第二章 ふたつの公爵家

第9話 鼻つまみの三か月


 やる気はみなぎっていた。

 二日目とはうってかわって一刻も早く下水道に行きたいと思ったぐらいだ。

 駅の不衛生なトイレで作業着に着替え、割れた鏡で襟をただし、にっと歯を見せて笑う。


(今日、トマは来るかな)


 昨日は少しだけ働きを認めてもらえたようだが、従者が用意した薬がたまたま役に立っただけだし、そもそもは自分の落ち度が招いた事態だ。認めてもらえたと喜ぶのは浅はかというものだ。

 だが、オースターは期待していた。今日の自分は、昨日までとは違う。少しは勉強もした。最初とは心構えも変わっていた。トマが来ていたらいいと思っている。

 格子扉の錠を開け、蓄電池式ランタンのか細い明かりを頼りに螺旋階段をおりる。轟々と水音の鳴りひびくトンネルのなかに立つと、果たしてトマが壁に背を預け、手で工具を弄びながら待っているのが目に入った。

「よかった、いなかったらどうしようかと思ったよ!」

 振りかえったトマの顔はすこし驚いている様子だった。

「どうしたの? あ、作業着? 今日はちゃんと着てきたんだよ。駅のトイレを借りてね。なにか変かな」

「……べつに」

 不機嫌そうだ。昨日のオースターがとった態度をまだ怒っているのかもしれない。

 オースターは意を決して頭を下げた。

「トマ、昨日はすまなかった!」

 トマがいぶかしげに眉を寄せる。

「えらそうなこと言っておいてやる気のない態度を見せて、あげく君の邪魔をして、危険な目にまで遭わせて。本当にごめん!」

 トマは無言だ。オースターは勢いこんで、トマへと身を乗りだした。

「君の邪魔はもう二度としない。言うことはなんだって聞くよ。だから今日は、改めて君に僕の教育係をお願いしたいと思ってっ……むぐぁ!」

 接近しすぎた顔面を手で掴まれ、押しのけられる。

「暑苦しい奴だな」

 ぶすっとしたダミ声で言われる。

 おそるおそる様子をうかがうと、トマは複雑そうな表情を浮かべた。

「あんたはもう来ないと思ってた」

 ぽつりと言って、トマは嘆息する。

「昨日あんなやばい目に遭ったのに、まだつづけるってのか? 大公に褒められたいとか、家の誇りだかなんだかのためってだけなら、地上にもっといい仕事があるだろ。お貴族様にふさわしい仕事が」

 オースターは言葉に迷い、鞄に入れてきた衛生局発行の書籍を取りだした。

「まだぜんぶは読みきれていないけど、ちょっと勉強してきたんだ。ランファルドの公衆衛生の歴史をまとめた本」

 差しだすと、トマはためらいがちにそれを受けとった。文字は読めないと言っていたが、しげしげと背表紙の厚みを眺め、中を開き、挿絵のあるページを見つけると、思いがけず熱心に見つめた。

「僕、六歳のときにこの都に移り住んだんだけど、最初はランファルド市のこと、ちっとも好きになれなかった。だって、空気がすごく臭いんだ。風が吹くと窓を開けていられないぐらいで、ひどいときは目まで染みたんだよ。でも、この本を読んでわかった。あれは戦後、北部からの移民が押しよせて都の人口が急増したことで、下水道の処理機能が追いつかなくなったのが原因だったんだって。〈鼻つまみの三か月〉って名づけられている」

「ああ……それなら知ってる。おれが最初にやらされた仕事だ」

「そうなんだ!?」

 オースターは目を輝かせた。

「本によると、配管から地上に漏れでた汚水が害虫の発生源になって、健康を害した人が大勢いたみたい。人口の急増もそうだけど、下水道の掃除夫や点検員がみんな戦争に駆りだされて、長いことまともに保守作業をできなかったのも悪かったんだって。つまり、当時の不衛生な環境を改善してくれたのも、いま衛生的な環境が保たれているのも、すべて君たちのおかげってことなんだ。下水道掃除夫は、重要で、有意義で、価値のある、素晴らしい仕事だよ!」

 トマが呆けている。オースターは我に返った。にわか仕込みの知識を熱弁してしまった。

「その……昨日、僕は大公殿下に褒められることは名誉なことだって言った。同級生に罠にかけられたとも言った。そんな理由でここに来た僕に、君はとても失望したと思う」

 掃除夫の仕事について深く考えもせずに、えらそうにしていた自分。思いだすだけでも浅はかで、恥ずかしい態度だった。トマがいらだつのも無理はなかった。

「今日、僕がここに来たのは、職場体験学習をぶじに終わらせるためでも、殿下にお褒めの言葉を賜るためでもない。君たちの仕事をもっとちゃんと知りたいと思ったからだ。だから」

 オースターは改めてトマに握手を求めた。

 最初の浅薄な握手とは違う。師に対して教えを請うための握手だ。

 気持ちをこめれば、トマにだってきっと伝わるはずだ。

「……ちゃんと学びたいっていうなら、おれじゃないほうがいい」

 トマはさしだされた手を見つめ、つぶやく。

「おれは下っ端だし、この本に書かれてるような知識はたぶんなんにも知らない。それに」

 一瞬口ごもってから、トマはつづける。

「貴族は嫌いだ」

 オースターは顔を曇らせ、手をひっこめる。

「どうして貴族が嫌いなのか、聞いてもいい?」

「嫌いじゃないわけ、ないだろ」

 答えとは言えない答えに、オースターは戸惑う。けれど、トマもまた戸惑っているように見えた。

 ふたりはしばらく無言で見つめあった。

 トマの眼差しはまるでなにかを探るようだった。オースターはわけもわからず目を背けたくなったが、今それをしたらトマはもう二度と心を開いてくれない。そんな気がして、オースターはまばたきすらこらえてトマの眼差しを受けとめる。

「……あんた、昨日、言ったよな。おれにもあんたと同じだけの価値があるって」

 やがてトマが言った。

「あれ、本当に、本気で言ったのか?」

 昨日、自分はたしかにトマにそう言った。

 言ったけれど、あれは――。

(あれは、僕自身に言ったのかもしれない。トマが自分を卑下するようなことを言うから、父上や母上に『女など価値がない』と言われたことを思いだしてしまって、それでとっさに……)

 けれど、嘘をついたわけではない。トマと自分には同じだけの価値がある。上流階級と労働階級、身分は違っても、命の価値にはなんら変わりはないはずだ。

 オースターはしっかりとうなずいた。

「本気だよ、当たり前じゃないか」

 トマは小さく息をつき、こわばらせていた肩をゆるめた。

「なら、貴族を嫌う理由を話しても、きっとあんたには理解できないよ」

「そんな! 確かに僕はみんなから『ちびっこ脳筋』とか言われてるけど、理解できるように努力するよ!」

「そんな、ばか丸出しのあだ名で呼ばれてんのか、あんた」

 トマは少しだけ表情をやわらげた。

「そうじゃなくて。ただ、あんたはおれが知ってる貴族とは違うみたいだから」

 よくわからなかった。

 けれど、トマが「嫌いだ」という「貴族」の中に、オースターを含めないでくれたらしいことは、なんとなく伝わった。

 オースターは嬉しいような、戸惑うような気分で、ぽりぽりと頬を掻く。

「うん、やっぱり教育係はトマにお願いしたい」

「なんでだよ」

「なんでって……その……」

「あ?」

「だから! 言いたくないけど、昨日の君、かっこよかったというか! ごちゃごちゃ言ったけど、本当は、せっかく掃除夫になるなら、君みたいにかっこいい掃除夫になりたいなって思っただけ。だめかな?」

 トマが怖い顔で押し黙る。じりじり時間が過ぎていって「やっぱりだめかあ」とうなだれかけたとき、トマがなにかをオースターに投げてよこした。

 あわてて受けとめたそれは、工具の詰まった革製の鞄だった。

「やる。おれのお古だけど、あんたのちっさい手にも馴染むように握りを調整しといた」

 まじまじとトマを見つめると、トマが「なんだよ」とつっかかってくる。

 オースターはにやにやしそうになるのをこらえながら、古びた工具鞄をてのひらでなでた。

「来ないと思ったーなんて言っておいて、これを用意していたってことは、来ると思っていたんじゃないか」

「あんたみたいなしつこい奴が来ないわけないだろ」

 ふんっと鼻を鳴らして顔をそむけるトマ。

 オースターは今度こそ笑いだした。



「昨日の怪物、ぬめり竜って言っていたよね? あの生き物ってなんなの?」

 ホロロ四号に乗って幅広の下水道幹線の底をさらいながら、オースターは昨日から気になっていたことを質問した。

 トマは操縦桿を片手で操りながら、皺枯れた声を張りあげて答える。

「ぬめり竜は下水道生まれの生物だ。湿度の高い穴を好む。牙や爪に毒があって、動物だの人間だのを捕食する厄介な連中だ」

「実は今日、同級生に……というか、ルピィ・ドファールになんだけど、ぬめり竜の体長はせいぜい六百ルエール程度だって言われて、嘘つきって言われたんだ。昨日の怪物の名前はぬめり竜……で合っているよね?」

「ぬめり竜だよ。六百ルエールぐらいのもいるけど、それは幼生じゃないか? 幼生は毒性がまだ弱いし、牙や爪も脆いからあまり怖くない。人を嘘つき呼ばわりする前に、まずてめえが下水道に来やがれって言ってやれ」

 皇太子に対して「てめえ」呼ばわりのトマに、オースターは目を丸くし、すぐにくくっと笑った。さっきはみんなの前で恥をかかされてしまったが、実はルピィのほうが不勉強な自分をオースターにさらしただけだったようだ。

(なんだよ、ルピィの奴)

 オースターはちょびっとだけ溜飲を下げ、顔をほころばせた。

「ぬめり竜とはよく遭うの?」

「めったに。けど、うっかりあいつらが巣にしてる管に入ると、何体ものぬめり竜と同時に遭遇することもある」

「何体も!? 一体でも苦労したのに……もし遭遇したらどうするの?」

「そもそも巣穴に入らないことだ。ファミリーに遭ったら、覚悟を決めて食われるしかない」

 オースターは口をひきつらせる。

「巣穴の位置は把握できているの?」

「あいつらだって人間は嫌いなんだ。掃除夫がよく入る管には巣をつくらない。使われてない旧水道とか、地上が大雨のときにだけ使う雨水管とか、そういうところに多い」

「じゃあ、もし昨日みたいにまたばったり遭遇しちゃったら?」

「……昨日のはおれが悪かった。今度はもっと気をつける」

 トマの反省しきった口調に、オースターはあわてた。

「責めているんじゃないよ。昨日のは僕がうるさくしたのが悪いんだから。そうじゃなくて、巣穴以外で遭遇しちゃうこともたまにはあるってことだろう? 奴らに弱点はあるの?」

 トマがちらりと肩越しに目線をくれる。

「なんでそんなこと聞くんだ?」

 オースターは作業着のベルトに吊るしていた棒を取りあげた。

「これ。折りたたみ杖なんだけど、先端に刃が仕込んであるんだ」

「武芸の心得でもあるのか?」

「剣技は得意だよ。ぬめり竜退治なら役立てるんじゃないかと思って、持ってきたんだ」

 昨日は恐怖のあまりに剣のことなんてまるきり頭に浮かばなかった。もちろん浮かんだとしても、体が動かなかったのではないかと思うが。

 実戦経験はない。それでも二度目ならきっと遅れをとらない。

 トマはしらけた顔をした。

「弱点は頭頂部だ。でも、逃げられるなら逃げたほうがいい。あいつらは図体がでかい。人間にしか入れないような狭い管に逃げこむのが一番だ」

「昨日よりも狭い管に逃げこむってこと?」

「昨日の管はぜんぜん広いほうだ。おれやあんたの体格なら肩幅しかない管だって入らされる」

 肩幅! オースターは前ならえをして、肩幅がどれぐらいかを確認して、青ざめた。考えるだけでも息苦しい。

「でも、また遭遇する危険を考えたら、遭遇するたびに退治していったほうが後々のためにならないかな……わ!」

 いきなりトマがホロロ四号を停車させた。

 真顔でオースターを振りかえり、顎で歩道におりるよう指示する。

「その仕込み杖ってやつ。どう使うんだ?」

 オースターはぱっと顔を明るくし、歩道におりたった。三つ折りになった杖をぶんと振るうと一本の長い杖になる。柄の横にある隠しボタンを押すと、先端から鋭い刀が飛びだした。

「こう見えて、僕はクラリーズ学園の中等科二学年のなかでは、一、二を競う剣術の腕前なんだよ。マイルナーズ派の剣術を使うんだけど」

「見てみたい」

 真面目に言われ、オースターはどきどきしながら剣を構えた。

(汚名返上だ。気合いを入れろ、オースター)

 目の前にあの大型ぬめり竜がいるつもりで、杖を思いきり振りあげ――、

「……あっ」

 ガッと鈍い音がし、刀が天井にぶつかる。ぱらりと割れた破片が降ってきて、オースターは青ざめた。

「なるほど、『ちびっこ脳筋』か。理解した」

 端的にトマは言って、「乗れ、ばか公爵」と親指でホロロ四号を示す。オースターはすっかりうなだれ、トマの後ろに乗りこんだ。

「狭い下水道じゃ剣技なんか役に立たない。天井だの壁だのに当たって刃こぼれするのがオチだ。ここみたいな幅の広い幹線ですら、天井の高さはこの程度なんだ。昨日ぐらい開けた場所なら使えるかもしれないけど、管のなかじゃまず無理」

「もうわかったよ、わざわざ説明してくれなくていいよ」

「皮肉で言ってるんじゃない。ぬめり竜にはもう何人もやられてるんだ、ちゃんと聞いとけ」

「……わかってるよ。でも、昨日のトマみたいに、僕もぬめり竜をやっつけられたらって思ったんだよ」

 ふと、トマの操縦桿を握る手にわずかに力がこもった。

「昨日のは忘れろ。あんなのはぜったいに真似すんな」

「どうして? みんなを助ける立派なふるまいだったじゃないか」

「助けたんじゃない。みんなを危険にさらしたんだ。職長にも止められたのに無視して突っ走った」

「でも、自分ならぬめり竜を退治できるって判断してのことだったんだろう?」

「ちがう」

 沈黙がおりる。背後に立っているので表情は見えなかったが、かすかに震える息を吐いたように聞こえた。

「……ただ、もうなにもかも全部、どうでもよかっただけだ。このまま、あんたらの家畜でいるぐらいなら、いっそ――」

 そのあとに続いた言葉は、スクリューの音にまぎれてよく聞こえなかった。ただ「家畜」という言葉がきわだって聞こえ、オースターは「え?」と聞きかえす。

 そんなオースターを、トマは肩越しに振りかえった。

「あんたさっき、おれみたいな『かっこいい』掃除夫になりたいって言ったけど、どうせならマシカみたいな『賢い』掃除夫を目指せ。あんたは学校で勉強してるんだし、本も読めるんだから、そっちのほうがいい」

「マシカ……って、昨日、僕を出口まで送ってくれたひとだね?」

「そう。マシカはすごいんだ。古びた資材を使って新しい掃除用具を作ったり、汚水の濾過ろか装置ってやつを自作したり。仕組みを教えてくれたけど、おれにはなにがなんだかさっぱりだった。この間だって……」

 トマの饒舌な「マシカ語り」はなかなか止まらなかった。しゃべってもしゃべっても足りない様子だ。オースターはほほえましい気持ちになった。

「マシカのことを尊敬しているんだね」

「うん」

 トマは驚くほど素直にうなずいた。

「前に怪我して、長いあいだ働けなくなったことがあった。ポイントの蓄えもなくなって、腹が減って腹が減ってどうしようもなくなったとき、マシカがこっそり自分の食料を分けてくれたんだ。奥さんも、ちびもいるってのに。優しくて、強くて、たよりになる、すげえ掃除夫だ」

「そっか。今度また会えたら、ちゃんと話してみたいな」

 オースターは首をかしげた。

「ところで、そのポイントってなんなの? 前にも言っていたけど」

 トマもまた首をかしげ、「ああ」とうなずいた。

「おれたち掃除夫は、ポイントを稼いで生活してるんだ」

 トマは作業着の内ポケットを探り、長方形の防水加工された紙を取りだした。「今月のポイント数」と書かれた欄に、手書きで数字が記入されていた。数字の脇には癖のある――率直に言えばへたくそな筆遣いで「ラクト」と書かれていた。たぶんラクトじいじのことだろうから、決裁印のようなものだろう。

「ポイントと引き替えに、食料や日用品が支給される。働かなければポイントは入らないし、足りなければ仕事量を増やすか、仕事の種類を変えるしかない」

「給金をもらうんじゃないんだ?」

「金なんかもらったって仕方ない。使い道がない」

「物資を現物支給されるなら必要ないかもしれないけど、町で買い物するとき困らない? それともポイントがお金のかわりになるの?」

 トマが振りかえり、変な顔をする。

「町って、地上の町のことか?」

「え。うん」

「おれたちは地上には出られないぞ」

「出られないって……君たちは町に住んでるんだろう?」

 トマはますます怪訝な顔つきになる。

「おれたちは地下に住んでるんだ。知らねえのかよ?」

「えっ、地下に? まさか」

 トマは真剣そのものといった様子でうなずく。

 オースターはあっけにとられた。

「下水道に住んでいるということ? 住めるの?」

「下水道じゃない。昔の石膏採掘場跡に坑夫のための住宅群があるんだ。廃墟になっていたのを修繕して、そこに住んでる」

「元坑夫のための地下の町!? おもしろそう!」

 地底探検隊の気分がふたたびわきあがってきて、オースターは「あ」と頬を叩いた。

(だめだめ。浮かれた気分は)

 それにしても、地下に坑夫のための町があったなんて初耳だ。歴史の授業でも近代史のくだりはまだ序盤だから、これから学ぶこともあるかもしれない。

(でも、石膏採掘場があった時代って、労働者が人間扱いされなかったような時代だろう? 現代に、地下の廃墟を修繕して生活しているなんて、なんだか不健康そうだ。ポイント制も、戦時中の配給制度みたいだし)

 掃除夫たちは、戦後、他国から逃げてきたというホロロ族という民族かも、とコルティスが話していたが、それが関係しているのだろうか。

 コルティスの話では、ランファルド市にホロロ族を受け入れたのは、人口過密問題で揺れていた終戦直後のことだという。地上にも突貫工事で共同住宅群が乱立した。無計画な宅地造成の結果、街路は狭くなり、日照率も低下し、在来市民と移民の間で衝突が多発した時期だ。ランファルドの民ですら宅地問題に頭を痛めたのだから、異民族が地下の町をあてがわれたのもわからないではないが。

 それにしても、異民族だからといって、地下の廃墟に住まわせなくたって――。

(ジプシールが二百人もの異民族を受け入れた殿下のことを「慈悲深い」と賛美したとき、ルピィは笑った。ルピィは掃除夫が地下の町で暮らしていることを知っていて、殿下を慈悲深いとは思えずに笑った……のかな)

 大公殿下を嘲笑するなど許されることではない。ましてやルピィは皇太子だ。

 だがもしもそうなら、オースターにとってもルピィの考えは賛同できないものではなかった。

(ルピィともっとちゃんと話ができたらいいのに……)

 そう思ってからぶんぶんと首を振る。ルピィなんかよりも、トマに聞けばいい。本人が目の前にいるのだから、いろいろと掃除夫たちの背景がわかるはずだ。

 とはいえ、トマともやっとまともに会話ができるようになったばかりだ。さすがにまだ、仕事以外のことを聞くのは遠慮がなさすぎる。

(もっと打ち解けてから聞いてみよう。今は仲良しとはとても言えないけど、だいじょうぶ、体験学習は一ヶ月あるんだ。きっと仲良くなれる)

 きっと。たぶん。……そのうちに。

 情けなく内心で訂正した、そのときである。

 ホロロ四号のスクリュー音にまじって「おーい」と誰かがダミ声で叫ぶのが聞こえた。首を巡らせると、前方の天井付近に設置された渡し通路で、ふたりの掃除夫が手を振っていた。

「アキとロフだ」

 身を乗りだすと、双子は金髪と銀髪のカツラをそれぞれ帽子よろしく頭から外し、芝居がかった会釈をした。胸元に帽子――もといカツラを持った片手をあてがい、もう片手を脇に伸ばして腰を折るという貴族特有の挨拶だ。

 オースターはほっと胸をなでおろした。昨日は敵意剥きだしでにらまれてしまったが、どうやらいっときだけのことだったようだ。

「おーい……わっ!?」

 手を振りかえそうとしたとき、トマがいきなり手首を掴んできた。

「トマ? なに?」

「あいつらには気をつけろよ、公爵」

「え?」

 トマはホロロ四号を操縦するふりをしながら、小さなダミ声でつづける。

「どれだけ働いても、どんなに立派なことをしても、おれたちがランファルド市の名誉市民になるなんてありえない。あいつらが名誉市民のバッジを手にできたのは、〈特別な仕事〉のおかげでフォルボスに気に入られてるからだ」

「フォルボスって衛生局の局長のことだよね? その……〈特別な仕事〉って?」

 心臓が鼓動をはやめる。トマはいったいなにを言おうとしているのだろう。

「局長は権力のためならなんだってする。実際に『する』のは掃除夫だ。その局長がべったり仲良しなのはどこのお貴族様だ?」

 オースターはトマをまじまじと凝視する。

「ぬめり竜の借りは、これで返したからな」

 トマは顔をそむけ、アキとロフがいる渡し通路の真下でホロロ四号を停車させた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る