Ⅱ 潜入②



 侍女じじょたちの朝は早い。

 夜明けと共に起床きしょう身支度みじたくをして割り当てられた掃除そうじ場所に向かう。アルメリアは大部屋の先輩せんぱい侍女たちと六人で、だだっ広い回廊かいろうの窓という窓をき、床をく作業に従事した。

 午前七時、使用人用の食堂で手早く朝食をとる。三十分後には、洗濯せんたく室で洗い上がったばかりのリネン類、衣服、絨毯じゅうたんやカーテンを専用の乾燥かんそう室へ持っていってす。それが終われば園庭の草花に水やりをし、昼食の下ごしらえの手伝いをし、使用されていない部屋の換気かんきをする。

 合間合間に女官にょかんからつくろい物や書類仕事などの雑用をめいじられ、それらもてきぱきとこなしていく。女官の中にはいやがらせでわざと大量の用事を言いつける者もおり、侍女との間で火花が散る場面もあった。

 後宮と主宮を含めた王宮全体での女官の数は約百名、侍女はおよそ三百名といったところだ。アルメリアは驚異的きょういてきな速さで業務内容を飲み込みつつ、後宮の見取り図と女官たちの勢力図を正確に把握はあくしていった。

 王族とじかに接し、食事の配膳はいぜんや来客の取次、着替えや手紙の受け渡しといった身の回りの世話を行うには女官以上の身分が必要となる。アルメリアの侍女という立場では、王子に近づくことはもちろん、姿を見ることさえ不可能だった。

「大体、王子はどこにいるっていうのよ」

 迷ったふりをして庭園を散策しながら、アルメリアはつぶやいた。

 せめて女官なら、もう少し正確な情報がつかめるだろうが、侍女では限界がある。後宮は広く、建物も人間関係も迷路めいろのように入り組んでいる。貴族の後ろだてなく後宮に入り、限られた予備知識のみで任務を達成するのは至難しなんわざだ。

 とはいえ、イーディスには勝算があるらしい。おそらく切り札は、この姿だ。

 アルメリアは小さなめ池の水面みなもに映った、シルヴィアとしての姿を見つめる。翡翠ひすい色のかみひとみ派手はでではないが清雅せいがに整った目鼻立ち。誰かは知らないが、肖像画しょうぞうがが残っているほどだから、かなりの重要人物だろう。イーディスは彼女をえさとして、王子をおびき寄せるつもりだ。

 ――あのうわさが本当なら、この顔は恐らく……。

「ルシオラ姫!?」

 突然悲鳴が上がり、アルメリアは反射的はんしゃてきに身構えた。

 振り向くと、四十歳くらいだろうか、オレンジ色の短い髪をした女性が、あんぐりと口を開けて立ちくしている。

 アルメリアが当惑おうわく気味に「あの」と声を発すると、彼女は青ざめたまま猛烈もうれつな速さでこちらにけ寄ってきた。

「生きてる。どうして。あなたは……」

 服装から彼女を女官と見てとると、アルメリアはひざをついてこうべをれた。

「どうかお許しください、女官様。わたくしは先日入宮したばかりの侍女で、シルヴィアと申します。厨房ちゅうぼうへ向かう途中、こちらに迷い込んでしまって」

 女官は目を白黒させていたかと思うと、あわてた様子で謝った。

「あら、ごめんなさいね、人違いをしてしまったみたい。私はモニカ。アレクト殿下でんか乳母うばをしているの。以後よろしくね、シルヴィア」

「こちらこそ、よろしくお見知りおきくださいませ」

 おしとやかに応じながらも、アルメリアは心の中で快哉かいさいさけんだ。これだ! まさかこんな場所で、最重要人物に出会えるとは思わなかった。

 何しろ乳母といえば、王子にとって母親より影響えいきょう力の強い人物。選定されるためには地位や人となりはもちろん、非常に厳しい審査しんさに通らなければならない。地位は女官であっても、後宮での立場は断トツの一位で、場合によっては女官長すらしのぐ発言権を持つ。

「厨房まで行くのね? 送っていきましょう」

 思いがけない気さくさで彼女は言うと、歩き出した。アルメリアは遠慮えんりょがちに後ろをついていく。言いのがれのため、とっさに庭園から最も離れた厨房を指定したのがきちと出たようだ。

「モニカ様。一つよろしいでしょうか」

「なあに?」

 彼女はおっとりとした様子で振り返る。

「先ほどおっしゃっていたルシオラ姫というのは、」

 言いかけた途端とたん

「しっ」

 と、モニカは人さし指をアルメリアのくちびるに押し当てた。

「その名は口にしてはいけないのよ。ここではね」

 あんたさっき思いっきり叫んでたじゃん、とアルメリアは内心突っ込んだが、大人おとなしく黙っていることにした。

 モニカは道端みいばたにしゃがみ込み、誰かのくつまれてしおれている薄紫色の花弁に優しくれた。そして不思議ふしぎ旋律せんりつの歌を口ずさむ。

 アルメリアは目をみはった。

 その花が、いや、後ろにえている木々の枝まで、見る間に生長していくではないか。葉っぱの一枚一枚が、息を吹き返したかのように生命力を発散している。

 ――《まじない》の力……。

 神妙な面持おももちでアルメリアが見つめていると、モニカは照れ笑いを浮かべた。

内緒ないしょよ」

 おかしい。みょうだ。王子付きの乳母ともあろうものが、会ったばかりの他人の前で《まじない》の力を披露ひろうするなんて。乳母の権力や地位を利用しようとたくらみ、付けねらう者は山ほどいる。後宮では、誰がいつどこで危害を加えてくるか分からないのだ。

 アルメリアはいぶかった。

「種はね、もともと自分の中に芽吹めぶく力を持っているの」

 やわらかな花弁をいとおしげに指先でで、モニカは青空に手を伸ばす。

「私は植物とお話をして、その力をほんの少し助けてあげるだけ。そういう《まじない》を神様からさずかったから」

素敵すてきな力ですね」

「ありがとう」

 モニカはにこっと笑う。

「歌は植物にしか効かないの。でも女王陛下へいかは、人の心にも効くようだとおっしゃってくださった。アレクト殿下のために毎日子守歌を歌ってくれないかと、直々じきじきにお命じくださったの」

 風がこずえを渡る。アルメリアはなびく髪を押さえて目を細めた。

「ルシオラ姫は、私の歌を好きだと言ってくださった。私たちで王子を、共に、支えていこうと……」

 モニカの瞳がうるみ、顔をおおって嗚咽おえつを押し殺す。その背中は信じられないほどすきだらけだった。のんびりしているのか、よほどきもわっているのか。

「……先輩方にうかがいました。後宮には幽霊ゆうれいが出ると」

 モニカは顔を上げる。庭園に静寂せいじゃくが満ちた。

「アレクト殿下の婚約者こんやくしゃ亡霊ぼうれいが夜な夜な徘徊はいかいし、出くわした者は死ぬと噂になっております。事実なのですか」

 ルシオラ姫は現財務大臣エルゴ・ハミルトンのむすめ。ハミルトン家は創成そうせい魔導師まどうしの一族で、『王家のたて』と呼ばれる国内随一ずいいちの貴族である。聡明そうめい敬虔けいけんな彼女は五歳で修道院に入り、十二歳で史上しじょう最年少の司祭となり、宮廷きゅうてい礼拝堂の聖歌詠唱隊えいしょうたい詠師えいしに着任。そこでアレクト王子の目にまり、十三歳で正式に後宮へし上げられる。一年前のことだった。

 当時十五歳だったアレクト王子に正妃せいひ側妾そくしょうはおらず、家柄いえがら、人となり共に整ったルシオラ姫は正妃となることが確実視されていた。後宮の規則きそくにのっとり、一年間は【春の君】として王子のそばうかえ、翌年婚礼こんれいり行われることが決まっていたという。

 しかし一月ほど前、ルシオラ姫は晩餐ばんさん中に突然血を吐いて苦しみ、そのまま死亡。表向きは病死として処理されたが、明らかな毒殺に後宮中が震撼しんかんした――。

 事件のことは国民には一切知らされておらず、おおやけになっていない。後宮で働く者には守秘義務があり、情報が一般市民にれることはないためだ。が、さらにルシオラ姫の件には女王直々に箝口令かんこうれいかれた。それほど重要で、かつ隠さなければならない事情があったのだろう。

 とはいえ、これだけセンセーショナルな事件が起これば、誰かに話したいと思うのが人情だ。後宮内部であれば、身内意識もあって余計に口はゆるみやすい。結果としてシルヴィアのような新入りは先輩侍女にうかまえられ、事件のことを何度も聞かされる羽目はめになるのである。

 モニカは考え込んでいたが、しばらくして口を開いた。

「これも何かのめぐり合わせかしらね。……あなたは、そのルシオラ姫にそっくりよ」

 ――やっぱり。

 アルメリアは確信を得て、右手を握りしめた。

 イーディスが指定したこの変装へんそうは、生前のルシオラ姫を元にしているのだ。

 侍女たちから噂を集めることはできても、肝心かんじんのルシオラ姫の顔は分からなかった。侍女の身分では、そもそも王族やその婚約者と面会できないからだ。だからシルヴィアの姿を見ても、彼女たちは全く反応しなかった。

 しかし、お目通りがかなう身分だったモニカは、シルヴィアの姿が死んだはずのルシオラ姫にそっくりだと知っている。だから、こんなにも仰天ぎょうてんしたのだ。初めて会ったとき、女官長の態度が不自然だったのも、きっとこのためだ。

「アレクト殿下に婚約者がいらしたなんて、わたくし、知りませんでした」

「そうでしょうね。もともとルシオラ姫はきさき候補として入宮されたわけではなかったし、仮に妃となられる方であっても、婚礼の儀のときに初めて公の場に出られるのが慣習だから」

「でも、ルシオラ様はその婚礼の儀を待たずして亡くなった……と」

「ええ……。悲しいことだわ。お亡くなりになってなお、殿下をお守りしようと姫がうつし世を彷徨さまよっておられるだなんて」

 モニカはいたむように目を伏せた。

「王子のお皿にも毒は盛られていたのよ。けれど、先にお召し上がりになった姫が亡くなって、間一髪かんいっぱつのところで命を落とされずにすんだ。あと少し遅かったらと思うと、ぞっとするわ」

「毒を盛った者は見つかったのですか」

「いいえ」

 と、モニカは首を振る。

「一つ言えるのは、王子に世継よつぎを作られると困る者が、王宮には確実に存在するということですね」

 切り込むと、モニカは真っ赤な目をしてこらえきれなくなったように、

「それだけじゃないわ。王宮は数年前から開国派と鎖国さこく派で二つに分かれて、水面下で争いが起こっているの」

 アルメリアは大きく頷いて続きをうながした。どうやらこの問題、なかなか根が深そうだ。

 ここ十年ほどの間で急速に高まった気運、それは魔導結界アルス・マグナを解いて国を開くべきだという開国派の主張だった。特に、税や身分制をリセットして新天地を目指したい平民階級からの要求が強い。資本家階級の中にも、外界での一攫千金いっかくせんきんの機会を虎視眈々こしたんたんと狙っている者もいるという。

 逆に鎖国派の筆頭が、現宰相さいしょうであるメラニー・レリスタットだ。創成の魔導師の血筋であるレリスタット家の当主で、目的のためには手段を選ばない辣腕家らつわんかとして有名だった。

「宰相閣下かっか徹底的てっていてきな鎖国派で知られているわ。そのメラニー様と蜜月みつげつ関係にあるのが女王陛下の弟君、シベリウス殿下でんか。第二王位継承者けいしょうしゃということもあって、あの方の権力は絶大よ」

 王弟シベリウスの話は、アルメリアも小耳に挟んでいた。

 普段は南部地方の領主としてそちらに屋敷やしきを構えているが、儀式や公の行事になると王宮に現れ、女王がお出ましになれないときは代理をつとめることもある。

 ルシオラの姿が心を呼び覚まし、よい効果になっているらしい。モニカは初対面とは思えないほど打ちけた様子で話してくれている。今のうちにできる限り情報を引き出しておかなければと、アルメリアは思いきって問いかけた。

「アレクト殿下は、女王陛下の意志を継ぐ開国派ということでしょうか」

「そうねえ……」

 モニカは鼻をかむ。

「殿下はまあ、その……ご病弱ということもあって、まつりごとに対して明確な意志を打ち出されたことはないの。開国派の急先鋒きゅうせんぽうである女王陛下がいらっしゃる以上、反対はなさらないでしょうけど」

 病弱で発言力がなく、後宮に引きこもり、寵愛ちょうあいする姫のことだけを考えているおろかな王子。無視するのは簡単だろう。

「ハミルトン財務大臣は中立的立場をたもっていらしたけれど、娘であるルシオラ姫が開国派の思想をお持ちになれば、後押しを受けてアレクト殿下も開国の意志を固められる。そうなる前に芽をつぶしておきたいというのが本音ほんねだったのでしょうね」

「おそれながら、最終的に全ての決定権は女王陛下にございます。鎖国派がどう出ようと、ビルキス様が国を開くと一言おっしゃればすむことではありませんか?」

 率直そっちょくに尋ねると、モニカはほおに手を当てて溜息ためいきをついた。

「もちろん、法律上はそうよ。主権者である王または女王の決定は、他の何にもまさる。けど、そうは言ってもこれほどの重大案件を独断で決めてしまっては、国民からの反発はまぬかれないわ。それこそ反乱が起こるかもしれない」

 開国か鎖国か。この国は今、張りつめた細い糸の上で拮抗きっこうし、かろうじてバランスを保っているのだ。

 少しでも他から力が加われば――たちまち崩壊ほうかいする。

「仮に開国するなら、最低でも宰相と枢密院すうみついんの同意は必須ひっすでしょうね。政務官の意見を無視し、正規の手続きをみ倒せばどうなるか、女王陛下は五年前の事件でよく御存ごぞんじのはず」

「五年前の事件……?」

 アルメリアが首をかしげると、モニカはいっそう声を低め、耳元でささやいた。

「アストリッド大臣が亡くなられた事件よ」

 全身が総毛立った。

「あなたも聞いているでしょう。史上最年少宰相の座は確実と言われていたジャスティス様が一家惨殺ざんさつった、あのおぞましい事件を」

 むごい事件だったわ、とモニカはまゆを寄せる。まるで、今なお血のにおいがただよっているかのように。

 膝が笑い出す。息が上がり、目が回る。飲み込んだつばが石のようにかたい。

「シルヴィア?」

 モニカが怪訝けげんな顔で問いかける。

「顔色が悪いわ。大丈夫?」

 渾身こんしんの力を振りしぼって、アルメリアは首を振った。

「いえ、何でもありません。ただ……あの事件は無理心中だと新聞にあったものですから」

「ああ……」

 モニカは苦い顔をした。

「世間では、そういう話になってるみたいね。確かに新聞にはそう書いてあったけど、そんなの真っ赤なうそよ。王宮に身を置く者なら誰でも分かること。ジャスティス様が一家心中を起こすだなんて、あり得ないもの」

「では、あの記事は捏造ねつぞうされたものだと?」

「恐らくね。どこかから圧力をかけられたのよ」

 ――この人も、五年前の事件のことを知っている。

 ――ううん、この人だけじゃない。王宮にいた人間は、あの事件が暗殺だったということは、みんな分かってるんだわ。

 衝撃しょうげきだった。王宮の中と外では、こんなにも情報のレベルに格差があるのか。

「アストリッド大臣は開国派だったのですね」

「もちろんよ。そもそも、女王陛下に開国を進言したのはジャスティス様だもの」

 モニカは大きく頷くと、瞳を上向けて言った。

「あの方は……アストリッド大臣は、メラニー様に対抗たいこうし得る唯一ゆいいつのお方だった。確かに改革を急激にし進めたことで、批難ひなんびておられたのは事実よ。でも、誰より女王陛下の意志をみ、国のために尽くしておられた。史上初の平民出身宰相になられることを、多くの人が待ち望んでいたわ」

 本当に残念なこと――。モニカは言って、祈るように瞑目めいもくした。

 旗頭はたがしらであるジャスティスが暗殺され、開国派は大きな痛手をこうむった。次に殺されたのは、アレクト王子の婚約者、ルシオラ姫だ。王子自身の暗殺は未遂みすいに終わったが、たった一人の息子むすこの身をおびやかすことで、開国派である女王を確実に牽制けんせいしている。

 それでも女王が開国しようとすれば、どうなる?

 アルメリアが鎖国派なら、今度は王子を人質ひとじちに取り、女王に要求を突きつけるだろう。例えば二度と開国しないと国民に宣言せんげんすることや、開国を禁ずる法律の策定などだ。

 ――そうか。だから、アレクト様を誘拐ゆうかいするよう依頼が入ったのね。

 うながっているのだ。五年前の事件、ルシオラ姫の暗殺、そして今回の任務。アレクト誘拐は、鎖国派からの依頼に違いない。

 ようやくイーディスの狙いが読めた。が、分かったところでどうにもならない。思いどおりになるのはしゃくだが、失敗すればティルザが死ぬ。今ここで命令にそむくわけにはいかなかった。

 いっそ、女王に助けを求めるのはどうだろう。父は女王の忠実なしもべであり、開国のために命を落とした。生半可な信頼関係ではなかったはずだ。その子どもたちが生きていると知れば、保護ほごしてくれる可能性はある。

 いや――アルメリアは浮かんだ考えを打ち消した。リスクが高すぎる。一般人が女王と面会するには幾十もの手続きを踏まねばならず、アレクト殿下に会う以上に至難のわざだ。それに、たとえ運よく会えたとしても、女王が言い分を信用してくれるとは限らない。アルメリアが女王と勝手に接触せっしょくしたことがイーディスに露見ろけんすれば、即座にティルザは殺されるだろう。そんな一か八かのけはできない。

 アルメリアが思案に暮れていると、

「ローランシアの秘宝」

「え?」

 ぎくりとし、アルメリアは一瞬いっしゅんの表情に戻っていた。

 モニカはあどけなく笑う。秘密の暗号を打ち明ける子どものように。

「開国を願う国民は、アストリッド大臣を敬意と理想を込めて呼んだのよ。ローランシアの秘宝――と」

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