第8話 魔法の城
私がその場所を通ったとき、空気が一瞬止まった。
例えるなら、大型動物、あるいは食虫植物の腹の中に納まったときのような感触。
それだけで十分だった。私は警戒を強める。
次の瞬間、私の視界が一斉に開けた。
空気はよどんではいない。だが、空間が閉じている、そんな感じ。
そして目の前に現れたのは、巨大な山、というよりは建造物だった。
かつて私の住んでいた世界で「城」と呼ばれていたもの。
それが私の目の前に、忽然と姿を現したのだ。
背後には、人々が住む街並み。ただし、人の気配は一切しなかった。
「……いらっしゃい、可愛いお客様。どうぞこちらへ……」
突然、声がした。柔らかな女性の声。姿は見えない。
「……あたしは城の中にいます、怖がらずに入ってきてください。おいしいお菓子も用意してますよ……」
お菓子……? その言葉の意味を考えるのに、しばらくかかった。
良い匂いの正体は、そのお菓子のせいだったのだろうか。
この声の主が作ったのか? だが、食虫植物も美味そうな匂いで獲物を誘う。荒野にいた怪鳥は、犠牲者の声真似をして敵を油断させ襲い掛かる。
私は憎き赤竜を仕留めたときに使った猛毒を短剣に塗り、油断なく構えると城内に侵入した。
「……怖がらないでください、あたしはあなたとお友達になりたいんです……」
トモダチ? トモダチとは何だ。それは食べられるのか。
声の主の居所はわからない。
だが、風の中に紛れていた最初の匂いは、かすかにこの城内からする。
私はその匂いの場所を嗅ぎ分けて、城の奥へ奥へと突き進んだ。
そして再び視界が開ける。
そこには、大量の美味そうな匂いのする食べ物の山。そして、
声の主であろう、女性がいた。その人は長い長いテーブルの上座に座り、ほほ笑んでいた。
「はじめまして、小さなお客様。あたしはこの城の主、リオと言います」
何を言っているんだ、こいつ。お前だって小さいじゃないか。
文句を言いたかったが、私の口からは言葉を紡ぐことはできなかった。ただ、
「う……、あー……」
という唸り声のようなものが出ただけだ。まるで野生児だ。
この世界で人と話をするのは久しぶりだったせいなのか。自分が人間であることを忘れてしまっていたのか。
それが油断となった。
「獲った!」
男性の声が背後から聞こえ、私は羽交い絞めにされた。
油断。やはり罠だったか。
「待って、その子はあたしの客よ!」
「何言ってやがる、こいつを突き出して金にする、そういう約束だろう、がぁ!?」
私は掴んでいた男の手を握りつぶすと、続けざまに短剣を奴の腕に走らせた。
「この餓鬼、化物みたいなステータスしてやがる!」
ひ弱な人間風情が、この私に逆らうからだ。荒野ならお前みたいなのはせいぜい下等種族の餌にしかならない。
「い……、ね……」
さっさと死ね、そう言いたかったのだが、またしても言葉にならなかった。
毒を受けた男は変色した腕に驚き、情けない声をあげていた。
「こいつPKか!? うう畜生、ゲームマスターに突き出してやるううぅぅ!! こんな毛も生えてない餓鬼ごときにこの俺様がああぁぁぁ!!!!」
赤竜も似たような感じで遠吠えをしていたが、こんなことを言っていたのだろうか。
そんなことを考えていたら、血迷った男がもう片方の腕で武器を構えた。長物――銃? だった。
「いけない、逃げて!!」
「お前も死ねや!!」
確か礫を高速で飛ばす人間の武器。だがいかに礫が早く飛ぼうとも、それを扱う生き物の速度が遅くては意味がない。
男のあまりの遅さに、私は再び油断していた。
それは細かな礫を広範囲にまき散らす銃――ショットガンと呼ばれる類の銃だったのだ。
自分より素早く動く動体を確実に仕留めるための銃。狡猾な人間の英知の結晶の一つだった。
どぉん。
躱した、と思ったのは間違いだった。
私の視界は一瞬にして途切れた。だが私は勢いを殺さず男にとどめを刺す。
ぼたぼた。
こんな一撃を受けたのは久しぶりだ。人狼に顔を殴られたとき以来だろうか。
回復には、しばらく時間がかかるだろう。まずはこの場所から逃げなければ。
「待って!」
女性の声がした。さっきのリオ、とかいう女の声だった。
邪魔だよ。
「うぐっ」
手ごたえあり。これでこいつもしばらくは動けないはずだ。
しかし、女はまた近づいてきていた。
「……だ、大丈夫だから。あたし回復魔法は専門外だけど、ちゃんと使えるから。痛いかもしれないけど、待っててね……」
鈍かった頭部の痛みが急激に増した。何をしているんだ、こいつは。
「がるる」
「……落ち着いて、回復魔法だから。いたいの痛いの、飛んでけ~……」
そのフレーズ、聞いたことがある。……確か前にも、お母さんが……。
「……ごめんね、もっとちゃんと回復魔法、勉強しておくんだった。ほんとにごめんね……」
ふわり、と柔らかいものが私を包み込む。
同時に、とても良い匂いがした。
ああ、そうか。この匂いは、こいつから出ていたものだったのか。
からん。
私の手から、短剣が落ちていた。
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