01-13 何か持ってきたのか?

 ほぼひと月ぶりに、一時の間二人で過ごしていた部屋のそばまできて、リカルドの歩調が落ちていた。

 前に部屋を訪れた時のことを思い出して二の足を踏んでいるのだ。


 今もまだ鮮明に記憶に残る部屋の惨状。まぶたに焼き付いて離れない、彼女のむごたらしい姿、むせかえる血の匂い。

 部屋に入ればそれらがまた一気に頭の中に押し寄せてきそうだ。


 それでも、このまま彼女との思い出を何一つ手にしないまま帰るわけにはいかないと、リカルドは部屋のドアノブを見つめる。

 鍵を差し込んで回す。乾いた金属音が胸に重く響いた。


 扉をそっと開ける。部屋の中のこもった空気が静かに押し寄せてきた。

 別に誰に咎められるわけでもないのに、入ってはいけない場所のような気がしてそっと足を踏み入れる。


 部屋の中は、荒らされたと言うにぴったりだとリカルドは思った。

 ここでディアナは襲撃され、命を落としたのだ。


 リカルドはふらふらと、最後にディアナを抱きしめた場所まで歩いて、あの時と同じようにひざまずいた。

 床にはディアナの流した血液が、赤黒い染みとなって広がっている。

 こんなものでさえ、時の流れを如実に物語っている。


『わたしといて、少しでも幸せ、だったら……、お願い……。死のうなんて、しないで。わたしのこと、忘れて。……幸せに……』


 ディアナの最期の言葉が胸によみがえる。


「君がいなくて、どうやって幸せになれるんだ」


 幻の彼女の声にリカルドもあの時と同じ言葉を返した。


 ディアナは目を閉じ、二度とリカルドを見ることはなかった。

 苦しかっただろうに、彼女の顔は穏やかだった。リカルドに最期に会ったからだと信じたい。


 俺の方が問いたい、とリカルドは心の中で願う。俺といて、少しでも幸せだったのか、と。

 しかしすぐに、そんな疑問など意味がないとリカルドはかぶりを振る。もうディアナはいないのだ。たとえ死の間際に彼女に問いかけ、うなずいてくれたとしても、彼女がそこで息を引き取ってしまった今となっては、ただの自己満足に過ぎない。


 ディアナの死に際を思い出してしばらく茫然としていたリカルドだったが、ここへ来た目的を思い出す。

 これからも理不尽な世界を生きねばならない。リカルドは望んでいないが、ディアナがそう望んで逝ったのだ。せめて彼女の最期の願いくらいは聞き遂げたい。

 そのためには、彼女が身につけていたものを、ひとつだけでいい、そばに置いておきたい。


 リカルドはゆらりと立ち上がり、寝室に向かった。

 こちらの部屋はあまり荒らされていない。強盗犯の本来の目的はディアナの暗殺であったと、適度に物が散乱している部屋が語る。


 だが今この時は、それでよかったとリカルドは思った。

 リカルドが少し部屋を片付けると、ディアナがいた時とさほど変わらない、プライベートな空間が再現された。


「ディアナ……」


 二人で過ごした濃密な時間を思い出して、もう二度と同じように彼女と過ごすことはできないのだと思い知り、リカルドは震える声でディアナの名を呼んだ。


 なぁに? ちょっと待って、といいながらアクセサリーを外すディアナを思い出す。


 触れたい、抱きしめたい。彼女のぬくもりを感じたい。

 どれだけ渇望しても叶えられぬ想いにリカルドはあえいだ。いくら深く呼吸をしても酸素が足りていないかのような息苦しさを感じる。


 ドレッサーの細長い鏡に映った自分と目があった。

 身なりは整えているのに、とてもみすぼらしく見える。青白い顔で今にも倒れそうだ。それならそのまま死んでもいい、とリカルドは胸をかきむしる。


 死のうなんて思わないで、とディアナの声がする。


(違う、死のうとしているわけじゃない。ただ……、生きていたいとも思わないだけだ)


 こんなことを言ったら、彼女はきっと困ったような顔でたしなめるのだろう。

 どんな言葉でもいい、声が聞けるなら。彼女が生きていてくれるなら、そばにいてくれるなら。

 リカルドは鏡台に手を伸ばした。鏡の中に映っているのはディアナであるかのように、そっと、優しく。

 だがそこにいるのは、深く傷ついた心をあらわにしている己だ。


 苦しげな表情の自分と再び視線を交わらせて、手が鏡の上を滑り落ち、アクセサリーケースと香水ロケットを掠めてだらりと垂れ下がる。はじかれたそれらはリカルドの足元に落ちて跳ねた。口を開けた薄桃色のケースから、ディアナが生前身につけていた装飾品がちりばめられる。ロケットから少し漏れ出たのだろう、フレグランス系の柔らかく甘い香りが部屋に広がっていく。いつもディアナがデートの時につけていた香水だ。


 香りが思い起こさせたディアナの姿やしぐさに、また胸を痛めつつ、のろのろとロケットを戻し、アクセサリーを拾う。その中に、リカルドがプレゼントしたネックレスがあった。婚約指輪を受け取りに店を訪れた時に、彼女に似合うだろうと買い求めたものだ。

 驚きながらも嬉しそうにしていたディアナを思い出す。婚約披露パーティに着けて出たいと気に入った様子だった。


 まだひと月ほど前のことなのに、もう随分と昔の出来事のようだ。

 ネックレスを拾い上げる。ペンダントトップのサファイアの輝きはあの時のままだと言うのに、持ち主はもういない。


「帰ってきてくれ、俺には君が必要だ……」


 叶わない願いを口にしながら、リカルドは形見のネックレスを抱きしめた。強く、強く。

 涙が、目じりからじわりとあふれ出た。

 まさに堰を切って流れ出した悲しみは止まることを知らず、リカルドはくぐもった声を漏らしてディアナへの慕情は吐き出し続ける。


 リカルドは床にくず折れ、嗚咽はやがて慟哭へと変わる。

 喉が痛みを訴えむせかえっても、ただただ心が揺さぶられるまま、突き動かされるままに声をあげた。

 どれほどそうしていただろうか、声が枯れ、力尽きてリカルドは床にうつぶせていた。


 体をのそりとひねって仰向けになり、またしばらく放心状態になる。

 ゆっくりと時間だけが流れてゆく。

 涙でぼやけた視界を手で覆い、ディアナの面影ともう一度向き合うと、頑張って、と励まされた気がした。


 判っている。いつまでもこうしてはいられない。たとえ向かうところが絶望の淵でも、逃れられない牢獄の中に舞い戻ることとなっても、行かねばならないのだ。目じりに残っていた涙をぬぐい去って上半身を持ち上げる。

 鼻の奥や喉が痛い。頭も痛い。目が腫れぼったくなっている。自分がどんな情けない顔になっているのかたやすく想像できて、鏡に向かおうと言う気さえおこらない。ディアナの鏡台からは目をそらせて、リカルドは床に座った。


 二十五年生きていて、これほど泣いたことはなかった。感情をあらわにしたこともない。

 今も苦しいことに変わりはないが、身も世もなく泣き崩れたことで、少しだけ楽になった。人の目があるからと悲しみを押し殺してきただけに解放感もひとしおだ。

 心のままに行動できて、これで、よかったのだ。彼女が願う「幸せ」は、もう二度と手に入らないかもしれないが、とにかく生きなければならない。今の生活を続けなければならない。それが、むざむざと死なせてしまった彼女に向けることのできる、最後の誠意のあかしだ。

 リカルドは無理矢理自分にそう言い聞かせた。


「結局、俺の手元に戻ってきてしまったな」


 今も手の中にある、ディアナの形見のネックレスを握りしめ、リカルドは立ち上がった。




 リカルドは自分が贈ったネックレスだけを手に、自宅へと戻った。

 帰宅後すぐにシャワーを浴び、ディアナの部屋で激情を吐きだした痕跡を出来るだけ消し去ろうと努めた。父に対面すればすぐに見抜かれてしまうかもしれないのだが。


「戻ったのか」


 バスルームから出ると、早速ミヒャエルと鉢合わせになった。


「はい。貴重な機会をいただきまして、ありがとうございました」


 まだ声が若干かすれている。リカルドは自分のしゃがれ声に驚いて、ミヒャエルがそのことについて何か言うのでは、と身構えた。


「何か持ってきたのか?」


 しかしミヒャエルの質問は、リカルドの予想とは違っていた。普段は仕事外でリカルドの行動などに興味を示さないミヒャエルにしては珍しく、踏み込んで尋ねてきた。

 きっと普通の親子ならば当たり前のような会話なのだろうが、リカルドには、大切な場所にずかずかと踏み込まれる質問に思えて不快に感じた。


「……いえ。部屋を一通り見て回りましたが、彼女の遺品を持っていると余計に気が滅入りそうでしたので」


 気がつけば、とっさに嘘をついていた。

 ミヒャエルは少し驚いた顔でじっとリカルドを見つめてくる。

 彼に透視能力があるわけでもなし、ポケットの中のディアナのネックレスを見つけられることはないだろうが、ばれはしないかとリカルドの鼓動が瞬間的に速さを増した。


「なるほど。彼女の思い出に囲まれて、泣き崩れてそれどころではなかったと言ったところか」


 ミヒャエルは馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

 彼が見破ったのはリカルドの慟哭の跡だった。リカルドは恥ずかしさに奥歯をかみしめるが、同時に、ネックレスの存在はばれなくて済んだと安堵もする。

 別に隠す必要はないが、立ち直らなければ処分すると言い切る男に、形見の存在を知られたくないと思った。


「……失礼します」


 それ以上何も詮索されないようにとリカルドは足早に自室に引っ込んだ。


 それにしても、ミヒャエルの態度には腸が煮えくりかえる。死んでしまえば何の価値もない、とばかりにディアナに対して、彼女を想うリカルドに対しても、馬鹿にした言動を隠そうとしない。

 改めて、あのような男は父親ではない、とリカルドは力強く拳を握りしめて部屋の入り口の向こうのミヒャエルを睨みつけた。


 憎しみよりも大きな恐怖を抱く相手からの束縛を、いつになったら解くことができるだろうか。ディアナ亡き今、またリカルドは心のよりどころを失ってしまった。

 ディアナが、自分を忘れて幸せにと願ったのは、リカルドが新たに心を預けられる相手を見つけてほしい、という意味なのだろう。確かに、そのような相手がいれば精神的な負担は減るだろう。


 けれど、と声にならないほどの声でつぶやいて、リカルドはポケットからネックレスを取りだす。


「……君以外には、考えられないよ……」


 今度はかすれ声で、囁いた。

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