01-5 あの時はありがとうございました
十五歳の初夏だった。学年末考査の勉強やレポートの作成のためにリカルドは学校の図書館に通うことが増えていた。父親やマフィアの仕事から離れられるとあって、とても忙しい時期ではあるが、リカルドはこの時期がとても心地よかった。
彼女と出会った日も、リカルドはレポートの資料を探しに図書館に来ていた。
目的の書籍を手に取り、机に向かおうとしたリカルドは、重そうな本を数冊抱えて難儀している女性にふと目を留めた。
中学に進学してからは遠巻きというよりは意図的な無視の対象になっていたリカルドは、普段なら他人に注意を向けることはなかった。もはや自分と周囲の間に刻まれた溝は埋めることはできないのだとあきらめていた。
だがそれでも彼女に目がいったのは、ふと周りを見るぐらいの精神的な余裕がその時にはあったのだろう。
彼女がリカルドのそばを通り過ぎる時に足を軽く滑らせてしまった。
とっさに、本当に条件反射的に、リカルドは彼女を支え、ついでに手にしていた本が落ちるのも受け止めた。
「あ、……大丈夫ですか?」
そっと離して問いかけると、彼女は顔を赤らめてうなずいた。
「はい。ありがとうございます」
助けたついでに女性の本を席まで運んであげると彼女はとても嬉しそうに、しかし控えめな笑みを向けてきた。
リカルドは、どきりとした。
これが一目ぼれなのだろうか。いや、単純に自分にそのような親しげな笑みを向けてくる者などほぼ皆無だから嬉しかっただけなのかもしれない。
だがリカルドにとって鼓動が高鳴った理由など、どうでもよかった。
それからというもの、リカルドは図書館に来ると自然と視線をめぐらせてあの時の女性を探すようになった。
彼女を見つけるのは比較的簡単だった。決まった時間に図書館にやってきて勉強していたのだ。
だが声をかけることはできなかった。常に友人と一緒だったのだ。
あの時はたまたま一人だったのだ。友人の多い彼女に自分のような鼻つまみ者が近づいては迷惑だろう。リカルドはそう考えて接触をあきらめた。
しかし思いがけないことに、女性の方から声をかけてきたのだ。
「こんにちは。あの時はありがとうございました」
柔和な笑顔で目立つのはブラウンの瞳。同色のつややかなストレートヘアをさらりと揺らし、女性はリカルドを見上げていた。
父の陰謀により裏社会とかかわるようになってから見ることのなかった、自然な笑顔にリカルドの胸が高まった。
二人は程なく、図書館で待ち合わせて会うようになった。
互いの勉強が忙しい時はそれに付き合い、時間があるときはカフェでデートをした。
彼女も学年をスキップしていてリカルドと同学年で同い年だった。学校での苦労話を互いに理解できるとあって意気投合したのだった。
彼女の周りにいた友人らは「本当の友達じゃない」と彼女は言った。仲間外れにされないかいつも気を使って本音で接することなんてできなかった、と。
そんな中でリカルドに出会い、この人となら気負わず過ごせそうだと直感のようなものが働いたそうだ。あの、彼女から声をかけた時、リカルドがそっけない態度ならあきらめようと思っていたと告白してくれた。
自分の方こそ彼女に救われたのだとリカルドは思った。
リカルドは彼女と話していると、自分も普通の学生のように振舞えて嬉しかった。
父は相変わらず裏の仕事を手伝わせるし、無理難題も言ってくる。
だが彼女とまた学校で会えると思うとリカルドは以前ほど毎日に苦痛を感じることはなくなっていた。
夏休みに入ってからは、彼女と過ごす時間は少なくなってしまった。勉強にさほど気を取られない分、仕事に力を入れろとミヒャエルは普段より多くの仕事を押し付けてきたのだ。
その合間を縫って、リカルドは彼女に連絡を取っていた。
彼女のことは父親に知られるわけにはいかない。あの男のことだ。自分の意にそぐわない相手とリカルドが付き合うことは許さないだろう。
リカルドはひそやかに、心のオアシスである恋人との逢引を楽しんでいた。
だが。
付き合ってひと月ほどしたある日、いつもの約束の時間に彼女は現れなかった。
まだ携帯電話など学生が持たない時代のことだ、連絡手段は限られている。
リカルドはしばらく待ったが彼女は現れず、家に帰ることにした。
父に見つからないように、彼の留守を見計らって彼女の家に電話をかけてみた。
電話に出た母親にリカルドが要件を告げると、信じられない答えが返ってきた。
『娘は……。亡くなりました。今朝、交通事故で』
母親が涙で声を詰まらせながら、それだけを答えると電話口で泣き崩れた。
それから、リカルドはしばらくの間記憶がない。電話を切って自室に戻ったのだろう。気がつけばベッドに座っていた。
彼女が、死んだ。
心の中で何度も繰り返したが、実感がない。
いや、実感してしまうのを心が拒否しているのだ。きっと葬儀のことも聞いたであろうという意識はあるのに、内容はまったく思い出せない。
なのでリカルドは恋人の葬式にも出ずに、ただ喪失感をミヒャエルに知られないようにといつものように無表情で過ごす。それが精一杯だった。
しかしそのリカルドの苦労をミヒャエルは嘲うかのように言った。
「リカルド。聞くところによるとおまえの同学年の女性が交通事故にあったそうだな。気の毒なことだ」
口調からして、微塵も哀れみを覚えていないことがありありと判った。
「運が悪いな。事故の多い危険な道を歩いていたそうだから、おまえも気をつけなさい」
ミヒャエルはそれだけを言うと、用は済んだとばかりにさっさとリカルドに背を向けた。
危険な道を、歩いて……。
リカルドは目の前が真っ暗になった。
危険な道を歩く者、というのは父が排除したい相手に使う隠語だ。
先程の父の口調、表情、そして吐かれた言葉で、恋人が意図的に殺されたのだと悟ってしまった。
ミヒャエルは知っていたのだ、リカルドが父に隠れて恋人を作っていたことを。そしてその彼女は、ミヒャエルにとってはリカルドにふさわしくない者と判断されたのだ。
これまで父親の暴挙に耐えてきた。そうしなければ制裁を加えられるから。軽い暴力なら数え切れぬほどあった。それでも父には逆らわずにいたのは、まだ心にわずかに残る希望がそうさせていたからだ。
いつかは父の束縛を逃れて心の安らぎを得ることができる日もくるだろう、という希望だ。
だがリカルドの渇望するものは、父のもとにいる限り永遠に得られない。
そうと判ったからには、もうこれ以上あの男の言う事を聞く必要は、ない。
リカルドは今までたまりにたまった鬱積を爆発させ、行動に移った。
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