01-4 今その話をするってことは
どれほどの間、思案していたのだろうか。数秒かもしれないし数分かもしれない。
それでもディアナは怒ることもなく、最終的にはリカルドの結論に任せようとしている。
彼女の誠実さを裏切ることはできない、とリカルドは思った。
「ディアナは『
「極めし者? 何かを超えているの?」
極めし者を知らない人のほとんどが返す言葉に、リカルドはうなずく
「はい。人間は本来、自分が出せる力を制御しています。いつも力いっぱい出して活動すると体がもたないからです。それを、体への負担をほぼなくして可能にしたのが、極めし者です」
人は例えば危険が迫った際に、どうしてそうできたのか判らないような行動をとれることがある。普段は絶対に持ち上げることができないような重いものでも、下敷きになってしまった人を助けたいがために無我夢中で持ち上げた女の人がいる、という話もあったりする。それは普段は制限がかけられている肉体能力を一時的に――無意識のままに開放しているのだ。
「そんなことを意識的に、デメリットをなくしてできるようになった人を、極めし者と呼びます」
「それじゃあ極めし者は普段から車を持ち上げちゃったりできるってこと?」
リカルドは、その気になれば、と答えた。
ディアナは初めて知る事実に感心して目を輝かせていたが、ふと真顔になった。
「今その話をするってことは、ミヒャエルさんが、その極めし者だってこと? だから逆らえないってことなの?」
察しのいいディアナに、リカルドはため息を一つ落として応えた。
「私もそうなのですが、父には遠く及びません」
リカルドも極めし者であるという告白にディアナは一瞬、目を丸くした。
「力が違いすぎるから、逆らっても抑えられるってことなのね」
もしかするともっと違うことを聞きたかったのかもしれないが、ディアナは一見、冷静に返してきた。
「はい。それと、肉体的な暴力だけでなく精神的にも、父は私を抑え込んでいるのです」
ディアナは「そんな」と小さく一言つぶやいて、悲しそうな顔をしている。
やはり彼女は優しい人だ。だからこそリカルドはもうすべてを打ち明けてしまおう、という気になっていた。
子供時代の話をすればディアナは婚約を破棄すると言い出すかもしれない。
それでも、自分の身を案じてくれている女性に父の本性を隠したままでいるよりはいいと思った。
「父とのことは、きっとあなたにとっても気分のいいものではないと思います。それでも聞いていただけますか?」
ディアナが静かにうなずくのを確認して、リカルドはかすかに震えるのを抑えながら、話し始めた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
リカルドが初めて父の裏の顔を知ったのは、十歳の時だった。
母はリカルドを産んで間もなく、産褥病が悪化して亡くなってしまったとリカルドは父から聞いていた。つまり自分を産んだことが原因で母は亡くなったのだ、と考えて悩んだこともあったが、父に相談した際に「そんなくだらないことを考えるな」と強い口調で一蹴された。そう考えるのは悪いことだと幼心に思って、もう二度と口にすることはなかった。
父が自分に対して語気を荒らげたことはそれ一度きりで、幼い頃は父に対して、まだそれほど悪い感情は抱いていなかった。大人になって考えると、父は優しかったのではなく、自分の役に立つことのない子供には無関心だったのかもしれないとも思えるが。
忙しい父は家にいないことが多く、ハウスキーパーやシッターの女性たちと過ごすことが多かった。彼女達とは仲良くしていたが、母親がいないことを時々は寂しく思っていた。
小学校に入って、周りの子供達の親が離婚したという話を聞くと、片親であることはそう特別に寂しがる程でもないのだ、と思うようになった。それは母の温もりというものを知らなかった自分の寂しさを、他の子とそう変わらないのだと納得することで紛らわせていたのではないか、と今は思う。
そんなちょっとした違いはあれど、リカルドは普通の小学生だった。父があの話を持ってくるまでは。
その日、仕事の合間に父が帰ってきた。
リカルドを部屋に呼ぶと、彼は珍しく神妙な顔でリカルドに頼みことをする。
「これから大切な取引があるのだが、緊急で別の人から届け物をしてほしいと頼まれたのだ。私は先約の方に行かねばならないが、後から頼んできた人のことも無視できない。そこで、おまえが先に行って私が遅れていくことを詫びてくれないだろうか」
父が言うには、その人は子供好きなのに子宝に恵まれずにいる人なのだとか。会社の者を行かせるよりもリカルドなら彼も喜ぶだろう、というのだ。
仕事の事に子供が首をつっこんでいいものだろうか、とリカルドは思った。
だが父の困ったような顔を見て、彼が真剣に自分に「お願い」をするさまに、彼の役に立てるなら、と思った。いつもは少々威圧的ともいえる父が自分に頭を下げているという状況が、嬉しかった。
父親に頼られている。その思いからリカルドはうなずいた。
子供が一人で出歩いているのが知れては補導され、父も逮捕されてしまう。ミヒャエルはリカルドのためにハイヤーを呼び、取引相手の家へと連れて行ってくれるように頼んでいた。
初めて父に頼み事をされ、初めて一人で外に出かける。
リカルドは少し興奮していた。
車窓から見える景色が、いつもの単純な日常ではなく、とても特別なものに見えた。
やがてハイヤーは贅沢な造りの邸宅の前に停まる。
リカルドを迎えたのは、初老の紳士だった。来訪の目的を告げると嬉しそうに目を細めて家の中へと招き入れた。
彼は「今は来客中だから」とリカルドを一室に通し、お菓子とコーヒーを出してくれた。
父から頼まれた小さなアタッシュケースを手渡して、落ち着かない様子でリカルドが縮こまっていると優しく笑って、くつろいでいるといい、と言い残して部屋を出て行った。
ああいう人がお父さんだったらなぁ、とリカルドは思った。いや、特に父が嫌なわけではない。ただもう少し自分に目を向けてほしいとリカルドは思っていた。
一時間ほどしてから父が訪ねてきて、取引相手の男と二言三言かわすと父が封筒を受け取り、リカルドはそこでお役御免となった。
「おまえもこれで、ビジネスデビューだな」
帰りの車の中で父が笑って言った。
冗談だと思ったリカルドも笑った。
だがそれは単なるジョークではなかったのだ。
翌日、学校に行って友人に挨拶をすると、なぜだかよそよそしい態度で返された。
それだけではなく、明らかにリカルドを避けている。悪意ある無視ではなくて、怖いものを遠巻きにしているような態度だ。
訳を尋ねても、みな、無理やり作った笑顔で何でもないよと言うばかりだ。
「なんでもないことないだろう? 俺、なんか悪いことした?」
「悪いことって思ってないんだ……」
ますます人垣が遠ざかってしまった。
何か誤解されているのか、それならなんとか誤解を解いてまたみんなの中に戻りたい。
だが誰も、真実を話してくれなかった。完全に無視するわけではないができるだけ関わりたくない。そんな態度で接せられた。
ひと月ほど経ち、その間にも数回、父の使いとしてジュラルミンケースを運ぶ仕事を頼まれた。
リカルドが運んでいたそれが禁制薬物であると知らされたのは、もう片手では足りないほど手伝いをした後だった。
さらに、父だけでなく、ファミリードクターであるアーシェイドや、周りの大人たちはほぼマフィアの息がかかった人達だと告げられた。
「おまえも、これからはファミリーの助けになるよう、努めなさい」
父が断言する。
もう逃げられないのだと、彼の顔が語っていた。
リカルドの鼓動と呼吸が速くなる。
理解してしまったのだ。友達が急によそよそしくなった理由を。
リカルドは父の裏の仕事を承知の上で手伝っていると、根回しをされてしまったのだ。
裏稼業にこのままずるずると引きずりこまれるのは嫌だが、こんなことを誰に相談していいのやら判らず、リカルドはやがて半孤立状態のまま小学校を卒業した。
中学になると父親の意向には逆らえなくなっていた。マフィアの犯罪を警察に訴えるとどのような制裁を加えられるのかが判ってきたこともあるし、どのような経緯をたどったとしてもリカルドも犯罪に手を染めているのだから。
父や彼の後ろ盾であるマフィアファミリーに逆らってまで事を起こすことは、リカルドには出来なかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
そこまで話して、リカルドはひとつ大きくため息をついた。
「あの時に、証人保護プログラムなど、使える手立てを講じていたら、私は抜け出せていたのかもしれない……。もっとも、すぐに見つけ出されて裏切り者として殺されていたかもしれませんが」
今となってはどうしようもないことだが、とリカルドは自嘲の笑みを漏らす。
「無理やり犯罪に関わらされたから、お父様のことが許せないの?」
「それもあります。……けれど、それだけじゃない」
ディアナの質問にリカルドはかぶりを振った。
「あの男は、私が気を休められる場所を奪っていく。思い通りに動かなければ、どんな手段を使ってでも言うことを聞かせる。私を自分の息子だとは思っていない。ただ、一番御しやすい手駒、道具としか思っていない……」
リカルドは歯を食いしばった。一番思い出したくもない事件を思い出し、あまつさえそれを、目の前の女性にぶちまけようとしているのだ。吐き出してしまいたい思いもあれば、ためらいもある。
ディアナは何も言わずにそっとリカルドの手を握った。
話して、とも、話さなくてもいい、とも言わない。ただじっと、リカルドがどうするのかを、待っている。
「……中学に入ってからは、スキップ制で学年を飛ばしたから同級生は年上だった。ますます孤立していく中で、同い年の女性と出会って……」
リカルドは、震える声で続きを話し始めた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
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