十二食目 落ち込み男子の焼き肉会
「……。」
「……。」
「……。」
仲眞の額に、玉の様な汗が浮き出る。ここまで重たい空気の中に居るのは、もしかしたら初めてかもしれない。いつもなら、真っ先に喋りだす鈴井も、珍しく押し黙っていた。そして、もう一人、樹も、酒が入ってる訳ではないのに、机に突っ伏していた。肉の焼ける音と香りが、働いて腹を空っぽにさせている男どもの腹の虫を擽る筈が、全く効果を発揮しない。
「あ、あのぉ……。」
「……。」
「……。」
勇気を出して、声を掛けてみる。だが、ものの見事にスルーされた。心が折れてしまった仲眞は、お通しの煮付けをちびちび摘まんだ。緊張している所為か、味がしない。何故、こんな状況になっているのかというと、それは、今日の十二時頃に遡る――……。
「――はぁ……。」
コピーを取っていた樹が、
「ゴホッ、な、なにするんですか、先輩っ……!!」
「……なぁ、樹の様子、可笑しいと思わねぇ?」
「え? ああ、そう言われてみれば、いつにも増して溜め息吐いてますよね。」
そう言っていると、また溜め息を吐いた。異様なまでの多さに、いい加減、心配になってきた。
「いよぉ、樹ちゃん。溜め息ばっかだなぁ。もしかして、フラれたか?」
声を掛けようか掛けまいか悩んでいたら、岡元が切り込んできた。背中を勢いよく叩かれた樹は、コピー機に倒れ込む。いつもなら、直ぐに起き上がるのだが、いつまで経ってもコピー機に突っ伏したままだ。流石に肝を冷やした岡元が、樹の肩を揺さぶる。
「お、おいおい。冗談じゃないか。そんな、間に受けるなよ。」
「……。」
「ええー……。」
全く反応しない。完全に参ってしまった岡元は、誰か助け船を出してくれそうな人を探した。そして、目に止まったのは、こっちを見ていた鈴井と仲眞だった。なにかを閃いた様に、ニヤリと口角を上げる。
「おーい、樹ちゃん。鈴井と仲眞が、焼き肉連れてってくれるってよ。」
少ししか離れていないので、岡元が樹に言った事が、しっかりと二人の耳に入った。名指しで、しかも焼肉に連れていく様に言われるとは、思いもよらなかった二人は、顔を見合わせた後、岡元達を見た。
「……焼き肉……?」
「そうだ。男なら、肉食って元気つけろよ、なっ。」
「……。」
突っ伏していた樹が、漸く反応した。ゆっくりと上体を起こし、ズレた眼鏡越しに、岡元を見る。岡元も、ニコニコとしていたが、正直な所、冷や汗ものだった。ほぼ、光の灯っていない目で見られるのだ。怖くてしょうがない。すると、グゥーと、気の抜けた音が発せられた。しかも、何度も。
「……樹ちゃん、最後に飯食ったのいつ?」
「…………昨日の、夜……?」
曖昧な答え方に、岡元の額に汗が溜まった。これは、本当にヤバいと、直感で感じた。「朝食は大事だ。」と、常日頃から言っている樹が、最後に飯を食べたのが昨日の夜だなんて、あり得ない事だ。しかも、もう十三時になろうとしている。岡元は樹の両肩を掴んだ。
「樹ちゃん、俺が奢ってやるから、今すぐ二人としっかり食ってこいっ。そんで、悩み事吹っ飛ばしてこいっ。」
「え、でも……仕事……。」
「元気になってからで良いからっ。上には俺から話し付けとくし。なんだったら、もう今日は早退しろっ。良いなっ!! 分かったなっ!?」
「……はぁ。」
これだけ大声で言われたのにも関わらず、未だにぼんやりと返事をする。そんな反応に、頭に血が上った岡元は、大声で仲眞と鈴井を呼んだ。窓が揺れるんじゃないかと思うくらいの声の大きさに、仕事をしていた全員が、樹達の方を見た。
「……鈴井ぃ、仲眞ぁ。一万やるから、お前らで樹ちゃんを元に戻してこい。」
「え、でも……。」
「い・い・か・ら、行ってこい。」
『は、はいっ!!』
有無を言わせない迫力に、鈴井と仲眞は背筋を伸ばした。そして、未だに棒立ちしている樹を両側から抱え込み、引き摺って会社から出た。
「はぁ……、あの樹ちゃんがあんなに落ち込むなんて、相当だな……。」
――人通りの多い昼下がり。道行く人々から好奇の目で見られながら、鈴井達は会社近くの激安焼肉屋へ入った。そして、個室に通され、それぞれ席に着いた。だが、着いて早々、樹は机に突っ伏してしまった。メニューが、樹に押されて机の下に落ちる。
「あ、ああ、もう。メニュー落ちたぞ。ほら、岡元さんがしっかり食えって言ってくれたんだし、お言葉に甘えようぜ。」
「……はい……。」
「へ、へーっ。このお店って、タッチパネルで注文するんですねっ。新しいなぁ。」
「……そう、ですね……。」
もう、苦笑いするしかなかった。メニューに見向きもせず、ただただ突っ伏し続けている。鈴井と仲眞は、目の前で焼いて良い匂いがしたら、流石に顔を上げるだろうと思い、どんどん肉を頼んだ。暫くすると、肉が乗った皿でテーブルは埋め尽くされた。早速、分厚く切られたタンを焼いていく。温められた網に肉が触れると、ジュワッと焼ける音が響く。途端に、鼻を擽る肉の香りが、空きっ腹を抱える三人を包む。
「くぅーっ!! この匂い、堪んねぇっ。」
「本当ですね。ねぇ、片岡せ……。」
肉をひっくり返しながら、隣の樹を見る。こんなにも食欲誘う香りが充満しているのにも関わらず、樹は突っ伏したまま動かない。だが、腹の虫は、元気に鳴いていた。この時、二人は、「あ、重症だな。」と、本気で思った。そして、気まずい雰囲気の中、冒頭に至る――。
「せ、先輩、俺、こんなにしんどくなる焼き肉、初めてなんですけど……っ。」
「俺だって初めてだよっ。肉も焼き過ぎで、炭になりかけてるよっ。」
身を乗り出し、コッソリ話す。視線を下に向けると、何度もひっくり返した肉が、少し黒く焦げ付いていた。腹の虫は鳴り続けているのに、箸を伸ばす人が突っ伏したままだ。痺れを切らした鈴井が意を決し、口を開いた。
「あ、あー、あのさ樹。なにがあったか知らないけどさ、元気出せよ。」
「……。」
「俺なんて、書類をぶちまけたわ、コピーミスったわ、合コンで女の子怒らせて全員帰らすわで、これでも
「いや、それは流石にヤバいですよ。」
元気付けようと、自分の失態をベラベラと喋る鈴井。それを聞いた仲眞は、完全にドン引きしていた。だが、それでも樹は顔を上げなかった。そして、焼いていた牛タンから一滴、脂が滴り、炭にかかった。その時、突っ伏していた樹の瞳が、鋭く光った。
「……そこだぁっ!!」
いきなり大きな声を出したかと思うと、素早く箸を取り、タンを取った。皿にタンを乗せると、専用のハサミで棒状に切り分け、塩を少し付けて一口いった。あんなにも、しっかりと焼けていたのにも関わらず、中は赤みが残っている。あまりの素早さに、二人はポカンとしていたが、美味しそうに肉を頬張る樹を見て、治まっていた腹の虫が盛大に鳴って、涎が溢れた。
「おっしゃあっ!! 仲眞!! 片岡!! 焼いて焼いて焼きまくるぞっ!!」
「もう、焼いてますっ。」
「早くしないと、片岡先輩に全部食べられる勢いですよ。」
テーブルの上にあった肉を片っ端から、どんどん焼いていく。積み上がった皿は、何棟も出来上がっていた。
「――ふはぁ、食べた……。」
「殆ど、片岡の一人食い状態だったな。」
「|〆(シメ)は、どうします? 岡元さんから頂いたお金、後二千円弱は残る計算ですけど。」
ここの焼肉屋は、安い割に分厚いし、量がある。岡元から貰った一万円で、皿のタワーが出来上がっても、まだ残っている。メニューを捲っていくと、ある品が目についた。樹は、おずおずとそれを指差す。
「じ、じゃあ、コレ……。」
「お、良いじゃん良いじゃんっ。三人分注文っと。」
〆の品を頼み、来るのを待つ。樹を見遣れば、いつも通り、食を楽しんでいる顔をしていた。さっきまでの暗さは、どこかに行ってしまった様だ。鈴井と仲眞は、安堵の溜め息を吐いた。
「お待たせいたしました。ビビンネンミョンになります。」
「ありがとうございます。」
若い店員が、銀のボウルに入った冷麺を持ってきた。野菜と調味料の色彩鮮やかな、|咸興(かんこう)発祥のビビンネンミョンだ。ビビンネンミョンは、コチュジャン・酢・ごま油・砂糖などを合わせた辛い合わせ調味料で麺を和え、肉類・ゆで卵・きゅうりの千切りなどを形良く盛り付けられ、食べる際によくかき混ぜる、韓国冷麺だ。一緒に付いて来た、鉄で出来た箸でしっかりと混ぜる。
「では、いただきます。」
「いただきます。」
「いっただっきまーす。」
ズズズッと良い音を発てながら、麺と野菜、調味料を一気に啜る。さっぱりした中に、コチュジャンの辛さが合わさり、脂で重たくなった胃をスッキリさせた。汗をかきながらも、かぶり付く様に啜った三人は、最後の一滴まで味わった。
「はぁ……。ご馳走さまでした……。」
箸を置くと、調味料で汚れた唇を舌で拭い、悦に浸る。満腹になった様で、樹は大きくなった腹を擦った。
「漸く、いつも通りになったな。」
「え?」
「全然、元気なかったんで、皆心配してたんですよ? 特に、岡元さんが。」
「え? え?」
二人が心配しているのを他所に、樹は全く分からないと言った感じに戸惑う。その様子に、頭を捻った。
「わ、私、そんなに元気なかったですか?」
「端から見れば、可笑しい位にな。」
「岡元さんの問い掛けにも、殆ど反応してなかったですよ。」
「う、嘘ぉ……。」
なんとか思い出そうと、頭をフル回転させた。だが、午前中の事が思い出せない。うんうん唸りながら、頭を捻る。そんな樹の様子に痺れを切らした鈴井は、手を叩いた。それに反応して、樹は顔を上げる。その顔は、なんとも情けない表情だった。
「あんま、無理して思い出そうとすんなよ。」
「で、でも……。もし、先輩に失礼な事してたら……。」
「それはなかったんで、大丈夫ですよ。それよか、明日は元気な顔して出社してください。岡元さんも、それを望んでるんですから。」
「は、はぁ……。分かりました……。」
まだ納得出来ていない感じではあるが、樹は頷いた。そして、腹を満たした三人は、岡元から貰った一万円で会計を済ませ、焼肉屋を後にした。
「え、えっと、今日はありがとうございました。焼き肉、美味しかったです。」
「ま、お前が元気なかったお陰で、こんな昼間っから食えたんだけどな。」
「あはは……。すみません……。」
早退扱いにされているので、そのまま直帰する三人。明日は、しごかれるなと薄々と感じながら歩いた。
「そういえば、どうしてあんなに元気なかったんですか?」
「え?」
「そういや、理由を聞いてなかったな。」
駅で電車待ちしていると、ふと思い出した様に仲眞が切り出した。それに対し、首を傾げる樹は、暫くして思い出したのか、手を叩いた。そして、照れくさそうに頭を掻いた。
「あ、あの、実は昨日の晩、徹夜してしまって、朝起きれなかったんですよ……。」
「はぁ。」
「そ、れで、朝飯、食いそびれて……。」
そこまで言って、漸く理解した。寝過ごした樹は、朝飯を食べずに出社し、腹減りのまま仕事をしていた。カロリーメイト等の補助食品を滅多に食べないので、昼まで我慢していたのだろう。だが、その前に、岡元に心配させて、早退をさせられたといったところだ。
「なーんだ、俺もてっきり、フラれたのかと思ってたのに。」
「ちょっ、不謹慎ですよっ。」
「あー、でも、ちょっと、合ってる、かも……。」
「……え?」
「なんだって?」
最後の方が、聞き取れなかった。聞き直そうとしたのと同時に、駅構内に電車到着のアナウンスが流れる。そして、樹だけが乗る特急が来た。「すみません、私は、これで……。」そう言ったのが、ギリギリ聞こえたが、いち早く乗り込もうと周りの人が詰めかけ、樹とは離れてしまった。流れる様に乗った樹は、もう人の波に飲まれてしまい、全く見えない。取り残された二人が立ち尽くしていると、瞬く間に、電車の扉が閉まり、発車してしまった。
「なぁ、仲眞……。」
「……なんですか、先輩。」
「片岡は、前来てたあの可愛い女の子に恋してたんじゃね?」
「は?」
「そんで、寝過ごしたってのは口実で、実は
「……本当に、先輩は不躾ですね。」
智里と樹に関しては、ただの仲の良い隣人としか聞かされていない。そんな妄想だらけの事を鈴井が熱弁しながら、自分達が乗る鈍行をのんびり待った――……。
―本日のメニュー―
・焼き肉(多種)
・ビビンネンミョン(汁無し韓国冷麺)
End
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます