第20話『風水さんは勉強を嫌う』


     6.


「正しいことって何だと思う?」

 誰だったかが悪さをしたときだった。通常の授業を放棄して問題について話し合うことになった。ひと通り議論され尽くした末に、甲斐ノ川先生はそんなふうに切り出した。

 誰だったかが、ルールや法律を守ることです。と言ったのを憶えている。

「間違いなく、それは正しいことと言えるよね。でもね、本当に正しいことをするだけでいいのかな?」

 甲斐ノ川先生は、こう続けた。

「正しいことだけをしていれば、みんなは喜ぶのかな?」

 このあと、甲斐ノ川先生はみんなにあれこれと話していた。話していた内容は、この問いかけに関することではなく、このとき起きた問題を落ち着かせて――二次的な被害を生まないためのフォローだった。

 だから、甲斐ノ川先生は、この問いかけに対して何ひとつとして明言しなかった。

 正しさ。正しいとは何なのか。

 正しさを正解だと考えるのならば、学生の僕には親近感の湧く内容である。僕たち学生は常日頃から正解と間違いを見極め、格闘している。

 数学で言えば公式に当てはめて問題を解く。

 そうして答えを導き出す。

 それで導き出された答えが、正しい答えだ。

 

 僕が習ってきた数学がだとすれば、これは間違いなく紛うことなき正解だ。

 しかし、この公式を発明した者の言ったことに沿っているだけであって、いつ覆されてもおかしくない。

 光の速度を超える物体は存在しない。

 これは相対性理論から導き出されるひとつの事実である。

 だが、これは事実であって、事実ではない。

 相対性理論という理論を正しいものとして成り立っているに過ぎない。

 相対性理論。それは天才と名高いアルベルト・アインシュタインが提唱した理論で、今の世の中はこの法則に基づいていて考えられている。

 一時期、光の速度を超えるかもしれない物質としてニュートリノが話題となった。話題になっただけで、そうかからないうちに光の速度を超える説は撤回されたわけだが、もし、ニュートリノが、光の速度を超えて移動する物質であったならば、二十世紀から現代までのおよそ半世紀に続いて培ってきた常識や理論が根底から覆されることになる。

 正しいと思って習っていたことが、すべて間違いになる――

 それは、今の教育だけではない。

 この現代社会で生きる人間の常識すべてが覆ることになってしまう。

 世の根底が覆ることを意味している。

 考えようによっては、世の根底が覆されることを避けるべく、なかったことにされたのかもしれない。

 ニュートリノは

 なのに、なかったことにされた。

 そんなふうに考えられるだろう。

 もし、そうだったとするならば、正しさなんて隠され、正しいことは間違いになり、間違いが正しいことになる。

 正しいことだけど、間違いとなることが、溢れ返っている。

 正解と間違い。

 間違ったことをしては怒られ、正しいことをしては褒められる。そう教育を受けてきている。

 なのに、正しいことばかりをしていれば、肩身が狭い思いをすることになったり、間違ったことをしなければまともに過ごしていけなかったり――そんなことが多過ぎる。

 正しいことをすれば怒られ、間違ったことをしなければ怒られる。

 実と虚。人の死を悲しまなければ、正常じゃないと言われる。人の死を嘘でも悲しまなければ、正しく生きていられない。社会と世の中は固定概念で塗り固められ、押しつけられたような道徳心に満ち溢れている。

 スポーツにさえ、暗黙のルールなんてものがあるほどだ。

 正も不も。

 勝も敗も。まるで意味をなさない。

 一体、勝ちとは何なのか。

 一体、負けとは何なのか。

 果たして、正しいとは何なのか。

 果たして、間違いとは何なのか。

 社会的な間違いと言えば間違いなく法に触れてしまうことだ。しかし、法に触れたところでばれなければ、罰せられることなく、罪に問われ、社会的な間違いを犯すことにはならない。正しいことばかりをしていると、それは却って後ろ指を指されることにもなる。

 一体何が正しいことで一体何が間違ったことなのか。

 正しいことをする以前に、正しいことというのは一体どんなことなのか。

「それは深く考え過ぎよ」

 そう言ったのは風水ふうすい水海みずみだった。小学校から中学校まで同じだったが、進学と同時に離れてしまった同い年の女子。私立しりつ丁嵐ていらん学園に通っている。

 土曜日の昼頃、電車に乗るとブレザー姿の風水を見つけた。

 僕は風水の隣に座った。片田舎の無人駅から出ている電車ということもあって、乗っている人は少ない。

 こんな弱音を風水に吐露したところ、風水にはそんなことを言われた。

「むしろ正しいとか間違いとか、区別されててわかりやすいのって小学校くらいじゃないかしら。数学だってそうじゃない。小学校の頃は計算すればひとつに答えになったじゃない。1+1=2って。でも、今はどんな計算をしても、情報量が一ヶ所にまとまっただけの式でしかないじゃない。それを正解不正解で学んでるけど、あんなの、あくまで問いに対するだけの答えであって、答えが出てるわけじゃないじゃない」

 あくまで問いかけに対する答えでしかない。

「数学が好きな奴って、必ず答えがひとつだからって言うけど、数学ほどめちゃくちゃな答えになり兼ねない科目はないよ。漸化式のところを習ってるだけなら漸化式の公式しか出てこないけど、ほかの範囲と一緒くたにしたら、どれがどの公式で解かれる問題なのかまったく見分けがつかなくなるじゃない」

 風水は中学校の頃からずっと数学を嫌っている。

 嫌いながらも数学の点数はとにかく毎回上位だった。

「風水は数学嫌い嫌いっていうけど、数学の点数は異様によかったよね? あれはどうして?」

「そりゃ簡単な教科だからだよ。算数と違って答えがはっきりしないところが嫌いってだけだから――それに、数学を嫌いって言うとさ。馬鹿みたいな連中と一緒にされそうじゃない」

「馬鹿みたいな連中?」

「ほらいるじゃない。数学を批判しようとして馬鹿な批判してる奴ら。問題文によくあるじゃない――」

 弟は家を出ました。兄はその三分前に家を出て、三十二メートル先を歩いています。一分間に何メートル歩いているでしょうか?

「――みたいな問題あるじゃない。こういうのを掴まえて、批判する奴。数学が嫌いとかって言う奴はさ。大抵、数学の問題文を指してくだらない誹謗中傷をするんだよ。数学っていうよりもはや算数なんだけどね。そんな奴らと一緒くたにされたくないなーって。だから必死に勉強して一緒くたにされないように頑張ったんだよ。数学の批判じゃなくて算数の批判してる奴と一緒にされないように。数学を嫌いとか言うなら漸化式で特性方程式を解くには一度αを加えてから、更には階差数列に変えて考え直さなきゃならないのが面倒、とかΣの状態に応じて計算方法が変わるから戸惑うとか――せめては二乗を間違えてかける2の計算をしてしまうとか、精々それくらいを言って欲しいものだよ。同じ数学嫌いの面汚しよ」

 漸化式? 特性方程式? 階差数列? まだ習っていない用語が次々と溢れてきて戸惑った。共感できたのは二乗を間違えてかけ算してしまうところだけだった。同級生でも私立と県立じゃ、授業の進み具合も随分と違うんだなあ。

「国語にしても、数学にしても、社会にしても、理科にしても、英語にしても正解なんてろくにないのよね。国語は文章を読んで読み取って各々の解釈で意見を述べないといけない。数学は答えを出してもよくわからないままだし。社会は文化が違うから正しい視点なんて存在しない。理科は偉人の仮説が覆されたらおしまい。英語はよくわからない」

「そういえば風水は英語、苦手だったね」

 僕も苦手だけど。

「そういう定刻は数学が得意じゃなくて好きなんだっけ?」

「うん。数学は好きだよ。ただまあ、点数とか低いけどね」

「嫌いな私が点数取ってるから言えることじゃないけど、好きならなおのこと点数って高くなるんじゃないの?」

「うーん、まあ、そうなんだけどさ。式から答えを導き出す方法は憶えてるし理解もしてるつもりなんだけど、基礎の算数が苦手だから計算ミスばっかりなんだよ」

「数学ができて、算数が駄目な奴とか。いるんだな」

 ひと区切りがついたところで電車は駅に停まった。僕が降りるのはこの次だ。電車に人が乗ってくる。休日ということもあって、私服を着た同年代の奴らが電車に乗ってくる。

「……そういや、風水。何で制服とか着てるんだ? 追試とか補習か?」

「そんなわけないじゃない。うちの学校は土曜日も授業があるのよ。お昼までだけど」

「半ドンとかっていうやつか。私立は大変なんだな」

「まあね。そういう定刻は、どうしたのよ。電車になんか乗っちゃって」

「遊びに行くんだよ」

「ひとりで?」

「待ち合わせ」

「ふうん。デートなんだね」

「そういうのじゃないよ」

 含んだ笑みを浮かべた風水。信じてないな。どうしてこの年代の人は、人が遊びに行くというと、何でもかんでも色恋と結びつけるのだろうか。

「あのさ」

 風水は言う。

「さっきの正解とか間違いの話、あるじゃん」

「ん、ああ、僕の言ってた話か」

「そう、定刻が言ってた話。電車って言えばさ。みんな座席に座りたいじゃん。そりゃ立ってるほうが楽って人もいるだろうけど、座りたい人が大部分を占めてるじゃん。それで、たとえばさ。この電車が都会みたいに満員電車だとして――ああ、満員って言っても朝のラッシュとかってほどじゃなくて、座るところがないくらいのね。目の前にお年寄りが、やってきたとする。そんとき、席って譲れる?」

「うーん……。もう少しで駅に着くとかって言うんであれば、さり気なく席を離れるけど……、でも」

「でも?」

「どうぞって譲るのは無理だね。拒絶されたら大衆がいる中で赤っ恥もいいところだし」

「だよね」

 風水は微笑を浮かべて、言う。

「社会的には、さ。お年寄りに席を譲るのって正しいことじゃない。でも、そんな正しいことも人に寄っちゃ間違いにされることもあるじゃない。一体何が正しくて、何が正しくないのか――」

 溜息混じりに、風水は言う。

「そういうガイドラインってほしいよね」



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