01-6 ひとりでずっと、抱えてきたのね

 次の朝、ミヒャエルが出かけると、リカルドはすぐさま少し大きめの手提げ鞄に数日分の着替えと、キッチンに備蓄している食糧を詰め込んだ。家を出るには財布の中身は心もとないが、そんなことは今はどうでもよかった。一刻も早くミヒャエルの下から逃れたい一心で、リカルドはさっさと家を出た。


 その日もいい天気で、ますます暑さを増した日の光に目を眇めながら、リカルドはまず大通りに出てタクシーを拾った。

 幸いにもリカルドは長身で、子供らしい生活をしてこなかったために未成年だとは、まして家出を決行しているとは思われなかったようだ。ご旅行ですかと運転手に問われたので、はい、とだけ応えておいた。


 出勤時間とあって街の通りはビジネスマンが闊歩している。夏休み中の街中は、親に手を引かれどこかに出かけようとしている子供達の笑顔であふれている。

 どれもこれも当たり前にある日常の風景だ。だがこれまで周りの景色をじっくりと見る余裕がなかったリカルドには、なんだか新鮮な風景に映った。


 これからは誰も知らない街に行って、誰にも縛られずに生きていく。きっと生活は大変だろうが今のままよりはずっといい。そう考えるとリカルドは心底嬉しくなった。

 もちろんリカルドの家出を知れば父は追っ手を差し向けてくるだろう。だがミヒャエルは会社に出勤したばかり。夏休みなので学校からの無断欠席の連絡もない。少なくとも半日は時間を稼ぐことができるのだ。

 それから捜し始めても、その頃にはリカルドは長距離列車に乗っている。どの方面にリカルドが行ったのかが判らなければ追跡の手はなかなか自分には伸びてこないだろうとリカルドは思っていた。


 やがてタクシーはダウンタウンの駅についた。ここはカリフォルニア州内の主要都市はもちろん、合衆国内の複数の都市への長距離列車が走っている。

 人の流れに飲まれそうになりながら、リカルドは次の長距離列車のチケットを買い求めた。食事代などを残さねばならないので終点まではいけないが、それでもミヒャエルの管理下を離れるとあって、チケットを握り締めたリカルドはとても晴れ晴れとした顔になった。


 列車が到着し、整備が終わって乗車が許可されるとすぐさま乗り込み、座席を確保した。

 考えてみたら、列車に乗るのはこれが初めてだ。

 古くから走っていてところどころ傷みかけている列車の中をぐるりと見回して、リカルドの心が更に高揚した。さすがにあからさまに物珍しそうな顔をするのも恥ずかしいし、目立ってはいけないと思ったので表情にこそ出さなかったが。


 いよいよミヒャエルからの逃避行の始まりだ。そう思うとリカルドは不安にもなった。ミヒャエルは家出息子の捜索を警察には頼らずに、子飼いの部下を使うだろう。表社会では製薬会社の社長であるミヒャエルの息子が家出など、広く世間に知られるわけにもいかない。なにより秘密裏に捕えなければならない理由がある。裏切り者への制裁のためだ。

 リカルドは別に死んでもいいと思っていた。だがマフィアの制裁は最終的に死に到達するとしてもその過程が苛烈である。死は恐れないがなぶり殺しにあいたくはない。


 リカルドは、早く発車時刻にならないかと何度も腕時計に目をやった。

 しばらくして、列車がゆっくりと動き出すと、ほっと息をついた。だがまだ安心できるわけではない。

 この列車にミヒャエルの部下が、たとえ偶然であっても乗り合わせていないか、と、通路側に背を向けながらも背中を丸める。通路を歩く人の気配を感じると、どんな人かと目だけをそちらに向けた。


 だがリカルドの不安は、とりあえずは杞憂に終わった。

 やがて列車は都会を離れ、ただただ平面が広がる畑の中へと出る。青い空と緑の大地を見て、リカルドはやっと、安心して座席にゆったりと座ることが出来た。

 車窓に広がる広大な大地と青い空がリカルドの心を癒す。じっとリカルドは景色を眺めていた。


 しかし心配事が取り払われると、長距離列車の旅というものは退屈だ。景色にそう面白い変化があるわけでもないし、余暇を楽しむための金を持ち合わせていないリカルドは、ただただ座っていることしかできない。

 外で眠るということは今までなかったリカルドだったが、単調な景色と心地よい揺れ、今は安全なのだという意識が連れてきた睡魔に、やがてその身をゆだねる。

 決して快適な寝心地ではなかったが、それでもリカルドは心安らかに仮眠を取った。




 その日は、何事もなく過ぎて行った。夜の帳が下りると、リカルドはほぼ外を見ることもなく、どこに注意を向けることもなく、安らいだ時間を過ごしていた。

 ずっと忙しかった日常から離れると、妙に居心地の悪さも感じる自分に苦笑を洩らす。だがこれからは、自分の意思で生きてゆく。リカルドは希望に胸を膨らませていた。

 あの男達が突然現れるまでは。


 うつらうつらとしていたリカルドは、列車がどこかの駅に到着し、また出発したことをぼんやりと感じながら夢と現の間をさまよっていた。


「あぁ、こんなところにいらっしゃった」


 男の声が降ってきたが、それが自分に向けられたものだとは思わなかった。

 だが、ぐいと腕をとられ、リカルドははっと目を見開いた。

 見覚えのない男達だ。いや、なんとなく見知っているかもしれない顔もある。三十代程の男達は皆、スーツを来て丁寧な物腰だが、まとっている雰囲気が明らかに「かたぎ」のそれではない。


 ――父の手下だ。


 リカルドの体がぴくりと跳ねた。ここで捕まってはならない。

 だがリカルドが行動するよりも早く、男の一人が口と鼻をハンカチで覆ってきた。途端に頭の芯まで届く麻酔の臭い。呼吸を奪われた息苦しさと麻酔の嫌な臭いにリカルドはくぐもったうめき声を漏らした。

 誰かが見れば誘拐犯と思ってくれないだろうか。ぼうっとしてくる頭でそう考えたが、リカルドからは他の客が見えない。それはつまり、リカルドが何をされているのかも、他の客から見えないということだ。


 やがて体の動きがままならなくなってくる。完全に意識を失うこともないが、されるがままというのを自覚する、一番もどかしい状態だ。


「だめですよ、坊ちゃん。勝手に抜け出されたら心配するじゃないですか」


 一人が親しげな笑みを浮かべて見下ろしてくる。だがリカルドを見る目の奥にはさげすみの色が見える。


「さぁ席に戻りましょう」


 肩を貸される状態で抱えられ、リカルドはなすすべもなく男達に連れ去られた。

 周りの客達をもう一度見回したが、誰もこちらに関心を向けていない。

 こんなことなら、誰かに話しかけて親しくしておくべきだった。だがいまさら悔やんでももう遅い。

 リカルドの逃走劇は一日足らずで終焉を迎えてしまった。

 そして、かりそめの自由の代償は、あまりにも大きかった。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 リカルドが言葉を切ってうつむいていると、ディアナはしばらく無言で次の言葉を待ち、じっと見つめてくる視線だけを感じた。


「お父様の、部下の方に見つかって、連れ戻されたのね」


 やがて何も言わないリカルドの代わりにとばかりに、ディアナが結末を口にした。


「ええ。次の駅で降ろされて、連中が用意したトラックで家に連れられました。……家に戻されるまでの間、制裁だ、と言って彼らは……」


 そこまで言ってからまた口を閉ざし、リカルドは自らを抱きしめて体を震わせた。


 あの時のことは思い出したくない。まして婚約者になど話せるわけがない。


 トラックの荷台には数人の男が、獲物を得た獣のようにぎらついた表情で待ちかまえていた。

 外から隔離された狭い世界で、永遠とも思われるような、絶え間ない責め苦。


 男達は、明らかにリカルドを傷つける行為を楽しんでいた。上位者からの命令をかさにきて、リカルドの身も心もずたずたに引き裂いた。弱者をいたぶることに恍惚とした表情で、劣悪な感情を隠そうともせずにいやらしい笑い声をもらしていた。


 思い出したくないと思っていても、過去を語ったリカルドの脳裏には次々に男達のあざけるような声がよみがえってくる。彼らが自分になした理不尽な暴力も。


『これは当然の報いだ。抜けようだなんてこれでもう二度と考えないだろう』

『おまえの父親も、承知していることだ』

『今回は命までは取らないそうだ。慈悲深いあのお方に感謝するんだな。だが次はないぞ』


 リカルドは頭を抱えて左右に小刻みに振りながら悲鳴にも似た声を絞り出す。


「家に戻って、父と顔をあわせた時……、これくらいのことで逃げようなどとは愚かだと言った……。俺の心の安らげる場所を壊して、これくらいのこと、と。それからもなにも変わらない。いや、監視はさらにきつくなって自由なんてものはなくなった。あの男は自分の動かしたいように俺を動かして、それを当然のように思って、思う通りの成果をあげなければ暴力で支配する……」


 声が震える。声だけではない、体の震えは今や止めようもない。

 女性の前で恥ずかしいなどと、リカルドには考える余裕はなかった。自分の口調が崩れていることすら気づいていない。


 早く消したい。早く忘れたい。それなのに忘れられない過去を思い返して、涙すらじわりとこみあげてくるほどだ。


「誰にも、話せなかったのね。ひとりでずっと、抱えてきたのね」


 ディアナのいたわるような声と、腕に差しのべられた両手がリカルドをそっと包んだ。


「ごめんなさい、古傷をかきむしらせる真似をして。正直言って、そこまでとは思わなかったの」


 そっと腕に添えられていたディアナの手に、ぎゅっとリカルドを抱きしめるように力がこもった。

 それ以上何も聞くわけでも、話すわけでもなく、ただじっとリカルドの両腕をつかんでいるディアナは、まるで慰めてくれているように思えた。


 同情されている。そう思うとリカルドは胸がかっと熱くなるのを感じた。遅れて自覚した羞恥に歯を噛みしめる。


「……面白い話では、なかったでしょう?」


 目じりに浮かんだ涙をいまさらのように隠そうと顔をそむけながら、リカルドは取り繕うように笑った。

 そんなリカルドの強がりにも、ディアナは微笑を返して、ええ、とうなずいてからそっと抱きしめてくれた。

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