第2話『やればできる子、春子さん』


     2.


 秋冬あきふゆ春子はること出会ったのは、中学二年生のときである。

 今まで目立った面識もなく、初対面そのものだった。しかし、僕と秋冬春子が実際に話すまでの間に、時間があった。僕は同じクラスになった時点で、秋冬春子という女の子を認識していた。それは決してよくない印象だった。

 同じクラスになったとき、彼女の率いる仲良しグループはよくも悪くも目立っていた――いいや、悪目立ちだ。少なくとも僕はそんなふうに思った。そのときは、厄介そうなのがいるな、くらいの認識に過ぎなかったが、二学期に入ったときのことだった。

 僕と秋冬春子は同じ班になった。

 別に仲良しグループに入ったとか、そういうわけではなく、クラスで学期ごとに班を作って、各班で協力し合いながら授業に取り組むことがあった。

 席が近いということもあって、僕と春子さんは同じ班になった。それからまあ、程々に仲良くしてもらっている。

 中学二年生から、現代の高校二年まで、ずっと同じクラスである。

「私はやればできる女なのだよ」

 登校途中、僕は学校近辺にあるバス停を通りかかった。丁度、停車していたバスから降車してくる生徒のひとりに見覚えがあった。定期券の入ったケースにつけてあるストラップ。それを指に引っかけてくるくると回しながら降りてきた人物がいた。それが秋冬春子さんだった。あちらも僕に気づいたようだった。僕たちは並んで歩き始めた。道中の他愛もない雑談で、僕は、そろそろテストですね、と話題を振ったところ、春子さんは、そう返してきたのだった。

「やればできるって……。春子さんはお利口さんじゃないですか」

「ロリコンさん?」

「お利口さん」

 どんな聞き間違いだ。似てるけど。

「春子さんはいつも高得点を叩き出しているじゃないですか」

「いやいやいや。あれじゃ駄目だよ。駄目なんだよ。だってほら、私たちって来年には受験生だよ。あんな付け焼刃の勉強じゃ、過酷な受験戦争を生き抜くことはできないよ」

「春子さんは進学するんですか?」

「あれ? 言わなかったっけ? 私、大学にいって遊ぶんだ」

「…………」

 冗談だよ、冗談――と続ける春子さん。

「春子さんが大学に行くなら、いよいよ僕たちもお別れですね」

「だね。定刻くんはどうすんの?」

「ろくに考えてないですけど、進学しようとは思っています」

「大学? じゃあ、同じ大学を目指そう」

「いやいや、僕は春子さんみたいに要領よく勉強はできませんからね。付け焼刃の勉強さえできないですからね。専門学校にでも行こうかなって思っています」

「へえ、いろいろと考えてるのって私だけじゃないんだね」

「そりゃそうでしょう。みんな、将来の不安に押し潰されそうになりながら、あれこれと足掻いているもんですよ」

 できることならば、目を逸らしたいことばかりだ。

 だから、あまりこんな話はしない。

 したくない、というべきだろうか。

 将来のことなんてわからない。あまり話したくない。気が滅入ってくる。

 未来と向き合わなければならない。

 自分の知らない領域に踏み出すというのはそういうものだ。どこまでも続く暗黒の道。先行者たちが照らす灯りは、あまりにも曖昧な灯りだ。ほのかに照らされている道は、彼らの軌跡しか照らしておらず、僕たちの道はひたすら暗黒だ。一寸先が闇に覆われた道を歩んでいる。

「神崎せんぱいは、どうだんだろう」

 神崎せんぱい。神崎衣織。学年は違ったけど、僕たちと同じ中学校だった。そういえば、僕が衣織せんぱいと知り合ったのも中学二年生のときのことだ。春子さん関係で、知り合ったのを憶えている。

 出会って、もう三年になる。

 いや、まだ三年と言うべきなのだろうか。とにかく三年だ。三年経って、学年も変わり、学校も変わり、友達も変わったというのに――あの人は、あの人だけは、本当に変わらない。

 あの先輩でも、こんなふうに悩んでいた頃があったのだろうか。いやいや、高校三年生の衣織せんぱいは、僕たち以上に切羽詰まった時期のはずだ。そんなあの人は想像できないが、そういう一面を見せていないだけなのだろうか。

「定刻くんは、神崎せんぱいと仲良かったもんね。私より」

「いやいや、一方的に気に入られているって感じですよ」

「それでも、だよ。あの人に気に入られるなんて凄いよ。どうなの? 最近は会っているの?」

「まあ。たまには」

「ふーん」

 悪巧みでもしていそうな笑みを浮かべる春子さん。少なくとも、春子さんが今、思い描いているような誤解はあり得ない。

「ええっと、どこだっけ? 神崎せんぱいの学校」

私立しりつ御代永木みよながき学院高等部」

 僕は即答した。

 私立御代永木学院高等部。初等部、中等部と続く小学校から中学校、高校と続いている学校である。

 神崎衣織せんぱいは、そんな学校に籍を置いている。県立の桜庭谷川高等学校とは比べられないほどの学校である。

 進学校で、お利口さんばかりだ。

 僕の妹の定刻さだとき妙火みょうかはこの中等部に通っている。

 初等部からこの御代永木の生徒である。

 僕と違って、妹は実に出来がいい。落ちこぼれの僕とは縁も所縁もない場所なのに、どういうわけか身の回りの奴は、この学校に通っている。

「神崎せんぱいの話してて思い出したんだけどさ。私、かなり恥ずかしいこと言ったよね。言ってたよね」

「? どれですか?」

「ほら、さっき私は、やればできるとか言っちゃってたじゃない。神崎せんぱいって、ああいうのに厳しいことを言うじゃない」

「ええっと、何でしたっけ――やればできるって言われてる人間はできない人間なんだよ。とかそういうのでしたよね?」

「それそれ」

 やればできる――なんて、言われた経験のない人間のほうが少ないだろう。僕も言われた経験がある。

 だからこそ、衣織せんぱいの言葉は鋭く突き刺さった。

 やればできる人間っていうのは、そんなことを言われる前からやっている人間であって、人間は大抵のことはやればできるものなのよ。なのに、そんな言葉をかけられている時点で、その人間はやればできるようなことでも、やらなくてできない人間なんだ。

 とか、何とか。

 随分と辛辣なことを言っていたのを憶えている。確かに。あまりに思い出したくない。バーナム効果やらプラシーボ効果とか言われるかもしれないけど、それでも、刺さっているのは間違いない事実なのだから。

「あーあ」

 ぐっと、背伸びをする春子さん。

「私って、どんな大人になるんだろう」



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