十九食目 繋がる一輪のバルーンフラワー
翌日、智里の兄である智樹は、明け方まで料理を作ったのにも関わらず、智里と樹が眠っている間に静かにアパートを出て行っていた。樹達が目を覚ましたのは昼過ぎで、机の上に置きっぱなしにしていた皿等は綺麗に片付けられていた。どうやら、智樹が二人を起こさない様に、静かに片付けた様だ。代わりに置かれていたメモ書きには、「楽しい一日をありがとう。朝一の便で北海道に帰るから挨拶は出来ないが、今度は北海道の方に遊びに来いよ。」と、デカデカとした殴り書きで書かれていた。
「――はぁ、兄さんったら、急に来たと思ったら、急に帰っちゃうんだから……。見送り位、させてほしかったです。」
「そうですね。それにもっと、お話がしたかったですよね。折角の兄妹水入らずの時間だったのに、私まで厄介になって……。」
今日が偶々休みだった樹と、午前中のみの講義だった智里は、ハクの散歩も兼ねて、近場のドッグランまで来ていた。平日とあって、昼間のドッグランは
「いえいえ、とんでもないですっ。 せっかちな兄が悪いんですから、謝らないでください。」
「そ、そうですか……?」
心底恥ずかしいのか、カップに残っていた一気に紅茶を飲み干し、サーバーに入っている紅茶を入れて、また一気飲みをした。そんな様子を樹は、眉を八の字にしながら見ていた。智里は「気にしないで。」と言ってはくれているが、上京してから半年以上会っていないのだから、もっと話をしたかっただろうに、悪い事をしたなと思った。自身の妹である双葉は、ちょくちょく遊びに来るし、歩いて来れる所に住んでいるので、そんなにも寂しいとかは思った事がない。
「……前田さんも、前田さんのお兄さんも、兄妹思いですね。」
「え?」
「いえ、何でもありません。」
ポツリと呟いた樹の声は、智里の耳には届かなかった。だが、それでも良かったのかもしれない。もし、聞こえていたら、完全否定に走るかもしれなかったからだ。智樹がこの場に居ないからと言って、身内同士が悪態をつくのは心が痛む。樹は、そう思いながら、残ったコーヒーを啜った――。
「――次は、何処に行く予定なんですか?」
十分に遊び尽くしたハクは、舌を口から垂らし息を切らしながら樹達の元へ戻ってきた。すかさず水を給水器に入れて眼前に置くと、がぶ飲みしているのか喉をゴクゴクと鳴らした。そんなハクの頭を優しく撫でるていると、樹の財布を持った智里が戻ってきた。満足するまで水を飲ませ、会計と一緒に買ってきてもらった犬用のクッキーを与えると、ハクを抱っこした。
「……前々から行きたかった所なんです。最近は忙しくて、行けなかったんですが……。」
――樹と智里は電車を乗り継いで、お台場海浜公園まで来た。着いた頃にはもう夕方になっていたので、カップルや散歩をしに来ている人が多かったが、レインボーブリッジ、東京タワー、自由の女神のパノラマが目の中に飛び込んできて、迫力があるが、とても優雅で、心が癒されていた。智里は、此処に来るのは初めてだったので、あまりの雄大な景色に心が躍った。あちこちを興味津々に見渡していると、樹が智里の肩に触れた。それに我に返った智里が樹の方を見ると、何も言わずに自由の女神像の方を指差し、歩き出した。暫く、ポカンとその後ろ姿を見ていたが、慌てて樹の後ろに着いて歩いた。
「――わぁ……、凄い……。」
「だいぶ賑わっていますね。あ、ピエロも居るっ。」
自由の女神像がある場所は、ヘブンアーティストの活動広場となっており、アーティストの人たちが音楽パフォーマンスやダンス、マジック等を披露している。もう、終演間近なのか、観客を巻き込んでのパフォーマンスをしている所が多い。ハクが音に吃驚して走り出さない様に、しっかりと片手で抱き抱えると、空いてる方の手を智里に差し出した。
「どれか、見ていきましょうか。」
「……え?」
突然の誘いに、智里は差し出された手と樹の顔を交互に見た。樹は、なかなか返事を返してこない智里に首を傾げたが、暫くして、自身が何をしたのかが分かり、一気に思考が固まった。久しぶりに来れた嬉しさもあり、完全に浮足立っており、軽々しく智里を誘ってしまった。ボンッと煙が頭から噴き出るんじゃないかという位に、顔の方に熱が籠る。夕日に照らされているから分からなくなっているのかもしれないが、恐らく樹の顔は耳や首の方まで真っ赤になっているだろう。宙を彷徨っていた手からは、じんわりと汗が滲み出ているかもしれない。震える手を下げようとしたら、思いっきりその手を握られた。
「へあっ!?」
「行きましょうっ、片岡さんっ!!」
「はっはいっ。」
今度は、智里が先導する様に樹の手を引いた。気恥ずかしさと緊張で、手汗が酷く感じられる。だけど、脳内の幸せホルモンが溢れ出て来ているのか、口元がニヤけてしまう。こんなだらしない顔を見られたくない一心で、振り向かないでくれと思いながら、智里の後ろを付いて走った。
「あっ、バルーンアートしてますよっ。」
沢山あるパフォーマンスの中から、智里の目を惹いたのは、金色のベネチアンマスクをしたゴシック系ワンピースを着た女性パフォーマーだった。リズミカルな音楽に合わせて細長いバルーンを組み合わせ、大きな花を作ったり、犬やキャラクター物を作って観客に手渡している。若いカップルには、指輪を模したバルーンを作っていた。
「近くで見てみましょうか。」
「はいっ。」
バルーンを貰って退席した所に、なんとか滑り込む。間近で見る本格的なバルーンアートに、ワクワクを隠せない。チラッと横を見ると、智里も夢中になっているのか、体を揺らしている。若い女性らしい、可愛らしい反応に、笑みをこぼしていると、目の前に影が掛かった。見上げてみると、パフォーマーの女性が両手を樹と智里に向けて差し伸べていた。目元はベネチアンマスクをしていて分からないが、口元は弧を描いている。
「え?」
「……。」
何も喋らないパフォーマーの女性に困惑していると、その人は痺れを切らしたのか、強引にも樹と智里の腕を取り、ステージの方へ誘導してきた。教壇の様な机の前に二人で立たされ、何が何だか分からずオロオロしていると、パフォーマーの女性が、智里の後ろに回り、レースで作られたベールを被せてきた。そして、樹の前に来ると、手早く作られた白い花のバルーンを渡してきた。
「……!!」
「えっ? えっ?」
「……。」
何も言わず、智里の方に渡す様な仕草をするパフォーマーの女性。だが、いきなりの事に着いていけずに困惑していると、やれやれと言った風に、腰に手を当て、ため息を吐かれた。そして、もう一度、樹の傍に行くと、寄り添う様に手を取り背中を押した。促されるまま、智里の元へ足を進めると、まるで告白しに行っているかの様な錯覚に見舞われた。足を止めようと踏ん張ってみるが、時すでに遅し。女性が背中を押し、智里の目の前に転がり込む様な形になってしまった。
「えっ、えっと……。」
「――っ。」
「……。」
「……。」
気恥ずかしくなり、二人して顔を真っ赤に染め上げた。丁度、机の所にスポットライトが当てられている為、夕焼けでも、顔が赤くなっているのが、よく分かった。大勢の人が、恥ずかしがっている二人を囃し立てる。パフォーマーの女性も盛り上げる為に、ハートのバルーンが何個も連なった物を振りながら、二人の周りで踊っている。これは正に、告白をしろと言わんばかりのパフォーマンス。頭の中が沸騰してきた。目も、デフォルメで渦を巻いている状態だ。
「ままま、前田、さんっ。」
「……はい。」
今にも涙が出そうな目で見えたのは、恥ずかしそうに俯きながらも、視線はこちらをしっかりと捉えている、ベールに包まれた大きな瞳だった。バルーンを持つ手が震える。片手で抱いているハクが、心配そうにクンクン鳴きながら樹を見上げた。すると、智里の手が伸び、樹が持っていたバルーンを持って行った。
「……片岡さん。」
「ひゃっ、ひゃいっ!!」
「……もし、嫌でしたら、受け取らないでくださいね。」
「……え?」
智里は、自分に掛かっていたベールを外すと、未だに困惑している樹の頭に被せた。そして、白い花のバルーンを樹の前に差し出した。
「ずっと、ずっと前から、慕っていました。一人の、男性として……。」
「あ……。」
ブワッと、全身の毛が逆立つ様な感覚がした。血液が逆流していく様な、全身の筋肉が硬直する様な、そんな感覚。でも、全く嫌なものではなく、寧ろ嬉しい方だ。思わず、ハクを抱いている腕に、力が籠る。苦しそうに唸りながらバタバタともがいているが、ガッチリとホールドしている上に、思考がほぼ停止状態なので、腕からすり抜ける事も出来ず、ハクは諦めて耳と尻尾を垂らして大人しくなった。
「……私と、お付き合いして、いただけますか……?」
スポットライトで照らされた智里の真剣な眼差しが、樹を貫く。周りの人の歓声や拍手、指笛が、やけに遠くに感じる。ただただ、耳に入ってくるのは、自身の心臓の音だけだった。樹は、唇を噛み締めた。人生初の告白。胸が躍らない訳がない。だけど、「Yes」の返事として、花のバルーンを受け取っても良いのだろうかと、戸惑ってしまう。樹自身も、智里の事を好いている。もし、ここで花を受け取れば、公認で晴れてカップルになれる。願ってもない事だけれど、まだまだ大学生活も始まったばかりの若い女性なのだから、これから素敵な男性と出会う可能性だって出てくる。そんな時に、自分の様な三十手前の冴えないサラリーマンと付き合うのはどうなんだろうかと、思ってしまっている自分が居る。
「えっと……、その……。」
「……。」
首元や頬を触りながら、どう返せば良いのか考える。だが、一向に良い答えが見つからない歯がゆさに、噴き出た汗が額から落ちていく。早くしないといけないと思いながらも、頭を過るのは、「本当に良いのだろうか?」という事だけだった。
「……やっぱり、――……。」
「え……?」
答えあぐねいていると、さっきまで樹の方を見ていた智里の顔が俯いていた。バルーンを持つ手も、力なく垂れ下がっている。どうしたのだろうかと、オロオロしていると、智里が勢いよく顔を上げた。その顔に、樹は目を見開いた。顔を真っ赤にさせながら、大きな瞳に大きな涙を溜めている。若干ではあるが、肩も震えていた。どうしていいか分からず、兎に角、智里の方へ手を伸ばし足を進めてみると、その手から逃れるかの様に智里は後退りし、バルーンを樹に投げつけて走り出してしまった。水滴となって飛んできた涙が、テラコッタタイルに数滴落ちる。宙を彷徨っている手をどうすれば良いのか迷っていると、ハクまでも、樹の腕を抜け出し、智里を追う様に走っていってしまった。暫く呆然としていたが、智里の涙が脳裏を過り、それで我に返ると、被っていたベールを丁寧且つ迅速に畳み、パフォーマーの女性に手渡した。そして、タイルに落ちてしまったバルーンを持ち、直ぐ様、智里を追いかける為に走った――。
「――待って、お願いだから……!! ちゃんと、伝えたいんだから、俺だって……!!」
転がる様に、走った。すれ違う人たちを掻き分けながら。お台場海浜公園は広い。だが、樹は隅から隅まで探し回った。すっかり日が暮れ、綺麗な満月の明かりと人工的な街灯の明かりが点々としている。普段、ハクの散歩程度の運動しかしていないので、息が上がるのも早い。汗が溢れ、呼吸が苦しい。横腹も痛む。だが、樹は足を止めなかった。一刻も早く智里に追いついて、伝えたい事を伝えたかった。ずっと心の奥底に留めていた気持ちを伝えたかった。
「はぁ、俺、だって、はぁ、はぁ、前田さんの、こと……っ!!」
最後に辿り着いた台場の史跡。誰も居ないその場所の、大きな桜の木の下に智里は居た。満月に照らされた智里は、ハクの顔に頬を寄せる様に俯いていた。樹はゴクリと唾を飲み込み、息を整えた。そして、ゆっくりと桜の木に近付くと、波の音と芝生を踏む音が、やけに大きく感じた。
「……前田さん。」
「……。」
未だ、泣いているのだろうか。呼び掛けたが、一向に顔を上げようとしない。バルーンを持つ手に力が籠る。意を決し、智里に近付いてみると、樹に気が付いたハクが、ひと声鳴いた。だが、智里はそれを無視するかの様に俯いたままだった。それでも、めげずに足を進める。あとちょっとで手が届くといった所で、智里の口が動いた。
「私、馬鹿ですよね……。」
「え……?」
「大勢の前で恥晒して、片岡さんに迷惑掛けて……。」
泣き続けていたのか、喉から絞り出す様なか細い声だったが、はっきりと聞き取れた。肩に触れようとしていた手が、寸での所でピタリと止まる。今まで見た事のない弱気な智里に、樹は泣きたくなった。そんな風に、思わせるつもりはなかった。だけど、女性にとっても一世一代の告白なのに、しかも、大勢の前で言わせたのにも関わらず、樹は答えあぐねいてしまった。恥ずかしかっただろう。答えてほしかっただろう。樹は、唇を噛み締めた。
「……気にしないで下さい、とは言いません。ですが、あの時言った事は、どうか、忘れて下さい……。」
「なっ……!!」
「お願い……。」
潮風が強く吹き、智里の髪を乱す。いつの間にか流れてきていた雲が、満月を覆い、二人を照らす物がなくなった。暗がりでも分かる。智里が泣いているのが。樹は、更に唇を噛み締めていたら、どうも切れてしまったのだろうか、口の中に鉄の味が広がる。だが、そんな事はお構いなしに、唇を噛み続けた。意気地がない自分に、腹が立つ。樹は、今一度、手を伸ばした。
「……俺は、忘れません。」
「……え?」
俯いていた智里が顔を上げた瞬間、程よく引き締まった腕が、智里を包んだ。ホロホロと、大きな瞳から涙が零れる。雲が流れ、また満月が顔を覗かせた時、樹に抱きしめられているのが分かった。
「嬉しかったんだ……。慕ってるって言ってもらえて。でも、俺みたいな奴が、貴女みたいな素敵な人と、釣り合う訳がないって思って、それで、答えれなかった……。」
「そ、んな事……。」
「でも、俺だって、伝えたかった。俺だって、初めて会った時から、ずっと、ずっと、気になってたんだ。明るくって、元気で、でも時折弱い所を見せる前田さんの事が。」
耳元で囁く様に喋る樹に、智里の胸が熱くなる。ハクを抱き締める腕に、自然と力が籠ってしまう。どちらの心音なのか分からないが、やけに耳に大きく聞こえた気がした。暫く抱き締められていたが、不意に樹の腕が智里から離れた。流れる涙を拭いながら樹を見ていると、樹は片膝を地面に着け、バルーンを智里に差し出してきた。
「……好きです、前田 智里さん。俺と、付き合ってくれますか……?」
潮風に吹かれ、なびくバルーンの花。いつもの気弱そうな表情とは打って変わって、真剣な眼差しを向けてくる樹。拭いきった筈の涙が、量を増して溢れ出てきた。頬を伝い、顎から零れる際に風に乗って雫になる涙が、月明かりでキラキラと輝いている。智里はハクを降ろし、震える両手でバルーンに手を伸ばした。
「わた、私の方、こそ、好き、です……っ。樹さん……っ。大好き、ですっ。」
樹の手を包み込む様に、智里の手が重なる。二人を祝福するかの様に、満月が輝く。その様子を見たハクは、嬉しそうに二人の周りを走りながら、ひと声鳴いた。
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・なし
END
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