第三章『友達の友達』
第26話『世の中には不思議な話がある』
1.
世の中には不思議な話がある。
たとえば、航海史上最大の謎と呼ばれているメアリー・セレスト号の事件についてだ。
一八七二年十二月四日。十九世紀は標準時間の制定前ということもあり、時間帯からするに十二月五日であったとも言われている。
その日、ポルトガル沖を漂流している帆船をデイ・グラチア号によって発見された。
遭難信号を掲げていないことから漂流中と判断したデイ・グラチア号の船員は調査のために乗り込んだ。
船内を調べるうちに次々と奇怪なことが判明してきた。
無人で漂流していたメアリー・セレスト号の船長室、そのテーブルの上にあった朝食は食べかけのまま暖かく、コーヒーはまだ湯気を立てていて、調理室では、火にかけた鍋が煮立っていた。それは船員の部屋も同様だった。
船長の残したと思われる航海日記には、『十二月四日』の日付を記した走り書きが残されていた。
更に、救命ボートもすべて残っていて、綱を解いた形成もなく、船の倉庫には六ヶ月分の食料と水が残っていた。運搬中の積荷であるアルコールの樽も残ったままで盗難にあった様子はなかった。
航海史上最大の謎。
メアリー・セレスト号の事件。
極めて不可解に思えるこの失踪事件。
この事件の真相は極めて有名である。知らない者に話しても少し考えればすぐにわかる真相でしかない――こんな話を鎖理りりすちゃんや、神崎衣織せんぱい辺りにすれば一瞬で看破されてしまうだろう。その程度のことでしかない。
「そもそも、その話、おかしいですね」
りりすちゃんは言う。
「船を発見したのは十二月四日――ええっと、時刻の制定前だから十二月五日だったかもしれないんですよね? あくまで制定されていなかったのって、時刻であって、日付じゃないんですよね? だったら、発見したのは十二月四日の午後ってことになるんじゃないんですか? あるいは十二月四日の午前――」
つまりは。
「――深夜だったことになるんじゃないんですか?」
りりすちゃんは続ける。
「日付の切り替わりが曖昧だったから四日かもしれないですし、五日かもしれないってことなんじゃないんですか? それはおかしいですよね。十二月四日にしても十二月五日にしても――時刻は午前と午後の曖昧なところですよね。なのに、どうして朝食が暖かい状態で残っていたというのでしょう? 不思議ですね、一体どんなふうに調理すれば朝食は暖かいまま半日以上もあり続けられるんでしょうか――まあ、そんなわけないですよね。なので、こう考えるのが妥当ではないでしょうか」
これは、作り話である、と。
そう。これは作り話だ。
航海史上最大の謎と呼ばれる失踪事件は実在するが、その多くがでっち上げられた話である。確かにデイ・グラチア号という船も、メアリー・セレスト号も実在した。そして乗組員は全員失踪していたのは事実だ。食料庫の食料と水が残っていたのも事実だ。
しかし。
朝食が状態で残っていたという報告は実在しない。
更に言えば、航海日記にも偽りが存在する。
メアリー・セレスト号に残されていたのは十日以上前にアゾレス諸島近海にいるというものだった。
更に言えば、船は水浸しになっていて、羅針盤は壊され、時計は機能していない状態から――この帆船は故意によって遺棄されたものだということを示唆していた。
トラブルが起きてやむを得ず船を遺棄することは、航海において、決して珍しいことではなかった。そんな航海においてあり得るトラブルの中で、メアリー・セレスト号の話がどうしてこれまで広まったのか――どうしてこれまで事実が大きく歪曲してしまったのか。
メアリー・セレスト号の失踪事件。
これがここまで変貌を遂げたことには、怪談として広まったことにある。どんな話でも、語り手や語り継ぎ方によって大きく歪曲し変貌を遂げる。
作り話が、あたかも真実であるかのように。
作り話が、あたかも前から存在していたかのように。
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