第8話 体と世界とを

 かつて、自己の生き残りを科学技術の開発に賭けた某小国が、国家予算比率から言えば常識はずれともいえる金額を自国の中央大学に注ぎこみ、技術開発と人材育成に取り組んだ。外国籍の学生も分け隔て無く受け入れ、一時は理想の教育・研究機関と呼ばれるに至ったものだ。その名を、ステファナ総合大学という。


 それはFSOのリリースから、溯る事二十年近く前。少人数用のミーティングルームにて、未だに黒板ボードと呼ばれているプレゼンテーション・ディスプレイに、五人の若者の視線が向けられていた。

 ディスプレイにはシロウトっぽいつくりのアニメーションが映されている。球体や円錐形が組み合わされた大ざっぱな造形だが、西欧人特徴は見てとれる少女のキャラクターが、本棚に囲まれた密室に閉じこめられていた。わずかに外部に明けられたポスト口から漢字の羅列を受け取ると、少女は本棚の「変換マニュアル」を参照し、別の漢字の文章に置きかえて外に送り返す。部屋を外から見たさまは、巨大な人間の頭を模した見世物だ。外部から漢文を押し込む時と、変換されて戻される時、巨大な頭はその文章に即した中国語を発声する。


『ご覧下さい。見ての通り実に滑らかに受け答えするでしょう。この巨大な機械が中国語を理解している証です』


 司会の男の口上に、あたりの見物人は大喝采。しかし密室に閉ざされた少女は中国語など一言も理解できない。なぜなら、変換マニュアルには文字列を別の文字列に置きかえるルールだけが記されていて、文章はおろか一つ一つの漢字の意味さえ書かれていないからだ。少女はただマニュアルどおりに文章を対照させて置きかえる作業だけを続けていく……


「さて、この女の子の働きは、辺りの者から中国語の受け答えを完璧にこなしていると評価されるんだけど、それで彼女は中国語を理解していると言えるかしら?」


 プレゼンソフトでアニメを作ってきた少女が、仲間を見渡して問いかける。赤みがかったブロンドに、あどけなくさえ見えるほほ笑み。あたりの皆も若いが、彼女は中でも最年少に思われた。まだ二十台に達していないように見える。


「まあ、ムリだわな。マニュアルに中国語の意味が一切載っていないという前提ならね」


 軽く肩をすくめて返す、浅黒い肌の青年。人種的特徴が希薄になってきた時代だったが、彼には未だにアフリカ系の特徴がはっきり感じられた。ダニエル・ノートンという。


「う~ん、対照作業を続けるうちに、ある記号にはある記号が対応しているという事には気づけるんじゃない?」


 小首をかしげて問いかける女性は、東洋的でありながら掘りの深い顔立ちで、インドあたりの地域を連想させる。名はアーシャ・クマール・ジェイン。


「でもそこから、一語一語の『意味』を導き出せるかしら?」

「……そうね、たった一つの単語でも意味がわからないと、推測も不可能ね」

「ハンナなら、そんな状況下でも意味を割り出しそうなもんだけどな」


 二人の会話を混ぜ返すのは、細身の東洋人顔。まだ若い……大学生時代のノブヤ・カトー。


「マジメにやってノブ。私はエスパーじゃないんですからね」


 切り返すハンナの口調は辛辣なものだったが、どこか温かみが感じられた。遠慮のなさがむしろ親しさを感じさせる。


「ふむ……漢字の意味を知らなくても『操作』だけに習熟すれば、外側からは会話が通じていると見えてしまう。これは、コンピュータープログラムは統語論で事足りてしまうから意味論を生み出せないという譬喩ひゆだね?」


 澄んだ声で割り込んだのは、色の薄いブロンドを肩まで伸ばし、非常に整った顔立ちの青年だった。名はエドワード・レノックス。ハンナの兄にあたる。


「その通りよ兄さん。これはAI研究の黎明期に、ある哲学者が作った例え話なの。彼はAIに対して批判的な考えを持っていたわけね」

「意味論か……ふむ。確かに一つの関門だな」


 真顔になったカトーが腕組みして漏らす。あたりの皆も、物思わしげな表情で同意を示した。

 当時においてもAIの研究は相当なレベルに達してはいたが、結局のところ「言葉を上手に操作する事」──統語論に終始しており、その点で確かに前時代の哲学者の予想範囲に収まるものだった。一体、どうやれば機械に「意味をわからせる事」──意味論に踏み出せるだろう? それこそが機械に「内面」と呼べるものを生じさせる最初のブレイクスルーであるはずだ。


「さてお立ち会い、そこでこの動画の出番というわけ」


 芝居がかった言い方で、ハンナは別の動画データを起動させる。


「やれやれハンナ、プレゼンに頑張りすぎだろう。もう一本アニメを……おお!? 何だこれ?」

「モノクロの動画って……久しぶりに見たわね……」


 今では滅多に見られないシロモノに、目を見張る一同。


「古い動画データを編集したものよ。大伯母さまのコレクションにあったものをお借りしたの。まあ見てて」


 動画は、ある洋館に一人の若い女性が訪ねて来るところから始まった。女性は館の娘の家庭教師として雇われており、その娘というのが……


「え? 何だよこの子。野生児か何か?」

「……いや、それより目が見えていないの? 発声も、何か問題がありそうな……」


 女の子は五~六歳くらいの年ごろと思われた。身なりがよく、かなり裕福な家庭の子女らしい。しかし彼女の行動は尋常ではなかった。手づかみでものを食べ、他者の言葉を理解するそぶりがない。極めて不作法・ワガママで、まるで小さな暴君のようにふるまっている……


「そう、この子は幼い頃にかかった熱病で視覚・聴覚を失い、言葉も発することができなくなった。『三重苦』と呼ばれたそうよ」

「ええ!? 視覚と聴覚って……それでどうやって言葉を学べるんだ? チャレンジド過ぎるだろうに」


 この子に対する「家庭教師」とは、一種の極限状態ではないのか。しかし教師役の女性は、何度拒否されても諦めずに女の子の手を取って手話を繰り返し教え込もうとしている。女性教師のいわおの意志に引きずられるように、皆は画面に引き込まれていった。

 幾日か、或いは幾十日か過ぎた時、女性教師は女の子の手を取って井戸のポンプから水を流して触れさせる。それから手を取って手話を繰り返す。W・A・T・E・R……W・A・T・E・R……W・A・T・E・R、……

 突然、女の子が雷に打たれたように硬直した。見えないはずの目を大きく見開き、驚愕に近い表情を浮かべて。全身を震わせながらしばらく立ち尽くし、そして女性教師の手を取って駆けだした。彼女は視力を失っているが、自分の生活圏にあるものの位置は全て記憶しており、健常者と変わらず動き回れたから。庭木の前に座って幹に触れる。片手は女性教師の手を引き、何かをせがむよう。教師は再び女の子の手を取り手話で答える。T・R・E・E。女の子は、今度は地面に触れ、叩き、明らかに自らの導き手に尋ねていた。「〝これ〟は何か?」と。そして教師はそれに答える。G・R・O・U・N・D。

 彼女は知った。手で示される奇妙な指の形が、「物の名前」である事を。指で示される一続きの形の〝意味〟をまさしく理解したのだ。


 動画が終わっても、皆はしばらく声がなかった。これが単なる創作ではなくドキュメンタリーに近い話だと、断るまでもなく分かってしまったから。

 ハンナは黒板ボードの前に立ち、むしろ抑えた口調で語りかけた。


「女の子は視覚と聴覚を失っている。しかしそれでも体に残った感覚で、この世界には様々な事物が存在している事を知っているわ。それに一続きの記号が関係づけられた時、その記号がある事物を示している事に気がつく。その〝意味〟が理解できる……」


 言葉を切って仲間を見渡し


「今までのAI研究は、言わば『外界から切り離された純粋知性』といった形でしか追求されて来なかったわ。まさにあの『中国語の部屋』に閉じ込められている少女のように。私たちが目指す次世代AI、人間に近しい存在を生み出すには、感覚を伴った〝身体〟とそれを取り囲む〝世界〟が必要よ。私はそう思う」


 一時の沈黙の後、エドワードが口を開いた。


「確かに『人に近い精神構造を持つには人の体を』と言うのは明快な方針だと思う。しかしその方策は? アンドロイドを一から組み上げて人間の五感を備えさせるかい?」

「それをやっていたら何十年かかるか分からないわ。サイバネティックス技術は『予想外に進歩が遅れている分野』ランキングの常連だけど、その遅れを私たちだけで埋める事は不可能よ。そうじゃなくて、ノブやダニーが好きなのがあるでしょう? 『ゲーム』っていう、プログラムで作られた世界が」

「なるほど、ヴァーチャルな身体と世界とを構築する……か」

「簡単に言ってくれちゃってまあ。誰がそれをやるんだい?」

「でも、面白そうね。成算も感じるわ」


 ノブヤ、ダニエル、アーシャの顔に笑みが浮かんでいた。野心、知的興奮、未知への憧れ、そんなものをない交ぜにした笑みが。


 ハンナ・レノックスという天才が、ステファナ大AI研究科第三ラボの研究方針を決定づけた瞬間であり、この時から「ビッグファイブ」の伝説が生まれ始めた。二年ほど後、それは『人工世界の中の人工知能』という題名の論文と付属プログラムとして結実し、一大センセーションを引き起こす。

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