Ⅰ 発端②
クローゼットにずらりと並んだ服は、どれも
見つめていると、昔のことを思い出して、ふと
首を振って気分を切り替え、アルメリアは部屋を出た。イーディスから
イーディスは自信があるのだ。いくらアルメリアを放置しても、一人きりで
――ティルザ……どこにいるの?
庭に下りたアルメリアは、そびえ立つ二つの塔を見つめて目を細めた。やはり屋敷の構造上、ティルザが
ティルザが何とかして居場所を知らせてくれないかと、わずかな望みをかけて見つめたが、塔からは何の合図もなかった。
「お嬢様、何かお探しですか?」
不意に背後から声をかけられ、アルメリアは飛び上がった。
感じのいい若者が近づいてきて、
「あなたは……」
「ここで下働きをしております、ネイトと申します」
作業着姿に手袋をはめている様子から、どうやらネイトは庭の手入れをしている最中らしい。
「こんな広いお庭を、一人で手入れしてるの?」
「いえ、とんでもない。僕以外にも庭師の方がいて、
「そう……」
アルメリアは辺りを見回した。草木はのびのびと、生命力に満ち
「あの男……いえ、イーディス様は、どんなお方なのかしら」
「
しみじみと実感のこもった言い方に、アルメリアは複雑な気分だった。
「僕とか、あとベオさんもですけど、ここで働いてる使用人って、ほとんどが小さい頃に親を
アルメリアは無意識のうちに
――同じだ……私たちと。
忘れることはできない。親を亡くし、家を
そこから救い上げてくれる手を、どれほど待ち望んだことだろう。
自分たちには、それが与えられることはついぞなかった。だが、ネイトやベオにはイーディスがいた。彼らにとってイーディスは命の恩人であり、親同然の存在なのだ。
だが、イーディスは商人だ。商売で
立ち
「あ、ちょっと待って」
アルメリアが
「何でしょうか?」
「あ、えっと」
まさか、ティルザはどこかと聞くわけにもいかない。なら、せめてイーディスの動向だけでも知りたい。
「イーディス様は今、お仕事中かしら」
ぎこちなく
「そうですね。今日は来客が数件と、それ以外は執務室にいらっしゃると思います」
「ありがとう」
アルメリアが微笑むと、ネイトは「ごゆっくり」と言って立ち去った。
園庭は
アルメリアは指を伸ばし、
わざと
さりげなく背後を確認しようとした
「え、え!?」
見ると、小さな子どもが頭をアルメリアの腰あたりに押しつけ、両手を回してしがみついていた。
「こら、リュート! やめなさい!」
後ろから母親らしき女性が走ってきて、子どもを引き離そうとした。が、子どもは
女性は困った顔で言った。
「ごめんなさい、この子ったら、あなたを見た途端、突然
「いえ……」
と応じつつ、アルメリアは女性と子どもを
「お姉ちゃん
ぱっと顔を上げると、子どもは目をきらめかせて言った。三歳か四歳ぐらいだろうか、
「僕、こんな綺麗な人、見たことないよ! お姫様みたいだ」
確かに綺麗なドレスを着ているが、自分はお姫様ではないし、いい匂いがするのは、薔薇の近くにいて匂いが移ったのだろう。そう言いたかったが、
アルメリアの
「ごめんなさい。うちの子が失礼なことを言って。私はサラ。この子は私の息子でリュートです。今日は、イーディス様にお話があって
約束もせずに来てしまったのだと、サラはばつの悪そうな顔で言った。
「あのね、僕ね! ここで働くんだ!」
リュートが元気よく言った。
「お姉ちゃんは誰? イーディス様のお嫁さん?」
とんでもない発言に、アルメリアは引っくり返りそうになった。子どもって恐ろしい。
違うと答える間もなく、リュートは
「ねえねえ、イーディス様に会わせてよ!」
ドレスの裾を引っ張られて、アルメリアはよろめいた。
「やめなさいって言ってるでしょう!」
サラが声を張り上げ、リュートをぐいと引き離した。リュートの目に、みるみるうちに涙が
アルメリアは
「あの、今日はどういったご用件で……?」
その場しのぎの問いかけだったが、サラは
「実は私、先月主人に先立たれまして」
アルメリアは息を
「まあ。それは……」
うまく言葉が続かない。
サラはまだ若く見えるし、リュートも小さい子どもだ。母一人子一人で、これからどうやって生きていくのだろう。
「
サラは
「厚かましいお願いですが、イーディス様にご相談に乗っていただけないかと思って、こちらまで出向いた
「どちらからいらしたのですか」
ガウシアです、とサラは答えた。首都アスケラから北へ五千メルほど離れた
アルメリアが
「こんにちは」
「イーディス様!」
イーディスの姿を見て、サラは
「まあまあ、そうかしこまらずに。どうぞお入りください」
イーディスは
「君はどうする?」
「僕はお姉ちゃんと遊んでる!」
リュートに指さされ、「えっ!?」とアルメリアは二度目の悲鳴を上げる。
イーディスはくっくっと
「
「リュート。お姉さんを困らせちゃ
サラはたしなめたが、イーディスは「いえいえ」と
「構いませんよ。な? シルヴィア」
もはや
二人が話し合っている間、アルメリアは庭でリュートと追いかけっこをしたり、応接間の横にある娯楽室でパズルをしたり、絵本を読んだりと、目まぐるしい時を過ごした。そうしている間は、目の前のことだけに集中しているせいか、緊張感や重圧が少しだけ軽くなる。
「ありがとうございました」
腕組みしたイーディスはにやにや笑いながら言った。
「よう。モテモテだったな、お嬢さん」
アルメリアは肩をすくめる。
「お
「いや、今日はましな方さ。ギルドの会合がないからな。この後は来客が一件と、
皮肉ったつもりがまともに返され、アルメリアはたじろいだ。
イーディスは二人が見えなくなった後も、その
「……サラさんのこと、どうするの?」
立ち入った質問だったが、意外にもイーディスは返答を
「住み込みで
「そう……」
アルメリアは
今日一日で分かったことだが、イーディスのもとにはひっきりなしに人が訪れ、経営や
ガリア商会はあくまでゴッドアイの
「で? お探しのものは見つかったのかな、お嬢さん」
腕組みしたイーディスがこちらを見下ろしてくる。その
どうせティルザを
「何もかもお見通しってわけね」
「探り回るのは自由だが、聞きたいことがあるなら
「聞いたら答えてくれるの?」
「それはお前の聞き方次第だな」
その瞳が朝より少しだけ
「あなた、
イーディスは黙ってアルメリアの目を見つめた。
「殺すためじゃなく、任務とやらに利用するために、五年も私たちを追ってたの?」
「言っとくが、お前らを追ってたのは俺たちだけじゃない。他の連中も
決然とした
「知ってのとおり、ガリア商会ってのはこの国
「どうして? お父様は国の発展のために尽くしていらしたはず。商業を
言いかけたアルメリアだったが、イーディスの表情に思わず口を
だが、イーディスはすぐにいつもの不敵な笑みを取り戻した。
「ま、あとは自分で考えな。お嬢さん」
その言い方と表情が父ジャスティスにそっくりで、アルメリアは息を呑んだ。自分の見たものが信じられず、
――こんな男、お父様とは似ても似つかないはず。
なのに、どうして話す声や仕草に、父の
――私の馬鹿……ただの
アルメリアはかぶりを振ると、
ふと甘い香りがして顔を上げると、イーディスが一輪の薔薇をアルメリアの髪に差している。
「よくお似合いですよ」
胸に手を当てて
「イーディス様に花を差していただけるなんて、光栄の
ははっ、とイーディスは笑い声を上げる。
「
「ねえ、あなた何者?」
どうせはぐらかすだろうと思いつつ、アルメリアは
イーディスは
「それはこっちの
「ほら、素直に聞いたところで答えないじゃない」
むくれたアルメリアの頭の上に手を置き、イーディスは優しく言った。
「……後で部屋に薔薇を届けさせよう。香り袋が作れるし、花弁を紅茶に入れて飲めば美容にもいい」
「
「薔薇はお気に
「いいえ、好きよ。どんな花も草木も」
アルメリアは髪に差した薔薇の柔らかい花弁を指でなぞる。
そして真っすぐに顔を上げ、イーディスに向き直って言った。
「だって、植物は
絶句するイーディスを置き去りに、アルメリアは歩き出す。
――そう、植物は嘘をつかない。
何も奪おうとせず、ただ生命力を与え、心と体を
――嘘をつき、心を汚すのは、いつだって人間だけ。
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