二十八食目 ビターなの? スウィートなの? どっちが好きなの?(前)

 今日の智里は、朝から可笑しかった。樹が弁当を差し出しても、その弁当をジッと見詰めるだけで受け取ろうともしなかった。一緒に歩いていても、樹の話を聞かずに俯いて何か呟いていた。


「――……智里さん、何か悩み事ですか?」


 分かれ道の所で思い切って聞いてみたが、「なんでもないですよ?」と言われ、言い返すより先に、学校の方へ向かってしまった。釈然としない返答に、樹の中のモヤモヤが膨らんだ。


「……俺、何かしちゃったかな……。」


 会社に着き、書類の束とパソコンとを睨めっこしていたが、今朝の智里の事を考えると、キーボードを打っていた指が止まる。勤務時間中だと言うのに、机に突っ伏する樹を周りの同僚の人達がチラチラと見る。だが、そんな視線すら気にならない程に、智里の事が気になっていた。


「おーい、片岡。いつまでもその格好だと、叱られんぞ。」


 そう言って、鈴井が分厚いファイルで樹の頭を軽く叩く。その様子を見ていた全員が、「よく言ってくれた。」と、心の底から思った。何故なら、逆光で見え辛くなってはいたが、心底お怒りモードの岡元の姿があったからだ。


「……鈴井さん。」

「どうした?」

「鈴井さんは、女性に無視された事、ありますか……?」


 頭の上に、どんどんファイルを積まれていた樹が、机に突っ伏したまま鈴井に聞いた。それを聞いた鈴井は、ピシッと石の様に固まった。暫く固まっていたが、勢いよく樹のデスクに手を突いた。その拍子にファイルが音を発てて床に落ちる。


「ちょっと、待てっ!! 俺が声掛けて無視される様な事、あると思ってんのか!?」

「いや、聞いてみただけなんですけど……。」

「いやいや、聞く事自体が間違ってんだよっ。明日なんか、俺が話掛けるよりも、女の子達の方から話しかけてくれるからっ。」

「明日……?」


 明日を割と強調する鈴井に疑問を抱いた樹は、何かあったかなと思考を巡らせていた。すると、パコンッと頭に軽い衝撃が走った。それは、隣の席の鈴井も同じだったらしく、頭を押さえていた。恐る恐る顔を上げてみると、眉間に皺を寄せながらもニッコリと笑っている岡元が、ファイルを片手に二人の後ろに立っていた。その表情を見た瞬間、冷や汗が頬を伝う。


「……今日、お前ら二人とも残業ね。」

「「……はい。」」


 執務時間中に堂々とデスクに突っ伏しているわ、大声を上げるわ……。そんな事をしていたら、先輩に目を付けられるのは当たり前だと、この部屋に居た者全員が思った。


「――では、始めますね。」

「はい。」


 所変わって、森林公園にあるカフェの厨房。昨年産まれたばかりの女の子の赤ちゃんが、作業台の横に置いてあるバウンサーの中で、スヤスヤと眠っている。今日は午前授業のみだった智里は、バレンタイン前の特別料理教室に参加していた。


「明日バレンタインなので、今日はトリュフを作ろうと思います。ですが、本格的な物を作ろうとすると時間が掛かってしまうので、今回はトリュフボールを使って作ります。」


 育児で疲れているのだろうか、椅子に座った状態で奥さんはホワイトボードを使って説明をしていく。簡単な文章と可愛いイラストで、結構分かりやすい。渡されたレシピに、必死にメモを取っていく。そして、説明が終わった後、各自用意された材料を取りに奥さんの所へ行った。


「――……ねぇねぇ、ビターとスウィート、どっちで作る?」


 もうそろそろ智里の番になるのだが、前に居た若い女性二人がチョコレートの味で悩んでいたのが聞こえてきた。智里自身も、どっちの味にすれば良いのか悩んでいたので、参考までに聞き耳を立てた。


「んー……、私の旦那さん、甘いの好きだからスウィートかな。」

「そっかぁ。どっちが好きなのか分かってると、迷わなくて楽だね。私の彼氏なんて、気分によって違うからさぁ、どっちが好きかよく分かんないんだよね。」

「あー、分かる。」


 聞いていて、どことなく共感する。樹も、甘い物を食べたり飲んだりする時はあるが、それは仕事続きで疲れ切った時で、普段はブラックコーヒーを飲んだりしている。なので、「絶対にこっちじゃないと嫌」というのが無い。だから、もの凄く困ってしまうのだ。どちらをあげれば、喜んでくれるのか。それが分からない。


「じゃあさ、私スウィート作って、アンタがビター作って、それを半々にしたら良いんじゃない? それなら、甘いのも苦いのもあるから彼氏さんもどっちを食べたいか選べるし、私の方は、旦那さんがビターを食べなくても、私が食べちゃうしね。」

「成程。じゃあ、そうしよっかな。」


 友人同士だから、作った物をシェア出来るのが羨ましかった。今回は智里一人で参加したため、シェア出来る人が居ない。どうしようかと悩んでいたら、智里の番が回って来た。


「こんにちは、奥さん。」

「あら、こんにちは。お産の時は、ありがとうございました。お陰様で娘は寝返りもする様になったんですよ。」

「……わぁ、もう寝返りですか。子供の成長は早いですね。」


 「お産の時」と聞いて、ドキッとした。今、あの時の事を思い出しても分かる位、自分は慌てるだけで、特に何も手助けすら出来ていなかったと痛感している。門崎姉弟と樹が居てくれたから、無事に出産が出来た様なものだ。その事を思うと、いたたまれなくなる。智里は悟られない様、頑張って笑顔を作った。


「……ところで、前田さんは片岡さんにバレンタインのチョコを渡すのかしら?」


 何か勘付いた様で、奥さんは早々に話を変えた。智里は内心、ホッとした。あのまま続けられてたら、逃げたしたい気持ちでいっぱいいっぱいになりそうだったからだ。


「あ、そ、そうなんですけど、いつ……片岡さん、ビターが好きなのかスウィートが好きなのか、ちょっと分からなくて……。」

「成程……。そういえば、今日は前田さん一人なんですか?」

「はい。友達も誘ったんですけど、論文がなかなか進まないからと言われて……。」

「そうだったんですね。それなら、この子と一緒に作ってくれませんか? そしたら、さっきの方達の様に、スウィートとビターを作ってシェア出来ますよね。」


 そう言われて奥さんの後ろから出てきたのは、小学生位の女の子だった。奥さんの服を握り締めながら、智里の方を見上げている。


「あの、この子は……?」

「私の従兄弟の子なんですけど、仕事が終わるまで預かっているんです。りっちゃん、挨拶は?」


 奥さんが立ち上がり、りっちゃんと呼ばれた女の子を智里の前に立たせた。双葉の子の清一郎よりも、頭一つ分位背が高い。智里は目線を合わせる為、膝を着いた。


「こんにちは、えっと、りっちゃん? 私、智里って言うの。宜しくね。」

「……。」


 握手をしようと手を差し伸べたが、りっちゃんは何も言わずにそっぽを向いてしまった。恥ずかしがっているのかと、首を傾げたら、顔を覗き込まれたと勘違いして、りっちゃんは奥さんの後ろへと隠れてしまった。


「人見知りが激しいのかな?」


 年頃の子にはよくある事なので、別に気にはしない。だが、奥さんに「一緒に作って」と言われたからには、少しでも仲良くなっておく必要性が出てくる。どうしたら良いかと頭を悩ませながらポケットに手を入れていたら、指先に何かが当たった。何だろうと、摘まんでポケットから出してみた瞬間、ハッと閃いた。


「そういえば、友達からこんな可愛い定期入れ貰ったんだよねー。コレ、何て言ってたっけ? パフェ何とかだっけ?」


 少しわざとらしく、りっちゃんが見える所で定期入れをチラつかせる。学園祭の時に、樹と出店を回った際に買ってもらった物だ。今小学生位の女の子達の間で流行っているらしく、自分で作れる鞄の定期入れバージョンらしい。キット自体はそんなに高くないし、それのセット用品を追加で買えば、いろんな種類を作れる優れ物。パステルカラーを中心に、大人っぽいデニム色等のピースを繋げて作るのだが、おもちゃと表現するには惜しい位、実用性に長けている。暫くチラつかせていると、りっちゃんが奥さんの背中から顔を出した。そして、定期入れを見た瞬間、目の色が変わった。


「パチェリエの新色……!!」


 漸く、奥さんの傍から離れたりっちゃんは、智里の方へと近づいた。キラキラと目を輝かせているのを見て、智里は定期入れを差し出した。どうしたら良いのかとオロオロしているりっちゃんに、智里は微笑み掛けた。


「良かったら、コレあげるよ。」

「え、でも、お姉さんの……。」

「実はね……。」


 反対の手で、ポケットを探る。そして、出てきた物を見せてあげた。


「同じ物の色違い、持ってるんだ。もし、こっちのを貰ってくれたら、私達、お揃いだね。」


 更に言うと、樹も持っている。だが、樹が持っているのは定期入れではなく、黒色のドリンクホルダーだ。夢色のばかり置いてあった中で、唯一、黒色で男の人が使っていても違和感がない物だったので、それを購入したのだ。


「あ、ありがとう……!!」

「どういたしまして。じゃあ、お姉さんと一緒にチョコレート作ってくれるかな?」

「うんっ!! よろしくおねがいしますっ。」


 物で釣った様な形にはなってしまったが、りっちゃんとなんとか打ち解けれた。材料を持って作業台に向かったが、もう既に他の人は作りだしていて、早い人はもうガナッシュを人肌に冷やしてトリュフボールに絞り、もう一人の人がトッピングの準備をしていた。だが、ここで慌ててしまったら、りっちゃんが不安がってしまう。一旦深呼吸をし、沢山メモをしたレシピを見た。


「じゃあ、初めよっか。先ずは、チョコレートを割れる大きさで良いから手で割ろう。怪我しない様に気を付けてね。その間に、湯煎ゆせん用のお湯を沸かしておくね。」

「は、はいっ。」


 智里は、用意されていた鍋に水を入れ、蓋をしてコンロに置いたら火を点ける。そして、りっちゃんがもたつきながらもゆっくりと板チョコを割ってボウルに入れていく。お湯が沸くまで時間があるので、智里も板チョコを割る。割り終わった所で鍋の蓋を開けて見ると、小さな泡がふつふつと鍋の底や側面に出ていたので、弱火にする。


「さて、割ったチョコを湯煎で溶かすんだけど……。」


 チラッとりっちゃんの方を見遣る。湯煎する際に熱くなるステンレスボウルをチョコが溶けるまで支えておかないといけないので、結構な労働になる。それに、火傷の危険性もあるので、子供に任せるのはいささか不安だ。だが――……。


「このお湯の中にチョコを入れたボウルを入れて、かき混ぜながら溶かしていく、か……。お湯の温度を下げない為に火は点けたままだから、結構熱いけど……。りっちゃんどうする? お姉さんがしようか?」


 子供の意見を聞かずに、危ないからと一方的にやる事を取り上げてしまったら、やる気を削いでしまう。なので、智里は敢えてりっちゃんにチョコを溶かすのをやるか、それとも任せるのかを聞いた。りっちゃんは直ぐ様、「やるっ。やってみたいっ。」と言ってくれたので、聞いて正解だった。


「やる気満々だね。それじゃあ、溶かすのは任せたよ。」

「はいっ。」

「良い返事っ。でも、しんどくなったり、代わってほしくなったら、直ぐに言ってね?」

「分かったっ。」


 元気よく返事をしたりっちゃんは、踏み台に上り、鍋の中にボウルを入れて溶かし始めた。心配になってチラチラと様子を窺うが、りっちゃんなりに頑張ってくれている。声を掛けられるまでは頑張ってもらおうと誓った智里は、コーティング用のチョコレートを割ったり、ココアパウダーをバットに広げたりした。


「――ふぅ、全部溶けたよ。」

「おっ、ありがとう。それじゃあ、このチョコを一回鍋から外して、この生クリームを温めよう。チョコと同じ位の温度にしておかないと、上手く混ざらないからね。」

「はいっ。」


 今度は、生クリームを温める。先に溶かしたチョコを指先で触り、生クリームを触って温度差を計った。それを何度も繰り返し、同じ位になった所で取り出してチョコに注ぎ、ゴムベラでゆっくりと空気が入らない様に混ぜる。


「混ぜていく内に、とろみが付いて全体に艶が出てきます。その状態になったら、ガナッシュの完成です。」

「……。」


 真剣な眼差しで混ぜ続けるりっちゃん。あげる相手の事を思いながら作っているのだろうと、歓心した。智里はまた、声を掛けられるまでは下手に手出ししない様に、自身が作るトリュフのビターチョコを溶かし始めた。そして暫くして、りっちゃんが口を開いた。


「こ、この位で、だいじょうぶ……?」


 そう言って見せてくれたボウルの中身は、綺麗に艶が出ているガナッシュだった。ニッコリと笑い、親指を立てると、りっちゃんは花が咲いた様に笑顔になった。数分空けて智里の方もガナッシュを完成させると、人肌程度まで冷めるまでに、コーティングの準備等をした。そして、ガナッシュが冷めたので搾り袋に入れ、用意していたトリュフボールに慎重に絞っていく。その間に、智里はりっちゃんに気になっていた事を質問してみた。


「――ねぇ、りっちゃんは好きな人が居るの?」


 一瞬、りっちゃんの手が止まり、智里の方を見た。智里は、絞り袋にガナッシュを詰めながら、チラッとりっちゃんの方を見た。次第に顔が赤くなっていき、カタカタと手が震えていた。


「な、なな、なに、す、すきって……!?」

「いやぁ、だってさぁ、作ってる時のりっちゃんの顔、すっごく真剣だったんだもん。そんなに真剣になれるって事は、好きな人を思ってるって事じゃない?」


 そう言うと、りっちゃんは顔を赤くしたまま、またガナッシュを絞りだした。もしかして、勘違いだったかと少し焦り、慌てて弁解しようとした。だが、それを首を横に振って静止させられた。


「……お父さんと、お母さんにあげたいの。」

「お父さんと、お母さんに?」


 聞き返すと、コクンと頷いた。そして、ポツリポツリと話してくれた。りっちゃんの両親は共働きで、りっちゃんが学校から帰って来た時には二人とも家に居るが、りっちゃんが部屋に戻ると、夜遅くまで仕事をしているのだと。そして、朝には何事もなかったかの様に振舞っているのだと。


「――……だから、お父さんとお母さんに、ありがとうって……。たまには、ゆっくり休んでねって、伝えたくて……。」


 絞り終え、空になった絞り袋を台に置くと、ポロポロと大きな雫が頬を伝って台に落ちた。一番後ろの台だったので、他の人からは見えない。痛い程伝わってくる小さな女の子の気持ちに、智里は胸が痛んだ。そして、そっと頭を抱き、自身の胸の方へ傾けた。心臓の音が近くで聞こえているからか、あるいは人の温もりが恋しかったのか分からないが、りっちゃんは身をゆだねていた。


「お姉さんもね、実家が農家だったから、お父さんもお母さんも毎日朝早くから夜遅くまで働いてて、遊んでもらった記憶って沢山ある訳じゃないんだ。」

「……うん……。」

「でもね、その分、私をすっごく大事にしてくれてるんだって思ったよ。」

「……どうして?」

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