第11話 従者の責務

 午前中は日の当たる清潔な学園内の教室で授業。昼で終業し、下水道へ。地味でつらい仕事を黙々とこなし、夕方、へとへとになって寮に帰り、ベッドに寝転がる。ラジェが「汚い」と嘆くので、寝ぼけながら風呂に入り、注射を打って、ふたたびベッドに沈む。

 そんな日々が目まぐるしく過ぎていった。気づけば一週間の懲罰労働も終わり、体験学習の半分である半月があっという間に過ぎ去ろうとしている。

 そのころには、ほかの生徒もみんなぐったりしていた。だが、オースターほどくたくたになっている生徒はいないだろう。


(ああ、でも……なんだろうなあ、この充実感)


 十五日目の夜を迎えて、オースターは疲労に強くなりつつある体をベッドに横たえ、上品な部屋のしつらえにはまるで不似合いな古びた工具を眺めた。

(掃除夫に向いている、か)

 工具を眺めるたび、トマに言われた言葉を思いだす。

(爵位を継ぐべき人間がこんなことで喜んで、ばかみたいだけど)


 けれど、生まれてはじめてだった。

 なにかに「向いている」と言われたのは。


 自分なりに苦手な勉強をがんばって、得意な武芸に力を注いでも、労いの言葉をかけてもらったことはない。

 母から。ただの一度も。

 春の乗馬大会で優勝した、あのときですら。


 あの日、珍しく母が会場にやってきた。

 体調が思わしくなく、邸宅にこもりがちだった母の来訪に、オースターはよりいっそう奮起した。

 優勝後、オースターは貴賓席にいる母に駆け寄った。

『母上、見ていてくださいましたか。大公殿下がお褒めの言葉をかけてくださいました。おまえはランファルドの誉れだと、そうおっしゃってくださいました!』

 だが、母はオースターを冷ややかに一瞥しただけだった。

 そして、一言も発することなく、去っていった。


(僕が愚かだった。母上にとっては乗馬大会での優勝なんてなんでもないことだったんだ)

 いつもそうだ。母が気にかけているのは、オースターの「体」のことだけ。

 いつまで経っても華奢なままで、ちっとも男らしい体つきになる様子のないオースターに失望しているのだろう。

 成績が上がれば手紙を出した。剣技大会で上位三名に入ったときも、ラジェに電報を打たせた。けれど、返事は一度もない。

(男の体を手に入れなければ、華やぐ経歴も、大公殿下の賞賛も、母にはなんの意味もなさないんだ)

 胸が鈍く痛む。暗い気持ちに呑みこまれそうになって、あわててかぶりを振る。

(けれど来てくださった。病をおしてまで)

 それだけで十分ではないか。 

 自分に言い聞かせ、オースターは工具を胸に抱いた。

 手入れをしなくては。レポート作成のための資料探しも本格的にはじめないといけない。ああ、そうだ。下水道の本をもっと読んで、自分からトマに教えられることはないだろうか。トマは『賢い』掃除夫になれと言ってくれたのだ。役立たずの自分が、トマの役に立てるのなら、これほど誇らしいことはない。

(もしも、このまま男になれなかったら、掃除夫になるっていうのもいいかな)

 ラジェが毛布をかけてくれる感触を覚えながら、オースターは夢の中に落ちていった。




 誰かが歌っていた。

 オースターは目を輝かせ、首をめぐらせる。

 広大な平原のなか、青い空を背にして、すっくと伸びる〈喉笛の塔〉。

 その塔のふもとで、汚れた作業着を着た三つ編みの少女が歌っている。

 首輪をしている。彫られた数字は「208」。

(ひどいダミ声だ……)

 少女の歌声は、驚くほどひどいダミ声だった。けれど、激しく、力強く、鮮烈で、胸が締めつけられるほどの優しさに満ちていた。

 少女が歌うと、平原を覆う花の蕾が一斉にぽんっと弾けた。若くやわらかな花弁を開き、花粉を空へと送りだす。真っ青な空は舞いあがった金色の花粉できらきらと輝き、反射した光が地上を明るく照らしだした。


『君の歌はまるで魔法だね。心が満たされていくようだよ』


 オースターは少女を称賛した。

 すると、少女が歌うことをやめた。こちらを振りかえり、首をかしげる。

(あれ、トマだ)

 少女ではなかった。少年だった。

(だって、三つ編みをしているから……)

 だから少女だと思ったのに。

(僕はばかだなあ。僕だって短い髪をしているのに、男じゃないじゃないか)

 自分のなかにある常識にしがみついていたことに気づかされて、オースターは恥じ入った。

『満たされる? 満たされることなんか、ありえないよ』

 ふいに、トマが言った。

『あんたは空っぽだ。その空っぽが満たされることなんて、ぜったいにない』

 オースターはたじろぎ、はっと顔をこわばらせた。

 トマが歌っていたあいだは穏やかに見えた平原が、いまや北の方角から真っ黒な影に塗りつぶされようとしていた。〈汚染〉。アラングリモ公爵領を呑みこみ、領民を、オースターと母をランファルド市へと追いやった、あの黒い陽炎だ。

 後ずさりながら、オースターはトマに答える。

『そんなことない。僕の中にだってたくさんのものが詰まっている』

『たとえば?』

『誇りだ。父上はいつもおっしゃっていた。アラングリモの名にふさわしく誇り高くあれと』

「嘘つき」

 オースターは足元に目をやる。いつの間にか〈汚染〉はつま先のすぐ近くまで迫り、黒い影から這いでてきた金髪の幼い少女が、自分の右足に腕を絡みつかせていた。

 少女が言った。

「それは「私」に言った言葉じゃない。父上は弟に言ったのよ。「私」は物陰に身をひそめ、うらやましげに盗み聞きしていただけ」

『ちがう!』

 とっさに少女を振りほどき、踵をかえす。

 けれど振りかえった先には、ルピィが壁のように立ちふさがっていた。

『ちがう? だったら見せてみろ。空っぽじゃないという証拠を。女のくせに男のふりをして、みんなをだまして。誇りだと? 嘘つきのくせに、なにが誇りだ』

『ちがう!』

『ちがわない。見ろ、私のなかにはこんなに宝物が詰まってる』

 ルピィが制服のズボンの裾を持ちあえる。その下に覗いたのは、宝石をちりばめた美しい義足だった。

 オースターは震えあがって、トマを振りかえった。

 いつの間にか世界は〈汚染〉によって黒一色に塗りつぶされている。満開だった花々は黒くただれ、ぐずぐずと腐り落ちていく。

 トマは表情のない顔をして、立っていた。

〈喉笛の塔〉を背にして。

『あんたは空っぽだ。あんただけが空っぽだ』

 トマが歌う。歌いながら鉄製の首輪を外した。

 そこには空洞があって、喉の闇の奥からきらめく魔法があふれだす。

 ああ、本当だ。ルピィの中には宝石が、トマの中には魔法が詰まっているのだ。


 なら、自分は?


 オースターは自分の腹を見下ろす。

 腹に開いた穴には、死んだ弟の亡骸が詰まっていた。




「……っ」

 オースターは見開いた目で天井を見上げる。見慣れた白い天井に、カーテンから漏れた陽光が反射している。

 寮の自室だ。朝が来たのだ。

(夢……)

〈喉笛の塔〉から歌が聞こえていた。全身の皮膚が泡立っている。妙な夢を見たのは、これのせいだったのだろうか。

 横たわったまま祈りを捧げ、歌の終わりを待ってから身を起こす。

 オースターはそのまま腹を押さえてうなだれた。

「……いた……」

 腹の下のほう。ぐっと拳を入れられたような重たい痛みがある。

(なんだろう、おなかを冷やしちゃったかな)

 寝相はいい。毛布を剥いで寝たということはない。ちゃんとぬくぬく温まって眠ったはずなのに。

 それとももしかして、下水道掃除でよくない菌でも入ってしまったのだろうか。

(そりゃそうだよ。汚水が流れていく場所だもの、おなかぐらい壊すよ)

 痛みをこらえてベッドをおり、のろのろと寝間着を脱ぐ。

 裸になったところで吐き気がこみあげ、オースターはよろめいた。とっさに近くにあった姿見に手をつき、呼吸を整えて顔をあげたオースターは、ぎくりとした。


(僕の胸、こんなに目立っていたろうか)


 最近、疲れすぎて鏡もろくに見ていなかった。

 たぶん、以前と変わってはいない。久しぶりに見たから驚いただけだ。

 久しぶりに見たら驚くぐらいには、胸のふくらみが目立ってきたということだろうか。

(ちゃんと薬を入れている。毎日、ちゃんと。母上が用意してくださった薬を、ラジェの言うとおりに……)

 目眩を覚え、オースターは崩れるように鏡の前にあったスツールに腰かけた。

(男になれなければ……)

 震える手を、額に押しあてる。

(僕にはなんの価値も……)

 がたん、と音がした。

 オースターはぎくりとして、室内に首を巡らす。

 誰もいない。いない、はずだ。


 ――いつも、あんたを見ているよ。オースター様。



「オースター様、おはようございます。外はすばらしい秋晴れですよ! おや?」

 陰気が売りのラジェが、いつにない陽気さで扉を開けて入ってくる。

 身支度をすっかり整え、椅子に腰かけて本を読んでいた主人の姿を見るなり、意外そうな顔をした。

「お寝坊のオースター様がすでに着替えまで済ませていらっしゃるとは。熱でもありますか」

「僕だってたまには早起きもするよ」

 けっきょく、あれから何度か物音がしたので廊下をこっそり覗いてみたら、寮付きの清掃員が床の掃き掃除をしていた。物音は掃除用具が壁に当たる音だったらしい。来年でクラリーズ学園は創立百三十年だ、寮も老朽化し、物音はひどく響く。

(あんなのただの脅しだ。実際、あれから半月も経ったけど、アキとロフとはあれっきり会ってもいないのだから)

 開いたまま、一文字も読んでいない本の表面をぼんやり見つめたまま、オースターはじくじくと痛む腹から意識をそらす。

 ぴた、と額に冷たい感触がした。

 本から顔を上げると、ラジェが手をあてがって首をかしげていた。

「たしかに熱はないようですが……顔色がよくありません。お加減が悪いのではありませんか?」

 ラジェは膝をついて主人の脈をとったり、熱を診たりする。

 その熱心な様子に、オースターは迷った。

 言うべきだろうか。胸のふくらみが目立ってきた気がする、と。

 もちろん言うべきだ。ラジェは従者であると同時に、自分の体を管理する主治医でもあるのだから。

 だが、ラジェに言えば、母の耳にもかならず入る。

 母は知ったらどうされるだろう。

「オースター様?」

 うんともすんともない主人の様子に、ラジェが顔を曇らせた。

「オースター様。なにか心配ごとでもおありなら、このラジェになんでもお話しください。私はあなたの従者なのですから」

 本を持つオースターの手に、ラジェの冷たい手がそっと重ねられる。

 自分を見つめる瞳は、従者であるとともに乳兄弟としての慈愛に満ちていて、オースターはすがるように口を開いた。

「ラジェ。実は、胸のふくらみが少し目立ってきた気がするんだ。薬の効きが弱まっているってことあるかな。どうしたらいい?」

 沈黙がおりた。

 ラジェの顔が一瞬で青ざめ、凍りついていた。

 ラジェはオースターから手を離し、固い口調で言った。

「お見せください」

 オースターは震える手で、制服のシャツの前釦を外す。

 あらわになった胸元に視線を落とし、ラジェは愕然となった。

「なぜ、こんな――薬はきちんと打っていたのですか」

「打っていたよ」

「ああ、やはりオースター様にお任せするべきではなかった。投薬は私がすべきだったんだ。入浴時にご自身でやるとおっしゃられたから、それならばと……」

「ラジェ、注射は打っていた。ちゃんと!」

 身を乗りだして訴えるが、ラジェは耳に入れた様子もなく立ち上がった。落ち着かない様子でその場を行きつ戻りつする。

「奥様に対し、オースター様が不満を抱いているのはわかっておりました。下水道掃除夫などと奥様がいかにも嫌がりそうな職種を選んだことも、その不満の表れであったということも。ですが、こんな形で奥様のご期待に背くなど――」

 オースターは呆然となった。力なく首を振る。

「ちがうよ。どうしてそんなこと言うの。僕は不満なんてなにも」

「オースター様も思春期になられ、いろいろと意見もおありなのでしょう。ですが、どうか今一度、奥様のお気持ちをお考えください。長らく御子に恵まれなかったことを、亡くなられた旦那様や、親類縁者の皆様からさんざんに責められ、これ以上なく苦しまれてきたのです。この上、アラングリモ公爵家がご自分の代で断絶してしまうことなど、奥様にはとても耐えられることではないのです」

 厳しい口調で言われ、オースターは言葉をなくす。

 そんなこと――わかっている。母の気持ちは、痛いぐらいに。

(だって、僕はそのためにいるんだ。そのためだけにいるんだ)

 ちゃんとわかっている。

 それを、ラジェも理解してくれているものと思っていた。

「奥様に電報を打ち、判断を仰ぎます。場合によっては投薬量を増やすということもあり得ます。どうかお覚悟を」

 投薬量を増やす――オースターは震えあがった。

 幼いころから、母はいろいろな手法でオースターの体を作りかえようとしてきた。最新医療、薬学、民間療法、心霊治療……母は自身の不妊治療で頼った医学のすべてを、オースターにもまた費やした。

 何度も体調を崩した。まともに立っていられず、寝たきりになった時期もあった。視力を失いかけたときもあった。そうした試行錯誤を経て、十二歳のときにようやくたどりついたのが、この薬だった。

 ところがもう三年、注射を打ちつづけているが、最近、副作用がきつく感じられるようになってきた。先月も嘔吐が止まらず、学園を休んでしまった。その休みの間に、ルピィの嫌がらせで職場体験学習の希望職種欄に「下水道掃除夫」と書かれて提出されてしまったのだ。

(あれよりもっとひどい吐き気があるのかな)

 オースターはいまだ痛みのある下腹部をそっと手でおさえる。

「オースター様。あなたが男になれなければ、アラングリモ公爵家は終わりなのです」

 わかっている。わかっているよ。何度も言わないで。そんなことわかっている。理由のわからない涙がこみあげてきて、オースターは歯を食いしばる。男が泣くなんてみっともない。けれど、なにかが爆発してしまいそうだった。ずっと押し隠していたものを吐露してしまいそうだ。そんなことをしたら、もう歯止めが利かなくなる。そうなれば、もう耐えられなくなってしまう。頭のなかで、墓所に置かれた白い花がちらつく。いやだ、やめてくれ。オースターは前を広げたシャツを力任せに握りしめる――。

 そのとき、ふいにトマの言葉が脳裏をよぎった。


『あんた、自分の立場わかってんのか? もしあんたが怪我でもしたら、おれが責任をとらされるんだよ』


 オースターは目を見開き、ラジェを、自分の従者を見上げた。

 ラジェは所在なくたたずみ、必死の眼差しでオースターを見つめていた。顔は完全に色をなくし、強い口調とは裏腹に、顔は恐れのようなものに満ち満ちていた。

(もしかして、ラジェもそうなのかな)

 ラジェが「自覚を持て」と説教するたびに「僕の苦労をなにも知らないで」と拗ねていた。けれど、オースターもまた従者の抱える心痛を慮ったことはなかった。

(ラジェは僕の体の管理を任されている。それはつまりアラングリモ家存続の責任の一端をラジェが握っているということだ)

 オースターが男になれなければ、責任を問われるのはオースターだけでなく、ラジェもだ。責務という意味では、使用人であるラジェのほうがより重いものを担っているのかもしれない。

 ならば、オースターよりもラジェのほうが不安なのではではないか。

(だったら、主である自分が不安そうにしていたらだめじゃないか。そうでしょう、オースター)

 オースターはぐっと唇を噛みしめ、呼吸とともに気持ちを整えた。

「ごめん、僕に甘えがあったみたいだ。もう一度、きちんと考えなおすようにする。とりあえず、今日のところは胸に布でも巻いて目立たないようにするよ。薬のことは任せるけど、かまわないね?」

 ラジェは目を開き、驚いたような顔をした。

「ええ、もちろん。ですが……」

 オースターは無理やり笑顔をつくった。

「よろしく。それよりさっき、ラジェにしてはずいぶん浮かれていたみたいだったけど、なにかあったの?」

「……それは――」

 ラジェはしかし先ほどの陽気さなど二度と思いだせぬといった暗い顔つきで、オースターに新聞を差しだした。

「今朝の新聞です。ご覧ください」

 オースターはインクの匂いが残る新聞を受けとり、紙面を広げる。

 一面には、『喉笛の塔、改築計画を発表』という見出しが躍っていた。

『喉笛の塔、発電量の増加を目指し、発電システムを根本から見直しか。――〈喉笛の塔〉監視所バクレイユ・アルバス所長は、今後、ランファルド市の人口増加はさらに加速すると予測。都心部に集中する人口を、〈汚染〉の影響が少ない周辺地域(主に、メラニス森林開拓地区、沿岸モーラ地区を挙げる)に拡散するため、発電システムの見直しを図る、と発言した。システムを改めることにより、都心部にとどまる電気供給を、周辺地域まで引き延ばすことを提言することで……』

 だが、オースターがそこまで読んだところで、ラジェが「いえ」と口を挟んだ。

「失礼を。そちらではありません。こちらの記事です」

 指で示されたのは、一面の左隅にある別の記事だった。


『ルピィ・ドファール皇太子殿下、シュレイ・アラーティス嬢との婚約を解消』


 オースターは目を見張った。

 シュレイ・アラーティス嬢は、大公家筋の名だたる名家のご令嬢だ。ルピィが皇太子に選ばれたとき、同時に婚約も発表されて、世間を賑わせた。大公殿下は、大公の座こそドファール家に譲りはするが、己の血を君主の血脈に残すこと自体はあきらめていないのだと人々は噂した。

 その令嬢と、婚約解消――。

「婚約解消の理由は書かれていませんが、ドファール家所有の鉄鉱山のなかでも最大の鉱山が閉鎖されたという噂があります。それが理由ではないかという憶測が流れているようです」

「閉鎖ってどうして。一番規模の大きな鉱山は〈汚染〉の影響を免れていたはずだ」

「ただの噂です。今の段階では」

 オースターは言葉をなくし、陰鬱な気持ちで首をかしげた。

「でも、どうしてルピィが婚約を解消して、浮かれる必要が?」

「実は大公宮より内々に奥様にお話がありました。大公家筋のさるご令嬢がオースター様を心ひそかに想っているようだ、と」

「ご令嬢が、僕を?」

「もちろんそれは表向きの話でしょう。大公殿下は、アラングリモ公爵家と血縁関係を結ぶことを考えておられるのです。ルピィ・ドファールとの婚約を破棄したこの時期に、アラングリモ家の嫡子に婚約の打診をする……それがどういう可能性をはらんでいるか――奥様は大いに期待されております」

 徐々に興奮を帯びはじめるラジェに対して、オースターの心は冷えきっていく。

「……でも」

「昨日には大公宮における舞踏会開催の招待状も届きました。四日後です。オースター様、舞踏会場ではぜひご令嬢を踊りにお誘いください。きっとなにがしかの動きがあることでしょう」

「でもラジェ、僕の体はまだ――」

 口を開きかけたオースターを制するように、ラジェがぴしゃりと言う。


「奥様のご命令です」


 オースターは言葉を飲みこみ、「底の厚い靴を用意しておいて」と呟いた。

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