第三回 寺育ちの江流児 Basket in the River

※スタブです

長安では、江流という名前の少年が勉学に励んでいた。


俗人ながら、寺男として長安の洪福寺に住み、震旦一の智慧者と名高い烏巣禅師の直接指導の下、僧になるための修行に励んでいる。その傍らで、街の私塾に通い、官吏になるための、法律と算術の勉強もしている。まったく忙しい毎日である。しかし、早熟で利発なその少年は、特に問題もなく、日々の課題をこなしていた。


この江流は、"孤児"である。


彼の両親が誰なのかはおろか、どこの街、どこの村で生まれたのか、それさえもわからない。


すべてのはじまりは8年前、つまり江流が生まれてまもない頃にさかのぼる。


8年前のある日。

惑星震旦、揚子江下流域沿岸都市・鎮江。

鎮江の寺、金山寺。どこにでもあるような、普通の寺だ。

有名な僧侶がいるわけでもなく、特に珍しい仏像があるわけでもない。

街の住民の支持を背景に成り立つ、どこにでもあるような普通の寺だ。


法明和尚は、金山寺の住職である。当時の年齢は44歳。

これといって特技はないが、まじめで人のよい"お坊さん"だ。

街の人々の評判もそれなりに良い。まあ、良い人の部類に入るといってよいだろう。


その日、法明は街での用事を終えて、寺へ帰る途中だった。

時は夕暮れ。あかね色に染まった空が美しかった。


法明が道を歩いていると、女の人に話しかけられた。

街の住民だ。小麦を臼で挽いて小麦粉にする、粉屋の大店の、女主人だ。

金山寺の檀家総代でもある。街の人間で彼女のことを知らない者はいない。

「あら和尚様、こんばんは。今お帰りですか。」

「これは、粉屋のおかみさん。どうも、こんばんは。

いやなに、今日はいろいろ雑用がありましてね。」

「それはそれはお疲れ様です。」

たわいのない世間話がつづく。

「それではお気をつけて。」

「ありがとうございます。おかみさんもお気をつけて。」

何気ない会話、何気ない別れの挨拶。かわりばえのない日々。

その日もまた、和尚の一日は何事もないまま終わろうとしていた。


・・・そう、次の瞬間までは。


「あ、おかみさん。ちょっとまって下さい。」

「はい、なんですか和尚様。」

「どこかで、赤ん坊の泣く声が聞こえませんか?」

「え?赤ん坊?泣き声?」

「そう。どこかで赤ん坊が泣いてるのが聞こえるんですよ。」

「はあ。すみませんが、私には聞こえないですね。」

「あれえ、おかしいなあ。」

「和尚様。自慢じゃありませんけど、私、"耳"は良い方なんですよ。」

「いや、失礼しました。たいした話じゃありませんので。どうぞ忘れて下さい。」

「ふふふ。きっと、どこかの家で赤ちゃんが、お母さんにお乳かおしめの催促をしてるんですよ。よくあることです。」

「ハハハ、まあそんなところでしょう。」

「それでは、こんどこそさようなら和尚様。」

「さようならおかみさん。お引きとめしてすみませんでした。」


しかし、粉屋のおかみと別れてからも、法明の耳に聞こえる"泣き声"は泣きやまなかった。


法明は気になって、ほかの住民にも聞いて回ったが、「聞こえる」と答えた人間はいなかった。赤ん坊がいるらしい家も見つからなかった。


他人に聞こえない泣き声が、自分にだけ聞こえる。


「まだ44歳だというのに、いよいよ私の耳も頭もおかしくなってしまったのか??」


法明の顔をイヤな汗が流れる。


「ボケ坊主の法明と呼ばれるなんて、私はゴメンだぞ。」


法明は泣き声が気になりすぎて、まっすぐ寺に帰る気になれなかった。


泣き声の主を探さなければ、今日の日は終われない。と、法明は感じてしまった。

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