18話
タクシーから降りた徳栄と緋登美は、永和重工本社ビルを見上げた。
「社長、いくらなんでも、アポなしでは……というか、なにをなさるおつもりですか?」
「問題ない。今日は定例会議があるからな。必ずここにいるし、俺にだけはかならず会ってくれるだろう。柳川緋登美はただついてくればいいのだ」
自信満々を装い、笑いそうになる膝を自ら鼓舞する。受付に名を告げ面会を求める。ほどなくして上がってくるように言われたふたりは、エレベーターに乗り込んだ。
そして、徳栄と緋登美は、永和グループ総帥・永見川成徳の前に立った。
成徳は間に紫檀の机を挟んで、徳栄に鋭い眼光を浴びせる。
「訪ねて来るときは時間を選ばんか。じきに会議がある。五分ほどしかやれんぞ?」
「いや。話はすぐに終わる」
「……ほんの二、三日の間に、少しやつれたか?」
「そう見えるか? お前がいうなら、そうなのだろうな、成徳!」
徳栄はいきなり吠えかけた。
しかし成徳は気にする素振りも見せずに、手元の書類に視線を落とす。
「無駄吠えするなと言っただろう。いよいよ飢えてきて我慢ならなくなったか? 虚勢を張らずに、さっさと要件を言え。時間は残り少ないぞ?」
「……なんとでも言うがいい。今日は、永見川成徳に頼みがあってきた!」
その言葉を聞いた瞬間、緋登美が本気かとばかりに目を見開いた。
背後で扉が叩かれる音がし「総帥、お時間です」と初老の男が入ってきた。男は徳栄たちと成徳の間で視線を彷徨わせる。
成徳は僅かに身を乗り出して机に頬杖をついた。男には目も向けずに言う。
「わかった。――だが、いま面白そうな話を聞いたところでな。少し待つように言ってくれるか? そう長くはかからん」
「はい。わかりました。失礼します」
そう言って、男は退室した。扉が閉まるのを待って、徳栄は口を開く。
「よく躾けられているではないか」
「お前と違って、か?」成徳が片頬を吊った。「手短に言え。なにを私に頼むつもりだ?」
「……永和重工で開発中の、大型車両用全球ホイールを借りたい」
全球型ホイール――その名の通り、従来の円形タイヤに代えて球形のタイヤを使用する構想である。球形であるためタイヤを回転させるシャフト類を排して電磁気により車体を浮上、結果として全方向への移動を可能にしようというアイデアだ。
永和重工は同製品を採用した車両を開発中で、徳栄はそれを貸せと言っているのである。
「製品化を待って、買ったらどうだ」成徳は小さく鼻を鳴らす。
「と、冗談で返してもいいのだがな。あいにくと時間がない。貸せ、という意味を聞こう」
「もちろん、俺のビッグマネーの足回りに使いたい。ただでは言わん。取れたデータは全て渡そう。ビッグマネーの総重量は約三十トンある。それに使い方も普通の車両とはまるで違う。有益なデータになりうる。必要な費用は俺持ちだ。どうだ?」
良い案だろう、とばかりに徳栄は顎をしゃくった。
成徳は憐れむような目を徳栄に向けて冷笑する。
「この私がなんでも言うことを聞くと思ったら大間違いだ。それでは足らんな」
「では、他に何が欲しい? いま、俺は気分がいい。条件次第では飲もうではないか」
「お前の立場が欲しい、と言ったらどうする?」
成徳の顔が険しさを増す。鋼をも穿つような鋭い眼光を徳栄に投げ、机の端に置いてあった報告書の一部を取った。タイトルには『永和ロボティクスの管理状況』とある。
「取峰の近くから話を聞いている。とうとうあいつも堪忍袋の緒が切れたとみえる」
「……何が言いたい?」
「言葉通りの意味だ、徳栄。取峰浩二の企業代表としての能力は、お前なんぞと比べるまでもなく高い。永和ロボティクスは永和重工のグループ企業だ。後は言わんでも分かるな?」
「……俺に、社長の座を降りろと、そういうことか?」
徳栄がそう答えると、背後で控えていた緋登美がはっと顔を上げた。口を開きかけるも、その反応を予期していたかのように、成徳が小さく手を上げ制した。
気づいた徳栄は肩越しに緋登美に目をやり、顎を上下する。
「いよいよ、そのときが来た、ということか?」
「悩ましい話だが、転機が訪れたのでな」
「転機、だと?」
「そうだ。転機だ。エキスポで気付かされた。時代は変転した。永和ロボティクスは、いずれ永和グループの基幹にも成りうる。そのとき邪魔になりそうなのは誰か、真剣に考えざるを得なくなった」
徳栄の顔が歪む。邪魔。幼い頃からずっと肌で感じてきてはいた。しかし、直接、成徳の口から聞かされるのは初めてだった。
背後で緋登美が動くのを感じた徳栄は、左手を伸ばして止めた。いや、止めようとした。
緋登美はぐいと前に進み出て、静かに言った。
「お言葉ですが、総帥。邪魔、とは? それではなぜ、私を徳栄社長につけてのですか?」
「うん。もっともな質問だな」
成徳は緋登美の目を真っ直ぐ見つめ返し、背もたれに躰を預けた。視線を横に滑らし、徳栄の顔をまじまじと見つめる。やがて、低い声で言った。
「徳栄、お前は、俺の子ではない」
そう言って、成徳は目を伏せた。緋登美が目を見開き、徳栄の顔を見る。
そのとき、徳栄は自分が何を言われたのか、よく分からなかった。俺の子、つまり成徳の子ではないという意味だ。では、誰の?
タチの悪い冗談にしか思えない。
だが、じっと目を伏せる成徳の姿は冗談を口にしているような気配ではない。むしろ、断罪を下す直前の、執行人のようでもあった。
「徳栄。お前はな、私ではなく、私の父、永見川徳治の息子だ。私の、元・妻との間のな」
「なっ」「それって……っ」
徳栄と緋登美はそれ以上の言葉を続けられなかった。
それが本当なら、徳栄と、父と思っていた成徳は、種違いの兄弟ということになる。にわかには理解しがたい話だが、それが真実なら氷解する疑問も多い。
永見川徳治は、なぜ孫の徳栄について荒唐無稽ともいえる遺言を残したのか。
徳栄は孫ではなく、年老いてからできた息子だからだ。
それも息子の妻を寝取っての不義の子だ。『徳栄を自由にさせる限りにおいては』という文句は、溺愛か、はたまた罪悪感によるものだろう。
なぜ父のはずの成徳は徳栄をずっと遠ざけてきたのか。
憎んできたからだ。
自身の妻との間に子を儲けた父、徳治と、不義の子である徳栄を。
なぜ母は、ある日、突然、姿を消したのか。
すべてが成徳に露見したからに違いない。
そして、これまで自由にさせてきた徳栄を、いま社長の座から降ろそうとするのは――、
「俺の申し出を受け入れたという形が欲しいからか」
徳栄は呆然と呟いた。
永見川徳治の残した遺言には、『徳栄の自由にさせる限りにおいて、成徳に家督を譲る』とある。もし、別に後見人がいるのなら、徳栄を成徳の意志で引きずり降ろすことはできない。
だが自ら降りると宣言したのなら、徳栄自身の意志を尊重した形を取れるのだ。
気づいた途端、足元が揺らいだ気がした。
息を吸うのも吐くのも難しくなった気がした。
けれど、徳栄を絞り出すようにして訊ねた。
「もっと早く言ってくれれば、良かったのに……」
躰の内側で、何かが、音を立てて罅入っていく。
「言ってくれれば、俺は……」
どうした?
きっと受け止められなかっただろう。
成徳はなおも淡々と続けた。
「機会がなかった。私も人ということだ。この歳になってみるまで、どうするべきか分からないでいた。だが、事情が変わってな。私には、私の血を引く娘がいることが分かった」
瞬間、緋登美が顔を上げた。
「ヴェルテュ・ルロワ……?」
そのポツポツと途切れるような問いかけに、成徳は重々しく頷いた。
徳栄の内側で、またひとつ、何かが罅入った。
なぜいなくなったはずの母がエキスポの会場にいたのか。
ある日、突然に現れたヴェルテュ・ルロワが、なぜ成徳を会場に呼んだのか。
徳栄は両膝を床に落とした。傾いでいく躰を、緋登美が慌てて支える。
成徳は、執行人は、終りの始まりを告げた。
「アレはお前を欲しがっていてな。逆に、というべきか、ヴェルテュ・ルロワは私を求めているのだ。ただ、残念ながら、アレのせいで少々歪んでしまっている。引き取って、私の子として育てたいと申し出た」
席を立った成徳は机を回り込むと、両手を腰の後ろに回し徳栄と緋登美を見下ろした。
「アレはなんと言ったと思う? 徳栄、お前がヴェルテュに勝ったのなら、くれてやると言ったよ。弱い方はいらん、ということなのかもしれんな。あるいは、欲しかったのはお前に流れている徳治の血だけなのか……私としてはどちらでも構わんが、私の血を引く人間がああも歪められてしまうのは忍びない。だから、私の条件を飲むのなら力を貸してやらんこともない。私のためにもなる。グループのためにもなる。そして、グループで働いているすべての人々のためにもなる。どうだ? 一回くらい、私のために役に立ってみないか、徳栄」
あまりにも残酷な提案だった。徳栄は口を開こうとするも、何を言えばいいのか、皆目見当もつかなかった。ただ力なく頭を垂れ、告げられた真実を飲み込むこすら難しい。だというのに今すぐにでも決断しなければならない。
勝つためには全てを捨てろという。求めるのすら辞めろという。いつか、追い落とせば振り向いてくれると思っていた人が、振り向くことはないと制限したようなものだ。
もう、何を選べばいいのか分からなかった。
そんな徳栄の心中を察したか、
「総帥! いくらなんでもそんな、酷すぎます!」
先に吠えかかったのは、自分の妻であり徳栄の母でもある女をアレと呼ぶ男に牙を立てようとしたのは、緋登美だった。
「社長はあなたのために――!」
成徳との間に割入り、盾となる。ただの頼まれ仕事のはずなのに、これまで昔話のひとつもしてこなかったのに、代わりに戦おうとしてくれている。
その小さな背中を目にして、徳栄の内側にある罅だらけの何かが、砕けて散った。
もはや群れの長としての威厳などない。いや、最初から存在しなかった。みなが恐れ慄いていたのは徳栄の中に流れる血。それも成徳の血と勘違いしてのこと。虚構でしかない。
守るべきものなどない。最初からなかったのだ。
徳栄の牙は、折れて砕けた――が、しかし。
たとえば黒曜石がそうであるように、
ときとして、研ぎ澄ましたそれよりも、折れ砕けたそれはより鋭利な牙となる。
徳栄は自分を守ろうとする緋登美の背に手をかけた。
「――!? 社長!?」
驚き振り向く緋登美の肩を掴んで、徳栄は成徳の前に立つ。睨み、牙を剥き出し、笑んだ。
「お前の提案を受けよう。永見川成徳」
徳栄の言葉に、成徳の瞳が一瞬揺らいだ。一方、緋登美は愕然として口を噤む。そうなるのも仕方のないことだろう。彼女の知る永見川徳栄という青年は、父を、家族というものを憎みながらも、ずっと渇望していたのだから。
しかし、ひとつだけ大きく変わったことがある。
永見川徳栄は、すでにこれが最後と決めているのだ。
たとえ膝を折ろうとも、折られたままでは終わらない。
たとえ牙が折れようとも、折れた牙で噛みつき、食い破る。
死ぬのは、それからでも遅くはない。
「交渉成立だ、永見川成徳。この俺が、ヴェルテュ・ルロワを完膚なきまでに叩き潰して、つきだしてやろう」
応じる成徳は殊更に胸を張った。
「そうか。ならば、力を貸してやろう」
どちらともなく手を差し出し、握手を交わす。瞬間、
ギシリ
と、成徳の顔貌が歪んだ。双方の手が離れたとき、成徳の手には、くっきりと徳栄の手形がついていた。
徳栄は凶暴な笑顔を成徳に叩きつけ、踵を返す。
「いくぞ柳川緋登美! 準備にかかる!」
「えっ? あの、社長!?」
歩き出す徳栄の背と、立ち尽くす成徳の間で、緋登美が視線を往復させる。
と、成徳が鼻を鳴らした。すぐに緋登美に向き直り、小さく会釈した。
「引き続き、徳栄をよろしく頼みます。今回の件は、どうぞご内密にお願いします」
「そ、それは、分かっています……けど……」
言い淀む緋登美の背に、徳栄の怒号にも似た咆哮が飛んだ。
「何をしている柳川緋登美! さっさと来んか!」
扉の前で叫ぶその声を聞いて、緋登美は何かを察したように一度強く瞑目した。次には眼鏡を押し上げ成徳に一礼、徳栄に続いて部屋を出た。
踵を打ち鳴らして廊下を進む徳栄は、小走りで追いかけてきた緋登美に片笑みを見せた。
「感謝してやろう、柳川緋登美。柳川緋登美のおかげで、奴に頼むと言わせられたぞ」
「社長……しかし」
「余計なことは言わんでいい。感謝している。それ以上は、心配してくれるな」
「……分かりました」
そういえばこういう人だった、とでも言うかのように、緋登美は小さくため息をついた。
徳栄は前へ前へと突き進む。進まなければならない。そう、信じていた。
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