第10話 囁く者
狭い下水道のなかで、ブリキ製のバケツが転がる音が狂暴に響きわたる。
オースターはびくりとして、下水道に並んだ金髪カツラのアキと、銀髪カツラのロフ、それにトマの三人を見比べた。
「というわけでー、トマちゃんは今日から一週間、ここで懲罰労働」
「仕事はここら一帯の壁をひとりで補修すること。もちろん報酬ポイントはなし。わかった?」
アキはバケツに続いて古びた工具箱をトマの足元に放った。ギッと木枠の軋む音が反響し、トマは怒った顔で雑に扱われた工具箱を見下ろす。
「……ここの壁の修繕って、アキとロフが任された仕事だろ。一週間も前に」
「そうだよー? なにか問題があるー?」
「俺たち、局長からおまえの懲罰労働の監督員に任命されたんだ。職長の命令を無視して、ぬめり竜に突進していった件のね」
トマが「チクリ魔」と毒づき、ふたりは「報告業務さ」と肩をすくめた。
オースターは困惑し、両脇に迫った壁を見まわした。つくられた年代が古いのか、積みあげた煉瓦は接合部がゆるみ、大きな亀裂となってしまっている箇所もあった。
(これをトマが直すの? ひとりで?)
補修が必要そうな壁は、闇に向かって延々とつづいている。
「むしろ感謝してほしいとこだよ。局長の信頼厚い俺たちが監督員になってやったからこそ、この程度の懲罰で済ませてやれたんだ。なあ、ロフ?」
「そうさ、友達のよしみでな。……それに、なあ、アキ? あれ、何度思いだしても……」
ふたりは金の房飾りがついた上着の肩を、笑いで小刻みに震わせた。
「とまぁ! 危険だぁ、縛りが甘いぃ!」
「やめろぉ、とまぁ! 言うことを聞けぇ! うわぁ、やめろぉ!」
ぬめり竜との激闘の場であがった怒号を大げさに再現し、腹を抱えて笑った。
「職長のえらぶった面が、焦りでゆがむさまは最高におかしかったなあ」
「ってことで、あのあほ面を拝ませてもらった礼も兼ねてるわけ。ありがとよ、トマちゃん」
アキが自分よりも背丈の低いトマの頭をわしづかんで左右に振る。トマが無言でその手を払いのけると、アキは眉をしかめた。
「おまえ、最近やたらイライラしてるけど、オースター様の教育係にされたのがそんなに不満だったわけ?」
どきりとして、オースターはトマに目をやる。トマはやはり無言だ。アキはロフと目配せしあって、左右両方からトマの肩に腕をまわした。
「わかるぜ、おまえは孤独を愛する男だからな」
「ひとりで好き勝手にやるのが好きなんだ、ちゃんとわかってる」
「だから安心しろ、トマ。今日からは俺たちが、おまえにかわってオースター様の教育係をやってやるから」
「えっ」
オースターは驚いて声をあげた。おもわずトマに目をやると、トマは一瞬オースターを横目にとらえてから、不本意そうに顔をしかめた。
「……おれをあいつの教育係にしたのは、ラクトじいじだ。おまえらが勝手に変えていいことじゃないだろ」
「勝手にじゃないさ。局長殿からのお達しだ」
アキが華美な上着の懐から封筒を取りだし、左右に振った。その表面には「衛生局」と印字されている。
ふと、ロフが冷笑に目を細めた。
「なんだよ、その反抗的な目。まだなにか不満があるっての? 別にいいんだぜ、壁の補修が不満だってんなら、別の懲罰でもさあー。なあ、アキ? ……アキ?」
呼びかけられたアキは、金髪カツラを――よく見ると、淡い金、濃い金、さまざまな種類の金髪が混じった毛先をいじくり、口を開く。
「ロフ。そういえば最近、またルゥのやつがトマの近くをうろちょろしてるよな」
ルゥ。その名を聞くなり、トマが頭をぴくりと揺らした。
その反応を見るなり、アキは満足そうに笑みを深め、ロフもまた意図を察した様子で「あー」と銀髪の毛先を指でねじった。
「そうみたいだなあ。近ごろ、俺たちも名誉市民としての仕事が忙しくて、かまってやらなかったからな、あいつも寂しいんだろう」
「どうだ、ロフ? 今日は久しぶりにルゥの奴を可愛がってやるってのは。あいつ、泣いて喜ぶぞ」
「あはは、そりゃいい。さあて、どんな方法で可愛がってやろうかー……、ん?」
トマが唇を噛みしめ、その場に膝をついた。工具箱を開け、中から工具を取りだすのを見て、双子は同時ににこりと笑った。
「そうそう、その粋だ。一週間、みっちりがんばれよ」
「そういうわけでー……」
と、アキがいきなりオースターの二の腕を掴んだ。
「オースター様はどうぞこちらへ!」
「今日の職場にご案内しますよー!」
「え、あ、ちょっと――」
オースターはうろたえてトマを振りかえる。
だが、トマの姿はオースターの背を急かすように押してくるロフの体の向こうに隠れて、もう見えなかった。
「待って。君たちが今日から僕の教育係になるっていうのは本当なの?」
アキに腕を引かれ、ロフに背を押されて歩きながら、オースターは問いかける。前を歩くアキが「ええ」と答え、右手に現れた格子扉を肩で押しあけ、オースターを中の暗がりに引っ張りこんだ。
「その件で、あなたにお詫びしなければならないことがあるんです。はい、これ」
ようやく腕を離され、先ほどの封筒を手渡される。アキは馴れ馴れしく肩に手を置き、蓄電池式ランタンをオースターの頭のうえで点灯させた。
封筒の中身は、数枚つづりの紙束だった。一枚目には「下水道保守点検員 体験学習要項」と書かれている。二枚目以降は、保守点検員の心得に、仕事の概要、支給備品一覧表、備品貸出表、一ヶ月分のスケジュール表……。
「オースター様専用の医療器具や機材、工具一式もすべて準備済みだったそうです」
「だった……って――」
「つまり、本当なら俺たちが最初から教育係になるはずだったってことですよ」
オースターが目を見開くと、アキが大げさにため息をついた。
「事前に通知が来ていたらしいんですけどねー。手違いで、俺たちまで話が回ってきていなかったんです。ぬめり竜の件を局まで報告に行ったら、局長から『なぜオースター様がそんな危険な場所で作業をしているのだ!』ってお叱りを受けちゃって」
「局長が、君たちを叱ったの?」
「そうですよ。でも、俺たちに言わないでほしいよなー、教育係の件なんて知らなかったんだもん」
そういえばフォスボス局長の最初の説明では、教育係はふたりいるという話だった。そのふたりというのが、アキとロフの双子だったのか。
「でも、もう大丈夫。今日からは俺たちがしっかり教育係をやりますから。スケジュールが数日遅れちゃいましたが、今日は初日に予定されていた第三
「清潔で、安全な……」
オースターは言葉を失い、渡された書類に目をやる。
きちんとした書類だった。手違いがなければ、これらの書類とともに、医療器具や工具、機材なども支給されていたはずだったのか。
(なんの用意もなかったのは、僕への嫌がらせだと思っていた……)
胸の奥からこみあげてきたのは、深い安堵だった。
どうやら自覚していた以上に、衛生局の、いや、ルピィ・ドファールの仕打ちに傷ついていたらしい。
(ちがったんだ)
ルピィが自分を下水道に追いやったのに変わりはないのだけれど。
「納得しました? さ、そっちの角を曲がったら局員専用の昇降機があるので」
「あ……けど、教育係はトマにお願いしていて――」
アキは眉を持ちあげ、ロフと視線を交わした。
「だからー、それはもう解消になったから安心してくださいねって話ですよ?」
「俺たちの話、わかりにくかったです?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
オースターは困り果てて、双子の華美すぎる上着の襟もとに目をやった。
ランタンの光を受けて輝くのは、初日にふたりが自慢げに見せてきた「名誉市民」のバッジだ。
――あのふたりには気をつけろよ、公爵。
(トマの忠告を鵜呑みにするわけじゃないけれど……)
貴族のそばには、かならず「囁く者」が現れる。聞きもしないのに、さまざまな情報を囁きかけては、こちらを意のままに操ろうとする者たちが。だからトマの言うことをそのまま受け止めるつもりはない、のだが……。
(でも、僕にわざわざ警告をしたところで、トマにはなんのメリットもない)
衛生的で、安全な職場。きちんと用意されたカリキュラム。医療器具や工具、機材一式。正規の教育係が現れたのだから、最初に予定されていたとおりのスケジュールで体験学習を進めたほうがいいに決まっていた。トマに教育係をお願いしたのは、彼を信頼できると思ったからではあるが、トマ自身には職場体験学習を指導した経験はなく、きちんとした学びが得られるかどうかは、正直心もとないところもある。
それに、オースターには最初に掲げた目標がある。
ルピィに一矢報いるために、立派なレポートを作成するという目標だ。
誇り高きアラングリモ公爵家の名に恥じぬために――。
オースターは落ち着かない気分で、トマからもらった工具鞄を手でなでる。
「なんです? その汚い工具鞄」
ふいに横からアキの手が伸びてきて、工具鞄を取りあげた。
「あれ。これ、トマが昔つかってた工具鞄じゃないですか。うわ、あいつこんなきったない工具鞄をオースター様に使わせてたのかよー」
アキは「見ろよ、ロフ」と言って、工具鞄をロフに放った。ロフは「うわ、きたね!」と悲鳴をあげて、飛んできた鞄を大げさによけた。
工具鞄が、床面にたまった正体不明の水たまりのなかに、ばしゃりと落ちる。
「さ、もういいから行きましょう、オースター様。工具は新品のものを用意してありますから……あ、ちょっと!」
オースターは水たまりに歩いていって、鞄の紐を掴みあげた。鞄は半分ほどが水に浸かっていて、持ちあげると粘り気のある水が、ぼた……と落下した。
「話をよく聞かない人だなあ、オースター様は。ちゃんと新品の工具が用意されてるって言ってるでしょー?」
「そんなガラクタじゃなくて、デザイン性にも優れた、大公宮出入りの大工御用達アバニー社の最新型を」
「ガラクタじゃないよ」
オースターは工具鞄の濡れたところを作業着の腰のあたりでゴシゴシと拭く。うっぷ、とこみあげる吐き気をこらえながら、ふたりを見上げた。
「手違いがあったのはわかった。わざわざそれを伝えにきてくれた君たちの親切にも感謝している。けれど、心細くて不自由ばかりだったこの数日間、僕を助けてくれたのはトマだ。この工具は、そのトマが、工具ひとつ持たずにやってきた僕のためを思って譲ってくれた、彼の工具だ。……下水道について、僕は恥ずかしいぐらい無知だけど、トマやラクトじいじを見ていたらわかる。みんな、裕福じゃない。壊れた工具だって、手直ししながら大切に使っているみたいだった。だからこれは、お古だけど、ガラクタじゃない。トマにとってはまだまだ使えるはずだった彼の大切な工具だ。乱暴に扱うのはよしてくれ」
双子は無言で顔を見あわせる。オースターはそんなふたりから顔をそむけた。
「今日のところはトマのところに引きかえすよ。トマがやらされているの、懲罰労働なんだろう? なら、僕もやらなくちゃいけない。ぬめり竜の件でみんなを危険にさらしたこと、僕にも大きな責任があるんだから」
「……オースター様が懲罰労働をする必要なんてないですよ。悪いのはあいつだ。調子に乗って、みんなを危険にさらした」
「そんなことない。トマはすごかった。無茶な行為だったのかもしれないけど、トマがいてくれたから僕もみんなも助かった。僕はそう思う」
「すごい? あんな役立たずのクズが?」
役立たずのクズ。オースターは自分が過剰に反応してしまっているのを自覚しつつ、むかっ腹を抑えきれずにふたりをにらみつけた。
「ふたりこそ、昨日はなにをしていたの。君たちがぬめり竜に向かっている姿を僕は見た覚えはないよ。もし高みの見物を決めこんだだけで、それなのに怪我をした掃除夫のことを『痩せっぽちのクズ』呼ばわりしたのなら……命がけでぬめり竜を退治したトマを『役立たずのクズ』なんて偉そうに言っているなら、僕は君たちを教育係とは認めたくはない。だって君らのほうが、よほど役立たずだったじゃないか」
「……俺たちが、」
「役立たず、だって?」
ふたりは笑みを消した。
その黒い双眸に宿ったのは、昨日、目の当たりにした敵意そのものだった。
オースターは嘆息する。自分はやっぱり、脳みそが筋肉でできた正真正銘の大ばか者なのだろうな、としみじみ思う。
けれど、双子のトマに対する態度は目に余った。トマだって口も態度も悪い。けれど少なくとも正直だ。オースターに対して最初から隠すことなく嫌悪を露わにしている。対して、このふたりはどうだろう。今その目に閃いた敵意は、昨日からひそかに抱きつづけてきたものではないのか。愛嬌たっぷりの笑顔の下に隠しつづけてきたものではないのか。
敵意を隠して笑顔で接してくるふたりと、はっきりオースターをばか呼ばわりするトマ。どちらが信じられるかと言ったら、オースターの答えは決まっている。
「俺たちが役立たずだってんなら、あんたはどうなんだ」
「あんただって、腰抜かして眺めていただけじゃないか」
「そうだよ。僕がいちばん役立たずだ。だからトマのところに戻って、一緒に懲罰労働をする。そして、仕事の仕方をいっしょうけんめい教わるんだ。それじゃ」
オースターはきびすを返した。その腕をぐっと背後から捕まれる。
「アラングリモ公爵家のためを思うなら、俺たちを敵に回さないほうが賢明だったのにな」
振りかえるより先に、耳元でダミ声が囁いた。
息が耳にかかるほどの思いがけない距離の近さに、ぞくりとする。
「アラングリモ家って、いま、当主が不在なんだって? 当主だった父親が戦死して、しかも跡継ぎはあんたひとりだけ。あんたが成人して爵位を継ぐまでは、アラングリモ公爵位は宙に浮いた状態」
「……なにが言いたいんだ」
小さく笑ったのは、アキだろうか、ロフだろうか。
「別に? ただ、ドファール家が本気になれば、このままアラングリモ公爵位を廃絶させることだってできるのになあ、と思ってさ」
ドファール家。はっきりと双子はその名を口にした。オースターは今や耳鳴りがするほどの警戒に身をすくめ、ふたりから距離を置こうとした。だが、腕を掴む手は凶悪なほど力強く、逃げることができない。
「廃絶させるなんて、そんなことできるわけない」
「できるさ」
「できるようにするのさ」
「たいてい、誰にでもあるでしょ?」
「誰にも言えない、秘密」
言葉をなくすオースターの耳の脇の髪を指ですくいあげられる。ばっと顔を向けると、アキがうっとりと目を細め、オースターの黄金の癖毛を見つめていた。
「オースター様。俺たちはどこにでも行けるんだ」
「下水道はどこにでもつながっている」
「行けないところはどこにもない。誰も目も向けない、闇と汚水にまみれた地下の道を伝えば」
「上流階級の連中の屋敷にだって」
「大公宮にだって」
「あんたの母親がいる、宮下三番街のシティハウスにだって」
体が震える。この双子は得体が知れない。右の耳、左の耳、それぞれから交互に注ぎこまれるダミ声が、脳みそをすこしずつ浸食していく。
「クラリーズ学園の寮は、けっこうちょろいよな」
「ああ、警備はもうちょい考えたほうがいい」
「アラングリモ公爵家の嫡子殿のお部屋は、東棟の最上階だったっけ?」
「そうそう。食堂は中央棟だ。昼食時になると、厨房からいい匂いが漂ってくるんだよなあ」
「便所だって清潔だぞ。フローラルな匂いまでする」
「それにあの浴室……広々として、あたたかな湯気に包まれていて――」
「いつも、あんたを見ているよ。オースター様」
発作的に腕を掴む、どちらかの手を振りはらう。髪をいじくっていたアキの手も離れ、オースターは双子からとびのいた。
振りかえると、双子は虫のように感情のない目でオースターを凝視していた。
足早に来た道を引きかえす。作業灯が頼りなく点滅し、時折、真っ暗闇が襲ってくる。そのたびに、背にしてきた双子の存在感が増すような気がした。
気づけば走っているのと変わらない早さで歩いていたオースターは、前方にランタンの明かりを見つけた。そこではトマが、最後に見たときと同じようにしゃがんで、工具をいじくっていた。
深い安堵がこみあげた。オースターはとぼとぼと歩いていって、トマの隣にぺたりとしゃがむ。トマは無言でオースターを見上げた。
「あのふたり、大嫌いだ」
だしぬけに言うと、トマはぽかんとした。
「……、で、嫌いだから戻ってきたのか?」
「うん」
「……へえ」
「それに、僕の教育係はトマだから。誰がなんと言おうと。君が嫌がろうと、君が僕の教育係だから」
トマはしげしげとオースターを見つめ、急に声をあげて笑いだした。
(笑った……)
反響する笑い声に驚いて、オースターはまごつく。トマはくっくっと笑いの余韻に肩を揺らしながら、工具を手にしていた手の甲で目元を拭った。
「あいつらが嫌いだってんなら、あんたの人を見る目は思ったよりいいぞ」
「だって、感じ悪いもの。学園のいじめっこどものほうが、まだ可愛いよ」
「なに言われた?」
「なにって……」
――いつも、あんたを見ているよ。オースター様。
オースターは両腕で体を抱きしめ、小声で答える。
「……べつに。できっこない脅しだよ」
トマは首をかしげ、オースターの背後に広がる闇に目を凝らす。
(そうだ、できっこない脅しだ。下水道を伝えばどこにでも行けるだなんて大げさに言っただけだ)
オースターは下腹部に手をやる。鈍い痛みがある。さすると、皮膚がざわついた。
「トマ、君が言っていた〈特別な仕事〉って……」
トマがちらりと視線をよこしてくる。オースターは口をつぐんだ。トマが警告をくれたのは、ぬめり竜と遭遇したときに薬を提供したことへのお礼だ。「借りを返す」とわざわざ口にしたのは、「これ以上、かかわる気はないからな」と念押しをしたのだ。
オースターは「なんでもない」と首を振り、話題を変えた。
「トマ、あのふたりにいじめられているの?」
「はあ? 冗談言うなよ。あんな奴らにいじめられてたまるか。言っとくけど、おれのほうが強ぇんだからな」
鼻息荒く反論するトマは急に年相応の少年に見えて、オースターはふっと笑った。
「でも、さっきは素直に言うことを聞いていたようだったけど」
「しかたないだろ。そうしなきゃ、ルゥがいじめられるんだから」
ルゥ。ぬめり竜に遭遇する前、トマと仲良さそうにしていた少女の名前だ。
「最初に会ったときもあの子に感じの悪い態度をとっていたけど、アキとロフとはどういう関係なの?」
「あのふたりは、ルゥの血のつながった兄貴だ。親も死んでて、唯一の肉親ってのをいいことに、ルゥをおもちゃみたいに扱ってる」
オースターはあっけにとられた。
「実の妹なのに、いじめるの?」
「いじめるっていうか……暴力をふるうんだ。機嫌を悪くすると、すぐに叩いたり蹴ったり、物を投げつけたり。突き飛ばして、腕の骨を折ったこともある」
「はあ!?」
オースターはあのふたりへの恐れも吹きとばして、声を荒らげた。
自然と頭に浮かんだのは、弟のことだった。
――あねうえ。
舌足らずにそう呼んで、短い足でぱたぱたと後を追いかけてくる姿は本当に可愛らしかった。小さな弟は慈しみ、守るべき存在だった。その弟をいじめる人間がいたらと想像するだけで腸が煮えくりかえる。
「でも、どうして? なんで妹に暴力を?」
すると、トマが遠くを見るように目を細めた。
「さあ。たぶん、ルゥの〈喉笛〉が小さかったせいだ」
オースターはきょとんとした。
トマのその言葉はあまりに脈絡がなかった。だからすぐに言葉が出てこなかったのだ。
間抜けな顔をしていたのだろう、トマはオースターを怪訝そうに見つめ、「で?」と言った。
「で?」
「おれはここで懲罰労働だけど、あんたはどうするつもりだ?」
「もちろん手伝うよ!」
「手伝うって言ったって、懲罰労働だぞ」
「うん。だから僕も懲罰を受けるよ。なにをやるの?」
なにを言っても無駄だと察してか、トマがため息まじりに答える。
「今日は目地材の補強をする。聞かれる前に言っておくけど、目地ってのは煉瓦と煉瓦をくっつけてる、この色の違う部分のことだ。……やるってんなら、そこの袋を開けて、中の粉をバケツに移してくれ。量は適当でいい」
オースターはもたもたと袋の口を開けた。中身は灰色の粉だ。持ちあげてみるが、けっこう重たい。苦労して、バケツの上で傾ける。
「あ、待って。適当ってどれぐらい?」
不安にかられてたずねると、トマは難しい顔をした。
「適当は……適当だろ。こっちで合わせるからいい」
「わ、わかった。……えーと」
「ば――入れすぎだろ!」
「適当でいいって言ったじゃないか!」
「限度があるだろうが! 適当は適当だ!」
互いにぶすっとして手を動かす。バケツに水を加えたりこねたりして、やがてどろりとした目地材ができあがる。
「コテを使って、減った目地の上に新しい目地材を塗る。放っておけば、そのうち固まるから、どんどん塗っていってくれ」
コテ。コテとはどれだろうか。
トマがオースターの工具鞄を奪いとった。濡れた感触に「落としただろ、あんた」とぼやいてから、一本の工具を抜きとる。
「こっちの細いほうでいい。丁寧にやれよ」
トマが作業をするさまを横目に見ながら、オースターはコテを構えた。煉瓦と煉瓦の間に目地材を塗りこもうとするが、想像以上に伸びが悪くて「丁寧に」できない。
「なんでそうなるんだよ……」
トマは絶望しきった声で呟き、オースターはがっくりする。
(なにが違うのかな。同じようにやっているつもりなんだけど)
質問するかわりに、トマの作業をじっと見つめた。
グリップの握り方を確認して、再度コテを滑らせる。
黙々と作業をしていると、トマが横からそれを覗きこんで言った。
「まあまあだな」
「そ、そう!?」
オースターはこみあげる感動に目を輝かせた。一カ所、目地材を塗っただけなのに、清々しい気分になってトマのお古のコテをためつすがめつした。
「冒険に出る勇者が、最初に手にする短剣みたいだ」
自分専用の工具。それだけで不思議と自分が特別な存在になれた気がする。
「それ、おれがここにきてはじめてもらった工具なんだ」
「へえ……」
「すごいぞ、こいつは。〈鼻つまみの三か月〉で下水道拡充と修繕作業を戦いぬいた猛者だからな。大変だったけど、こいつらががんばってくれたからどうにかなった」
工具鞄を叩くトマの瞳は輝いていた。仕事を誇りに思っていることが伝わってくる。
「昔の下水道掃除夫が使っていたものらしいから年代物だけど、ちゃんと手入れしてやれば長く使える。大事に扱えよ」
来歴を聞くと、また重みが違って感じられた。
「……うん、大事にする」
あとで手入れの仕方を聞かないとだ。
そう考えながら、オースターはトマをこっそり横目で見つめた。
(空っぽ公爵と言われたのも無理ないや)
胸の奥に浮かんだ感情は少し複雑だ。
たぶん、ちょっとだけ羨ましいと思っている。自分に与えられた役割に誇りを持てるトマのことが。
「終わったなら次に行くぞ」
「あ、待って。ここのところ、もうちょっとだけ……」
トマはオースターが示した小さな小さな亀裂を見つめ、あっけにとられたあとでこう言った。
「あんた、掃除夫に向いてるかもな」
「えっ、そう!?」
「…………」
「そっか、掃除夫か。掃除夫かあ」
頬を紅潮させて興奮していると、トマは確信を持った口調で呟いた。
「あんた、すげー変な奴だ」
壁から壁へと補修しながら移動しつつ、オースターは先ほど双子とともに歩いた下水道を見つめた。
作業灯が点々とともるそこに、双子の気配はない。
だが、わだかまる闇の底から、あのふたりの底知れぬ眼差しが、じっとオースターを見つめている気がした。
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