間食 トロッと蕩けるフォンダンショコラ

「……今年も、この日がきたか……。」


 取引先との会合も終わり、会社へ戻っているとバレンタインの看板や旗が街を彩っていた。心なしか、歩いている女性達がウキウキしている。


「去年は、智里さんと司君の又従姉妹の子がトリュフを手作りしてくれたんだっけ……。」


 自身は仕事が忙しかった所為もあり、すっかり忘れていたが、智里はしっかりと作ってくれた。その日の内にお礼は言えなかったが、とても美味しかったのをよく覚えている。


「……でも智里さん、バレンタインにやっぱりバイトが入るって言ってたんだよな。」


 スーパーでもバイトをしている智里は、昨年は偶然その日に休みを貰えていたから作れたものの、今年は夕方からバイトが入り、時間が取れるか難しいとの事。それならばと、今年は樹が逆バレンタインをしようと考えているのだ。


「うーん……、どんなのが良いかな……。」


 歩いていると手作りコーナーを出している店が目に付き、他の女性客に並んで材料を見る。周りがヒソヒソと何か話しているが、それよりも智里に何を作ってあげようか悩む。すると、あるポップが目に入った。それには、バレンタインに渡すお菓子の意味が書かれていた。


「へぇ、渡すお菓子によって意味が違うんだ。クッキーは「友達でいよう」、飴は「ずっと好き」、マカロンは「特別な人」……。はぁ、色んな意味があるんだなぁ。」


 沢山のお菓子があるが、それぞれに意味がある事を初めて知った。特に意外だったのがチョコレート。ビター、ミルク、ホワイトと種類が豊富だが、特に「好きです」という意味がある訳ではないとの事。これには流石に驚いた。


「……あ、でもやっぱり、「好き」や「友達」の意味があるのもあれば、「嫌い」もあるんだ。」


 「注意!!」と赤ペンで書かれている所に、マシュマロとグミが入っていた。その二つは、どちらも「嫌い」を意味していた。マシュマロは、口に入れたら直ぐに溶けてなくなってしまう事から「関係が長続きしない。」グミは、他のお菓子と比べて安価、子供っぽい印象かららしい。そう言えばと思い出したが、グミは一度だけ、小学校低学年の頃にクラスメイトの女の子から貰った経験がある。しかし、まだまだ幼かったのと、情報、知識が未熟だった事もあり、今だからこそ分かるが当時を思うと深い意味はないだろうと自己解決した。


「こう見ると、バレンタインってなかなか奥深い行事だったんだなぁ。」

「――本当にそうだね。」

「えぇ、そうで……え?」


 独り言に相槌が返ってきたので隣を見ると、品のある初老の男性が樹の隣で商品を眺めていた。見た事がある人物に、まさかと思い眼鏡を掛け直し、もう一度見た。


「さ、佐伯社長……!?」

「やぁ、片岡君。こんな所で会うなんて、奇遇だね。」

「あっ、えっと、は、はいっ。」


 樹が勤める会社の社長が、自身の隣でお菓子のコーナーを眺めているなんて夢にも思わなかった。あまりの突然の事に、どうしたらいいのか分からず、寧ろ思考が停止してしまい体が動かせない。寒い時期の筈なのに冷や汗をダラダラとかいていると、不意に社長が口を開いた。


「世の女性達は凄いねぇ。こんなに沢山あるお菓子の意味を調べながら、「この人には、コレ。あの人には、コレ。」て、お菓子を用意するんだろう?」

「そ、そうですね。は、ははは……。」

「しかも、よく貰うチョコレートは「いままで通りの関係でいましょうね。」か。うん、深いねぇ。」

「そうですね……。」


 喋りかけてくれるのは良いのだが、なにぶん身分に差があり過ぎるので、どうしても返事がぎこちなくなってしまう。社長ばかりに話をさせてはいけないと思った樹は、なんとか話題を作ろうとあちこち視線を巡らせた。しかし、目に映るのは、何を作ってあげようかと悩む女性達ばかり。完全に詰んだと心の中で落胆していると、社長が手を伸ばし、材料を持っていた店のカゴに入れていく。それも、一個や二個ではなく、六個、七個、八個……と、どんどん増えていく。


「えっ、あ、あの、社長……?」

「ん? なんだい?」

「そ、そんなに買って、どうされるんで……?」

「勿論、作るんだよ。君とね。」

「…………はい?」


 ――社長が言っている意味が分からず、樹はあれよあれよと社長に引っ張られて大量のお菓子の材料と共に会社に戻った。そして今、社長室の隣にある給湯室に居る。社員用とは違い、広くて色々と揃っている。買ってきた物をテーブルに置くと、社長はいそいそとコートと上着を脱ぎ、割烹着を身に付けた。


「ふぅ、ここの所忙しくてろくに出来なかったが、久し振りに腕を振るおうかな。」

「えっ、えっと、社長……? なんで、自分も……?」

「え? だって君、料理上手なんでしょ? 息子からも聞いてるよ。」

「む、息子、さん……?」


 どの人が息子なのか、頭をフル回転させて考えたが全く分からなかった。しかも、樹が料理が出来るのを知っているのは同じ部署の人達くらい。その中で社長と同じ苗字の人など居なかった筈なのだ。誰だ誰だと思っていたら、社長がもう一つ割烹着を差し出した。


「まぁまぁ、詮索は後にして、作ろうじゃないか。早く始めないと、帰りが遅くなっちゃうぞ。」

「は、はぁ……。」


 語尾に☆が飛んできそうな言い方に苦笑いした。だが確かに、もう夕方なので、物にもよるが急がないと遅くなってしまう。おずおずと差し出された割烹着を受け取ると、樹もコートと上着を脱いで割烹着を着た。


「何か作りたい物とかあるのかな?」

「あっ、いえ、全然決まっていません。」

「ほう、それなら、私が決めても良いかな?」


 そう言われて頷けば、社長は意気揚々とスマホを取り出した。そして、何度か画面をタップしたりスワイプすると、出てきた画面を見せてきた。


「これ、結構難しいのでは……。」

「私はね、難しければ難しい程、やりたくなる性分なんだよ。じゃあ、始めようか。」


 スマホからタブレットに変え、専用スタンドに置くと、画面の通りに材料を計っていく。その手際の良さに暫し呆然としてしまったが、「作らないのかい?」と社長に問われ、樹も一緒に計量していった。


「――……あの、社長はお菓子作りが趣味なんですか?」


 粉物を振るっている時、ふと社長に問い掛けた。生クリームを温めながらチョコレートを溶かしてガナッシュを作っていた社長は、一瞬だけ混ぜる手を止めて樹を見た。しかし、また直ぐにガナッシュの方へと顔を向けた。


「んー……、趣味と言うより、元々パティシエをしていたんだよ。」

「え!? そうだったんですか!?」


 意外な告白にビックリした樹は、手を止めて社長を見た。その横顔は穏やかながらも少し寂しそうだった。


「……マンディアンと言うチョコレート専門店で働いていたんだが、どうも他の人達と馬が合わなくてね。勤務歴もそこそこあったから独立しようと思ったんだが、チョコを触ろうとすると手がすくんで仕事にならなかったんだ。」

「そんな事が……。」

「まぁ、昔の話だから、もうチョコを触れるし他人が怖いとか無いけどね。」


 ケラケラ笑いながらガナッシュを混ぜ続ける。そんな社長を見ながら思い返した。マンディアンと言えば、世界に何人ものチョコレート職人を排出している大手洋菓子店だ。そんな中で働いていると、やはり影ながら歪み合いがあったりするものだ。蹴落としたり、蹴落とされたりの世界。樹は想像しただけで足元から悪寒が走った。


「さて、ガナッシュはラップで個別に分けて冷蔵庫行きだ。えっと今度は、生地用のチョコとバターを一緒に湯煎で溶かすのか。」

「あ、では、粉は振り終わったので、メレンゲを作っておきます。」

「うん、頼んだよ。」


 ――二人でやると早いもので、あっという間にフォンダンショコラを焼く手前まで出来た。一八〇度に設定したオーブンに天板を差し込み、扉を閉じた。焼けるまで約一〇分。甘いチョコレートの香りを堪能しながら、キッチンの片付けをした。そして、丁度器具を全部しまい終わった所で、オーブンがチンッと鳴った。


「さてさて、出来具合はどうかな?」


 社長がオーブンの扉を開けると、熱風と共に焦がしチョコレートの香ばしい香りが鼻を擽った。一緒になって覗き込んでみると、カップからはみ出た生地が見えた。オーブンクリップを天板に挟み、庫内から取り出すと更に甘い香りが部屋を満たした。鍋敷に天板を置くと、ふっくらと膨らんだフォンダンショコラの生地がプルプルと動いた。生焼けなのかと思ったが、すかさず社長が「中にガナッシュが入ってるから、プルプルなんだよ。」と言ってくれた。


「じゃあ、味見してみようか。」

「えっ!? でも、渡す用では……。」

「おいおい、いくら私が元チョコレート職人でも、人にあげる物は自分で試食するの。見た目が良くても、味が悪かったら、あげた人に迷惑だし、失礼だからね。」

「な、なるほど……。」


 説得力のある言い分に納得した樹は、未だ温かいフォンダンショコラを一つ手に取ると、ゴクリと生唾を飲んだ。プルプル震える生地と甘い香りに、お腹の虫が大きく鳴った。


「では、頂きます。」

「い、頂きますっ。」


 スプーンを手渡され、ゆっくりと生地に挿し込む。持ち上げてみると、中心部にあったガナッシュがトロッと流れた。ドキドキと高鳴る胸の鼓動を感じながら、一口頬張った。


「あっ、あふっ。んんっ、フワトロだぁ。」

「うん、これはなかなか……。美味しいねぇ。」


 初めて食べる食感に、一口また一口とどんどん手が伸びていく。そして、あっという間にカップの中身は空となった。


「ふぅ、ご馳走様でした……。」

「ご馳走様。いやぁ、上手く出来て良かった。じゃあ、天板に乗ってる分ラッピングしちゃおうか。」

「はい。」


 一緒に買っていたラッピング袋に、一つ一つ丁寧に入れていく。まだ温かいので、口は開いたままにして、樹が持って帰る分は紙袋に入れ、ホコリ等が入らない様に持っていたハンカチを被せた。


「今日は、ありがとうございました。」

「いやいや、久し振りに誰かとチョコレート作りが出来て楽しかったよ。こちらこそ、ありがとう。」


 未だ用事があるからと、社長とは給湯室の前で分かれた。エレベーターの扉が閉まるまで手を振っていたので、樹は頭をずっと下げた。そして完全に扉が閉まり動き出した所で頭を上げ一つ息を吐くと、一気に緊張が解れて足が震えた。なにせ、自身が勤めている会社の社長と二人っきりでバレンタインのお菓子作りをしたのだ。今までよく隣に立てたものだと、自分で自分を褒めてあげたくなった。


「……でも、良いのが作れたなぁ。」


 紙袋に入れてあるフォンダンショコラを智里にあげたらどんな反応をしてくれるのか、今から楽しみでしょうがなかった。エレベーターが止まり扉が開くと、樹は上機嫌で一歩踏み出した。もう日が暮れていて、店の灯りや街灯が眩く輝く中をウキウキしながら歩いた。


「あ、そう言えば、社長の息子さんって誰なんだろう?」


 歩きながら思い出したその答えが分かるのは、もう少し先の話――かも?

 それはさておき、一度家に帰った樹は、荷物を整理してから夜のシフトが入っていた智里を迎えに行った。店の前のガードレールの所で待っていると、店の灯りが消え始めた頃に智里が従業員用出入り口から出てきた。そして樹が居る事に気付いた智里は、小走りで向かって来た。


「樹さんっ。冷えるからお迎えは大丈夫なのに……。」

「いえ、私が迎えに行きたかったんです。それに……。」


 後ろ手に隠していた紙袋を差し出す。智里は受け取ると、首を傾げた。


「これは……?」

「フォンダンショコラです。その、本当でしたら温かくして食べた方が美味しいんですが、思いのほか上手く出来上がったので早く渡したくて……。」

「えーっ!? 凄いですねっ。じゃあ、早くお家に帰っていただきましょうっ!! わぁ、楽しみーっ。」


 紙袋をしっかりと抱えながらスキップする智里の後ろ姿を見て、社長に誘われて良かったと、心の底から感謝した。思いに浸っていると、智里が「置いて行きますよーっ!!」と叫んだので、急いで追い付いた。そして、紙袋を持っていない空いている手を握り締め、そのまま並んで歩いた。樹の手と智里の手は、手袋越しでも分かる位温度差が出来ていたが、歩き続けていると段々温かくなってきた。


「ふふっ、あったかいです。」

「そ、そうですねっ。」

「……ありがとうございます。」

「っ!?」


 月明かりと街灯の灯りに照らされている二人に何があったのかは、ご想像にお任せ致します――。


―本日のメニュー―

・フォンダンショコラ






END

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