第三章『自殺人』

第15話『先輩は変わらない』


     1.


「みんなにとって、楽しいことってどんなことかな?」

 そんなことを訊かれたのは小学校のときで、その問いかけをしてきたのは元気溌剌な担任の甲斐ノ川すすぎ先生だった。

 甲斐ノ川先生の授業はいつも楽しかった。

 少なくとも僕もそう思っていたし、そう感じていた。

 しかし。

 このときには、もうそんなふうに、素直に受け止められなくなっていた。

 この間の授業で、甲斐ノ川先生が浮かべた表情を忘れることができなかった。

 そして――数週間が経過したこの道徳の授業で、似たような問いかけを発してきた。

 少し周りの空気を伺うようにしながら、クラスでよく発言する子が手を挙げて何かを言った。

 友達と一緒に遊べることが楽しいです。

 とかだったと思う。そんな感じの、模範的な友達想いの発言がされた。そこから少しずつ、みんなも各々の意見を言い始めた。

 誰々と一緒に遊んでいる瞬間が楽しい、とか。

 ゲームをしているときが楽しい、とか。

 あっという間に、いつもの楽しい空気感に満たされた。僕もこのとき、その空気に流されかけていたと思う。四十五分の授業は、楽しく過ぎていき、最後の五分になったときだった。

 にこにこ――と笑っていた甲斐ノ川先生の表情が、少しだけ変わった。

「それじゃあ、ここでみんなに質問です」

 田和先生は、みんなに訊ねた。

「きみの楽しいことは、みんなにとっても楽しいことなのかな?」

 以前ほどではなかった。

 各々が千差万別に意見を述べていたのだから、そうとは限らないと、誰もが思ったはずだった。

 しかし、甲斐ノ川先生は、こう続けた。

「きみにとっての幸せと、みんなにとっての幸せってどんなこと?」

 僕にとっての幸せ。

 そして、みんなにとっての幸せ。

 幸せとは一体何のことだろうか。これらの言葉を投げかけられて、僕はずっと心に引っかかっている。時折、僕は甲斐ノ川先生の言葉を思い出して考える。

 幸せとは一体何だろうか。

 そう言えばこの間、クラスにいる女子が喋っているのを聞いていたとき、その女子は、彼氏ができて幸せと言っていた。彼氏ができた。

 恋。

 小学生の頃は、いまいち問いかけの意味がわからなかったが、いろんな価値観を得て、いろんな知識を得た今だからこそ、この問いかけが意味するもののひとつが、恋などを指しているのだとわかった。

 今の関係を幸せだと思う片割れが思っているからといって、もう片方の片割れが同じように思っているとは限らない。

 幸せ。両者がそう思っていることもあるだろう。それでも、幸せかどうかなんて本人にしかわからないし、口から出てくる言葉なんてどうとでも偽れる。

 先生の言っていた問いかけ。

 楽しいこと。

 幸せ。

 僕にとっての幸せ。

 みんなにとっての幸せ。

 個人的な意見を言わせてもらえば、相手がどう思っていようと、自分が幸せならばそれでいいと思っている。

 どこまでいっても自己満足に過ぎないのだから。

 他人の幸せが自分の幸せならば、情けをかければいい。『情けは他人のためならず』という言葉は、情けは他人のためにならないのだからかけちゃいけないと解釈される昨今だが、正しくは――情けは自分のためなのだから、どんどんかけなさいという意味だ。

 自分が幸せなことで他人も幸せなら、それに越したことはないくらいでいいと僕は思っている。

 相手の気持ちなんて、わからないのだから。

 ただ、僕がずっと引っかかっているのは、みんなにとっての幸せではなく、僕にとっての幸せとは何か――である。

 僕にとっての幸せとは。

 それは一体何なのだろうか。

『もしもし、定刻くん。私だよ、衣織せんぱいだよ』

「どうも、お久しぶりです」

 衣織せんぱい。神崎衣織せんぱいは僕の通う学校とは違う他校の――私立しりつ御代永木みよながき学院高等部の生徒である。

 お利口さんの彼女と僕の接点なんて言えば、中学校が同じで僕のひとつ上の先輩である、ということくらいだ。

 彼女は今、私立御代永木学院高等部三年生である。

 中学校を先輩が卒業して四年。人間関係が疎遠になるには十分な時間だが、先輩が時折電話をくれたり、時折ご飯に誘ってくれたりするおかげで、幸いながらも人間関係は続いている。

『何やら大変みたいじゃないか、定刻くん。今度はふたつ目の死体が出たんだって?』

「え、ええ……。よく知っていますね」

『うちの学校でも話題になっているからね』

 現在は十月十四日月曜日のお昼である。お弁当を食べ終えて、図書室に向かおうと思っていたら、スマートフォンに着信があったというのが今までの経緯である。

 そして、今。

 衣織せんぱいが振ってきた話題――ふたつ目の死体については、先週の金曜日のことにまでさかのぼることになる。

 いや、遡るといっても、僕がその場に居合わせたわけではない。

 ただ、その事実を言及するにあたって、先週の金曜――つまりは三日前の放課後について言及しなければならない。

 僕は既に事後報告として話を聞いただけなので、知っている情報は極めて簡潔的だ。

 疋田広志が死亡した。

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