第15話 傷跡(中編)

 不安と期待に彩られていたハンナの表情が、見るみる悲しみに染まっていく。


『……ごめんなさい……わたし……勝手に、勘違い、してたみたい。はは……馬鹿ね……』


 抑えようもなく涙があふれ、必死に口元だけで笑おうとする表情は、頼りなく幼くさえ見えた。向かいあって立つノブヤ・カトーの心は、二つに引き裂かれていた。年若い学生時代の彼と、それを背後から見守る現在の彼と。

 違う、違うんだハンナ、勘違いなんかじゃない。俺は本当に君に惹かれていた。馬鹿野郎、今すぐ拒絶の言葉を取り消して許しを請うんだ。引け目なんて感情は自尊心の裏返しにすぎない。そんなくだらないプライドで、お前は残りの一生を後悔し続けるんだぞ。今、手を差し伸べさえすれば……


『もし……よかったら……今までどおり、友だちで、いてくれたら……』


 皆まで言えず、ハンナは顔を覆って踵を返し、走り去った。追いかけろ。追いかけるんだ。ハンナ、そっちに行っちゃいけない。……ああ、ハンナの背が遠くなる。もう……届かない……。馬鹿野郎、俺の大馬鹿野郎……


「!!」


 声にならない叫びをあげながら、ノブヤは跳ね起きた。闇の中、大きすぎるベッドに独り。変えようのない現実の今──パンフィリア社の社員宿舎だった。

 震える吐息をつきながら両手で顔を覆う。この夢を何度見ただろう……


 ◇─────


 それは「ビッグファイブ」たちの、ステファナ大学最後のスプリング・フェスティバルになるはずだった。既に全員が卒業単位を満たし、『人口世界の中の人工知能』は、共同研究の形だったが卒業論文として申し分なく教授会に認められていた。論文発表後のセンセーショナルなマスコミの取りあげ方も一段落つき、彼らは久しぶりに訪れた安息の日々を年齢相応の若者らしく過ごしていた。

 アーシャがエドワードに告白し、二人はつき合うことになった。ノブヤとダニエルのからかい混じりの祝福に、二人とも屈託のない笑顔で応じた。エドワードは日頃、ハンナに対してシスコン呼ばわりされるほどの執着ぶりを見せていたから、そんな結果に落ち着くのは意外な思いもしたのだが。

 エドワードも変わったのだ、出会った頃よりずっと丸くなったし。そんな言葉で胸中の「意外な思い」を打ち消したノブヤとダニエルだった。そしてハンナもまた、兄が自分への過剰とも言える保護欲を卒業し、普通の恋愛対象を見つけてくれた事に安堵し祝福した。おまけに相手は文句の付けようのない、自分にとっても親友である。これが嬉しくないわけがない。


 スプリング・バケーションに入る半月ほど前、エドワードが休み明けに行われる大学のフェスティバルへの提案をしてきた。第三ラボの出し物として、バーチャル世界内でAIによる戦略シミュレーションをやろうという。


「戦略シミュレーションというと、どういう形で?」

「僕たちが各自一つの『部族長』AIキャラクターを作成する。そしてそれが自分の『部族』を率いて互いにその世界内の覇権を争う、というスタイルでどうだろう」

「へえ、面白そうだな」


 シミュレーション・ゲームと来ると「勝負」と続くのに抵抗ない男たちと違って、女性陣二人は気乗りしない表情を見せた。


「……白黒決着を付けるという形でしか見せられないものかしら? 何となく、剣闘士を戦わせて見物する古代の貴族みたい」

「兄さん、そのシミュレーションは勝ち負けでしか決着がつかないようにするの? AIにできる限りの自由度を与えてシミュレートしてみるなら、協調して生き残るという戦略も使えるようにすべきだと思うけど」

「無論、どういう戦略を採るかは作成する各自が決める事さ。その中に協調路線があって何の問題もない。……しかしハンナ、人類の歴史を振り返る限りでは、僕は悲観的にならざるを得ないけどね」


 ともあれ、エドワードの発案は皆に承認され、「ペンタAI」と呼ばれるようになった。『人口世界~』の付属プログラムが単一のAI同士でシミュレートされていたのに対し、簡易的ながら部族社会同士のシミュレートに踏み込む形になったわけだ。

 どこで嗅ぎつけたものか(ダニーが漏らしたのだと皆気づいていたが)、地元マスコミが「ペンタAIとはどんなものですか?」と取材にやってきたのには閉口した。しかしスプリング・フェスティバル全体の宣伝にもなる事だと思い直し、ダニエル自身をスポークスマンに仕立て上げて対応をまかせた。記者相手に雄弁を振るう彼を横目に、それぞれの部族長AIをプログラムしていく。

 ノブヤの胸には、いつの間にか本気で勝ちたいという思いが生まれていた。ステファナ大に来てから、おのれの卑小さを思い知らされる日々でもあったが、やはり自分の能力への自負は残っている。最大の敵ハンナが協調路線を選ぶなら、自分のAIにも一矢報いる機会があるはずだ……


 そして学部全体がスプリング・バケーションに入る前日、ハンナはノブヤに告白し、彼は「俺では君に釣り合わない」という言葉で拒絶した……


 ノブヤの言葉は、確かにその時点での率直な本音でもあった。あの時代、ステファナ大学に入ってきた学生たちは、皆多かれ少なかれ神童扱いされてきたはずだ。彼もその例に漏れず、自分が同世代の研究者としてNo.1だと信じていた。……ハンナ・レノックスに会うまでは。彼女と出会って、努力ではとても埋められない才能の差を痛感させられた。最初からハンナを知っていたエドワードと、やや畑違いが専門のアーシャを除き、ノブヤとダニエルは綺麗に天狗の鼻をへし折られた形だった。ハンナ自身にはその自覚が全くなかったのだから、なおさら救えない。記録メディア要らずの記憶力と、大胆と繊細を兼ね備えた構想力。入学して一年ほどで既にハンナ・レノックスの名前は学部を越えた伝説と化していた。おまけに旧貴族の家柄という出自と優美な容姿、それとは裏腹に人を選ばない気さくな性格。古風な「神」を信じていると公言し、それでいて品行方正な生活態度が押しつけがましくなく、茶目っ気さえ備えている。彼女から個人的な好意を寄せられて心が動かない男がいるだろうか? しかし、だからこそ、当時のノブヤには彼女があまりにまぶしすぎた。彼女が男だったらよかったのにと、絶望的な思いに駆られたこともある。自分のプライドを守る事に汲々とし、若く、未熟だった……それに尽きる。


 自分の前から駆け去ったハンナの後ろ姿に、ノブヤの胸には悔いに似た痛みが残った。だがその痛みを敢えてねじ伏せて、彼は自分のAIプログラムに没頭しようとした。……もしもペンタAIでハンナに勝てたなら、その時はこの「引け目」が解消され、自分から彼女に告白できるかも知れない。そんな甘い夢を見ながら。実際には運命のドミノ倒しはもう始まっており、その最初の一個を突いたのが自分自身だったというのに。


 大学のラボで午前0時を過ぎる頃まで作業を続け、さすがにもう引き揚げようかと思った所に、携帯端末に音声着信が入った。受信記録を見るとアーシャの端末からだ。いぶかりながら電話に出たノブヤの耳に、アーシャのくぐもった嗚咽が飛び込んで来た。


「うっ……ううぅ……ノブ……探して……あの人を、止めて……」

「どうしたアーシャ! 何があったんだ!」

「エドが……あの人が……ハンナを、強引に連れ出して……」

「な……!」


 夜の町に飛び出し、エドワードのアパートへ車を走らせた。出迎えたアーシャの顔には、生々しい殴打の後が残っていた。

 彼女の話をまとめれば、エドワードと二人で夕食をすませた時にハンナが訪ねて来たのだという。泣きはらした目に、アルコールも少々入っていたようだ。そんな打ちひしがれた彼女を初めて見たものだから驚いてしまった。エドワードにうながされるまま、彼女は「ノブに告白して振られちゃった……」と自棄的に語った。

 途端に……エドワードの様子が一変したという。何を血迷ったんだ。あんな男のどこがいいと言うんだ。一時の気の迷いだ。もしも君が他の男のモノになるというのなら、いっそ僕がこの手で……。半狂乱でそんなセリフを吐き散らし、ハンナの腕を逆手に取って車に押し込めようとした。止めようとしたアーシャは一時気絶するほどの強さで殴られた。意識が戻ると、エドワードの自家用車とともに、二人の姿はなかった……


 すぐさま警察に通報したが、地元市警の反応は鈍かった。実の兄妹という関係から、単なる身内のケンカと思われたらしい。アーシャが自分の傷を示して必死に説得し、ようやく捜索は始まったが担当車両は一台だけ。明らかに身が入っていなかった。ノブヤは友人・知人に声を掛けて捜索に加わってくれと頼み込んだ。ハンナのファンを自認する者と、エドワードの普段のシスコンぶりに不穏なものを感じていた人々は結構多く、ダニエルを始め十数名が捜索に加わってくれた。

 必死の捜索が続いたが、所詮は素人の集まりだ。二人の行方は杳として知れない。行方不明になってから三十時間が過ぎる頃、ようやく市警も単なる兄妹げんかでは済まない事態らしいと、捜索に本腰を入れ始めた。

 ノブヤはほとんど一睡もせずにハンナとエドワードを探し続けた。睡眠不足に錯乱ぎみになりながら、警察無線を傍受することまでして。ハンナが拉致されてから三日目に動きがあった。各所の監視カメラを分析した結果、エドワードの車が向かった方向が割り出され、捜索範囲は一気に狭まった。そして、ついに郊外のモーテルにエドワードの車が発見され、変名で宿泊を申しこんでいた彼もまた見つかった。そしてハンナは……


 警察無線からエドワードが発見されたことを知ったカトーは、車をスピンターンさせて発見場所に向かった。現場は、管理棟と宿泊棟が別れた「いかにも」なモーテルだった。会計が済めば宿泊棟でなにがあろうが関知しないという方針が、あからさまに見てとれる。タイヤを鳴らして車を駐め、警官に封鎖されている宿泊棟に踏み込もうとしたノブヤだったが、はいそうですかと通されるわけがない。俺は関係者だと繰りかえしながら警官らともみ合いになった。その時、アザと擦り傷にまみれ憔悴しきったハンナが、女性警官に付きそわれモーテルからよろめき出てきた。ノブヤと目が合った途端、彼女は蒼白になって顔を覆い、引き裂かれるような叫び声を上げた。


「いやぁぁぁぁ!! 見ないで……わたしを見ないでぇぇぇっ!!」


 ……彼女のそんな声は、いや、人の喉からそんな声が出るのは初めて聞いた。ノブヤは背筋を貫かれたように硬直し、泣きじゃくりながら車に乗せられるハンナの後ろ姿が視界から消えると、力なくその場にくずおれた。……そしてその後十年近く、彼女の姿を目にすることはなかったのである。

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