四食目 誰にも優しい栄養満点リゾット

「ふぁ……、今日も良い天気だなぁ。」


 本日は、休業日。いつもなら、十時くらいまで寝ているのだが、今日に限っては、六時に目が覚めた。しかも、眠たくなく、爽やかな目覚めだ。カーテンを開けると、朝日が眩しい。ベッドの上で伸びをすると、凝り固まった筋肉が伸び、肩の骨と腹が控えめに鳴った。白米が炊けるまでにはまだ時間がある。オカズを今から作っても、冷めるだけ。どうしようと頭を悩ませていた時、同僚の鈴井が、朝早くにジョギングしてるというのを思い出した。


「ジョギング……。」


 走るのは、別に苦手じゃない。営業周りしてる時は、常に走り回っているので、体力はそれなりにあると自負している。だが、今日は走りたい気分じゃない。っと、言う事で――……。


「散歩でもしてみようかな。」


 チノパンにポロシャツ、ジャケットというラフな格好に着替え、早速、早朝散歩に出かけた。玄関の扉を開けると、まだ四月だから少し寒い。腕を擦りながら、静かに扉を閉めた。


「んー、気持ち良いな。」


 普段、こんなに早くにゆっくり歩く事がないので、とても新鮮だ。東京だというのに、空気が気持ち良い。途中、公園に立ち寄り、昔懐かしいブランコに座ってみる。


「はは、やっぱ小さいな。」


 一応、座れはするが、子供の頃の様に、両脇に隙間が出来ない。歳を取り、身体が成長したんだと、つくづく思う。暫く思いに耽った後、帰ろうとブランコから立ち上がった。


「……ん?」


 トンネル山で、何か動いた様な気がした。見間違いだと思ったが、また、動いた。帰るのを止め、恐る恐る近付いてみる。屈んで、中を覗いてみれば、所々開いているトンネルの穴から差し込む光で、それが何か分かった。


「子犬だ……。」


 泥だらけで、弱々しい。樹は、そっと手を伸ばした。一瞬だけ、子犬は身体を強張らせたが、弱っている所為せいか、鳴く事も噛みつく事もなく、樹の手に触られていた。


「――……っ。」


 優しく触っていたが、あまりの弱り具合に、樹は着ていたジャケットを脱いで、それに子犬を包み込んで抱き上げ、しっかりと腕の中に閉じ込める。そして、走ってアパートへ戻った。


「はぁっ……、まだ朝早くて、良かった……。」


 急いで帰ったお陰か、早起きの大家も出てきていなかった。ペンキで塗りたくられた鉄筋の階段を登り、自分の部屋に向かう。ここで、少しでも物音を発てて、大家が出てきたら一大事だ。ここの大家は、見た目は穏和で優しそうなお婆さんだが、一度、規則を破れば、鬼の形相と化す。この間、新成人になったばかりの男子大学生が、夜通し友人を部屋に連れてどんちゃん騒ぎをしたら、翌朝、一時間以上説教されたという話を聞いたばかりだ。このアパートは、動物禁止。もし、バレでもしたら、怒られるどころじゃない。この子犬と一緒に、路頭に迷うかもしれない。そう考えただけで、背筋が凍った。


「あ、後少し……。後少し……。」


 ソロソロと通路を歩く。と、その時、どこかの部屋の鍵が開く音がした。身体が、ビクッと反応し、一気に冷や汗が流れる。心臓が早鐘を打ち、そこから一歩も動けないでいると、目先の扉が開いた。


「あれ、片岡さん。どうしたんですか?」


 出てきたのは、前田だった。彼女も、ジョギングか散歩にでも行くつもりなのか、スポーツウェア姿だった。見知った人の登場に、緊張の糸が切れたのか、樹はその場に座り込んだ。いきなりの事で、前田は動揺し、慌てて駆け寄る。


「か、片岡さん!? どこか具合でも……て、その腕の中にいるの……。」

「あ、いえ、大丈……ぶじゃないっ!!」


 心配そうに覗き込む彼女を他所に、樹は勢い良く立ち上がった。屈んでいた前田は、ビックリした顔で、樹を見上げる。


「ご、ごめんなさいっ。今、あの、その、あ、後で説明……っ。」


 言い終わるよりも先に、前田が樹の腕を掴む。そして、女性とは思えない程、力強く引っ張られた。突然の事に、身体が着いていけない。彼女の成すがまま、樹は前田の部屋に入れられた。


「あ、あの……。」

「片岡さん。その子、だいぶ弱ってますね。」

「!! 気付いてたんですかっ!?」

「取り敢えず、泥を流してあげてください。洗面所は向かって右の扉です。」


 テキパキと指示を出す前田に圧倒されながら、樹は急いで靴を脱ぎ、洗面所に向かった。ノズルをシャワーにし、温かい湯で丁寧に泥を流していく。すると、汚れていたから分からなかったが、この子犬はとても綺麗な白色の毛をしていた。一頻り洗い終えると、洗面所の扉をノックされた。濡れた手をポロシャツで拭い、扉を開けると、冷たい外気が頬を撫でた。


「お疲れ様です。これで子犬を拭いてあげてください。」

「あ、はいっ。」


 手渡されたフワフワのバスタオル。ほんのりと、優しい柔軟剤の香りがして、少しドキッとしてしまったが、子犬が小さくクシャミをした事で、直ぐに濡れた身体を拭いてやった。そして、しっかりとバスタオルでくるんでやり、前田の元へ行く。まだまだ整理整頓が出来ていないのか、廊下には段ボールが積み重なっている。それを掻い潜り、リビングへ行くと、注射器に液体を吸入している前田の姿があった。その、可愛らしさとのギャップに、樹は息を呑み呆気に取られた。


「片岡さん、その子をこちらに。」

「あ、は、はいっ。すみません……。」


 差し出された手に、子犬を乗せる。彼女は、優しい目をしながら子犬を見つめると、「もう、大丈夫だからね。」と呟き、首元に注射器を刺した。子犬が一瞬、ビクッと身体を強張らせたが、徐々に身体の緊張が解けていくのが分かる。前田は、一つ息を吐くと、両手で子犬を抱え、樹に差し出した。その額には、玉の様な汗が滲み出ている。


「これで、大丈夫ですよ。後は、栄養のある物をしっかりと食べさせてやってください。数日で走り回れるくらいに回復しますので。」

「あ、ありがとう、ございます……っ。でも、あの……。」


 ここでは動物は飼えないのを伝えようとした時、グゥーと音が鳴った。樹の腹ではない。もしかしてと、前田を見ると、真っ赤な顔をして俯いていた。どうやら、彼女から腹の虫が鳴った様だ。クスッと笑うと、樹は腕時計を見やった。時計の針は、もう七時をとっくに過ぎている。


「……宜しかったら、朝御飯、作りましょうか?」


 俯く彼女に問えば、パァァッと効果音が付く位、顔を明るくさせた。が、我に返ったかの様に直ぐに顔を背ける。


「だ、ダメですっ。二度も、ご飯を作ってもらうなんて……。」


 恥ずかしいのか、耳まで赤く染め上げている。先程までの凛々しさは、欠片もない。恐らく、彼女も緊張していたのだろう。樹は、少し思考を変えた。


「……では、こうしましょう。小さな命を助けてくれたお礼がしたいんです。この子が、ね。」


 腕に抱えられている子犬を前田に見える様に身体をずらす。落ち着いてきたのか、リラックスした表情で眠っている。それを見て、二人してクスッと笑うと、前田は「では、お言葉に甘えて……。」と、はにかみながら、頭を下げた。


「――今日は、胃に優しいリゾットに。」


 子犬を前田に預け、一度自分の部屋に戻った樹は、汚れた服を着替えてからエプロンをし、調理に掛かった。


「まず、カボチャ、ブロッコリー、ニンジンを一センチ四方に切る。鍋に水を張ったら、火にかけてカボチャとニンジンを下茹でしておく。その間に、ミニトマトと玉ねぎを細かく切る。」


 犬には、玉ねぎは毒だ。ちゃんと分けておかないと、下痢をしてしまうので、他の材料に混ざらない様にしておかなければならない。カボチャに竹串を刺し、柔らかくなったらザルに上げ、今度はその湯でブロッコリーを茹がく。茹で汁はスープになるので、きちんと取っておく。これで、下準備は整った。二つの鍋を用意し、それぞれに鳥挽き肉を入れて炒める。色が変わってきたら、野菜と茹で汁を入れて煮込む。樹達が食べる分には、玉ねぎを入れる。下茹でをしてあるので、コトコトしだしたら炊いておいたご飯を入れる。今日は、玄米ご飯だ。


「うん、良い香り……。」


 優しい香りが発ちだす。鳴り出した腹を押さえながら、器を用意する。


「――よし、そろそろ良いかな。」


 いざ、蓋を開けてみる。湯気の中から、野菜がしっかりと溶け込んだ玄米が顔を覗かせる。自分達様のには、味付けとしてケチャップ、塩コショウを。子犬のは、このままで。犬には、少しの塩分も負担になる。それだけ、犬は気を使わなければならない生き物だ。


「さて、このままでも、十分美味しいんだけど……。」


 軽くかき混ぜた後、樹は冷蔵庫からタッパーを取り出し、中身をパラパラッと振りかけた。椀に盛れば、リゾットの完成だ。お盆に乗せ、自分達のにはセラミックのスプーンを差し込んでラップを。子犬の分にはプラスチックのスプーンを差し込んだ。しっかりと持ち、待っているであろう、前田の部屋へ走った。チャイムを鳴らし、扉を開けてもらう。そして、リビングに向かうと、小さなテーブルに二人分の椀を置いた。まだ、子犬は起きてない。


「わぁ、美味しそう。」

「どうぞ、召し上がってください。」

「はいっ。いただきます。」


 まだ湯気の立つリゾットを掬い、数回息を吹き掛けて冷ますと、頬張った。熱かったのか、口を数回開け閉めし、外気を取り込んで冷ます。そして、漸く噛み締めて飲み込んだ。


「ん、美味しいっ。美味しいです、片岡さんっ。」

「それは良かった。」


 美味しい美味しいと言いながら、次から次へと頬張る。それを見て安心した樹は、自分もリゾットを頬張る。


「トロットロですね。上に乗っているのはチーズですか?」

「ええ、自家製チーズです。」

「チーズって、家で作れるんですか?熟成とかで、温度調節が難しいんじゃ……。」

「カッテージチーズの場合、発酵や熟成はさせないので、家でも簡単に作れますよ。それに、ヨーグルトを使っていますので、ヘルシーなんです。」


 このチーズは、樹が今日の昼御飯用のディップに使おうと思って、昨晩から仕込んでおいた物だった。ヨーグルトをキッチンペーパーを敷いた耐熱容器に入れ、更にキッチンペーパーを被せて蓋をし、レンジで加熱。二、三度繰り返し、後は放置。ホエーがしっかりと抽出され、カピカピになったら、完成だ。


「はぁー、凄いですね。カッテージチーズなら、牛乳に含まれてる乳糖も大幅に減ってるんで、犬が食べても大丈夫ですし。」

「いや、それほどでも……。」


 尊敬の眼差しで見つめられ、顔が熱くなる。恐らく、真っ赤になっているだろう。樹は、それを隠す様に椀を持ち上げ、掻き込んだ。


「……ワンッ。」


 その時、弱々しくではあるが、子犬が鳴いた。聞こえた方を見ると、ヨチヨチではあるが、二人に向かって歩いている。二人は、顔を見合せ喜んだ。前田は子犬を抱き上げると、子犬用のリゾットを取り、スプーンにほんの少し掬うと、子犬の口元に持っていった。訝しげに数回鼻を揺らし、匂いを嗅ぐと、舌先でリゾットを舐める。ドキドキしながら、その様子を二人で見守る。すると、心配していたのが馬鹿馬鹿しいくらい、子犬はスプーンを無視してお皿の方にがっついた。二人して、ホッと息を吐く。


「もう、大丈夫みたいですね。」

「良かった……。」

「ワンッ。」

「あ、そういえば、この子に注射打ってましたよね。どうして……。」


 元気そうに食べる子犬を見ながら、樹は疑問に思っていた事を聞いてみた。普通の女性が、注射器を持っているはずがない。思い切って聞いてみたら、一瞬キョトンとされたが、照れた様にはにかんだ。


「あぁ、私これでも、獣医の免許持ってるんですよ。」


 意外な答えが返ってきた。前田は、書物が置いてある机に置いてある黒い鞄を漁ると、差し出してきた。それは、真新しい獣医師免許。まじまじと見ていると、素早く引っ込められた。


「あんまり、見ないでください。写真、あんまり良い顔してないし……。」

「あ、ご、ごめんなさい……。それにしても、凄いですね。まだ、お若いのに……。」

「それでも、もう二十四ですよ。片岡さんだって、若いですよね?」

「今年で、二十九になります。」


 話に花を咲かしていると、子犬が元気よく鳴いた。見やると、椀に足を突っ込んで舐めている。しっかりと抱え直すと、トマトで赤く染まった身体をティッシュで拭った。このまま、時間が止まってくれたら良いのに。樹は、前田と子犬を見ながらそう思った。――が、そんな願いとは裏腹に、現実とは残酷なものだった。


「ど、どうしよう……。」


 目の前の物と対峙しながら、頭を抱える。結局、あの後、大家がやって来て、二人揃ってこっぴどく叱られた。そして、言われたのが、「最後まで、きちんと面倒を見る事。」だった。実は、前々から住民のペットの同棲を考えていたらしい。これを皮切りに、大家は、入居条件に新しく追加すると言ってきた。


「ワンッ。」

「うわぁぁぁっ、シーッシーッ!! 吠えちゃダメだってっ。」


 足元に居る子犬は、可愛い顔をしながら、樹の周りを何周も歩き回る。見ている分には、癒しなのだが、樹は今日何度目かの溜め息を吐いた。


「まぁ、頑張りますか。」


――本日のメニュー――

・野菜たっぷりリゾット(玉ねぎ有、ケチャップ等味付け)

・犬用リゾット(玉ねぎ、味付けなし)






End

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