残りの夏休みを、僕は宿題に追われて過ごした。宿題をしようとしてもあまり集中できるわけじゃなかったけど、何もしていないと本上さんのことを考えてしまい、またメッセージアプリを立ち上げてしまう。


 だから、遊びに行くでもなく、ゴロゴロするのでもなく、ダラダラと進まぬ宿題をこなすことだけで僕の中一の夏休みを終えた。


 夏休みが終わっても、まだまだ暑く日々は続いていた。間違いだらけの宿題を提出し、暦の上では初秋になっても、僕のくすぶった夏は終わっていなかった。


 やがて中間テストが始まり、秋分の日がやってきても、それは変わらない。


 僕は未だに本上さんの心を受け取ることができていなかった。


 いつまでたっても本上さんが笑顔を見せてくれることはなく、彼女の声を聞くこともできなかった。


 彼女は未だに学校に来ていなかった。


 彼女は今、一緒に遊んだプールのある都市の大きな病院に入院している。


 足の怪我を診てもらいに、彼女のお父さんが勤める病院を受診し、その時に大きな病気が見付かったそうだ。そしてその後すぐに入院して、まだ退院できていない。


 お見舞いに行きたくても、面会謝絶でお見舞いも行ってはいけないと静香先生から言われている。


 彼女はグルチャに戻ってくることは無かったし、メッセージを送っても既読になることすらなかった。もちろん電話にも出なかった。


 病院で携帯を使わないようにしているのかもしれないし、そんな元気もないのかもしれない。


 僕は毎日開封されることのないメッセージを送った。今日はこんなことがあったよ、と。


 ただ、日々の報告だけを、淡々と短い文章で送った。それはまるで日誌のようでもあった。


『今日、黒崎さんと田中が手を繋いで歩いてたよ』


『英語のテスト前回より良かった』


『朝倉・坂下・野中と、部活を始めた』



 そこに僕は何の感情も気持ちも打ち込まなかった。『早く良くなってね』『早く会いたい』なんて一切打つつもりもなかった。


 早く良くなれるものならとっくになってる。


 早く会いたいなんて自己中心的で相手のことを考えてない。


 好きだよって打とうとして、止めた。今はそれどころじゃないだろうし、僕の好意が闘病の励みになるなんて思えなかった。

 逆に不愉快なんじゃないかと思った。


 本上さんは苦しんでるのかな、痛がってるのかな。


 思えば夏祭りの時、肌が白くて綺麗だと思ったのは、体調が悪くて顔色が悪かったのかな。あの時すぐに連れて帰ればすぐに治ってたのかな。


 そんなある日、本上さんのお母さんがノワールのケーキを持って僕の家へとやってきた。


「あなたが、太郎君ね。本上の母です」


「は、はじめまして、山田太郎です」


 とても綺麗な人だった。うちのお母さんのように丸い体型じゃなくて、芸能人のようなスラッとした品の良い女性だった。


「うふふっ、華蓮ね、いつも貴方のこと、楽しそうに話してたのよ?

 きっと貴方のことを好きだったのね」


 その目尻に涙が滲んでいる。


「ど、どうして過去形なんですか?」


 ま、まさか亡くなった?


「そうね、過去形なんてどうかしてるわ、私。華蓮は今もきっと貴方のことが好きよ」


 躊躇いがちに話す彼女の言葉が紡がれていくのを、僕は黙って聞いていた。


「華蓮ね。もう、意識がないの… 持ち直してくれるかどうか分からないの。もう、目が覚めるかどうかも分からないのよ」


「っ…!」


 僕は何か言おうとしたけれど、それは言葉にならず、ただ息を飲むことしかできなかった。


「華蓮ね、白血病だったの。一度良くなってね、寛解って言うのよ。それになって安定してたから、皆の学校に通い始めたんだけど、夏休みに倒れちゃって。

 真っ白な顔してたわ。

 この前の定期検査ではそれほど悪くなかったのに…」


 本上さんのお母さんは口元を押さえて俯いた。ポタポタと涙の滴が零れ落ちる。


「は、白血病…」


「そう。知ってるかしら、骨髄移植をしたりする血液の病気よ」


「し、知ってます! こ、骨髄なら僕の使ってください! 僕のが合わなかったら、クラスの、いや、学校中の奴らのを…!」


 白血病で骨髄移植するドナーが居ないとかドラマで時々見かけた。


「うふふっ、ありがとう。嬉しいわ。でも、ごめんなさい。骨髄を提供できるのは大人だけなの。気持ちだけ受け取らせてもらうわね」


「そっ、そうなんですか…」


「それに、骨髄は幸い私の分が移植できたの。それで前回良くなったのよ」


「今回は、無理なんですか!?」


「骨髄移植ができる段階まで進めないの。もう、色んな所が悪くなって、もう、このままっ…」


 目の前が暗くなった気がした。もう、会えないの? もう、いなくなっちゃうの?


「そ、そんなのっ…!」


「だから、最期になってしまうかもしれないから、太郎君には一度面会に来て欲しいの」


「面会謝絶なんじゃ…」


「そうね、基本的には面会謝絶。クリーンルームって言ってね、バイ菌が居ないようにしたお部屋で眠ってるの。気軽に部屋に入ることもできないわ。

 だからガラス越しの面会になるけど。あの子、もうやつれて髪も薬のせいで抜けちゃって、可愛くなくなってるかもしれないけど、一度声を聞かせてあげてくれないかな」


「い、行きます!」


 僕は慌てて部屋に戻って財布とスマホをとると、本上さんの所へ戻ろうとしたが、ふと思い立って、机の上の写真立てを取り、鞄へと入れた。


 そして本上さんの運転する車で都市の病院へと向かった。


 病院はとても大きく、僕らの学校よりもずっと大きかった。僕は本上さんに先導され、黙って病室を目指した。


 病棟に入る前にアルコールで手を消毒しマスクを着けた。面会通路に入る前に、また手を洗って消毒、それでも病室には入れない。


 やっとガラス越しに横たわる本上さんを見つけた。酸素マスクを付けられ、何本も点滴のチューブが繋がれている。


 本上さんはやつれて、とてもとても白かった。その弱々しい寝顔を見るだけで、僕の視界は滲んでいった。


 とても僕の知っている元気な本上さんとは思えないほど、今にも命の灯を消してしまいそうな、儚い少女がそこにいた。


 いつもの蕩けるように甘く可愛い本上さんはそこにはいない。必死に病魔と戦う彼女は、もっと静謐で厳かで美しく思えた。


 ねぇ、本上さん。いつから悪くなってたの? 夏祭りの時は? 勉強会の時は? プールの時は、元気だったんだよね?


 無理して笑ってたの? 白くて綺麗だと思ってた肌は、もう病気に侵されていたの?


 ねえ、聞かせてよ、本上さん。目を開けて、こっちを見てよ。


「このインターホンで話し掛けてあげて。私はちょっと外すけど、ゆっくりしていってね」


 そう言って、本上さんのお母さんは席を外した。気を使ってくれたのがよく分かる。でも、本当に最期みたいだから、やめてほしかった。


 僕は躊躇いながら、ゆっくりとインターホンに近付き、スイッチを押した。


「こんにちは、本上さん。太郎だよ。聞こえてるかな?」


 静かな病室に何かの機械音だけが微かに響いている。本上さんは反応しなかった。


「久しぶりだね。もう中間テストも終わって、文化祭だよ?

 あ、あのね、朝倉と坂下と野中とで部活してるんだ。と言っても正式な部じゃなくて同好会なんだけど。

 夏休みに水泳ばっかりしてたから、何もしないと落ち着かなくてさ。

 まだ走ったり筋トレしてるだけだけど、トライアスロン部にしたいんだよね。ママチャリしかないけどさ。

 皆、本上さんに格好良いところ見せたいんだよ。

 本上さんが元気になって学校に来たら驚くよ? 皆、腹筋割れてきてるんだ。ちょっと身長も伸びてるかも。

 黒崎さんと田中は相変わらずだね。でもこの前手を繋いで歩いてるの見たよ。キスはまだらしいから、僕らの方が上だね。

 優香も本上さんに会いたがってる」


 横たわる少女は身動ぎもせず、心電図モニターが規則正しい波を打っている。


「本上さん、しんどいよね。辛いよね。それなのに、頑張ってって言って良いのか僕には分からないよ。もう精一杯頑張ってるもんね? 本上さんは、いつも何でも一生懸命だもん。

 でも、本上さん。辛いなら、苦しいなら、言って欲しかった。そんなに頑張って隠さなくても良かったんだ。

 夏祭り、苦しかった? 辛かった? 楽しくなかった?

 僕が楽しみにしてたの知ってたから、無理して来たの? 僕があんなにはしゃいでたから、そんなに白い顔で側にいてくれたの?」


 僕は知らず知らずに、涙を流していた。本上さんの睫毛が少し震えた気がした。


「ありがとう。凄く楽しかった。でもね、僕は夏祭りじゃなくても良かったんだ。本上さんが居ればどこでも。

 学校でもスタバでも、病院だって良いんだ。本上さんがそこにいてくれたら、どこだっていいんだよ。

 触れなくても良い。笑ってくれなくても良い。

 拗ねたり怒ったり照れたり、色んな可愛い本上さんを知ってるけど、可愛い本上さんに恋をしたのかもしれないけど、可愛いところを見せてくれなくてもいいんだ。

 ただそこに居てくれるなら、苦しくて笑えなくても、辛くて僕に当たってくれてもいいよ。

 何も知らない間に居なくなっちゃうより、全然良い。

 一人で苦しむより、二人でいた方が少しは楽だと思うんだ。

 本上さんみたいな大きな病気はしたことないけど、風邪引いて寝込んでるとき、淋しかったし辛かったけど、お母さんが側にいてくれてホッとしたし、辛さも和らいだんだ。

 本上さんのそばにはご両親もいるけど、僕や優香だってそばに居たいんだ。黒崎さんや坂下達だって、きっとそうだよ。

 一人で苦しまなくて良いんだ。隠さなくても良いんだ。

 ちゃんとそばにいるから、ゆっくり治していこうよ。

 もし治らなくたって、元気じゃなくたって、僕はそばにいるよ!」


 本上さんの手を握りたかった。聞こえてないなら、せめて手の温もりだけでも届けたかった。でも、それは叶わない。僕らを隔てる壁を越えられるのは、ただ言葉だけなんだ。


「茨姫みたいだね、本上さん」


「僕がキスしたら目が覚めないかな? 本上さん、王子様が来たよー?」


 何もできない自分がもどかし過ぎて、自嘲気味に言ってしまった。


「タ、ロ…」


 本上さんの唇が微かに動いた。かすれた声が聞こえた気がした。


「おはよう、本上さん。目が覚めた? 寝坊助さんだね」


「タロ…」


 うっすらと瞼が開く。睫毛が少し震えている。


「おはようのキスしてあげたいけど、それは治ってからだね」


「キ、ス…?」


「そうだよ、キスして大好きだよって言うんだ」


「ちが、う…」


 本上さんの目尻から涙が一筋零れ落ちた。


「違うの? 本上さんは好きだよって言ってから、キスが良かった?」


「バカ…」


「あっ、そうか! 今度は本上さんが好きって言う番だった。キスも本上さんからだね」


「…」


「待ち遠しいな」


「ごめん、ね…」


「何が? 病気なの黙ってたこと? そりゃあ言って欲しかったけど、もう良いよ。

 そんなことより、早く手を繋いだり抱き締めたり、キスしたりしたいね?」


「うん…」


「えっ、今、うんって言った?」


「今の、なし…」


 本上さんが少し笑った気がした。


「そう? 素直になって良いんだよ? 王子様が来たから目が覚めたんでしょ、僕の茨姫?」


 少しでも笑ってほしくて、恥ずかしいけどダサくてクサイ台詞を言ってみた。


「う、ん」


「あ、あれ? うんって、言った? ううんかな?」


 よよよ、弱って、す、素直になってるんだな!きっと!


「タロ…」


 本上さんの手がほんの少し上がった。その手を握れたらどんなに良かっただろう。


「どうしたの? ちゃんといるよ」


「うん…」


 その後本上さんは疲れたのか眠ってしまった。


 せっかく意識が戻ったのに、気が動転しすぎて、本上ママさんを呼びに行くことに気が回らなかった。本上ママさんが帰ってきて、その事にやっと気付いた。


「すいません、本上さん。さっきちょっとだけ起きたんですけど、僕動転しちゃっててお母さんを呼びに行けませんでした」


「えっ、本当!? 華蓮目が覚めたの!?」


「もう眠っちゃいましたけど」


「そうなの、それは残念だけど、本当に意識が戻ったのなら良かった。私はナースステーションに報告に行ってきますね。

 山田君はそろそろ帰らなくて大丈夫?」


 面会時間の都合もあるだろうし、そろそろ帰ることにした。


「じゃあ、そろそろ帰ります。また明日来ても良いですか?」


「もちろんよ。山田君が来てくれて意識が戻ったんだから!」


 たまたまな気がするので、ちょっと肩身が狭いけど、お言葉に甘えることにした。


「じゃあ、ナースステーションに一緒に行きましょう。あなただけは面会に通して貰えるように話します。その後送っていくわね」


「いえ、電車で帰ります。そばに居てあげた方がいいですよ」


「いいえ、私にも連れてきた責任がありますから、ちゃんと送り届けないと山田君のお母さんに顔向けできません」


「僕以外にも華蓮さんに会いたい友達がいるんです。もっと良くなったら一緒に来ても良いですか?」


 黒崎さんや坂下達も来たいに違いない。


「そうね、もっと良くなったらね。今は家族以外面会謝絶だからごめんなさい」


 あんなに消毒しないといけない部屋に、何人も連れて行くのがマズいのはよく分かった。だから、あの部屋から出られたら、一緒にお見舞いに来よう。


 ふと写真立てを持って行っていたのを思い出した。


 優香が撮ってくれた、浴衣姿の本上さんとの写真。仲良さそうな二人が写っている。こう見たらカップルにしか見えないよね。本上さんったら、素直じゃないからなぁ。


「あの、この写真、お母さんに渡すのもどうかと思うんですけど、華蓮さんに渡してもらえませんか?」


 元気な笑顔のバーガーショップの写真と迷ったけど、告白できた思い出の日の写真を写真立てに飾っていたんだ。


「あら、素敵な写真ね。華蓮たらこんな顔もするのね。山田君にだけ見せる顔なのかしら?」


 上品に微笑みながら受け取ってくれた。病室に入れることはできないかもしれないけど、また来年も行こうって約束した夏祭りの写真が、少しでも励みになったらと思った。


「お父さんが見たら凄い顔しそうね。でもいいわ。私は二人の味方よ? こんな大人っぽい顔した華蓮を見せつけられて、ちょっと淋しいというか切ないというか、複雑だけど」


「す、すいません」


 ま、まあ、そうだよね。一人娘が男とデートしてる写真だもんね。それもその男から渡されてるもんね。お見舞いの時にお父さんに会いませんように。


 家に帰ってお見舞いのことを家族に報告すると、優香がなんで自分も連れて行かないとポカポカ叩いてきた。


「ダメダメ、茨姫は王子様だけを待ってるの!」


「きもっ! お兄ちゃん、そんなこと人前で言ったらダメだからね!」


 ひどっ! 本上さんに似たようなことを言ってしまったのは黙っておこう。本上さんは笑ってくれたのになぁ。


 本上さんに見せようと思って、ふてくされる優香の写真を撮ったらもっと叩かれた。


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