第16話 傷跡(後編)
それからしばらくの間、記憶が判然としない。様々なイメージがドロドロとこね合わされた、脈絡のない夢を見ていたように思う。「──違う、そうじゃない。そんなつもりじゃなかった。僕がハンナを傷つけたりするものか──」そんなエドワードの声を聞いたような気もする。気がつくと、点滴を打たれながら病院のベッドの上だった。首を回して横を見れば、パイプ椅子からずり落ちそうな格好で眠っているダニエルの姿があった。……ノブヤは自分の状況を顧みて、こんな睡眠不足の身でよく事故を起こさなかったものだという奇妙な感慨を持った。周りにある全てが作り物のように思え、無感動の状態がしばらく続いた。
事件のその後も、ある意味「夢の中」のようだった。同じラボの仲間ではあるが近親者ではないという理由で、市警は事件の詳細をノブヤたちに明かそうとしなかった。地元マスコミも、なぜかこの件に関しては一切報道しようとしない。ハンナのプライバシー保護からは望ましい結果と言えたが、「ペンタAI」などという学生フェスティバルの出し物さえも食いついてきたというのに、豹変と言っていい。エドワードに放校処分を下すと、古風な文書掲示を掲げたステファナ大学教授会も、急に最初の声明を取り消して、それ以降沈黙したままだった。
……ハンナたちの実家、レノックス家が〝名家〟の影響力を行使したと知るのはしばらく経ってからだった。エドワードの起訴は取り下げられ、自ら大学とその所属国を出る〝自主退去〟だけで処分は済まされる事になった。レノックス家当主アルフレッドは、事件の被害者は実の娘だというのに自家の面体を保つ方を選んだのである。
ハンナはかつて自分の父親を「世間体を取りつくろうしか眼中にない人」と酷評していたが、反抗期の子供の偏見というより正確無比な評言だったらしい。
憤懣やるかたないノブヤたちだったが、この不正を暴こうと行動すれば、ハンナにとっていわゆる「セカンドレイプ」になりかねない。彼女と連絡が取れず、その意志を確かめる術もない状態では、できる事は何もなかった。
そしてさらにノブヤとダニエルにとって衝撃的な事が起こった。アーシャ・クマール・ジェインが、大学を去ってエドワードに着いていくと言い出したのだ。
「アーシャ、冷静に考えてみてくれよ! 君がエドワードに未練があるってのは仕方ないとしても、ヤツを『そばで支える』ってのは、やった事を不問にする、いや、加担するようなもんだと思わないか? ハンナを、あんなやり方で傷つけた、その行いをだぜ!」
「……アーシャ、君に非難がましいことを言う資格は、俺にはないと思う。しかし、エドワードは君を殴り捨ててハンナを連れ去った。言いたくないが、ヤツは君を捨てるという選択をしたんだ。それでも……ついて行くと言うのか?」
ダニエルは熱っぽく、ノブヤは淡々とアーシャを説得しようと試みたが、彼女の決心は変わらなかった。黒い瞳を伏せ、痛みに満ちた声だったが、彼女の言葉には一途な決意がこもっていた。
「……一度彼から聞いた事があるわ。彼は、レノックス家に当主の後妻の連れ子として入ることになったわけだけど、義理の父親は冷淡で、実の母親も夫に媚びを売るのに忙しく、ほとんど無視されていたそうよ。そんな中で……ハンナだけは彼を身内として受け入れてくれた……。彼がハンナにあんな執着を見せるようになったのは、理由のないことじゃないの」
「それがハンナを傷つける理由になるかよ! アーシャ、考え直してくれって。アイツについて行ったら、絶対に幸せなんかになれない。もし君に想いを向けるようになったとしても、むしろ悲劇になりかねない。大事な相手を傷つけずにはいられない、そういう人間だって事じゃないか! なあ!」
懇願するかのようなダニエルに、アーシャは悲しい笑みを向け
「ええ……わかっていました。最初に会った時から、彼が傷つき、歪んでしまった人間だって。こんなことを言うのは強がりに聞こえるかしらね。でも……私はそういう彼を愛すると決めました。だから、どんなに自分が傷つくことになっても、私は彼を愛し続けます。それが……」
──私の愛し方だから──そう言いのこして、彼女は二人の前から去っていった。
そしてその年の八月末、ノブヤとダニエルはステファナ総合大学AI研究科を卒業した。空っぽになった第三ラボを、二人で見つめる。
「……こんな風に、ここを出ていくなんてな」
「……ああ……」
何もかもが変わってしまった。一時の栄光と、大切な人々の喪失。現実の理不尽さを見せつけられながら、何もできない無力感。ほんの数ヶ月で、自分自身が以前とは別の人間になってしまった。そう感じる。ノブヤと程度の違いはあれ、ダニエルもまた同じ思いだった。
『人口世界の中の人工知能』もまた、栄光に包まれたままではいられなかった。国連人権委員会から懸念表明の横やりが入り、協議終了まで付属プログラムを含めて凍結される事になった。人権委は『人口世界~』論文を目にしてはじめて、人間が人間に近しい、あるいは等しい自我を作り出せる時代にさしかかったことに気がついた。その事態にどのように対応すべきか国際的な合意形成がなされていなかった事に愕然とし、狼狽しながら過剰反応とも思える措置を先走らせた。そしてそれは、自律人工知能による集団シミュレーション『ペンタAI』にまで及んだ。ノブヤとダニエルは、ラボに残ったプログラムをバックアップまで含めて人権委に提出し、継続研究の中止を宣誓させられたのである。フェスティバルの出し物に何を大げさなと二人は思ったが、「ビッグファイブ」の手による自律人工知能は、第三者の目には底知れない脅威に見えたのだった。
そしてノブヤとダニエルはそれぞれの故国に帰り、別々の人生を歩みはじめる。ノブヤは学期途中で内定していた政府関連の研究機関に迎えられた。
一年ほど経ち、かつてのAI研究科の指導教官から便りが届いた。彼はエドワード事件への教授会の対応に幻滅し、ステファナ大から去ったという。「君に知らせたものか、迷ったが……」という前置きに続き、彼が知り得たというハンナの近況が記されていた。
彼女は事件後、緊急避妊に失敗し妊娠してしまった。そして、あろう事か「産まれてくる命に罪はない」と、堕胎を拒否したという。自家の醜聞を極度に嫌う実家からは、ほとんど恫喝に近い反対があったが、それを押し切って出産した。現在は母方の姓を名のり実家とは断絶状態だ、と……
思わず吐息をつくノブヤ。そうもあろう、神の存在を信じると公言していた彼女ならば、その道を選ぶだろうか……。ふと彼女が語った言葉が脳裏によみがえる。
『何の確証もないけど、私はほとんどの人間がハッピーエンドを迎えられるように、神さまがお膳立てしててると思ってる。世界の幸福と不幸の天秤は、真ん中で釣り合うのでも不幸に傾くのでもなく、必ず幸福側に傾くって、そう信じてるわ』
あれは冬の廊下で、研究棟の窓から見える街の夜景を見ながら彼女がつぶやいた言葉。研究資料を抱えながら、二人きりだった。ここから見える街明かり一つひとつの元に人間がいる。そんな思いが湧いたのだろうと、言葉に出さないまま胸に収まった。その思いはノブヤもまた同じだったから。
(……ハンナ、今でもそう信じているのかい……?)
心の中で問うノブヤ。自分がひどくちっぽけな人間に思えてならなかった。
─────◇
社員食堂に昼食を取りに来たノブヤは、別なグループでやって来ていたアイラと顔を合わせた。
「あれ? ノブ、今日は休みじゃなかったっけ?」
「ああ、予定ではそうだったんだが……部屋にいても落ち着かなくてね」
「休むのも仕事のうちよ? 最近のノブはオーバーワークぎみに見えるんだけど」
「……ムチャはしないさ……」
言いつつ席に着いたノブヤの耳に、聞き慣れた声が入ってきた。
『……ようこそ科学の館へ。ご案内役を務めますのは私、ダニエル・ノートン。今宵も皆さんを最前線科学の世界にご案内いたします。今回のテーマは人類に残された最後の難病と言われるエルクマン腫瘍体……』
食堂のテレビに映り、堂に入った解説者ぶりを披露しているダニエル。よく知られている科学番組だった。思わず眉をひそめるノブヤ。
「……見ているのかい?」
つい声に出してしまう。画面に顔を向けていたアイラのグループ数人が、ノブヤの方に困惑ぎみの顔を向けた。
「結構好きな番組なんですが……」
「あたしもちょっと興味があるね。エルクマン腫って、今じゃ残り少ない国際難病だし。何? ノートン氏とケンカでもしたの?」
アイラを始めその場にいる全員が、ダニエルとノブヤがビッグファイブと呼ばれた友人同士だと知っている。
「別にそんな事はないけど……」
硬い表情で返したノブヤの言葉を、その場の誰も信じなかった。カトー博士はギャンブラー向きじゃないな。そんな声が聞こえそうな視線が集まる。
『……これがチュエン博士のチームの仮説です。しかしこの説では、エルクマン腫瘍体についてよく知られた性質の一つが説明できません。即ち、増殖速度が重力に影響されるという点が。そう、なぜかエルクマン腫瘍体は低重力化で明らかに増殖速度が鈍るのです……』
昼食のプレートを持って立ち上がり、ノブヤは離れた場所に席を移した。顔を見合わせて肩をすくめるアイラたち。しかしあえて詮索しようとする者はいなかった。男同士の旧友の仲違いなど、他人が気にする事じゃない。そもそも心配するほど深刻な事態にはならないものだ。一時間後にはそんな事があったのを、ほとんどの職員が忘れていた。
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