第16話『屁理屈から生まれた先輩』
2.
先生が帰ろうとしたとき、時刻は確か午後八時頃だったと僕は聞いている。
そのとき、階段の途中で身体が捻じ曲がった物体が転がっていたらしい。
それが、疋田広志だった。
階段から転がり落ちて、上手い角度で引っかかって階段の途中で落下が止まったとのことだ。ほとんど、階段を降り切る寸前くらいの位置だったらしいけれど。
「ひょっとして、用事って事件のことに関してですか? 残念ですけど、僕は事件のことをあまり詳しく知りませんよ?」
『違う違う。それもちょっと気になってたから聞こうと思っていたけど本題じゃない。ただ単にお誘いだよ。近いうちにどっかご飯でも食べに行こうよ』
「いいですよ。いつにしますか?」
僕は校舎内を移動しながら日程を話しつつ、また近々改めて予定を決めることになった。会話もひと段落したところで、ふと思ったので、僕は訊ねてみることにした。
『私にとっての幸せ?』
衣織せんぱいの思う――幸せとは何なのか興味があった。
『また妙なことを訊いてくるわね。そうね、そう考えると難しいわね。でも、こういうのって逆から考えればいいんじゃないかしら?』
「逆から、ですか?」
『そう。たとえば、自分にとっての不幸を挙げてみれば、逆に考えることもできるわよね』
「でも、不幸なことって多いものですよ? 石に蹴躓いて転ぶのを不幸として、その逆の石に蹴躓かなきゃ幸せってわけじゃわけじゃないですよ」
『ああ、そっか』
あっさりと向こうは折れた。自分の主張を全然折らない人なのに、あっさり折った。きっと適当だったのだろう。確固たる自分の主張は、何が何でも折らない。
『うーん、いろいろと変に考え過ぎちゃってる気もするわね。……ああ、じゃあこういうのが一番ぴったりじゃないかな』
「……どういうものですか?」
『私が幸せって思うことが幸せっての』
「……なんかずるくないですか?」
『ずるくなんてないわよ。幸せと不幸の線引きは以外にも難しいからね。さっきまで幸せだと思っていたことが数秒後には変わっているなんて不思議なことでもなんでもない。幸不幸、状況や心情や情緒によって何もかも変わってくるんだし、一概に線引きなんてできないわよ。それに線引きして決めるべきことでもないわ。そもそも幸不幸なんて自分自身がよくわかっていないことだってあるんだし、幸せだと線引きしたもの以外でも幸せに感じることもあれば、幸せだと線引きしたものでも不幸に感じることもあるんだから』
まあ、そうだろうな。
僕は甲斐ノ川先生がそんな問いかけを投げかけられたとき、僕が真っ先に連想したことがあった。
僕にとっての幸せや、みんなにとっての幸せが何なのかよりも先に考えたことは――自分が楽しいと思っていることに付き合わされている相手も楽しいとは限らないし、楽しそうにしていたとしても、もしかしたら仮面を被っているだけなのかもしれない――と。僕はあのとき、そんなふうに思った。
『――それで、その幸せとかどうとかって質問は一体なに?』
「いえ、特に意味はないですよ。友達とそんな話題になったもので」
『ふうん、それに定刻くんはなんて答えたの?』
「…………」
どう答えたものか。
僕にとっての幸せとは何だろうか。
「そうですね。嫌なことなく過ごせることとか、ですかね」
『ふうん。らしくないね』
いえ、それはむしろ――逆に『らしい』のかしらね。
そこで通話が終了した。
通話終了と表示された画面をしばらく見つめたのちに、スマートフォンをポケットに仕舞った。
僕はそのまま図書室に足を運んだ。図書室には翁系さんがいた。いつもの席で読書をしていた。衣織せんぱいにした質問を、彼女にもしてみよう。
「翁系さん、あなたにとっての幸せってなんですか?」
「え? 私にとっての幸せ? うーん、そうねえ」
腕組みをして、少し間を置いたのちに、翁系さんは答えた。
「当たり前の日常を、当たり前に過ごせることかな?」
だとすれば、学校内でふたつの死体が発見された今の日常は当たり前から程遠いものであって、彼女からすると幸せではないのかも知れない。
「ううん。別にそんなことないよ。そりゃ、ふたりも人が死んだのは当たり前の日常とは言えないけど、でも、私が生活をしていくに、何の弊害もないじゃない。むしろ死んだ中河友二と疋田広志のほうが、よっぽど私の当たり前から程遠い存在だったわ」
随分な言われようで、まるで関心がない様子だった。これと同じ意見を持つ者は多くいるだろう。少なくとも僕もそう思うし、僕のように彼らが死んだことを可愛そうとは思わない人もいるだろう。
でも、妙だと思っている人はどれくらいいるのだろう。口に出さないだけで、思っている人もいるだろう。話題にしないだけで奇妙だと思っている人もいるだろう。
自殺に見せかけた張りぼての殺人に、その最有力容疑者の事故死。
いくら何でもタイミングがよ過ぎないだろうか?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます