「この人のために祈るのはイヤ!」


 シゲさんは神妙な顔をした。

「オレにも別れた女房と瞳子ちゃんと似たような歳の娘がいるが」

 知っていた。仕事ばかりのあなたにほとほと愛想が尽きました。いつか仕事も定年退職してその後ずっとあなたと顔つき合わせて生きるのかと思うと反吐が出ます。別れて下さい。そう奥さんが言ったそうだ。

 反吐が出る。非道い言葉だ。ちゃんと働いて、お金もきちんと家に全て入れて――お小遣いはずっと二万ぽっきりだったと苦笑いしながらシゲさんが言っていた――それでも、家族に捨てられる人も居るのだ。母はいつも「十万でいいから毎月家に入れてくれたら」と言っていた。母はシゲさんみたいな人と結婚したかったに違いない。私もシゲさんと結婚したい。叶わぬ夢だろうけど――シゲさんは私達の仲を工場にばれないか、そればかりを気にしている――私はシゲさんみたいな人と結婚したい。

「そんな風に娘に言われたら、ショックだなぁ」

 シゲさんに促されて仕方なく焼香した。祈りの言葉は浮かんでこなかった。さっきのように蹴ってやりたいというような怒りの文句も浮かばなかった。私は無の心で焼香した。今更父に何を思えというのだろう。


 そんな私をシゲさんはもう一度抱きしめた。キスをする。

「忘れるところだった。これ……」

 と、香典袋を取りだした。工場の人達からのものだった。

「忌引きだから。オレが話通しといたから。あと二日ゆっくり休みな」

「はい。ありがとうございます」

 しばらくしてシゲさんは帰っていった。

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