01-3 わたし達、結婚するのよ
婚約を継続させることを確認したあの日から一ヶ月。リカルドは暇を見つけてはディアナをデートに誘った。仕事の都合で一日中会えない時でも、ランチやディナーを共にした。
彼女のことをもっと知りたい、彼女が何を考えているのか触れてみたいと思い、積極的に行動するうちに、どうやら心を寄せていたようだ。
彼自身、自分の変化に驚いている。だが今は、忙しい仕事の合間にディアナと過ごすひと時を楽しみだと思うようになっていた。
十五の時に恋人を不本意な形で失い、それからは父の機嫌を損ねぬようにと勉強と仕事にだけ目を向けていた。ディアナとの婚約も、父の意向に背けないがためのものだった。
しかし今は、彼女自身が興味の対象だ。
ディアナはリカルドが求めれば、彼女の話をいろいろとしてくれた。学生時代の話。余暇の過ごし方。好きなテレビや本の話など。
趣味と呼べるものがほとんどないリカルドは、彼女の行動範囲の広さに羨望のまなざしを向ける。彼女の世界がとてもまぶしく思えた。
ふと、リカルドは思う。このままもし結婚すれば、彼女は今までのように気ままに過ごすことは出来なくなる。リカルドは特に彼女の趣味などを制限するつもりはないが、ミヒャエルが何かと干渉してくるかもしれない。将来の社長夫人となる者はこうあるべきだ、など押し付けてきてもなんら不思議はない。
「もしも私と結婚すれば、今までのように過ごせないかもしれないけれど、それはいいのですか?」
ディアナの提案で映画を見に行った後、ディナーの席でリカルドは尋ねてみた。
「今までのように、って?」
ディアナは小首をかしげる。
「映画を見に出かけたり、ショッピングに行ったり、今も交友のある学生時代のご友人と気軽に会ったりとかが、今までのようにできないかもしれない、ということです」
「余暇に出かけること、あなたは反対なの?」
「私は反対しません」
そのあとの言葉をリカルドは呑み込んだ。父親の反対に反論できないとは、なんと情けない男かと思われるのが、恥ずかしく思えたのだ。
しばしの沈黙が二人の間に下りた。
気を取り直したかのようにディアナが尋ねてくる。
「なら、リカルドは普段何しているの?」
「仕事のない時間ですか? 本を読んだり、ですね」
「実用書とか?」
「そうですね」
「小説は読まないの?」
「世間で話題になったものを読むこともありますよ」
「ふぅん。……貿易会社の重役さんの本棚って興味があるわ」
軽く手を組み合わせてディアナはにこにこと笑っている。
「あなたが見て面白いものはない、と思います。私が読んだ小説ならきっとあなたも既に読まれているでしょうし」
「それなら、わたしが読んだ中で、あなたにも楽しんでもらえそうなものをお貸しするわ。今度、お邪魔していいかしら」
「うちへ、ですか?」
「ええ。どんな本があるか判らないと本を選べないもの」
さも当然というディアナの顔に、リカルドは戸惑った。
「見られちゃまずいものがあるとか?」
ディアナが冗談めかして笑いながら問う。
「そ、そんなことはありませんよ」
彼女が言う「見られてまずいもの」という意味合いを察してリカルドはかぶりを振った。そんなものがあるとしても彼女が来る際には処分しておけばいいだけのことだ。
「それじゃ、次のデートはあなたの家ね」
ディアナに押し切られる形で、リカルドはうなずいた。
次の休日、リカルドはディアナを家に招待した。
リカルドにとって幸先の悪いことに、彼女を家に招きいれた時に、廊下でミヒャエルと鉢合わせしてしまった。
「こんにちは、ゴットフリートさん」
ディアナが楚々としたしぐさでお辞儀をするのにミヒャエルは微笑を浮かべた。
「こんにちは。リカルドが世話になっていますね」
「いえ。お世話になっているのはわたしの方です」
二人がただ挨拶を交わしているだけなのに、リカルドはとても緊張していた。あまり自分の話題には触れないでほしいと身を硬くしてやり取りを見守った。
幸いにもリカルドの願いどおり、ミヒャエルは挨拶を終えると自室に入っていった。
気付かれないようにとそっと息をついて、リカルドはディアナを自室に案内する。
自分の部屋に女性を呼ぶのは初めてのことだ。先程とは違う緊張が湧き上がってくる。
部屋はきれいだ、とリカルドは思う。元々さほど使っていない部屋をいつもより丁寧に掃除をしたのだ。
「何もなくてつまらない部屋ですよ」
リカルドはそう言ってディアナを部屋に通したが、彼女は興味深そうに部屋の中を見回している。本棚を見て早速本の内容をチェックしているようだ。
「本当に実用書ばっかりね。小説の好みとかあるの?」
「いえ、特にないです」
「じゃあ適当に見繕って――、あら?」
ディアナが机の上に視線を移して言葉を切った。
彼女の視線の先には、あの絵葉書が飾ってある。
なんだか気恥ずかしくて、リカルドは彼女から少し目を逸らした。
「綺麗な写真だったので」
それだけ応えると、リカルドは「コーヒーでも淹れてきますね」と部屋を出た。
こういう時、気の付く男なら「絵葉書をもらって嬉しかった」などとさらりと言えるのだろう。実際、嬉しかったのだから言えばよかったのだ。だが部屋に戻ってその話題を自分から持ち出すのは、さすがに取ってつけたようで恥ずかしい。
そんなことを考えると、リカルドの口から笑みが漏れた。
だが、その笑みは長続きしない。キッチンに向かうまでに、再びミヒャエルと顔を合わせたのだ。
父はスーツに身を包み、鞄を手にしている。どこかに出かけるようだ。
「仕事ですか?」
「ああ。おまえはいい。ディアナの相手をしていなさい」
大切な婚約者の機嫌を損ねないように、と続けて言う父の声に皮肉の色が混じっていると感じ取れてしまうが、リカルドは深く考えずにうなずいて父を見送った。
ミヒャエルがいなくなると、リカルドは幾分かの安堵を覚える。いかに自分が父を普段から意識しているのかを、こんな瞬間に改めて思い知らされてしまう。
コーヒーを淹れて部屋に戻るとディアナはやはり本棚を興味深そうに眺めていた。
「リカルドは子供の頃はどんなものを読んでいたの?」
「読み物という意味では、今よりさらになにも読んでいなかったですね。学生の頃はレポートが忙しかったですし、仕事もしていましたから」
ディアナは、目をぱちくりとしばたかせた。
「仕事、って、一体いくつの頃から仕事しているの?」
「初めての仕事は十歳でした」
「自分から進んで?」
「そんな訳ないだろう」
思わず吐き捨てるように言うとディアナが息を呑んだ。
「ごめんなさい。そうよね、ばかな質問だったわ」
彼女があまりにも恐縮しているので、リカルドは言いすぎたな、と思った。
「いえ。こちらこそすみません」
「……ねえ、リカルド。こんなこと聞いたらまた気分を害してしまうかもしれないけれど……」
ディアナはリカルドを見上げながら、少しためらった後に尋ねてきた。
「お父様とは、どんな関係なの? 厳しい人だとは聞いているけれど、……うまくいってないの?」
彼女の口から父の話題が出たことに、リカルドは言葉どころか息が詰まった。
まさか、ディアナはミヒャエルに頼まれて自分のことを探っているのか。
一瞬でそんなことを考えつき、リカルドは目の前の女性に疑いの目を向けた。
「なぜ、そう思われるのですか?」
問い返すリカルドの表情は自然と硬くなった。
ディアナが不安そうにリカルドを見上げている。
「ミヒャエルさんとお会いした瞬間、あなたがとっても緊張したような気がしたから」
気のせいかもしれないけれど、と付け加えるディアナは今までリカルドが見てきた彼女とは違って、とてもか弱い存在に見えた。
他人の家の事情に、ただの直感で立ち入ってしまって申し訳ない、と思っているのだろうか。
それとも、リカルドが勘ぐっていることに気づいて「まずい」と思っているのか。
「……もしも、あなたの推測が正しいとして、それを聞いてどうされるのですか?」
「どう、って。このままだとわたし達、結婚するのよ。家族になるのよ。家の中のこと、知りたいと思うのはおかしいこと?」
――そうやっていろいろと聞き出してあの男に報告するつもりか?
リカルドは思ったが、すぐに己の推測を打ち消す考えも浮かぶ。
今まで接してきた彼女は、そんなことをする人ではなかった、と。
ふと机の上の絵葉書がリカルドの視界の隅に入った。
青い空と海が、とてもさわやかでディアナにぴったりだと思ったすがすがしい景色の写真。
――彼女はそんな人ではない。
ため息と共にリカルドは答えを吐いた。
「いえ、おかしくはありません。あなたのおっしゃる通り、――いや、うまくいく、いかない、というレベルですらない」
「そういえば、初めてあなたと会った時に、政略結婚なんて人権無視もいいところだってわたしが言ったら、あなた、すごく驚いていたわね。あの時は聞けなかったけれど、あなたにとって父親に逆らうなんて考えられないことなんだって認識で合ってるの?」
ディアナの言葉に否定できない自分に、リカルドは奥歯をかみしめた。
リカルドの態度が肯定の返事だと察したディアナはうなずいて、でも、と続ける。
「子供の頃は父親の庇護を受けないといけないけれど、今はもう大人なんだから、少しは自分の思いを通すことはできるんじゃない?」
ディアナの言葉に、リカルドの胸に様々な思いや考えが湧き上がり、爆発しそうになった。
そんな簡単なものじゃない。
そんなことができるならとっくにやっている。
裏社会に関わる父親を持っていても、平和に育った娘は無責任なことを言う。
いや、彼女を責めるのは筋違いだ。
彼女がマフィアの世界やゴットフリート家の事情を知らないだけなのだから。
話してしまえばいいのだ。
けれど、そんな話をしたら、きっと彼女は……。
「簡単にできない何かがある、ってことね。それなら話せないのも無理ないわ」
ディアナの声がして、リカルドは我に返った。
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