01-7 自分で何を言ったのか、覚えてる?

 ディアナに父との確執を打ち明けてしまったその日の、その後のことはリカルドはあまり覚えていない。長い間、胸にしまいこんでいた毒素を吐きだしてしまって放心状態だったのだ。ディアナがとても気遣ってくれたということはなんとなく感じているが、何を話したのか、ほとんど覚えていない。


 それからというもの、日常生活においては少々心が軽くなった気がするが、ディアナに対してはアクションを起こせずにいた。

 きっと呆れられただろう。それに、父親がそのようなひどい男だと聞かされて、誰が喜んで嫁いでこれようか。ディアナの父親がもし彼女を人間扱いしないような男だと聞かされたらリカルドは間違いなく婚約を破棄するだろう。

 なので、ディアナはそのうち破談を申し渡してくるだろうとリカルドは思っていた。


 それでいいのだ、と思う反面、口惜しさをかみしめていた。

 日に日に、ディアナへの思いが強くなる。彼女なら結婚してもいい、いや、結婚したいと思えるのはディアナのような人なのだ、彼女にそばにいてほしいとリカルドは切望する。


 だが、自分は彼女のそばにいない方がいいのだ。

 ミヒャエルは今はディアナに優しい顔を見せているが一旦「内輪」の人間になってしまえば本性を見せるかもしれない。父親のレインフォード氏に対しても、娘を人質のように扱うかもしれない。むしろそれが狙いなのでは、と思うと、ディアナにはゴットフリート家には関わらないでいてもらう方が幸せなのだろうという結論が胸に浮かぶ。


 彼女ほど共に過ごしたいと思う人はいない。そう思える相手だと自覚できたのに、彼女を守るためには離れた方がいいのだ。なんという矛盾だろう。

 週末になっても、リカルドはディアナに連絡を取れずにいる。

 しかし。


「リカルド。ディアナさんから電話だ」


 ミヒャエルがリカルドの部屋に来て告げる。リカルドは驚いて、しかし心のどこかで彼女の声を聞けることに単純に喜びつつ、リビングに置いてある電話に向かった。


 父親は満足そうな顔をしている。ディアナが心変わりをしているとしても、彼には気づかれないように演技したのだろう。


 受話器を持ち上げて、耳に当てる。何を言われるのかと、リカルドの鼓動が高鳴った。


「お電話代わりました」

『リカルド? 今日は忙しいの?』


 まるで何事もなかったかのようなディアナの声に、リカルドは一瞬言葉を詰まらせた。予想外だった。


「え、あ、いえ。そういうわけでは……」

『体調が悪いの?』

「……いえ」

『だったら、出てこない?』


 ディアナから、デートに誘われた。

 彼女の言葉をゆっくりと呑み込むように頭の中で反復して、リカルドは、曖昧にうなずいて電話を切った。


 彼女にまた会える。そう実感すると笑みがこぼれる。

 だがきっと、これが最後になるのだ。

 けじめをつけるのだ。

 リカルドは決意をもって、ディアナのマンションに向かった。


 いつもはマンションの入り口でディアナを車に乗せて出かけるが、今日は部屋に来てほしいと言われている。

 初めて彼女の部屋を訪れるのが別れ話というのは、悲しいものだ。リカルドは一つため息をついてから、エレベータでディアナの部屋の階まで移動した。

 部屋番号を確認しながら歩いている間も、胸が締め付けられるような感覚だ。


 ディアナの部屋を見つけて、ベルを鳴らすとすぐに彼女が出てきた。

 今までと変わらない穏やかな表情のディアナに、リカルドは落胆した。自分と別れるのに悲しみや寂しさのかけらもないということか、と。


「リカルドはコーヒーの方が好きなのよね」


 言いながらディアナはキッチンで支度をしている。コーヒーの他に何やら甘い香りがする。


「シナモンパイを焼いたの。リカルド、こういうの苦手?」


 ごく普通の自宅でのデートのような振る舞いにリカルドは戸惑いを隠せない顔でかぶりを振った。

 ディアナはリカルドの告白に触れてくることなく、パイを食べ、コーヒーを飲んでいる。


 何事もなかったかのようだ。

 だが、そんなことはないのだ。確かにリカルドは深刻な話をした。それについてディアナが何も感じなかったわけではないはずだ。


 奇妙な時間が十分ほど経った後、パイを食べ終えたディアナがリカルドに視線を合わせてくる。


「リカルド、前に会った時のこと、覚えてる?」

「えっ?」


 予想もしない質問にリカルドはぽかんとした。覚えているも何も、今まで誰にも打ち明けなかった過去を話したではないかと言いたかったが、彼女が求めているのはそういう答えではないような気もして、続けられなかった。


「質問が悪かったわね。あなたが自分のことを話してくれた後のことよ。自分で何を言ったのか、覚えてる?」


 ほぼ覚えていない。

 更に、告白の最後の方も曖昧だ。

 そう答えていいのかも判らないが、覚えているという嘘をついても何にもならないと思った。


「実は、あまり覚えていません」


 ほとんどと言わないのが精一杯のごまかしだ。

 リカルドが自嘲の笑みを漏らすと、ディアナはなぜか口元を緩ませた。


「そうじゃないかなって思ってたわ。だったら――」


 ディアナは一つうなずいて言葉を続けた。


「もう二度と、自分の立場を苦にして破談にしようなんて言わないで」


 そんなことを話していたのか、という思いと、あの時に話した目的のようなものだから同然か、という納得が瞬時にリカルドの胸に浮かぶ。


「いいのですか? 私と結婚しても」


 咄嗟に出たのは確認の言葉。


「あの日から考えたのよ。いろいろと。でも結局、わたしはあなたのそばにいたいみたい」


 そう言って微笑するディアナの頬はかすかに赤らんでいる。

 彼女の言葉に、様子に、温かいものを感じると同時に息苦しさを覚えた。


「どうして……」


 責めるつもりなどない。むしろ嬉しいのに、リカルドの口をついて出たのは非難にもとれる質問だった。


「あの時、あなたはすごく憔悴していたわ。自分で何を言っているのかまったく意識できていないぐらいに。そんな時に出た言葉は本音だと思うの。だから、あなたがわたしを思ってくれている間は一緒にいてもいいって思ったの」


 ディアナと結婚する。結婚できる。

 また心穏やかな時間を過ごせるのだ。

 嬉しい。これ以上ないほどに。

 だが、いったい自分は何を言ったのかも、リカルドには気がかりだった。


「なんて言ったのか聞きたい?」


 リカルドの顔色を読んだディアナが、いたずらっぽく笑う。


「そっ、それは……」


 聞きたいが、恥ずかしいので聞きたくないというのが本音だ。


「あなたがわたしを大切に思ってくれているんだ、って判った、とだけ言っておくわね」


 言うと、ディアナが朗らかな笑みを浮かべた。

 あんな父親なのだから自分と関わらない方がいい、というような内容だったのかもしれない。

 だが細かな内容はもうどうでもいい。

 リカルドの気持ちがディアナに伝わり、彼女が受け入れてくれた。それで十分であり、それだけでよかった。


「ありがとうございます」


 リカルドは頭を下げた。


「お礼を言われるようなことじゃないわ。それよりも、そんな堅苦しい言葉遣いはやめてほしいわ。名誉ある男が婚約者相手に一歩引いているなんて、あなたの部下が見たら何て言うかしらね」


 特に彼女に一歩引いているつもりはない。自然と距離を置くような話し方は、むしろ周りから退けられていたが故のものだ。だが最愛の女性が望むのであれば、自分のスタイルを曲げることなどリカルドにとって些末なことであった。


「判った。あまり砕けた表現には慣れていないけれど、努力する。それより君は名誉ある男などという言い回しをどこで知ったのです……、いや、知ったんだ?」


 リカルドが言い直したことにか、ディアナはくすっと笑って応えた。


「あなたのいる世界のこと、ちょっとずつだけれど勉強してるのよ。知ることで回避できるトラブルや危険なこともある思って。だからあなたは、わたしといる間はもう少しリラックスしていてほしいの」


 名誉ある男――マフィアファミリーの構成員と添い遂げる覚悟を、彼女はすでに固めているのだ。

 自分も彼女のために気持ちを入れ替えねばならない。

 リカルドはうなずいた。


「ありがとうディアナ。君にとっての名誉ある男になれるよう、努めるよ」

「期待してるわよ。――それじゃ、でかけましょ? 今日はどこに連れて行ってくれるの、婚約者さん?」


 今まで見た中で一番の笑顔のディアナとの休日を楽しむべく、リカルドは彼女が喜びそうなデートプランを思案した。

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