01-11 わたしのこと、忘れて
不吉な直感をそこに置き去りにしようとするかのように大股で二人の部屋へと向かった。
扉がうっすらと開いている。閉まりきっていない。
ずきん、とリカルドの鼓動が嫌な跳ね方をする。
「ディアナ……?」
最初はつぶやくように、もう一度、今度ははっきりと部屋の中に呼び掛けるように婚約者の名前を呼んだ。
だが中からは返事はない。
そっと扉を開ける。
室内の空気が動き、外へと流れてくる。
――血の匂い。
一番判りたくなかったことが真っ先にリカルドの嗅覚を通して彼の頭の中に侵入してくる。
「ディアナ!」
ドアを開け放って部屋の中へと駆け込む。どうか間違いであってくれ、どうか無事でいてくれ。そう願いながら。
「あらリカルド、どうしたの? そんな血相変えて」
と、驚きながらも笑って迎えてくれるディアナの姿を望みながら。
しかし、リビングでリカルドが見たのは、争った跡がありありと判る室内と、その隅でうつ伏せに倒れるディアナだった。
助からない。
リカルドは一目で状況を把握した。
床に倒れているディアナの腹のあたりがすでに朱に染まっている。彼女の体から流れ出、床を染める鮮血は今もゆっくりと、じわりじわりと広がり続けている。
傷を負ってから、ディアナはどうにかして電話をかけようとしたのだろう。部屋の中央から今倒れている部屋の奥に引きずったような血痕がべったりと床に張り付いている。だが力尽きて倒れたのだ。
電話もかけられないほどの痛みと失血とあっては傷は相当深い。倒れてからしばらく経っているであろうことを考えると今から救急車を呼んだとしても間にあわない。
――いや、そんなことはない。すぐに手当てをすれば。
リカルドは自分の判断を即座に否定した。したかった。
ディアナに駆け寄り、血だまりに膝をついて彼女を仰向けに抱き起こす。
彼女のあまりにも、いつもとかけ離れた姿にリカルドは目を見開いた。
すでに相当量の血液を失ったと判る蒼白な顔、腕に着いたいくつもの痛々しい防御創、そして腹にうがたれた銃創とあふれ出る赤、赤、赤……。既に嗅覚はむせかえる血の匂いに慣らされてしまっているはずなのに、生理的嫌悪感に刺激されて鉄くさいそれをリカルドは思い起こして顔をしかめた。
致命傷など見慣れている。自らそれを作り出すこともよくある世界に生きるのだから。だがそれが愛する人の体につけられているのを見るのは、初めてだった。
十五の時に恋人を事故と言う形の殺害で失ったが、彼女の遺体は見ていない、ショックで葬式にも出られなかったのだから。
だが今、リカルドの腕の中で愛しい人の命の灯が消え行こうとしている。
失いたくない。
ディアナを一旦横たえさせ、リカルドは棚の上の電話に手を伸ばした。
「リカルド……」
受話器を掴んだリカルドは、か細いディアナの声に手を止めた。彼女の顔を見ると、うっすらと目を開いている。
「ディアナ、今救急車を呼ぶから」
できるだけ安心させようと、リカルドは微笑を浮かべた。大丈夫、君は助かると、ディアナにも自分にも言い聞かせるように。
「ううん、それより、そばにいて」
ディアナの願いがリカルドを打ちのめす。彼女は悟っている。自分は死ぬと。彼女を一目見てリカルドがそう思ったように。
それでもリカルドは信じたくなかった。病院に運べばまだ間に合う、ディアナは助かる。そう願いながらリカルドは電話で救急車を手配しながら応急措置を施した。
あとは救急車を待つだけとなって、リカルドは毛布に包まれたディアナの上半身を軽く起こして抱きしめた。
ディアナの意識はとぎれとぎれだ。気を失ってはもう助からないと、リカルドは彼女に話しかける。
「大丈夫だ。すぐに救急車が来る。きちんと手当てをすれば……」
「わたし、あなたに笑顔を、もっと、……なのに……」
リカルドを遮り、苦しそうな息遣いでディアナが言葉をうっすらと吐く。
彼女が何を言いたいのか、リカルドには痛いほど判った。だからこそ、彼女の口からは聞きたくなかった。
「もういい、いいから、話さなくていい」
震える声。それでもリカルドはディアナに笑みを向ける。まだ大丈夫、助かる。呪文のように心の中で繰り返しながら。
しかしおそらくディアナは、そしてリカルドも判っていた。別れの時が近づいている。
逝かないでくれ。そう言いたいはずなのに、それを口にすればすぐさまディアナは死んでしまうような気がして、リカルドは何も言えない。
ふと、ディアナが笑みを浮かべた。苦しいはずなのに、痛いはずなのに、最後の最後で彼女は幸せそうに笑う。
「わたし、嬉しかった。あなたがわたしを大切にしてくれて、いる、って、実感するたびに。……わたしといて、少しでも幸せ、だったなら……、お願い……。死のうなんて、しないで。わたしのこと、忘れて。……幸せに……」
ディアナの瞼が重く伏せられた。
「ディアナ! 駄目だ、ディアナ!」
それまでろくに身じろぎすらできなかったリカルドは火がついたようにディアナの肩をゆすぶり声をかける。
彼女の意識は戻らない。やがて呼吸が止まり、鼓動も弱まっていく。
「君がいなくて、どうやって幸せになれるんだ。生きてくれ。俺をおいて逝かないでくれ。ディアナ、ディアナ!」
針飛びを起こして同じ個所を再生し続けるレコードのように、リカルドは愛する人の名を呼び続けた。
だがいくら呼びかけてもディアナは目を開かない。
数分して、ようやく救急車のサイレンが近づいてくる。
救急隊員が部屋に入ってくる。
「早く、早く彼女を助けてください」
リカルドの懇願に隊員達はうなずいてディアナの様子を見る。
心肺停止、という言葉が隊員の口から聞こえた。
その瞬間、リカルドの頭の中が真っ白になる。一番聞きたくない言葉を拒絶して、すべての思考が瞬時に凍りついた。
すぐさま救命のプロが心臓マッサージを施しながら彼女をストレッチャーに乗せて運んでいく。
ディアナが意識を失って冷静さを欠き、蘇生措置を施していなかったことを今更ながらに気づき、リカルドはまた我を失う。
隊員の一人に同伴を促され、茫然自失のままリカルドは操り人形のように、のろのろと立ち上がった。
救急車の中でもERの前でも、ディアナの蘇生を強く信じることで願っていたが、ついに彼女の心臓が再び動き出すことはなかった。
リカルドは取り乱すことなく医師の話を聞いていた。だがその内容があいまいだった。
意識がはっきりした時、リカルドは病院の一室で、息絶えた婚約者が横たわるベッドの前に跪いていた。
彼女の遺体を前にしても、リカルドはまだ、これは悪い夢に違いないとつぶやいた。
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