01-14 感情を見せてはならない

 リカルドはディアナのネックレスを自室の机の引きだしにしまった。耐えがたいことがあったら、ディアナに相談するつもりでこれを見よう、と思うとそれだけで少し気分が楽になった。


 それからのリカルドは深い悲しみの淵から這い上がりつつあった。食が細いのは相変わらずだが、無理に感情を抑え込むことからくるストレスがない分、落ち着いて見えるようになった。


 彼の周りで働く者達から「一時はそのまま病気になるかと思っていたが、もう大丈夫なのかもしれない」というような声が聞かれるようになると、ミヒャエルのリカルドに対する関心が薄らいでいくような気がした。やはり仕事に影響が出やしないかということだけを心配していたのだろう。リカルド自身には関心はないのだ。


 判っていたことだ。子供の頃からミヒャエルはそうだ。むしろ関心を持たれない方がいい。


 そんな中、リカルドの元に差出人の記載のない封書が届く。だがその封筒を見て、リカルドはこれを出したのは自分のひいきの情報屋だろうと察した。彼はいつもこの封筒を使う。

 もちろん、封筒だけでは誰かが偽って出したものかもしれない、とリカルドは慎重に封を切った。


 中身の紙を取り出して開くと、まず一番下に書かれてあるサインを確認する。

 特殊なインクを用いた独特の筆跡で、情報屋本人からの物であろうと判断すると、文頭に視線を移す。


 内容を読み進めるにつれ、リカルドの表情が硬くなる。紙を持つ手が小刻みに震えだした。


「ディアナを殺した犯人が……」


 激憤に揺らぐ声が、リカルドの口から漏れ出た。

 情報屋からの手紙には、ディアナを殺した真犯人についてが書かれてあった。


 犯人はフリーの暗殺者集団で、リカルドの所属する「オーウェン」と敵対しているマフィアファミリー「アルディノ」に雇われてレインフォード親子を暗殺した、とある。

 父親は取引現場を襲撃され、ディアナはリカルドも知るように、強盗を装って殺された。


 ディアナ殺害の犯人として捕まったのは、「アルディノ」が用意したスケープゴートであり、暗殺者達は郊外の一軒家に潜んでほとぼりが冷めるのを待っているのだ、という。


 罠だ、とリカルドは直感的に察した。頼んでもいない情報を流してくるなど、何らかの意図が絡んでいるのは明白だ。


 アルディノが新たにリカルドの暗殺のために情報屋を利用し、リカルドをくだんの邸宅に呼びだしている。婚約者を殺されて悔しいならここへ来い。仇がいるぞと餌をぶら下げている。


 この情報を手に入れて、おそらくはリカルドに渡すようにと仕向けられて、情報屋がどのような意図でそれを実行したのかは判らない。破格の報酬にほいほいと釣られたのか、逆に上得意であるリカルドに罠だと判るようにわざとこのような直接的な形でよこしてきたのか。


 しかしリカルドには情報屋の動機など、どうでもいいことであった。

 ディアナを手にかけた犯人の居場所が判った。そのことの方が重要だった。

 ふつふつと沸いてくる復讐への激情にリカルドは強く歯をかみしめ、体を震わせる。


 待て、これを鵜呑みにして動いて、得られるものはあるのか、と自分に問いかける。


 ここに書かれてあることが百パーセント真実ならば、暗殺者達を殺すことでディアナを奪われた復讐になるが、もしかするとリカルドをおびき寄せるための虚実かもしれないのだ。


 普通に、理性的に考えれば答えは決まっている。動いてはならない。下手をすれば命を落とすか、それよりも更に最悪な結果になるやもしれない。

 そんなことは判っている。だが、頭で考えた最良の選択を感情が拒絶する。

 ディアナを殺したやもしれない犯人をむざむざ見逃していいのか、と。


 ここに書かれてある者達が、もしも直接的な犯人ではないにしても、彼らを捕えればレインフォード親子を殺害した真犯人を聞き出せるかもしれない、と希望的観測まで沸いてくる。


 だがそれでも、身勝手に動いてはならないのだ。

 リカルドは必死に自分に言い聞かせた。


 情報屋からの手紙を机の引き出しにしまいこみ、リカルドは目をそらせた。


 しかし、無理矢理抑え込んだ感情は、日常生活のところどころでリカルドを悩ませる。

 たとえば仕事上で「アルディノ」の文字を見るたびに思考停止させられたり、夢の中で男達がディアナを取り囲んでいる光景を見せつけられたり。


 そのたびに、銃創から血を流し床に倒れ伏すディアナの姿を思い出す。

 彼女の血がリカルドの手や服を赤く染め、温かなそれが熱を失って固まり、鮮やかさを失っていく。

 鮮烈な記憶を振り払うようにリカルドは頭を振った。


 ディアナをあのような目にあわせた者達に直接手を下せない悔しさに、リカルドは歯を食いしばり、くぐもったうめき声を漏らした。


 心を針で突き刺されるような痛み、苦しさは、日を追うごとに大きくなる。


 誰かとこの痛みを分かち合えれば、リカルドはまだ心の均衡を保っていられたのかもしれない。婚約者を殺した犯人達への恨み事を聞いてもらえるだけで、随分と違っただろう。

 だが彼の周りには、彼がひた隠しに隠している苦しみ目を向けてくれる者はいない。吐き出したくても吐き出せないという状況を理解してくれる近しい者はもういないのだ。


「感情を見せてはならない、弱みを握られるだけだ」


 父の口癖のような命令に従うしかない表面上だけのリカルドの落ち着きを、もうディアナのことは吹っ切れたのだと父をはじめとする周りの者達は思っているようだ。


 仕事は以前と何ら変わりなく多忙を極め、息つく間もなくリカルドを狩りたてる。そしてようやく得た休日に体を休めるために横になっても、熟睡できずに癒されることもない。


 今日も、まだ太陽などかけらも顔を見せない時間にベッドの上に跳ね起きていた。

 どんな夢を見ていたのか、詳しいことは覚えていないし覚えていたくもない。ただ、心も体も重苦しいという事実からは逃げられそうになかった。


 リカルドはベッドの上で一つ大きく息をつく。


 助けを求める手を述べることを許されず、次第にリカルドのやり切れぬ思いが、あってはならない方へ動き出す。

 こんな苦しみもすべてディアナを殺した連中がもたらしたものだ、とやり場のない怒りを暗殺者達に向けるようになったのだ。


 ある意味、それはとても自然な流れなのかもしれない。


 しかしその思いを行動に移すことは許されていなかった。


 レインフォード親子を殺害したのは「アルティノ」の手の者で間違いなさそうだ。オーウェンと小競り合いを繰り返して表面上の衝突にまで発展していた時のことだ。リカルドの縁談がまとまり、オーウェンの麻薬密売ルートがより盤石なものとなることを阻止されたのだ。


 おそらく、今回のレインフォード親子殺害でオーウェンが被った損失に見合った報復はアルディノに下されているはずである。でなければ、報復の話が出ない方がおかしいのだ。損失をもたらされたままにすることはない世界だから。

 それがどのような形なのかはリカルドは知らない。彼が婚約者を失い、悲しみの淵に深く深く沈んでいる間に、すべては終わっていたのだ。当事者が手を下すのをを許されることもなく。


 リカルドが、ようやく周りを見る余裕が少しだけ出てきた時にはもう二つの組織のこのたびの争いが沈静化しつつあった。


 リカルド本人が反撃を仕掛けるにはタイミングを逸してしまっている。今、彼が動けばせっかく落ち着きを見せ始めた二大組織の争いがまた激化してしまう。


 派手に動けばそれだけ、権力筋の目についてしまう。隙あらば勢力をそごうと躍起になっているのは、対立するファミリーだけではないのだ。下手をすれば自組織だけが被害をこうむることになる。


 正直言って、リカルドには組織がどうなろうがどうでもいい、という考えもある。元々強いられて入った世界だ。好き好んで裏社会に身を置いているわけではない。

 だが組織の大きな損失につながる行動をすれば、どのような苦しみがわが身に降りかかるのか、リカルドはよく知っている。


 家を飛び出し、連れ戻された時の状況が一瞬にしてフラッシュバックした。

 トラックのコンテナの薄暗く狭い空間で、男達に散々痛めつけられた時のことは、十年経っても忘れてはいない。


 両腕で体を抱きしめる。


 ――苦しい、助けてくれ。

 ――ディアナがいれば、彼女がいてくれれば。たとえどんな状況でも心を強く保てるのに。


 食いしばった歯の間から、血を吐くようなうめき声が漏れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る