01-8 素敵な笑顔だったわ
八月に入り、照り付ける日差しはますます厳しさを増すが、リカルドは今までの人生の中で一番充実した日々を過ごしていた。
仕事が厳しいのは仕方のないことだが、最愛の人と過ごすことで心の栄養を得ていた。
来月のディアナの誕生日にあわせて婚約発表会を開くことになり準備に追われている。このパーティは表の顔である貿易会社重役としてのものなので少し堅苦しいが、準備にからませて平日の夜もディアナと行動を共にする機会が増えたのでリカルドは嬉しかった。
さらに休日は、婚約指輪や結婚後の住居の準備の合間にデートを楽しんだ。
「今週末は大学の友達が会いたいって言ってるんだけど、いい?」
ディアナの部屋でのんびりと過ごす木曜の夜に、ディアナに問われた。
「この前話していた、テニスサークルつながりの?」
リカルドが問い返すとディアナはうなずいた。
本音を言えば二人で会いたい。だがおそらく結婚式やパーティにも出席してくれるだろう相手だ。無碍にはできない。
「いいよ。けれど俺はテニスはほとんどしたことがないから見学していていいかな?」
「あら、極めし者なんでしょう? すぐに慣れるわよきっと」
ディアナがあっさりと言ってのけたのでリカルドは返す言葉が見つけられなかった。
彼にとって極めし者の力とは敵を殺す、あるいはそこまでいかなくても、傷つけ無力化するための力だ。それをスポーツのために使うなど考えたこともなかった。だがディアナにとって、闘気は犯罪のための力ではなく、ちょっと肉体能力を補強するぐらいにしか感じられていないのだろう。あるいは普段は人殺しの力でも、こういうことに使えばいいのだという提案か。
「確かに極めし者は運動能力を底上げするけれど、だからと言って球技がうまくなるわけではないよ」
「そうなの? でもまぁせっかくなんだし、気が向いたらやってみたらいいと思うわ」
気が向いたらね、とリカルドはうなずいて見せた。
まぁ参加するとしても少しだけでいいだろう、と思っていた。
そして週末。
ディアナを迎えに行ってから彼女の友人との待ち合わせ場所に向かう。
「あ、来た来た、ディアナ」
男女が二名ずつ、親しげに近づいてくる。
ディアナは嬉しそうに「久しぶり」と彼らに駆け寄り、後からついていったリカルドと彼らを引き合わせた。
「はじめまして。よろしくお願いします」
婚約者の友人に失礼があってはならないとリカルドは微笑を浮かべて挨拶する。
「はじめましてゴットフリートさん」
「背おっきい。何食べたらそんなに育つの?」
「ディアナの婚約者だからもっと活発な人かと思ったけど、おとなしそうな人ね」
ディアナの友人は口ぐちに言いたいことを言う。今まで自分に対してこのようにはっきりと、それも気さくに話しかけてくる人はほとんどいなかった。しかしディアナにとってこれが当たり前のコミュニケーションなのだろう。
「さ、コート借りてる時間がもったいないわ。はじめましょう」
ディアナが皆に声をかける。リカルドはどうすればいいのかとディアナに視線を送った。
「男の子達について行って着替えてきて。ラケットは予備があるから使わせてもらえばいいわ」
ディアナは笑顔で言うと、女性達と一緒に歩いて行った。
リカルドはなんだか、とても場違いなところにいる気分になった。何も知らない子供が大人の社交場にいるような感じだ。仕事関係ならそつなく対応できるのに、友人と呼べる者がほぼいなかったので、そういった方面での接触は本当に幼稚園児レベルなのかもしれない。居心地の悪さを感じつつ、とにかく言われた通り、男性達と共に更衣室に向かった。
着替えているさなかも、男達はいろいろと尋ねてくる。リカルドの仕事のこと、どうしてディアナと出会って結婚する気になったのか、彼女のどこが好きなのか、と。
リカルドは少々戸惑いながらも、言葉数がいつもよりさらに少ないながらも、彼らの質問に答えた。もちろん裏社会のことは内緒だ。自分は貿易会社の重役であること、ディアナとは親の仕事の関係で知り合ったこと、彼女はとても優しい人だから好きになったこと。
まるで尋問されているみたいだ。しかし嫌な気はしない。彼らがとても気さくに話してくれることが、リカルドはなんとなくほっとする気がしていた。
テニスコートは屋内なので直射日光に焼かれることはないが、屋内独特のむっと肌に重くのしかかってくるような暑さがある。そんな中、ディアナ達は楽しそうにボールを追いかけている。
リカルドは自分から試合に参加しようとは思わなかった。だがずっと見ていることを許してくれる人達ではなかった。
「リカルドさんもどうですか」
「リカルドはテニス初めてなの。みんなお手柔らかにね」
「もちろん! 一緒に楽しみましょう」
あっという間にコート脇まで引っ張られていって、断れない雰囲気だ。
皆がラケットの握り方、振り方、ボールをどうとらえるのがいいのかなどを丁寧に教えてくれた。リカルドが試しに素振りをしてみると、フォームがさまになっている、筋がよさそうだ、とほめてくれる。
さすがに社交辞令にまみれて生活しているリカルドは、それらのほめ言葉すべてを鵜呑みにはしない。だが彼らの言葉がとても嬉しかった。あまりほめられることがなかった、できることが当然とされて育ってきたゆえに、純粋にほめられることに喜びを感じているのだ。
これならすぐに慣れるだろうとコートに出されて軽く打ち合ってみる。
外から見ているのとやってみるのとでは、やはり違った。見ている間はもっと小さく感じていたのに、意外にもコートは広かった。
それでも幾度かラリーをするうちに、相手がどこへ打ち込んでくるのかがなんとなく判るようになってきた。もちろん手加減されているからでもあるが、そこはやはりリカルドが極めし者で、体を動かすことに慣れていることと、相手の行動を先読みする目を闘いで養っていたからだろう。
「すごいなぁ。本当に初めて?」
「リカルド、運動神経いいもんね」
友人が感心したように言うのに、ディアナが誇らしげに笑っている。彼女のそんな笑顔を見ると、リカルドの心は晴れやかになった。
いつの間にか、リカルドはボールを追うことがとても楽しいと感じていた。単純に、趣味としてスポーツとして体を動かすことがこれほど楽しいものだとは思わなかった。
やがてコートの使用時間が終わりに近づき、そろそろ片付けようと言われた時、名残惜しく感じた。こんなことならもっと初めから参加しておくのだったとリカルドは少しばかり後悔した。
また近々集まろうと約束を交わして友人らと別れ、リカルドはディアナを連れて車に向かった。
「もうちょっとやりたかった?」
車に乗り込むとディアナが訪ねてくる。
「初めから参加すればよかった」
嘘いつわりのない感想が、するりとリカルドの口から洩れた。
「よかった。リカルド、本当に楽しそうに笑ってたわ。あなたのあんな表情、はじめて見たけれど、……素敵な笑顔だったわ」
ディアナの少し恥ずかしそうな声にリカルドは驚いて彼女を見た。
軽くうつむきながらはにかんでいるディアナの顔がそこにあった。
「リカルドはもっと笑えばいいのよ。今までそれも許されない環境だったかもしれないけれど、これからは、せめてわたしといる間だけでもあなたの笑顔が増えればいいな」
ディアナが顔をあげて見つめてきたので、リカルドは思わず口ごもった。とても嬉しくて、言葉にならなかったのだ。
「ありがとう。……君が婚約者で、よかった」
身じろぎすら許されないような日常の雰囲気を和らげてくれるディアナに、この後も最高のデートコースをと頭を悩ませながら、リカルドは車のエンジンをかけた。
難題を前にしても、彼の表情はとても柔らかく、楽しげであった。
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