三十四食目 コーヒーとミルクの女子会
――東京を出て一ヶ月が経った北海道、帯広市。そこの古民家を改装した宿屋の一室に、智里は居た。疲れた様に溜め息を吐くと、大きな窓から見える都会とは違う緑に囲まれた懐かしい光景を眺めた。
「……樹さん。」
ぼんやりとしながらも、頭の片隅にあったのは樹の事だった。この一ヶ月、実家に帰ってから怒涛の毎日を送っていたが、樹の事は片時も忘れなかった。だが、実家に帰る当日に樹に話をする間も無くアパートを出て行き、着ていた樹からの電話に出れず、更には今日まで連絡を入れる事が出来なかった。とても心苦しく、直ぐにでも携帯をつつきたい気持ちで一杯だった。しかし――……。
「おーい、智里。次の人、来たぞ。」
「あ、はーい。」
兄である智樹が、部屋の襖を開けて入ってきた。振り返りながら答えると、智里はまた小さく溜め息を吐いて、部屋を後にした――。
「――……ふぅ、疲れた……。」
結局、今日も夜遅くまで掛かってしまった。動物病院での研修生時代を思い出す。朝から晩まで走り回り、家に着けば勉強をする毎日。辛かったが、何より自身がなりたかった獣医になる一歩手前だと思えば、それも修行だと割り切れた。だが、今回は違う。愛しい人に会えない寂しさ。電話をしたくても、手が空くのは夜遅く。仕事で忙しい樹を想うと、夜遅くに電話をするのは気が引けた。
「カフェオレでも飲もうと……。」
五月に入れば、朝夕は多少冷えるが北海道でも暖かくなる。寒暖差と日中引っ張りだこの智里の身体は、毎日悲鳴を上げていた。
「えっと、コーヒーサーバーとドリッパーは……。」
久し振りの実家なので、何処に何が置いてあるか忘れてしまった。ヤカンは常にコンロの上に置いてあるので、水を入れて火にかける。その間に台所にある戸棚を開けて探してみるが、何処にも見当たらない。居間でテレビを見ている両親に聞いてみようかと思った時、智里の直ぐ横から太い腕が伸びた。見上げてみると、これまた目の下に濃いクマを作った智樹が居た。
「ホレッ、サーバーとドリッパー。フィルターは引き出しの中。挽いた豆は紺色のカンカンの中だぞ。」
「あ、ありがとう、兄さん。」
眠たそうにしながらも、智里が探していた物を教える。そして、智里の頭を数回優しく叩くと、欠伸をしながら「また明日な。」と台所を後にした。残された智里は、ボンヤリと手渡されたサーバーとドリッパーを見詰めた。
「……「また明日」、か……。」
今の生活が、後何日続くのか。あの日、電話口で母親から言われた期日は何日だったか、もう忘れてしまった。早く終わらせて、あのアパートに帰りたい。いや、それよりも一番に、樹の胸に飛び込みたい。優しく微笑んでほしい。意外と筋肉質な両腕で、抱き締めてほしい……と、そこまで思って、ハッと我に返った。頭を何度も横に振り、邪な思想を振り払う。慌ててドリッパーにフィルターをセットし、両親の分も合わせた分量の挽いたコーヒーを入れた。
「……私、こんなに欲張りだったっけ……。」
いつの間にか沸いていたお湯をゆっくりと回し入れ、ポコポコと膨らむ豆を見ながらポツリと呟いた。
「あら? 香ばしくって良い香りねぇ。」
「あ、お婆ちゃん。ゴメン、起こしちゃった?」
ポチャッポチャッと一滴ずつコーヒーが出て来た頃、台所に智里の祖母がパジャマ姿でやって来た。七十五歳にして、現役でトラクターに乗り農場を仕切っている。祖父はと言うと、現役ではあるが体調を崩し易く、農場へは出ずに箱詰めや市場へ卸したりしている。朝早くから働く祖父母は、何時もならこの時間帯には寝ている筈。しかし祖母を見ると、普通に水道水をコップに注いでいるのだが、どこかしらウキウキしている様だった。
「構わないよ。さっきまで本を読んでいてねぇ。なかなか面白かったから、つい夜更かししちゃったわ。」
「へぇ、珍しいね。どんな本?」
お湯を更に足しながらなんとなく聞くと、祖母の目付きが鋭くなった。そしてコップに入れた水を一口飲むとコップを流しに置き、どこから取り出したのか一冊の本を智里の前に突き付けた。
「今流行りの漫画よっ。歳の差カップルの儚くも美しい恋愛物さっ。年甲斐もなくときめいちゃったわー。」
「……。」
開いた口が塞がらなかった。まさか、祖母が恋愛漫画にハマっているとは思いもしなかった。よく見ると、帯にドラマ化と映画化、更にはアニメ化決定とまで書かれていた。最近は専門書ばかりを漁っていたので流行り物には疎かったが、身内の、しかも祖母に流行りの漫画を推されるとは思いもしなかった。
「……お婆ちゃん達がちいちゃん位の歳の時は、終戦からだいぶ年月が経ってたから景気も回復してきてたし、札幌オリンピックで海外の人達が来てて賑わってたねぇ。でも、農業者には休みなんてほぼ無いのと同じだったから、こうやって漫画を読む事だって難しかったんだよ?」
「……そうなんだね。」
話をしながら、祖母はパラパラとページを捲っていく。その姿に、今の平和で色々な物が普及し、学校へ行って勉強も出来、衣食住もちゃんと確保出来るこの時代に生を成せた事に感謝しなければならないと感じた。そして祖母は、ある見開きのページまで進めると、それを智里に見える様に掲げた。
「うふふっ、こーんなドラマチックな告白とか今更だけど憧れるわぁ。あ、お爺ちゃんには、ナイショね。」
見せられたその告白の場面は、女性がお見合いをしている所に男性が駆け付け、女性のお見合い相手とその親、そして女性の親の前で女性を抱き締め「好きだっ!!」と告白している所だった。悪戯っ子みたいに屈託なく笑う祖母に、智里もつられて笑いながら人差し指を口元に充てがった。
「分かってる。ナイショにしておくね。あっ、ホットミルクいる? 丁度、カフェオレ作るのにミルク温めるから。」
「あら、じゃあ頂こうかしら。蜂蜜はある?」
「勿論。」
瓶に入った牛乳を鍋に入れ、弱火にかける。その間に、カップを人数分用意し、お盆に乗せた。湯気が発ち出した頃合いに火を止め、祖母の分から注ぐ。たっぷりの牛乳にスプーン一杯の蜂蜜を入れるのが、祖母は好きだ。大きな瓶を戸棚から取り出し、蓋を開ける。すると、入っていた純粋蜂蜜の独特な花の甘い香りがふわっと鼻を擽った。一舐めしたい衝動を抑えながら、結晶化している蜂蜜をスプーンで掬い、祖母の分のカップに入れる。そして、自身のカップにコーヒーと牛乳を注いだ。
「あらぁ、凄いわねぇ。」
「え? 何が?」
「淹れ方よぉ。両手に持って同時に淹れていくなんて、難しいでしょう。」
「あぁ、これは東京に居た時に教えてもらったの。その、えっと、仲良くしてくれてるお隣さんに……。」
そう、この淹れ方は樹から教えてもらったのだ。コーヒーと牛乳の量を一:一で淹れていくのだが、樹が教えてくれたのはコーヒー店で出されるカフェオレの淹れ方だった。最初は両手に持って同じ勢いで注ぐのが難しく、何度も割合が偏ってしまっていたりしていたが、樹が丁寧に教えてくれたのと、淹れる姿が格好良くて所作をずっと見続けていたお陰で、なんとか様になるまでにはなった。その事を思い出していると、隣に居た祖母が口元に手を当てながらクスクスと笑い出した。
「どうしたの、お婆ちゃん?」
「いえいえ、何でもないわ。うふふっ、そうだったのねぇ。」
「? うん?」
どこかニヤニヤしている感じの祖母に疑問を抱きながらも両親の分もコーヒーを淹れ、いざ持って行こうとした時、祖母に止められた。
「お婆ちゃんは此処で漫画を読みながら、ゆっくり飲むわ。だから、お父さんお母さんとちいちゃんの分だけ持っておゆき。」
「ん、分かった。じゃあ、ホットミルクどうぞ。未だ寒いから、飲んだら早めに寝てね。」
「うんうん、分かったよ。」
祖母のカップをテーブルに置き、智里は両親の居る居間へ向かった。その後ろ姿を微笑ましく見送った祖母は椅子に腰掛けると、持っていた漫画をパラパラと捲った。
「うふふっ、やっぱり少女漫画は辞められないわぁ。こんなに胸がキュンキュンするんですもの。」
うっとりとした表情で開いたページを見詰める。そして、一頻り見た後、カップに入ったままのスプーンを一回ししてからホットミルクに口を付けた。ほんのり甘い純粋蜂蜜の味と仄かに香る花の香りのホットミルクに、身も心も温かくなってきた。
「やっぱり、甘いわぁ。さて、ちいちゃんの「愛しい人」は、いつになったら来てくれるのかねぇ……。ふふっ、楽しみだわぁ。」
また、少女漫画を見詰める。そこには、女性を探す為、必死になって奔走し続ける男性と、自身で運命を決めれずどうしたら良いのか葛藤に悩む女性の姿が一面を埋めていた。
――本日のメニュー―
・コーヒー
・カフェオレ
・蜂蜜入りホットミルク
END
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