14話

 すべての作業が終わった頃には、空が青白んでいた。

 徳栄はとうの昔に緩めきったネクタイの輪から気だるげに首を抜き、窓から差し込んでくる光明を全身に浴びていた。


 ソファーで作業していた緋登美がメガネを外し、色濃いくまのついた目を擦る。両腕を突き上げ、大きく伸び上がる。次いで、あくびをひとつ。ほっと息をつき、PCのキーボードを叩いた。プリンターが唸り、つい先程完成した資料の印刷を開始する。

 あとは、印刷が終わるのを待つばかりである。


「……上手くいくといいですね、社長」

「……そう願う」


 弾かれたように顔を向けた緋登美に、徳栄はとっさに言葉を繋げた。


「――と、言っておく」


 緋登美は微苦笑を浮かべてうつむき、腕時計に目を落とす。

 と、クルルル、と空腹を訴える可愛らしい音が聞こえ、徳栄は目を瞬かせる。見れば、緋登美が仏頂面を赤くして、腹を抱えていた。


「……そういえば、昨日の昼からなにも食べてなかったな」

「腹が減ってはなんとやら、ですね。早すぎるくらいですが、どこかに食べに行きましょう。どのみち会議を開こうにも、まだ誰も来ていませんし」

「うむ。では車を呼んで――」

「いえ、食べたら少し寝たいので、社の近くにしましょう。この時間でもやっているお店となると、そうそうありませんし」

「わかった。任せる」


 徳栄は凝り固まった首を回した。ボキボキと骨が鳴った。外していた時計に腕を通して席を立つ。自分ではめったに開かない財布を手に取り、緋登美に渡そうと首を振る。

 そこで、ようやく気づいた。

 緋登美が不思議そうな顔をしていた。


「どうした?」

「いえ、その、やけに素直ですね、今日は」

「――ッ!」徳栄はとっさに口角を吊った。「勝利を確信しているからだ柳川緋登美!」

「そうですか」緋登美は失笑するかのように鼻を鳴らした。「顔、赤くなってますよ」

 

 徳栄は反論しなかった。口を開けば、ボロが出そうな気がした。

 そして。


「……どこで食べるのかと思いきや……牛丼屋、とはな……」

「午前五時から営業してるお店なんて、私は他に知りませんからね」

「それはわからんでもないが……この俺が……」

「もう頼んじゃったんですから、諦めてください」


 サラリと言って出された丼を受取り、緋登美が割り箸を割った。

 徳栄も見よう見まねで箸を割り、落ち着きなく店内を見渡す。ガラガラだ。テーブル席も空いているのだから、わざわざカウンター席でなくてもよかったのではと思う。

 緋登美は指を伸ばして、徳栄の前に出した。


「……なんだ?」

「七味、取ってください」

「む、うむ……」


 七味を手渡した徳栄は、バサバサと無遠慮に振りかけ丼を赤くしていく緋登美の姿に、眉をしかめた。


「いつもこんなところで食べているのか? 柳川緋登美」

「なにをおっしゃっているんですか? 昔はよく使いましたけど、いまは昼と夜はたいていご一緒させていただいているじゃないですか」

「……そうだな。うん。そうだ」


 徳栄は口の端をヒクつかせて、箸をつける前から真っ赤に染まっていく緋登美の牛丼を見つめた。そうやって食べる代物なのかと思いつつ、ふと気付く。

 もう長い時間を共に過ごしていながら、緋登美の好物すら知らない。それどころか、普段はどのような生活をしているのかも、家族の話すら聞いたことがない。


 思い返せば、取峰たちも家族と過ごす時間の話をしていた。それに昨日、聞かずに済ませてしまった話もある。

 聞くべきだろうか、と迷いながら徳栄は牛丼に箸をつけた。初めて味わう独特な甘みに顔をしかめ、緋登美の真似をして七味をぶっかける。


「ときに柳川緋登美。弟やらは元気なのか」


 訊ねた瞬間、ぶごっ、と驚くほど豚の鳴き声に似た音を立てて緋登美がむせた。変なところに七味が入ってしまったらしく涙も滲ませている。


「……なんですか? 突然」

「いや、昨日は聞かなかったからな」


 徳栄は水差しを手に取り、差し出した。


「そもそも、なぜそうまでして俺に付き合うのだ?」

「いまさらですね」緋登美はコップに注がれた水を飲み干した。「……実は、弟が好きだったんですよ。I&S」

「ほう!?」


 徳栄は即座に食いついた。


「トシは!? どのゴーレムが好きだったのだ!? 俺は――」

「ちょ、ちょっと落ち着いてください! 私は詳しくないって言いましたよね?」

「だが弟が好きで、その縁で俺の……なに? おかしいではないか。俺は秘書を募集したことはないし、柳川緋登美は成徳に言われて俺に付いているのではないのか?」

「ですから、その話をしてるんです。お訊ねになるなら、ちゃんと聞いてください」

「ふむ。よかろう。話せ」


 言って徳栄は一味的な意味で赤々とした牛丼に口をつけ、むせた。想像以上に辛かった。

 緋登美は苦笑しながら、コップを差し出す。


「私は永和重工の事務の一人だったんです。ただ、なんというか、私も含めてですけど、みんなやる気がないというか。ものすごく忙しいのに、みんな淡々と仕事してるって感じで……」

「そこからどう俺の秘書に繋がるのだ?」

「いずれは、と思っていたんです。そんな甘いものじゃないのは分かっていましたけど。でも、ある日突然、総帥からお声がけいただききまして。最初はただただ恐れ多いというか、なんで呼ばれたのか、と。話を聞いていたら、社長の秘書についてもらえないかと言われて……」


 緋登美は昔を懐かしむように目を細め、口元を綻ばせた。


「なんで私なのかと教えていただいたとき、笑いそうになりましたよ」

「なんだと言われたのだ?」

「私、入社時の面接で、弟がI&Sが好きだったって話をしたらしいんですよね」


 徳栄は思わず吹き出した。


「永和重工から技術提供してできたのがI&Sだが……当時は、ほとんど無関係の玩具メーカーから出ていたな。もちろん、永和ロボティクスが商標を受け継いでいるが」

「ええ。多分、緊張して忘れてたんだと思います。ただ……」

「ただ?」

「失礼を承知で言いますと、社長、ウチの弟と同い年なんですよ」

「ほう?」


 一足先に食べ終えた徳栄は、熱い茶を店員に頼んだ。

 緋登美はそれを横目に見つつ、再び箸を取った。


「弟はずいぶん長くアレで遊んでまして、友達と対戦しなくなっても、ずっとゴーレムが机に飾ってあったんです。もし弟があのまま大きくなっていたら、なんて思うんですよね」

「……そうか。悪いことを聞いたな……」

「…………はい?」

「ん? いや、すべてが終わったら柳川緋登美の弟に線香のひとつくらい」

「なっ! なに言ってるんですか!? 勝手にウチの弟を殺さないでくださいよ!!」

「なにぃっ!? それでは先の話はなんだというのだ!?」

「だから、もう弟はゴーレムに興味なくしたみたいだけどって話で!」


 そこまで口にしておいて、緋登美はハッと真顔になった。

 徳栄がわなわなと握り拳を震わせていた。


「……時間と俺の傷心を返せ柳川緋登美ぃ!」


 非難めいた叫びを聞きつけた店員が事情を知らずにすっ飛んできたとき、徳栄は怒りに任せて甘辛と言うにはいささか辛くなりすぎた牛丼にがっついていた。

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