四十四食目 写真家と向日葵とひつまぶし(後)
案内された部屋を見て、その圧巻さに息を飲んだ。沢山の人が居るのにも関わらず、先程見せてもらった写真のヒマワリ畑が、一番に目に飛び込んできたのだ。大名古屋ビルヂングのヒマワリ畑も凄かったが、こちらも大きな絵画を見ている様な錯覚に襲われた。呆然としていると、後ろに居た澤村が一つ咳払いをして、樹と智里の背を押した。
「さぁ、時間が惜しいので、席に座って座って。」
「あ、は、はいっ。」
「白い君は、こっちね。」
そう言って澤村は、ハクが入っているキャリーを樹から掻っ攫うと、部屋の
「ーーはい、ただいま。ワンちゃんは、あそこで預かってるから、心配しないで下さいね。丁度、他の子が居ないから、のびのびしてますよ。」
「そ、そうですか。ありがとうございます。」
チラッと見遣ると、本当にのびのびとしており、仰向けになってお腹を晒していた。ほっとしながら席に着くと、直ぐに澤村の母親が冷たい麦茶を出してくれた。
「ご注文ですが、事前に稔さんから伺っていた物で宜しいでしょうか?」
「えっ、えっと……。」
何も聞かされていないので、澤村が母に何を伝えているのか分からず、返答に困ってしまう。助けを求めようと澤村を見ると、任せとけと言わんばかりに親指を立てられた。
「うん、とびっきりのをお願いします。」
「はい、では少々お待ち下さい。」
深々と頭を下げ、澤村の母親は奥へと戻っていった。待っている間、こんなに敷居の高い所に来たことがない樹は、どこに目を向ければ良いかわからず、ソワソワしていた。ふと、隣に座っている智里を見ると、ずっと窓の外を見ていた。邪魔をしては悪いと思った樹は、視線を反らそうとした。だが、あるものを見てしまった瞬間、ギョッとした。なんと、智里の目から涙が流れていたのだ。どうすればいいのかと右往左往していると、向かい側に座っていた澤村が口元に人差し指を当てながらハンカチを差し出してきた。おずおずと受け取ると、智里を指差して涙を拭いてあげる動作をされた。漸く自身がしなければならない事を理解した樹は、静かに頭を下げた。すると、「頑張れ」と口パクで言って、澤村は席を静かに立った。澤村の背中を見送った樹は、ゴクリと生唾を飲み、智里の肩に手を添えた。
「……ち、智里さん、大丈夫ですか?」
「……え?」
振り向いた際、そっとハンカチで涙を拭うと、それで漸く自身が泣いていたのに気付いた智里は、慌てて身を引いた。何度も手の甲で涙を拭うが、全く止まる気配がなく、寧ろどんどん流れてくる。どうしたらいいか分からず、強く擦っていると、その手を樹がやんわりと包んだ。
「そんなに擦ったら、赤くなってしまいますよ?」
そう言って手を降ろさせると、今度は両手で頬を優しく挟んだ。改めて感じる、樹の意外にもゴツゴツしている大きな手に胸が高鳴った。
「あっ、えっと、樹さ……。」
「……動かないで。」
恥ずかしさのあまり放してもらおうとしたら、真っ直ぐ自身を見つめる真剣な視線に射抜かれ、全身の力が抜けてしまった。だが、抜けてしまったのも束の間、樹の指が目尻や頬を撫でた事で、また全身に熱が籠り、緊張で身体が強張り始めた。
「あ、あのっ……。」
「……はい、出来ました。」
「……え?」
手が離れたかと思うと、前髪がどこかすっきりした感じがした。触ってみると、付けた覚えがないヘアピンが付けられていた。
「これ……。」
「はい、どうぞ。」
戸惑っていると、スマホの画面を見せられた。そこには、目を固く閉じて緊張した面持ちの智里が写っていた。樹は単にヘアピンを付けているのを見せているだけなのだが、その固い表情が恥ずかし過ぎて一気に顔に熱が篭っていくのが手に取る様に分かる。智里は樹が掲げていたスマホを取ろうと立ち上がった。
「ちょっ、け、消して下さいっ。」
「いやいや、ちゃんと見て下さいよ。昨日の夜にホテルの売店で買ったんですが、ほら、智里さんによく似合っていますよ。」
「わ、分かりましたっ!! 分かりましたから、消して下さいっ!!」
取り上げ様と手を伸ばすと、それを拒む様に身体を逸らされる。差がある所為でなかなか取れない事に向きになった智里は、樹の肩を押さえこんだ。しかしその途端、バランスを崩した樹の身体が傾き、二人揃って座っていたソファに雪崩れ込んでしまった。
「っ……、だ、大丈夫ですか……?」
「は、はい、大丈夫で……。」
樹の声に智里が顔を上げると、ほぼゼロ距離に樹の顔が有り、言葉が詰まった。今にも鼻先が触れ合いそうだ。互いを見詰めながら無言で居ると、遠くの方でいきなりハクが吠えだした。何事かと見遣ると、樹達の方ではなく、店の入り口の方を向きながら吠えていた。よく見ると、口元に人差し指を当てながら、必死に宥めようとしている澤村が居た。その手には、カメラが握られている。二人は慌てて身体を起こすと、気付かれない様に静かに澤村の方へ向かった。
「ワンッワンワンッ!!」
「ちょっ、もう、しーっしーっ!! バレちゃうでしょ……!!」
「……バレてますよ、澤村さん?」
物陰に隠れていた澤村に声を掛けると、思いっきり肩が飛び跳ねた。そこまでビックリされるとは思っていなかったので、樹達も驚いた。取り敢えず、入り口付近に居ると他の客や店員の迷惑になるので、席に戻った。そして、対峙する様に机を挟んで座った三人だったがーー。
「ーー……で? どうして物陰に隠れていたんです? カメラを持って。」
「いやぁ、あはは……。」
圧をかけてくる智里に耐えられない澤村が、助けを求める様に樹を見たが、樹は視線を反らした。実質、ハクのおかげで写真を撮られていない訳だが、恥ずかしい場面を見られていたのには変わりない。ここは、心を鬼にして、澤村が白状するのを待った。だが、どうしても理由を言いたくないのか、澤村は視線を泳がせ、口をモゴモゴさせるばかり。なんだか悪い気がしてきた智里も、どうしようかと眉をひそめた。その時ーー。
「……じ、実はーー、」
「お待たせいたしました。ご注文のお品をお持ち致しました。」
漸く口を開いてくれたと思った矢先、澤村の母親ともう一人の店員が、お膳を持って来た。殺伐としていた空気の中、お構い無しにテキパキとお膳を並べていく様を三人は呆然と眺めていた。
「ーーでは、お品の説明をさせて頂きます。」
そう言って、澤村の母親と店員がおひつの蓋を開ける。すると、中に閉じ込められていた湯気と共に、香ばしい香りと甘辛い醤油ダレの香りが鼻を抜けた。その事で、一気にひつまぶしの方へと意識が向いた。
「こちら、当店自慢のひつまぶしでございます。お召し上がり方はご自由にして頂いて大丈夫ですが、当店のお勧めは、先ず四等分に割って頂き、一杯目はそのままで、二杯目は薬味を乗せて、三杯目は温かい出し汁をかけて、そして最後の四杯目はお好きに食べて頂くという順番です。」
頭を下げ「ごゆっくり。」と言うと、スタスタと下がっていった。流れる様な仕事ぶりに呆気に取られていると、四方八方からグーッとお腹の音が鳴った。隣に座っている智里を見ると、お腹を押さえながら顔を真っ赤にさせ、前に座っている澤村を見ると、お腹を摩りながら「早く食べよう。」と言わんばかりに舌舐めずりしていた。確かに、この食欲をそそる香りには勝てない。一つ息を吐くと、樹は口を開いた。
「ま、まぁ、お腹も空いてますし、澤村さんには後で事情を聞くとして、今は用意して頂いたひつまぶしを頂きましょうか。」
「やったーっ。」
「はいっ。」
それぞれ手を合わせて「いただきます。」と言うと、しゃもじを取った。樹と智里は、澤村の母親が言っていたお勧めの食べ方をしようと、ひつまぶしを四等分に割った。澤村は自身の食べ方があるのか、そのまま茶碗に盛りだした。
「では先ず、そのままで……。」
艶々と照り輝く鰻とふっくらしたご飯を掬い上げ、頬張った。すると、口の中で噛み締める度に鰻の旨味と醤油ダレの甘辛さとご飯の甘さが合わさり、幸福感で満たされた。
「ふっ、はっふっ、美味しいぃっ……。」
「この鰻、炭火で焼いているんでしょうか……。んんっ、皮目はパリッとしていて、中はふんわりしていますね。」
「正解です。ここは炭にもこだわっていて、紀州備長炭を使っているんです。備長炭は赤外線の放出量が、他の炭に比べて圧倒的に多いので、魚の旨味をギュッと閉じ込めるんですよ。」
長芋を擦りながら言う澤村は、たっぷりのとろろをかけると豪快におひつを持ち上げてスプーンで口に掻き込んだ。あまりの豪快さに呆気に取られていると、ニカッと笑いながら「美味いっ。」と言った。
「さぁ、しっかり味わって下さい。美味しいですよー。」
「は、はいっ。」
それから、薬味を入れて食べたり、お出汁をかけて食べたりと、事情を聞くのも忘れて隅から隅までひつまぶしを堪能した。「食べてる所も撮りたい。」と澤村の申し出で、食べてる最中にカメラを向けられていたが、それも特に気にする事なく食べ続けたーー。
「ーー……ふぅ。ご馳走様でした。」
「初めて食べましたが、とても美味しかったです。」
「それは良かった。こちらも、なかなかに良い写真が撮れたので満足です。」
カメラの画面を見せてもらうと、とても良い顔をして食べている二人が映しだされていた。気恥ずかしくなったが、後日送ってくれるとの事なので良しとした。食べ終わったので、席を立ちハクをキャリーに入れてあげた。そして澤村の母親に挨拶をした後、旅館を後にした三人は、樹達が乗る予定の新幹線の時間が迫っていたので、駅のホームに向かった。
「ーー今日は、ありがとうございました。良い思い出になりました。」
「いえいえ。私の方も、ご案内出来て良かったです。良い写真も撮れましたし。これで、香澄さんに報告出来ます。」
「報告?」
「あ、あぁっ、いやっ、香澄さんが紹介してくれたんで、ちゃんと案内しましたよって言っておかないと……。」
「あぁ、なるほど。では、宜しく伝えといて下さい。とても良いお店でした、と。」
「わ、分かりました。」
どこかよそよそしい澤村に疑問を覚えたが、乗る予定の新幹線が来たので、軽く別れの挨拶をして乗り込み、比較的乗客が少ない車内を進んで、取っていた席に着いた。澤村も、樹達が乗り込んだのを見送った後、携帯を弄りながらホームから立ち去った。
「ふぅ、今日で名古屋旅行終わりですね……。」
「そうですね。でも、いっぱい思い出が作れましたね。」
「はいっ。美味しい物も食べれましたし、ヒマワリ畑も見れましたし、言う事ないですっ。」
嬉しそうに携帯の写真を眺めながら言う智里に、自然と笑みが零れた。ピスピス鼻息を鳴らしながら寝ているハクが入ったキャリーを撫でながら、樹は夕日色に色付いた空を見上げたーー。
「ーーふふっ、やっぱり私の目に狂いはなかったわ……。」
ーーとあるオフィスビルの最上階。広い部屋の中、送られてきた数枚の写真を見ながら、不適に笑う女性が一人……。写真を粗方見た後、椅子から立ち上がり、街が一望出来る窓辺に歩み寄った。
「……情報収集も出来たし、来月辺り行かせてもらいましょうか。東京へ……。」
女性が持っている携帯には、樹と智里の写真が映っていたーー。
ー本日のメニューー
・ひつまぶし
END
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