第28話 数寄屋 a

「師匠、どうぞ」

「…え?師匠?」

ママが言った”師匠”と言う単語に、私は過剰なまでに反応した。そして隣に座る義一の顔を覗き見たが、義一はジッと体をくねらせてドアの方をジッと見ているのだった。

仕方ないので私も黙ってドアの方に向き直ると、ママが大きく扉を開けて、閉まらない様に保っているその腕の向こうに、一人の老人と、二人の若者…いや、若者と言っても老人と比べたらという意味で、恐らくは四、五十代なのだろう、男性が神妙な面持ちで立っていた。

老人はパッと見弱々しい…例えるなら大病をした後の様なやつれ具合をしていたが、そんな見た目にもかかわらず、その身にまとったオーラからは、そんな見た目を払拭させられる程のものがあった。豊富な銀色の髪を短く刈り込んだ髪型をしており、よく年寄りがしている様な大きな縁のメガネをしていて、その下には気難しい人特有の眉間のシワが、そしてそんな雰囲気にも関わらず可愛らしい円らな瞳を有していた。格好は無地の長袖シャツとジーパンという、特に特徴の無い格好をしていた。後ろに立つ若者二人も、同じ様な地味な格好をしていた。この二人は何も喋らなかったが、その振る舞いから、心底この老人を尊敬し、大切に扱おうとしているのが手に取るように見て取れた。

老人は部屋にゆっくりと少しフラつきながら入ってきて、少し周りを見渡していたが、しばらくして

「おぉー!師匠ー!」

と声をかける者がいた。神谷さんだった。

神谷さんもお歳のせいかゆっくりとだったがその場で立ち上がり嬉しさを前面に出しながら、老人に向かって手招きをしていた。その様子を見た老人は力無くニコッと笑い右手をふと上げて見せたが、ふと後ろを振り向き「お前らは今日はこの辺でいい…」と静かな、しかし威厳のある感じで話しかけた。声は酷い掠れ声で、この部屋は静かだったから聞き取れたが、おそらく街中、雑踏の中では聞き取れない様な類の声質だった。「はいっ!」と男二人はまるで十代のよく教育された体育系の部員の様に元気にハキハキと返事をすると、一同…そこには私も入るが一度見渡してから「では師匠をよろしくお願いします!」と言って深々と頭を下げてから、その後は速やかに部屋を出て行くのだった。もちろん去り際に、ママさんにも挨拶するのを忘れずに。

「では師匠、今飲み物をお持ちしますね。今日はお酒は…」

とママが聞くと、「あぁ、今日はせっかくだから飲むよ」と少し表情を和らげつつ返していた。「じゃあ”いつもの”持ってきますねぇー」とママは間延び気味に上機嫌で言うと、スタコラサッサと部屋を出て行ってしまった。

「ささ、師匠、そんな所に立っていても何だから…」

と神谷さんは、相手に気を使う口調で老人に話しかけた。

老人は一瞬ニコッとしてから「おう」と短く返事をして、

促されるままに神谷さんと義一の間に座るのだった。

と、老人が座るや否や、ふと美保子がこれまた嬉しそうな調子で

「師匠!お久し振りですー」

と話しかけると、老人は美保子の方に顔を向けて

「おう、久し振りだなぁ…一年ぶりくらいか?」

と少し感あげるそぶりを見せてから返していた。

「そうですよー…お見舞いに行って以来です」

「そうかー…」

老人は少し疲れている様子で、一応笑顔を見せていたが、肩はストンと落としていた。

「師匠…」

と次に声を掛けたのは百合子だった。表情は相変わらずアンニュイな、物憂げな面持ちだったが、目の奥がキラキラと輝いている様に見えた。「おう、百合子、これまた久し振りだなぁ」

老人は美保子を相手にしていた時と同じ様に、一瞬ニコッとして見せつつ対応していた。

その後は老人は義一とも挨拶していたが、その間わたしは、まさかの出来事に目を丸くして黙っている他に無かった。それもそのはず…

…義一さんは私が驚くだろうって言ってたから誰だろうと思っていたけれど、これは…

と今の状況を整理するのに必死だったから、ふと義一から声を掛けれたのに気付かなかった。

「…とねちゃん、琴音ちゃん?」

「…えっ!あ、あぁ、うん、何?」

私はハッとなりながら義一の顔を見つつ返した。そんな様子を義一は愉快げに笑うのだった。

「何って琴音ちゃん…ほら、君も自己紹介をして?」

義一はそう言ってから身体の向きは私のまま、顔だけを老人の方に向けた。私もつられてそっちの方を見ると、老人は無表情ではあったが、好奇心を抑えられないといった感じで、円らな瞳を容赦無く私に向けてきていた。

私は少し慌てて身なり…と言っても老人と大差無いような長袖シャツとジーパンだったから治す必要もなかったけれど、一応整えるフリをして見せてから静々と

「は、初めまして”師匠”、私は望月琴音です。…前々から存じ上げていました」と慇懃に自己紹介をしたのだった。

…そう、私はこの”師匠”のことを知っていた。…いや、知り過ぎていたと言っても過言では無い…と思う。勿論直接お目にかかるのは初めてだけど。”すごく”勘のいい方なら推測が立っている人もいるだろうが、改めて言うと、この方は何度も義一との会話の中で出てきた”落語家”さん本人だった。何度も義一が私にこの人の落語…もっと言えば”芸”に対する考え方などを教えてもらったりしていた。以前にも話したが、初めて聞いた時はそれ程”落語”に対して興味が持てなかったのだが、義一の口からこの人の考え方や、振る舞い方、その他の色々な人騒がせなエピソードを聞いているうちに、まずこの人自身に興味が湧いてきて、この人の書いた芸人にしては膨大の”芸”についての本を義一から借りて読んだりした。そしてそれを入り口にして最終的に落語を聞くようになり、今ではこの”師匠”だけではなく、その他の”昔”の落語家のテープなり、映像があれば映像を、これまた義一から借りたり、思いついた時にインターネットの動画サイトで検索して見たりしていた。因みに先程まで師匠に付いていた男二人もよく知っていた。師匠は落語界で一番多くの弟子を抱えていたが、その中でもトップクラスの実力を持つと言われる、いわゆる”三羽烏”の内の二人だった。今一番の売れっ子だった。私は何度も言ってるがテレビをまず見ないので知らないが、バラエティーなどにも出ているらしい。もしこの二人だけだったら、それはそれなりに私はテンションが上がっただろうが、やはり師匠の前では霞みざるを得なかった。

とまぁ当時の私の心情の吐露はこれくらいにして、話を戻そう。

私がそう辿々しく自己紹介をすると、少しの間老人は繁々と私の様子を眺めていた。まるで品定めでもするかの様な視線だ。この師匠も最近はまず滅多にテレビなどには出ていないらしいが、昔…といっても私の生まれる前の話らしいが、その時分までは良くテレビなどのマスメディアにも露出をしていたらしい。その時の映像を義一に見せてもらっていたが、その時の師匠の視線は今と変わらなかった…という事を思い出していた。

「望月?…あぁ」

師匠はふと私達の名字を言ったかと思うと、ふと義一に視線を向けて話しかけた。

「義一…アンタが前に言ってた姪っ子っていうのはこの子の事かい?」

「えぇ、そうですよ」

義一はそう答えつつ、そっと私の背中に手を置いた。

「ほぉー…」

師匠はまた改めてと、私の全身…と言っても座っているしテーブルが邪魔だから全ては物理的に無理だっただろうが、それでもそれをしようという意気込みだけは感じられた。

「随分と…」

師匠は満足したのか、ソファーに深く腰掛けて、息でも吐く様な調子で言った。

「人形の様な整った顔をした美人さんじゃないか。…アンタも含めて、そっちの家系はなんだ、美形が生まれる血筋なのか?」

「いやぁー…そんな事聞かれても分かりませんよぉ」

義一は慣れてるのか軽く往なしていたが、誤解を恐れずに言えば、久しぶりに面と向かって見た目を褒められたので、不意に恥ずかしさからかなんだか判断が難しいが、なんとも居た堪れなくなって顔を背けるのだった。そんな当時の私の心情もあって詳しくは述べないが、義一も含めた”望月家が何故美形なのか?”という、よく分からない話題で盛り上がっていた。

それからはママが部屋に入ってきて、”いつもの”というやつなのだろう、バカラグラスにウイスキーを入れたのを師匠の前に置いた。そして他の一同にもお酒の注文を取っていった。結局みんなは同じお酒をリクエストした様だった。私も聞かれたので、アイスティーのお代わりを頼んだ。ママは笑顔で注文を取り終えると、今度は神谷さんに料理が終わり次第運び入れても構わないかと聞いた。神谷さんがすぐに心よく了承すると、ママは機嫌良さそうに足取り軽く出て行くのだった。

ふとこの時時計を覗くと、時刻は九時を過ぎた辺りだった。

それから十五分ほど経っただろうか、扉が大きく開け放たれたかと思うと、次々と前回と同じ様な様々な趣向を凝らした料理が運ばれて来た。この時は、これまた前回と同じ様に、マスター自らも配膳をしていくのだった。テーブルの上に所狭しと置かれた料理は、これまた多種多様なモノだった。

軽くだけ触れると、プロセスチーズと大葉を豚肉でクルクル巻いたもの、ニラをこれでもかって程にふんだんに盛り込んだチヂミ、これは前回にも出た、牡蠣をオイスターソースやお酒などで炒め煮にしたもの…これは美保子と百合子の大好物の様だった。いつだかの雑談の中で聞いたが、毎回この店に来た時は作って貰っているらしい。これ以降の紹介は、牡蠣の炒め煮と一緒で前回と被っているので割愛させて頂く。

とまぁつい先程も触れたが、このお店では皆の好物の品が何品か出されるという仕組みになっている様で、今回の品々…前回には出されなかったチヂミなどなどは、どうやら師匠の好物の様だった。

と、お代わりのお酒などが渡ったと見るや、神谷さんは着座のまま手にグラスを持ち、顔は正面だったが時折師匠に視線を送りつつ

「ではかんぱーい」と音頭を取ったのだった。私たちもすぐさま後に続いた。師匠も声は出てなかったが、口はちゃんと動かしていた。


乾杯を終えると、先程は神谷さんに対してだったが、今度は師匠に乾杯をする為に美穂子と百合子が近寄って行っていた。

私もそれに倣おうと立ち上がろうとしたが、ちょうどその頃隣で義一が、女子力(?)高くイソイソと神谷さんの分と師匠の分を小皿に取り分けていたので、何も急ぐ事はないかと、その作業が終わるまで待った。ついでに私の分までしてくれたので少し時間が掛かってしまったが、ようやく師匠の元へと行けた。

私が近づくと、師匠はまたこちらを値踏みする様な視線を向けてきたが、私がグラスを向けると、少し顔を緩めてコツンとぶつけ、「…よろしくな、お嬢ちゃん」と声をかけてくれたのだった。この時初めてだった訳だが、顔には出てなかったと思うが内心では舞い上がっていた。その自分に対して自分で驚いてもいたが、いつだかの時の様に、この時になって改めて、この師匠の事が好きなんだと認識出来たのだった。ついでにと言っては何だが、私の友達の中で、特に”ミーハー”なのは裕美と紫だったが、普段この二人が流行について盛り上がっているのを見て、ハタから見ると大した事じゃないのに何でそこまで熱中出来るのかと不思議に思っていたが、それもこの時になって初めて、少しは理解出来るような気がした。

「は、はい…」

私は何故か逃げるように自分の席に戻った。

「…あぁーあ、やっぱり仕事の後のお酒は美味いなぁ」

と小指を立てつつ一口飲み、口を離すと同時に声を上げた師匠は、その後一同をぐるっと見渡したかと思うと、誰に言うでもなく独り言のように口を開いた。

「…そういや今日は何だか人が少ねぇな?他の人はどうした?」

「あぁ、それはね師匠…」

神谷さんは師匠のそんな発言に対して、間髪入れないようにしているが如くすぐに先程してくれた様な説明をそのまましていた。

聞き終えると師匠は少しつまらなそうな表情を作ってから「なーんだ」と漏らした。

「てっきり今日は久々にマサにも会えるかと思ってたのによぉー…」

師匠は最後にチラッと百合子の方を見て言い終えた。

百合子も何かを察してか、静かにゆっくりとしたテンポで、マサの来れない理由の詳細を話した。その間師匠はウンウン頷いたりしていたが、最終的には苦笑とも見える笑みを浮かべたので、納得した様だった。

「…まぁいっか。俺の最後の高座の日…その日に変に祝られたりするんじゃなく、こうして静かにいつもと変わらない調子で気の置ける奴らと飲んだりするってのが…俺らしいや。まぁ若干”気の置ける仲間”が足りねぇ様だが」

と師匠は、前回私が来た時にマサが座っていた今は空席の辺りを横目でチラッと見るのだった。どうやら大体みんなの座り位置も決まっている様だ。

とここで「フッ」と短く息を漏らしたかと思うと、神谷さんは師匠に苦笑混じりに言った。

「あのねぇ師匠、我々だって…特に私なんかは、貴方に対して祝いたい気は満々なんだよ?今日だって…」

とここで神谷さんが述べたのは、千代田区隼町にある有名な演芸場だった。

「…で演るっていうから、最後だって言うし本当は行きたかったのに、師匠、貴方は薄情にも『来ないでくれ』と言うんだから…」

神谷さんは最後に声を細めると、恨めしそうに目も細めて見せたが、この時ここに来てから初めて師匠は人懐っこい、こう言っても伝わらないだろうが良く写真や映像で見たことのある笑みを浮かべていた。

「まぁまぁ先生、そんな顔をしないでくれよ?前にもちゃんと説明したじゃないか、何で来て欲しくないかって」

「…何で?」

「ん?」

師匠はふと笑顔を少し抑えつつ私のことを見た。神谷さんもこちらを見ている。私自身もすぐにしまったと思った。神出鬼没の”なんでちゃん”だ。まぁ尤も今回に関しては”出てくる”事は容易に想像できた。先程来師匠が話す言葉の一つ一つが、全て疑問に捉えられたからだ。しかし何とか自制出来ていたと思っていたのだが、ここに来てタガが緩んで外れてしまった様だった。

師匠と神谷さん二人とも、何も話さないところをみると、どうやら私の言葉を待っている様だと察したので、私は少し遠慮気味にゆっくりと言葉を紡ぐ様に話した。

「あ…いや、そのー…ですね?何で最後の高座という、そのー…私みたいな素人でも分かるような”大きな時”なのに、こうして見るのは勿論初めてですけど、そんな私から見てもこうして仲が良く見えるのに、来たいというのを断ったりしたんですか?…っていや!」

とここで私は開き直ったせいか、変なスイッチが入り余計に感情の動きをコントロールが取れないままに、熱くなって続けた。

「そもそも師匠、今日が最後の高座だったんですか!?どうしてですか!?まだまだ演れそうに見えますのに…って、あ、いや…」

ここで一気に急に熱が冷めたのは、ふと師匠が私にまたあの視線を向けてきていたからだった。何だか私の本心を見透かそうとしている様で、何だか落ち着かない心持ちになったが、ふとここで私自身も、何も気後れすることなど無い、今まで話したことは全て本心、本音だったんだからと思い直し、

「…その理由を教えて下さい。…”一ファン”からのお願いです」

私は最後まで視線を逸らさずに言い切る事が出来た。後は相手の出方次第だ。

師匠はしばらく私をそのままの調子で見つめてきていたが、ふとウヰスキーを一口飲んだかと思うと、こちらに向かって笑顔を見せてくれた。それはさっき神谷さんに見せたのと同じものだった。

それから師匠は今度は義一に顔を向けると、少し意地悪な笑みを浮かべつつ言った。

「…お前さんの言ってた通り、この嬢ちゃんはこんなに若いのに俺のことを知っているんだな」

「だから言ったでしょう?」

義一も何故か誇らしげに返していた。

「そうか…お嬢ちゃん」

「え、は、はい」

声を掛けられたので慌てて返事をすると、師匠は少し微笑みを浮かべつつ聞いてきた。

「お嬢ちゃんは…落語が好きかい?」

「は、はい…もちろんです」

その質問の裏側にどんな意図が隠されているのかと邪推する何時ものくせが出てしまい、素直にポッと返せなかった。言った後で、相手に気を使っての社交辞令と取られやしないかと思ったが、師匠はニコッと笑って「そっか…」とさも嬉しげに呟いた。

「まぁそうだなぁー…別にこれといって大きな理由がある訳でも無いんだが…」

と横目で隣に座る神谷さんの事をチラッと見てからまた私に視線を戻して、苦笑気味に言うのだった。

「まずこの先生を呼ばなかったのはなぁー…俺の醜態を見せたくなかったからなんだよ」

「…え?醜態?」

思わぬ言葉が出たので、私は思わず聞き直した。師匠は柔らかな表情のまま一度頷くと続けた。

「…そっ、醜態。…お嬢ちゃん、アンタは俺の事を”まだまだ演れそう”ってさっき言ってくれてたが、それは”いつの頃の俺”を見ての意味だったんだ?」

「え?…えぇっと…」

私は少し言葉に詰まった。何故なら、師匠の高座の姿というのは義一から借りた映像だとか、ネット上の動画サイトで見ただけだったから、実際に高座を生で見た事が無かったのだ。尤も、先ほど来ていたお弟子さん達の高座もだったけど…。

私は言おうか言うまいか困っていていたが、隣に座る義一が助け舟を出してくれそうな気配は無かったし、師匠は黙って私が話すのを待っていたので、観念してそのような旨をそのまま伝えることにした。

師匠は相槌をすることなく聞いていたが、私が話し終えると少し呆れたような笑みを漏らしつつ言った。

「…そんなこったろうと思ったぜー…あ、いや、そんなにシュンとしないでくれよ?別に怒っている訳じゃねぇんだから。…義一、お前さんが言ってたように、どうもこの嬢ちゃんは色々と過敏すぎるなぁ…難儀なもんだが、だけどまぁ俺はそんなタイプは嫌いじゃないぜ」

「え、あ、その…」

何か変な気の使わせ方をしてしまったかと、私は少し申し訳ない気持ちになったが、それと同時に嬉しくもあった。

師匠は私に一度ニコッと笑って見せると、先を続けた。

「でもそっかぁ…今アンタが話していた俺というのは、今から二十年前から十年くらい前までの俺の事だなぁ。…懐かしいなぁ、一番芸に油が乗ってる頃だもんなぁー…」

「…確か師匠は今七十八歳でしたよね?」

と私が確認をすると師匠は今度は子供っぽく笑うと、隣の神谷さんの肩にポンっと手を乗せると「そっ、先生の三つ上だ」と答えるのだった。

「って事は、師匠が自分自身の芸が乗ってる時期だったと認識していたのは、ご自身が五十八から六十八の頃だという事ですか?」

「ん?…ふふ、何だか随分と頭でっかちで難しい言い方をされたから、すぐには飲み込めなかったが、そうさなぁ…まぁ俺がいい加減な言い方をしてしまったようだが、もっとアヤフヤに言えば、五十代から六十代までという事だ」

「なるほどー…あっ、ちょっといいですか?」

「ん?」

私はこれがいつでもこの身に降りかかるチャンスだとは思っていなかったので、この少ない機会を利用して、直接色々と芸について聞いてみたいと思ったのだ。

私はチラッと牡蠣をちょうど口に入れるところだった美保子を見てから、前回に彼女と会話した内容を含めての『芸と年齢』についての考えを述べる事にした。私が話し始めると、直接は見えてなかったが、向かいの席から強い視線を感じていた。恐らく美保子…だけでなく百合子までもがこちらに興味の視線を投げかけてきていたのだろう。

師匠はその間、チヂミとウイスキーを楽しみつつ、しかしこちらに向けてくる目は爛々としていた。私は約三分ほど一人で話していた。

「…とまぁこんな話を美保子さんと話していたんですけど、落語という芸では、成熟するのは五十代から六十代なんでしょうか?」

「ん?…んー…」

師匠は口を一度おしぼりで拭ってから、腕を組み首を傾げつつ考えて見せた。そして腕を外して両手を下に降ろすと、少し困り顔を浮かべつつ答えた。

「そのー…なんだ、義一、お前が言ってた通り、この嬢ちゃんの質問は容赦無いところを突いてくるなぁー。しかもまだガキだというのに、こんなしっかりとした芸に対する認識を持ってるなんてよ?」

「ふふ、そうでしょう?」

そう返す義一は、またしても誇らしげだ。

「…こんな質問は迷惑でしたか?」

と流石の私も、褒められたような気はしたのだが、それよりもいきなり調子に乗りすぎたかと反省をしたが、ふと師匠の顔を見ると、今度は好奇心に満ちた明るい笑顔を見せていた。

「…いーや?」

師匠は大きく首を横に振って見せると、穏やかな調子で答えた。

「迷惑も何も、俺はこういう芸談だとか、嘘や偽りのない本質的な議論が大好きなんだよ。…だから長年こうして先生とも付き合ってるんだがよ」

師匠は横目でチラッと神谷さんの方を見た。神谷さんは神谷さんで、特に顔を合わせたりしなかったが、顔に微笑みを湛えつつ黙って料理に舌鼓を打っていた。

「…さてと、何から話せば良いのかなぁ…うん、思いつくままでいっか。嬢ちゃん、アンタはどうやら昔の…と言っても俺もその”昔”かも知らんが、昔の落語家をよく映像で見たりして、詳しいらしいじゃないか?」

「い、いや、詳しいだなんて…」

と私は慌てて返したが、それには目もくれずに話を続けた。

「昔…もう五十年くらい前になるか、俺自身の師匠よりまた少し上の世代に三遊亭圓生って人がいてな、色々な師匠にお世話になったが、その中の一人だったんだ。俺が書いた本の中でも”昭和最後の名人”と称させてもらったんだがね」

「あっ、圓生知ってます。映像でも”包丁”だとか”百川”だとか…もうそれこそ数え切れない程に見ました。師匠のその本も読みましたし…」

とついまた私の悪い癖が出て、色々とその道のプロの前で知識を少しとはいえ披瀝してしまった。こんな時はすぐに自己嫌悪に陥るのだが、なかなか学習しない自分に対してもそうなるのだった。

しかし当の師匠はそんな私の言葉を聞いて、気を悪くするどころか見るからに機嫌が良くなっていた。

「そうそうそうそう!その圓生だよ。いやー、本当に落語が好きなんだなぁー。そうそう、あの師匠はな…」

とここで師匠も、何かのスイッチが入ってしまったらしく、次から次へと圓生との思い出話や噺について話すのだった。私が口を挟む遑がない程だった。仕方なく黙って聞いていたが、その内容一つ一つが面白かった。中には本の内容と重複するところもあったが、それより何より、これは久し振りに言うようだが、やはり私は何か一つのことに熱中して生きてる人が、その内容を楽しげに話しているのを聞いているのが、とても好きなのを認識した。勿論それを実際にしているのを見るのも好きなのは言うまでもない。あと一つ、これはもしかしたら師匠に対して失礼にあたるかも知れないが…やはりこの人は落語が好きなんだなぁーっと平凡な感想を持ったのだった。

何分くらいだろうか、少なくとも五分は喋り倒していたが、不意にハッとした顔つきになって、途端に恥ずかしそうにしつつ調子を落ち着けながら言った。

「…って、あ、いやぁー…ついつい嬉しくなっちまって話し過ぎてしまった。こんな若いのに芸に対して興味を持ってくれること自体が珍しいし、それにそこまで真剣な顔つきで聞いてくれるのもいないからよー…ついな?」

「ふふ、いや、面白かったです」

生意気な様だが、後半部分の様な褒められ方は慣れていたので、これに対しては恥ずかしくなる様なことは無かった。

「そうか?」と師匠はまた一度大きく笑って見せると、またさっきまでの穏やかな表情に戻り、ゆっくりと続きを話した。

「…ああ、その圓生師匠だがよ、あの師匠の有名なセリフで『死ぬまで勉強です』なんてのがあるんだが…」

「知ってます…あ、いや、すみません」

とまたついつい口を挟んでしまったが、師匠がにこやかにしていたので、前ほどは必要以上に恐縮する事は無かった。

師匠は何事もなかったかの様に続けた。

「おう…でな、そのセリフは如何にも圓生師匠らしい台詞だと思ったんだが、まぁ七十九歳で、しかも高座を終えた直後に心筋梗塞で亡くなるってんだから、まぁ本当の意味で死ぬまで噺をしたって点ではその通りだがよ、それでもやはり死ぬ直前には衰えは見えていた…贔屓目で見てもな?何が言いたいかっていうとよ、圓生師匠も、俺は直接見てきたから分かるが、やはり五十に入ってから六十を半ばくらいまで来たくらいのが、絶品…全盛期だったと思うねぇ…」

「歌でも近いものですよ」

とここで不意に口を開いたのは美保子だった。

「…さっき琴音ちゃんが話してくれましたけど、一概には当然言えませんが今の時代のレベルで言えば、作曲家なり、演奏者なり、私の様な歌い手などは、何とかずっと研鑽を積んできて初めて四十代に入ってから油が乗りだすんですからー。…ただまぁ、その説は私も何度も直接聞いてきましたけど、単純計算で私達の稼業は二十年くらいと見積もっているのに、落語家さんの場合は全盛期が十年そこそこなんですねぇ?」と、たまに私に笑みを向けて来つつ明るげに話していた。

師匠は少し決まりが悪そうに笑いつつ

「…まぁ、俺が見てきた師匠連中を見てみたら、そんな感じだったって、それだけの話なんだがよ」

と返していた。

「でまぁ、今たまたま圓生師匠の話をしたわけだが、考えてみたら俺は今七十八、師匠が亡くなったのが七十九、もしかしたら何かの縁で、俺も来年あたりにおっ死んじまうかも知れねぇなぁ」

「…え?」

師匠が不意にそんな事を、しかも心から面白く愉快だという風に言うので、私は面を食らったがすぐその後に、えも言われぬ寂しさに襲われた。おそらく顔に出ていたのだろう、隣にいた義一が私の方をチラッと見ると、すぐさま師匠に苦笑まじりに言うのだった。

「…ちょっと師匠ー…またそんな事を言うんだからー…ちょっとは…」とまだ何か言いかけていたが、ここで急に師匠が意地悪く笑いつつ口を挟んだ。

「別にいいだろう?こんくらいの事を言ったって。何度もアンタらの前でも言ってる事だし…。まぁ今日は珍しく見ない顔が居るけれども…。と言ったって、誰が聞いてようがどう思おうが、俺の決意は変わらねぇんだからよ」

私は自分でも分かる程に顔が強張っていくのを感じたが、それは勿論師匠が突然”死”について触れたからだった。

当時の心情を軽く描写すると、せっかくこうしてふとした色々な"偶然”が重なって、数少ない大好きな、しっかりと本当の”芸”を持ってる”真”の”芸能人”と出会い、そしてもしかしたらあわよくばこれ以降お近づきになれるかもと思っていた矢先での発言だったので、それが大きな要因の一つには違いなかった。だがそれと同時に、もう一つの大きな要因として、この時にまたふと胸の奥底に"ヤツ”がウズっと動きをみせたのを感じたからでもあった。前回の”何で人を殺しちゃいけないのか?”という疑問が湧いた時と似た様なものだろうと、当時はそこまで分解出来ていた訳では無かったが、漠然とはいえそれくらいの予測は容易に立てていたのだった。…っと、この話はこれくらいで終えておこう。

師匠は一度ウイスキーを飲むと、あくまで呑気な調子を崩さずに続けた。

「正直俺は長すぎる程に生き過ぎた。…あ、お嬢ちゃん、アンタの質問に答える…いや、答えになるかどうかは分からねぇが、それらしい事を話させてもらうよ。そう、アンタが聞き返してきた”醜態”って意味についてだ。今少し話した様に、俺が思う…落語に限って言えば五十代から六十代にかけてが円熟期にして全盛期に入れると思っているんだが、自分で言うのもなんだが、確かに己の芸を振り返り見ると、その頃あたりが一番良かったとハッキリ言えるんだ。何か根拠があるのかと聞かれると少し困るが、一つだけ確実に言えるのは、演った後はいつもって訳じゃなかったが、それでも俺の芸人人生の中では終えた後に気持ちよく、出来に満足いって気分が良かった事が多かったんだ。言うなれば…『どんなもんでぇっ!』ってな心持ちだな!」

師匠はその場で胸を張って見せた。がすぐに少し前屈みになり、片方の眉だけ上げつつ、しかし笑みを絶やさぬまま続けた。

「その出来の良し悪しもな?…ゼロとは言わねぇが、基準は客では必ずしもないんだよ。稽古してる時も、普段の生活の時も四六時中噺の事ばかり考えていて、それが何かの拍子に新たな解釈を見つけたとする …それを次にはぶっつけ本番で高座で演ってみる…これを俺は五十年近く続けてきたんだが、いくら芸歴を積もうと、図太い俺でも不安を抱えて上がるんだ」

「…五十年でもですか?」

と私が無意識に近いままに相槌を打つと、師匠は微笑を湛えつつ一度大きく力強く頷いて見せてから答えた。

「そっ、五十年演っても何が正解だか分からねぇ…そうやって未練たらたら言いながら死んでいくんだろうなぁー」

「そんな…」

あまりに諦観めいた口調で言ったので、何か気の利いた言葉を返そうとしたが、何も思いつかなかった。結局黙ってしまったが、しかし何も言わずとも私の心中を察したのか、師匠は少し困り顔で笑って見せただけだった。

とその時、師匠はふと何かを思いついたといった風体で私に話しかけた。

「…あ、そうだ。お嬢ちゃん、俺はさっき善し悪しの基準を必ずしも客には置いてねぇと言ったが、それをアンタはどう思う?」

「どうって…」

これまたフワッとした質問だった。同時に思い出したのは神谷さんだった。仲良しなのが原因か、それとも元からなのかは定かでは無いが、こんな所でも似た者同士だった。

少し考えた挙句、結局は単純な返答をする事にした。

「…まぁ、言わんとする事は分かる気がします。…そもそも私は、師匠の本を読んでいますし…」

「…クク、そうかい?」

師匠はまたあの品定めをする様な目つきで見てきていたが、私がそう返答すると、途端に機嫌良さげに返してきた。

「なるほどなぁー…。ここですぐに”同意します”みてぇな事を単純に答えねぇ所が、また気に入った!」

「あ、いや、まぁ…」

「そうでしょー?琴音ちゃんは…」

もういいだろう、細かく描写するのは。義一がこれで何度目になるかってくらいに誇らしげに言ったのだ。私は一人冷め気味にアイスティーをストローで吸い上げていた。

その一連の流れが終わると、師匠はまたさっきまでの雰囲気に戻って私に話しかけた。

「まぁ暗に同意してくれたと思って話を続けよう。…お嬢ちゃん、お嬢ちゃんは話を聞く限りじゃ、まだ人前では演奏をしてない様だが、それでもどうしてそう俺の意見に”同意もどき”をしてくれたんだ?…いやまぁ嬉しくもあり照れ臭かったんだが、俺の本を読んでと話してはくれたが、それ以外からの見方で答えて欲しいね」

「え?…んー…」

これまた中々に難しい質問を投げかけられたものだ…。

今回に限っては、私の暴走が招いた事では無かったので、ほんの少しばかり心の中で毒づいてしまったが、これに関しては…ちょっとややこしい言い方になってしまうが、ピアノの師匠に借りた本の中に今の話題に合う様な面白い本があったのを思い出し、取り敢えずはソレを話してみる事にした。

「…前に私のピアノの師匠から借りた本の中に、『音楽の聞き方』というのがあったんです。ちょっと生意気に言えば、素人向けの本で、これからクラシックを聞いてみようか、それとも何かの拍子に手に取って読んで、そこからクラシックに興味を持って貰おうっていうような主旨の本だったんですけど…何でも師匠のお友達が書いたというんで、私がまだ小学生の頃に貸してくれたんです。…あっ、で、内容としては大まかな音楽の歴史が書かれていて、因みに私はその本から”音楽史”を学び始めたんですけれど…あ、いや、そんな事を話したかったんじゃなくて、つまり何が言いたいのかというとですね…?」

私が”いつものように”テンパりつつ話している間、師匠だけでなくこの場にいた一同は、静かに、間に何か茶々を入れるのでもなく、静かに、そしてまるで私を見守るように聞いてくれていた。

「…その本の骨子を言うと、こうだと私は思ったんです。『確かにクラシック音楽というのは、巷に溢れているし、名前とメロディーが一致しなくても知られているのは沢山ある。それなりに世間に受け入れられ、受け継がれている感が無くはない。ただ…その知名度の高いメロディーというのは、ある曲の中の一部であってそれが全てじゃないし…そもそも巷で流れてはいるが、それが果たして”作曲家の意図”を汲み取った上での使い方かどうか、甚だ疑問を禁じ得ない。音楽を聞くにしても、これまで色んな時代の人々が作曲家の意思を、実際出来ていたかは兎も角、気持ちの上ではなるべく尊重しようとしつつ、色んな想いを持って現代まで、演奏法から解釈から何から受け継ぎ伝えてきたのに、それを現代の人々が”メンドくさい”と”聞くため”の何の努力もせず”惰性”で聞いてアレコレ好き勝手判断していいのだろうか?そしてそんな不勉強で、そのいっ時の気分に流され好みも大きく振れるような客に媚びて、音楽家たちが演奏していいのだろうか…?』」

とここまで話したのだが、ふと”相変わらず”まとまりが無くなってしまったのに気づいて、途端に素に戻って恥ずかしくなり、無理矢理にまとめる事にした。

「だ、だからそのー…師匠、あなたの言われた『客が基準ではない』という考えには、…ここまでくれば私も恥なく言えると思いますが、ハッキリと”同意します”」

と言い終えると、少しでも話が終わった事が伝わるようにアイスティーを一気に半分以下まで飲んだのだった。

その間、私の啜る音だけが鳴っていたが、「くっ」と音がしたのでその音源の方を見ると、その主は師匠だった。

師匠は「くっくっくっくっ」と少し息苦しそうに…典型的な呼吸器系が弱っている人風の笑い声を漏らしつつ、にこやかに私に話しかけてきた。

「…っく、いやぁー嬢ちゃん、いや、琴音、決してワザとでは無かったんだが俺が今したような質問に対して、よくもまぁそこまで深い返しをしてきたなぁ。…いやぁー、驚いた」

「い、いえ…そんな」

何度か似たような褒められ方はされた事があったから、もっと何気無く流せるようなもんだと思われる人もいるかも知れないが、師匠からは初めてだったし、やはり何より、何十年も落語の世界では誰よりも芸の事だけを考えて生きてきた人からの感想だったからこそ、重みを感じて、自分で言うのも変な話だが、何だか今までの中でトップスリーに入るくらいにキョドッてしまった。”お嬢ちゃん”呼びから、”琴音”と下の名前で呼んでもらったのにも気付かなかった程だった。

そんな大袈裟なリアクションを久しぶりに見たせいか、隣の義一も私のそんな様子を和かに微笑ましげに見つめてきていた。その他の神谷さん、美保子、百合子も同様だったのは言うまでもない(?)。

暫く場の雰囲気は和気藹々としたものだったが、ふと師匠はまた表情を戻すと私に話しかけてきた。

「でもそっかぁー…俺が親しくしている中じゃ、いわゆる音楽という芸に勤しんでいるのがジャズの美保子しかいなかったからよぉー…今の話は面白く聞かせてもらったよ。…まぁ面白かったってのは色々あったが、何よりもやっぱり落語も、お前さんのクラシック音楽も、根底では変わらねぇんだなぁーってトコだな」

「…そうだねぇ」

とここで口を挟んだのは、今まで食事を摂りつつ静かに話を黙って聞いていた神谷さんだった。

神谷さんは一口日本酒で唇を濡らしてから続けた。

「…師匠と琴音ちゃん二人の深くて興味深い芸談に、もしかしたら水を差しちゃうかも知れないけど、ちょっと思い出した事があったから…良いかね?」

神谷さんはそう言い終えると、私と師匠を交互に見た。すると師匠は少し声のトーンを上げ気味に…予め、これは師匠のことをバカにして言う訳ではないと一応保険をさせて頂くが、トーンを上げても正直上がりきらない掠れ声で

「おう、折角だから話してくれよ先生!…なぁ琴音、アンタもいいだろ?」

「え?あ、はい、もちろんです」

正直それまでは、いわゆる壁を感じない訳でもなかったが、ここにきて急に師匠の方から壁を取っ払って近寄ってきてくれたので、面を食らいつつも微笑みつつ答えたのだった。その笑みは愛想笑いでは無く、嬉しさからくる自然なものだった事は付け加えさせて頂く。

「そうかい?じゃあ…」

と神谷さんがまたメモの切れ端を何処からか取り出したので、私もすかさずソファーの上に置いていたメモ帳を手に取り、準備を整えた。ふと視線を感じたので其方に目を向けると、師匠が興味深げに私の事を見つめてきていたが、ふと目が合うと、何も言わずただ微笑んでくるのだった。

「さて…私は君たち…いや、他の美保子さんや百合子さんみたいに芸に実際従事してる訳じゃないから、何だか毎度の事とはいえ話すのは恥ずかしいのだけれど…まぁいいか。私はこの通り頭でっかちで固い考えしか出来ないから、字引的で申し分けないけれど…今師匠が言った、『落語とクラシックが似ている』というセリフ…実は本質を射っていると思うんだ。それは何故かと言うとね二人とも…、そもそも落語とクラシック音楽には共通点が…ん?何かな琴音ちゃん?」

「…え?」

急に神谷さんが話しかけてきた。私はふと顔を上げると、そこには好奇心に満ち溢れた好々爺の笑みがあった。

「いやなに、君が一瞬私と目が合った気がしたもんでね?…何かまた思い当たる節があるんじゃないかと思ってね」

はぁ…良く見てるもんだなぁー…。

確かにあることを思い出し、不意に顔を一瞬上げて、その時に神谷さんと目が合ったのは事実だった。

ここまで見抜かれたら仕方ないと、また出しゃばって話すつもりは無かったのだが、こう勧められちゃあ仕方ないと観念して話す事にした。「まぁこれは…義一さんと何度か会話した中で出た事なんですけど…というか義一さんの説なんですが」

義一がまた要らぬ事で口を挟んできそうだと察知し、予めこうして予防線を張っといたのだった。

「うん、続けて」

「はい。…まぁ落語とクラシックの最大の共通点を言えば、ある意味二つとも言うなれば”台本”が初めからあって、それを再現するという芸術の類に分類されるんじゃないかって事なんです」

「…再現か」

師匠はボソッと呟いた。とここで、内心がどうかは兎も角、今のままでは師匠の”芸”に対する見方とズレている様に勘違いされそうだったので、すかさず続きを話した。

「再現って言っても、何も前の人達がしてきた事をそのまま再現するって意味じゃないんです。その時代時代に生きていた人々…この場合は演者って意味ですけど、どうしたって時代は流れて変化をしていく…それに抵抗しようと、古いままの昔ながらのやり方を頑固に続けていれば、いわゆるアナクロに落ち込み、通”ぶった”訳知り顔の客相手にするだけの”伝統芸能”に落ち込んでしまう…これは師匠、あなたが高座や本の中で再三仰ってた事ですよね?」

と私が微笑みつつ声をかけると、師匠は見るからにタジタジになりつつ、「お、おう」と答えるその顔は、照れからきたものか、それともまた別のからか判断しづらい苦笑いだった。

私はその様子を見て、自然と笑みが溢れつつ、

「とまぁ、以上の様な点でこの両者は深い本質的な所で共通しているんじゃないかと…思った次第です」

と最後に神谷さんに顔を戻しつつ終えた。

それから暫くは「へぇー」とか「ほぉー」となどの、特に意味のない声が漏れていたが、不意に師匠が意地悪い悪戯っ子の様な笑みを浮かべてきつつ、少し前のめりになりながら声をかけてきた。

「琴音…お前さんは今いくつになるんだ?」

「え?」

急に何を言い出すんだろうと驚きを隠せなかったが、聞かれたので答える事にした。

「い、今は十三歳で、今年で十四歳になります」

「…今年で十四歳かぁー」

師匠はそう呟きながら、私の全体を、初めて顔を合わした時の様にジロジロと見てきた。

だが、さっきの様な値踏みをする様な目つきではなく、これまた自分で言うのは恥ずかしいが、感心した様な目つきであった。

「十四かぁ…俺が師匠の所に弟子入りしたくらいの歳だなぁー」

師匠は私から目を離さないまま、何処か遠くを見る様な目つきをするのだった。

「あん時の俺は、ただ落語が好きってだけの、芸の事なんぞ何も分かっていなかったハナタレ小僧だったが…義一」

「はい?」

義一は呑気にビールを飲んでいたが、話しかけられたので口からジョッキを離して応じた。師匠は呆れた表情を浮かべつつ続けた。

「…お前さんの”変人”具合には舌を巻いたが、その姪っ子…この子も大概に”変人”だなぁ」

「ふふ、お褒めいただき有難うございます」

と義一は最大限に慇懃に返すのだった。私は一瞬固まったが、次の瞬間には笑みが漏れていた。それを見たからか、師匠も少し喉を辛そうにしていたが、くっくっと特徴のある笑い方を見せていた。

…この時にはまだ気づいてない…いや正確に言うと自覚をしていなかった事があったのに、後で気づいた。それは…あれだけ昔の、幼稚園以来から続く”変人に見られてはダメ”というある種のトラウマにも似た強迫観念が、この頃もまだ大分マシになっていたとはいえ残っていたのだが、こうして師匠に言われても何とも思わなかった事だった…いや寧ろ、この時ばかりは若干誇らしくも感じたのだった。何故なら、この師匠…私が生まれる前の事だから、この目や耳では直接知らないのだが、色々とやんちゃな事をしてきた様で、日本中からバッシングを受ける様なこともしてきたらしいのだ。落語の芸はピカイチなのに、世間をやたらと引っ掻き回すこの師匠を、同時代の人は”鬼才”と称したり、”時代の異端児”と称したりしてたらしい。…もう何が言いたいのかお分かりだろう。そう、そんな”異端”であると”思われている”事を屁とも思わず、自分の信念を貫いて五十年以上芸を磨いてきた…そんな師匠に”変人”呼ばわりされたという事実に対して、誇らしく思う以外の何があるだろうか?

…とついつい又熱くなるあまりに話が逸れそうになったが…あと一つ、と言うよりこれが本題なのだが、それは…そう、この”変人”呼ばわりされる時、明快に私の中で線引きがなされているという事実だった。『あれ?今更何を言うんだ?』と思われる方もいるかも知れない。

確かに散々パラしつこいくらいに話してきた様に、義一に始まり、師匠、絵里、裕美、まだそんな言われたことが無いせいか感覚としては乏しいが紫、藤花、律、この三人の学園での友人たち、そして数寄屋に集まる面々…彼らにそう称されても特段に嫌な思いはせず、キチンと冗談として受け入れられていた訳だが、全員に共通しているのは、私が心を許しているという事だった。…ここで久し振りにというか、そもそも引用したく無いのだが、分かりやすく使い勝手が良いので止む無く使わせて貰うと、ヒロが以前に私を”人間嫌い”と称していたのを覚えている方も…恐らくおられると思う。言われたその度に文句で返しはしていたが、その事自体は私なりに自覚はしていた。まぁ正確に言えば、自分で言うのも馬鹿馬鹿しいが、中々他人に心を開かないという事だ。でもその分…いや他の事例は知らないが、私に限って言えば、簡単に心を許さない分、許した時はかなり自分で認識出来るという事だ。…さて、長々とまたくだらない話をしてしまっている様だが、もう少しだけお付き合い願いたい。もうすぐに終わる。

まとめると、要は私が心を許した相手に変人扱いされる分には別に構わないと思う所まで脱却出来てきていたという事だ。

そしてこれ等から後で何が分かったかというと…そう、肉親であるはずのお父さんやお母さんから変人扱いをされる…そんな事を想像しただけで、今だにまるで幼稚園…そして義一と初めて出会った日の夜を思い出してしまい、吐き気を伴う嫌悪感にも似た気分に苛まれる…つまり何も進歩していないという事実だった。…ここまで言えば、私が何が言いたいのかお分かりだろう。これ以上私の口から話すのは辛すぎるので、勝手だがここで終わらせて頂く…。

話を戻そう。

「…いやぁ」

場の和やかな雰囲気にもひと段落がつき始めたその時、神谷さんがおもむろに、感心してるとも呆れてるとも捉えられる様な何とも表現し難い笑みを浮かべつつ口を開いた。

「琴音ちゃんにそこまで具体的に言われてしまっては、もう私から言うべき事なんて無くなってしまったよ」

「…え、じゃあ」

と私が短くそう言うと、神谷さんは一度だけ頷いて、それからは笑顔で返した。

「私が言いたかった、そのままだよ。…と言うより、流石と言うべきか、その”道”を歩んでいる人ならではの話をして貰って、とても嬉しかったよ。美保子さんや百合子さんも、何も言わないところを見るに、どうやら君の意見に同意らしいしね」

神谷さんがそう言うので、思わず向かいの席を見ると、二人ともが私に頷いて見せたり微笑んで見せたりしてくれていた。私も自然と微笑み返そうとしたその時、

「…そういえばアンタ」

と師匠が不意に声をかけてきた。瞬時にそちらの方に顔を合わせると、師匠は子供の様に好奇心に満ちた笑みを浮かべて見てきていた。

「…さっき話してくれた内容の中で”伝統芸能に落ちぶれてしまう”ってセリフを…いや、確かに俺が普段から言ってることだし、それを引用して話してくれたが…敢えてもう少し聞いてみたいな。…そう、今アンタが触れてくれたが、そのニュアンスからでも分かるだろ…?そう、ズバッと言やぁ、俺はいわゆる”伝統主義”ってもんが気にくわねぇんだ。…いや、もっとちゃんと言やぁ、俺が演じている落語を”伝統主義”って言葉で称されるのが、たまらなく嫌なんだ。それが俺が色んな噺を毎回毎回演出変えて演ってしまう大きな理由の一つではあるが…いや、そんな事はともかく、アンタはどうも同意してくれてる様だが、では何故その種の芸能に属しているのに、伝統芸能…”伝統主義”に”落ちぶれ”てはいけないんだろうな?」

「…」

最初にこの時の私の心情を話しておくと、ただ単純に『待ってました!』といった感じだった。何故そう思ったのかというと、何度も繰り返し言ってる様に、憧れだった”師匠”とこうして顔を突き合わせて”芸談”が出来るという僥倖に接せられたというのもあったが、もう一つの理由として、これは師匠に対しても…いやソレ以外の方にも失礼にあたるかも知れないが、もう一人新たに語らえられる人に出会えたということに対しての、単純な嬉しさにあった。

本当は私の師匠ともそこら辺の”深い”所をお話しして見たかったが、そこはやはり”本当の”師匠と弟子、勿論小二からの付き合いだから二人の間に壁は無いのだけれども、こうして本格的な師弟関係になってしまうと、昔の様にはいかないものだった。いつも師匠の方から振ってくれないと、中々芸談らしい芸談は出来なかった。前にも言った様に、直接聞いたわけでは無かったが、恐らく今はその段階ではないと判断しての事だろうと、弟子としては見ていた。しかし別にそう判断されたからといって、師匠に対して不満など一切湧かなかった。

これは暗に何度か言われた事だったが、今はひたすら何にも増して”基礎”を、まずは私自身が率先して自分の中に叩き込むのが先決だとの考えを持っている様で、それには勿論私自身その通りだと思っていたので、その方針にはすんなり納得していたのだ。今はただ、いつか私が少しは成熟した時に、今こうしてしている”芸談”が出来る日を楽しみにしているのだった。

…また話が逸れた。まぁ要するに『待ってました』と思った具体的な理由で言えば、この話も何度か義一としていた事だったからだ。

私は一度深く息を吐き出してから、調子を上擦らせない様に気をつけながら話し始めた。

「これもまた義一さんと何度か話した事なんですけど…」

とまずこの最初の所で、私はチラッと義一を見た。丁度義一はジョッキから口を離したところだったが、私の事を見ると、ふぅ…と溜息交じりの微笑を浮かべるのみだった。この時の私には、その溜息の意味するところを把握しきれなかった…が、構わずそのまま話を続けた。

「今師匠が言われた”伝統主義”…これについては雑談的に話したので、何だかフワッとした結論しか出なかったんですけど…良いですかね?」「おう、構わねぇから、早く続きを話してくれ」

師匠は腰を曲げて、前屈みになりつつ言った。どうやらこれが師匠のスタイルの様だった。その姿を見ていて、腰は大丈夫かと要らぬ心配が頭を過ぎったが、促されるままに続きを話した。

「ちょうどその前に二人であるドキュメンタリーを見てまして、それは上野の池の端にある”つげ櫛”を商っている職人さんの話だったんです。インタビュアーが一人いまして、その人がアレコレと質問していって、それに対して、うーん…大体七十くらいの職人のお爺さんが、静かにだけど優しげに微笑みつつ受けごたえをしていて、和気藹々とした調子で番組が進んでいったんです。…でも、最後の最後で、少し棘が残る感じで番組が終わってしまったんです。何故かというと…本当に最後の方、エンドロールが流れ始めた辺りで、インタビュアーが取材に感謝してからその流れでふとこう言ったんです。『今は櫛でも何でも機械化してしまっていて、”伝統工芸”であるつげ櫛は大変でしょうけど、頑張ってください』と。インタビュアーは悪気もないのでニコニコしてましたが、今まで微笑んでいた職人さんの顔がほんの少し曇ったかと思うと、ボソッとこう呟いたんです。『…伝統伝統って…まるで俺らが何もしてないみてぇじゃねぇか…』と。番組自体はエンドロールが流れていたくらいですから、その後すぐに締められたんですけど、辛うじて聞こえた職人さんの呟きに、その時の私は何故か惹かれて、その後すぐに義一さんと話し合ったんです」

「ふーん…なるほどなぁ」

師匠は腕を組みつつ、目を瞑りながらウンウンと頷いていた。

「その職人…会ったことも見たこともねぇが、言いたい事は分かる気がするなぁ」

と私に遠くを見る様な視線を投げかけながら言った。

「でまぁその時に色々と話したり教えて貰ったりしたんですが…ここからは別に義一さんが話しても良いと思うんですけど…」

私はわざと恨めしげに義一にジト目を向けた。義一は何食わぬ顔でビールを煽っている。

「…いや」

と師匠が、テーブルに肘をつきつつ言った。

「俺はアンタの口から聞きたいなぁ」

「え、あ、はい…分かりました」

師匠があまりにも柔らかな表情で言ってきたので、思わず驚きキョドりつつ返してしまったが、気を取り直して先を続けた。

「えぇっと…そうそう、まず最初に考えたのは、私たち…この場合は私と義一さんですけど、私たちの考えている”伝統”と、この職人さん含む世間一般の考えている”伝統”が違うんじゃないかって事なんです」

「ほぉー…」

「師匠も、神谷さんと仲良さそうなので、その”やり方”はご存知だと思いますが…」

私は二人並んで座る師匠と神谷さんを交互に見つつ言った。

「まず伝統って言葉の意味から考え始めたんです。で、そのやり方は…そう、まず源流を訪ねることから始めました。これは義一さんに教えて貰ったんですが、そもそも伝統という言葉は日本語には無かったらしいんです。伝えて統べる…こういった呼び方は、例によって明治以降に新しく作られた言葉らしいですが、とは言っても実は”でんとう”という言葉自体が無かった訳ではなく、私たちに親しみのある漢字とは違う形で延々と日本語の中で使われていたらしいんです。それは…伝えて統べるではなく、”伝える”の”でん”に火へんに登ると書く”燈”…この二つを合わせて”伝燈”と読んでいた様なんです」

「へぇー」

とここで、義一を除く一同全てが感心して見せてくれた。

私は相変わらずこういう時どうしていたら良いかわからなかったので、軽く辺りを見渡していたが、その間にふと意外な出来事が起きていたのに気づいた。それは、他の人たちと同じ様に神谷さんも同じ様な反応を示していたからだった。何故それに対して驚いたのかというと、義一が知っている事は、自然と神谷さんも知っているものと、漠然と思っていた事だった。何せ義一が”心”の師と慕うほどの人物だ。だからそう早合点しても仕方ないと自分でも思うのだが、後々で考えて見たら、そういう事があってもおかしくなかった。だが、この時ばかりは少しだけ面を食らったのだった。

「”伝燈”かぁ…なるほどねぇー…」

神谷さんは義一に微笑みを向けてから、そのまま横に流し、私にも向けてきた。

「その先を続けてくれるかな?」

そう声をかける神谷さん、そして黙ってこちらを見てくる師匠…。

二人とも言うまでもなく違う顔の形をしているのだが、浮かべている表情が同じ過ぎて、危うく兄弟に見間違いそうになる程だった。…言い過ぎかな?

私はそんなことを考えてから、促されるまま先を続け…ようとしたが、この先の説明は難しかったので、義一に目配せをして救援を頼んだ。

義一はこれにはすぐに察してくれて、私の代わりに少しばかり助っ人を買って出てくれた。

「そうそう、で、そもそも伝燈というのは燈火、燈明のことで、仏教からきている言葉なんだよねぇ。その昔、お釈迦様が亡くなられる時、弟子たちはお釈迦様に、『我々は明日から何を拠り所に生きていけばいいのですか?』と問うた時に、こう返したんだよね。『仏の真理や教えを志す自分の心の拠り所、私の問いた教えを燈火としなさい。自燈明、法燈明』とね。それ以降、仏教では、 師から弟子に教えを伝える事を「伝燈」、教えの記録を「伝燈録」と言う様になる訳だけれど」

「…なんだい、義一君」

とここまで話が来たところで、ふと神谷さんが口を挟んだ。顔はなんとも言いようの無い、嬉しさと感心に満ちた、和やかな満面の笑みだった。

「君はいつの間に仏教の方まで手を伸ばしてたんだね?」

「あっ…いやぁー」

と義一は見るからに困り顔を作って、思いっきり照れて見せた。

「い、いやぁー…アレですよ、最近”能”や”狂言”や”歌舞伎”…それに茶道について研究してまして、そこから得られた話なんです。これらの話は今言った芸能の世界ではよく知られている事らしくて、それでそのー…ほらこの子、琴音ちゃん、彼女がここ数年ずっと”芸”についての関心を深めて行くので、それについて行こうと、ただの学問的知識ですけど、彼女に影響されてですね…」

と義一は途中から私の背中に手を当てつつ、こういった脈略のない言い訳(?)を慌てつつ繰り広げていた。

なんだか途中から巻き込まれた感じになったので、少しばかり不満だったが、そんな義一の様子を見ていたら、そんな些細な不満は消し飛び、「…ふふ」と思わず吹き出してしまった。それを合図にしたか、私以外の一同…神谷さんと師匠も含めてクスクスと義一に向かってニヤケたり微笑んだりするのだった。義一はただひたすら頭を掻いて苦笑するのみだった。

「はぁー…さて」

場が落ち着いて来た頃、神谷さんは義一と私に話の続きを促した。

『君が続きを言うかい?』と聞きたげな視線を向けてきたが、私が何も言わず軽く横に首を振ると、義一はそのまま続きを話した。

「で、ですね…えぇっと…あ、そうだ、でまぁその「伝燈」を象徴しているものとして、比叡山延暦寺には”不滅の法燈”という、最澄が比叡山延暦寺を開山した時に燈して以来、約千二百年間一度も消えていない”燈”(ともしび)があるんですけど…いや、それは今は置いといて…要は油を常に注ぎ入れていないと、この燈は消えてしまうわけですから、そこからまぁ僕と琴音ちゃんとで出た一つの結論としては、”伝統”の本質は『型にはまった、昔っから変わらない…』といった様な、ひたすら過去にしがみつくような偏狭なものなんかじゃなく、常に”新しい”油を注ぎ足して守り、伝えていく事…つまり時代時代に即して、”大事な根っこの部分”を壊さない事を前提に、”改善”し続けていく事…という結論になったんです。…琴音ちゃん、この”新しい油”というのがポイントなんだよね?」

「…え?あ、あぁ、うん、そうだよ」

私は今までの話をメモしてまとめていた所で不意に声を掛けられたので、すぐには対応出来なかったが、義一が言わんとしているところが分かったので、すぐに引き継いだ。

「油を注ぎ足すといっても、その時代時代によって油の種類が違ってくる訳だけど、そんな違う油を注ぎ入れたからといって、それで燈が消えてしまう訳ではないし、その時代時代の異なる油を燃料にして燃えるその火の色は、多種多様で面白い姿を見せてくれる…そんな話をしたよね?」

「うん、その通りだね」

「なるほど」

とまた一同は私たちの会話を聞いて感心したような声を漏らしていたが、不意に義一が、今度はニヤケながら話を振ってきた。

「…そういえば琴音ちゃん、この話の流れで、あの時僕に面白い話をしてくれたよね?あの話もみんなにしてあげなよ?」

「へ?…あ、あぁー…」

急に何を言い出すのかと思ったが、すぐにその時のことを思い出し、自分でも分からず恥ずかしい気持ちになりながら、神谷さんと師匠の方に顔を向けて話すことにした。

「えぇーっとぉ…まぁその時に思い出したっていうのは、また私の師匠に借りた本からの引用なんですけれど…。作曲家のグスタフ・マーラーの言葉なんですが、伝統についてこんな話をしていたんです。『伝統というのは、灰を博物館に飾って、それを拝むことではない。その灰に新たに火をつけてやる、それこそが伝統だ』と。…今の話にも通ずる事だと思ったんですけれど…」

「確かに!」

とここですぐさま同意を示してくれたのは美保子だった。

美保子は少し興奮気味に続けた。

「そうそう!私も今思い出したわ!確かマーラーは…その話をするのに、まず周りから、『あなたは先進的な音楽家だ』云々かんぬんと褒めそやされた時の反論という形だったと思ったわ。…そうよねぇー、当時の作曲家達は、すでに時代が近代化してきていて、社会には文化を受け入れる余裕もなければ余地も無くなってしまって、既に全てが商業主義に堕ちていっていて、分かり易いものか、それともなければ聞いたことも無いような新奇な物に流れる客に合わせた様な曲が溢れていったのよねぇ」

「うん」

と私は相槌を打った。美保子は一度笑顔でウンと頷くとまだ続けた。

「そんな中でも、まだマーラーなんかは何とか”クラシック音楽”を保とうと頑張った結果として、あぁいった今までに無かった様な一度聴いただけでは全貌が捉えられない様な曲を書いていった訳だけれども、今言った様に、何も新奇な物を狙って作った訳ではなく、伝統を守ろうとした結果だとも言える訳よね」

「うん!」

私は少し話が脱線してきているのにも関わらず、前よりも強めに同意をした。それが拍車をかける結果になったか、美保子も鼻息荒く先を続けた。

「マーラーに限らず、調性音楽を脱して無調に入って、十二音技法を創始した同時代のシェーンベルクだって、自分の事を”保守的な音楽家”だと称していたし、少し時代が後だけど、イーゴリ・ストラヴィンスキーも自分の事を”伝統的な作曲家”だと称していたしね」

「うん…あっ!」

と私はここで余計な事を思い出し、そのまま述べる事にした。

何せ、自分の好きな音楽について、しかも自分の話題にキチンと付いてきて共通の話題で盛り上がれる機会は、師匠や藤花との技術的な話題とはまだ別にして、そう無かったので、ついついテンションが上がってしまい、普段電話で話すノリになってしまっていた。

「ストラヴィンスキーはまた、周りが自分の事を進歩的だと言うのに反発して、いかに自分が”保守的”かというのを、本を何冊も書いて述べているよね。その中で確か…そうそう、推理小説家にして保守思想家のチェスタートンのセリフを引用したのが残ってるの。こんなのだったわ。『出来るだけ、周りから頑固と思われる程に真っ直ぐに立とう。なーに、どんなに頑張ってまっすぐ立とうとしたって、自然が丁度良い具合に腰を曲げさせてくれる』ってね。これをストラヴィンスキーは好意的に引用して、大好きな言葉と言ってるんだけれど、私もこれ好きだなぁ」

「あぁー、あれ良いよねぇ」

私と美保子で微笑みあい盛り上がっていると、「…ちょっと良いかな?お嬢さん方?」と声を掛けられた。見てみると、言うまでもなく神谷さんだった。

「そろそろ本題に戻していいかな?」と言うその顔は、少し呆れ顔が混じっていたが、基本的に陽気な笑みを浮かべていた。それなりに私と美保子の会話を楽しんでくれた様だった。その他の皆も同様だった。

取り敢えず私と美保子は「ごめんなさい」と軽く謝っておいた。

すると今度は、これまた楽しそうに笑う師匠が口を開いた。

「…いやぁー、良いなぁー…。俺はやっぱり、違うジャンルとはいえ、こうした芸の話を話したり聞いたりするのが、何よりも大好きだ…」

「私も…」

私はほぼ無意識に声を漏らした。自分でも分かる程に自然な笑みを浮かべながら。

「私も大好きです」

と構わず続けて言うと、師匠は静かにニコッと笑うと「そっか…」と声を掛けてくれた。私はそれにまた微笑み返した。

「ゴホン」とここで神谷さんが咳払いして見せると、途端に師匠は意地悪くニヤケながら、隣の神谷さんに寄りかかる様にしながら、「ゴメンゴメン、先生、もうこれ以上悪い事しないから許してぇ」と、落語の”女”を使いながら言うので、私は思わず笑ってしまった。

と同時に、目の前で芸を見せて貰って、その後にすぐ一人感動していたのだった。

神谷さんはやれやれと言いたげな顔で師匠を押し戻すと、少し笑みを浮かべたまま言った。

「…さて、伝統とは何かという問いに対しての君達の答えは分かった。…どうやら師匠も同意してくれて…ふふ、頷いているから聞くまでもないね」

その言葉につられる様に師匠の顔を見た。確かに神谷さんが言われた通り頷いていたが、ふと浮かべていた笑みの中で、眉間に一瞬シワが寄ったのを見たのだった。それに気づいているか、気付かぬふりをしているのか、神谷さんは先を続けた。

「…んー、ここまで本当に深い、途中から美保子さんも参加しての芸談義、これで取り敢えずお開き…すれば綺麗なんだけれども、ここで年寄りの特権を乱用させて貰って、少し私の得意分野からの視点を入れさせても構わないかな?」

「ふふ、はい、お願いします」

神谷さんの言い回しが面白かったのか、はたまた先程の師匠の芸に触発されて、笑いやすくなっているのか分からなかったが、自然と微笑みつつ返した。

神谷さんも柔らかい笑みで頷くと、そのまま話を続けた。

「うん、有難う。伝統…僕はどうしても最初に字引的な見方から始めてしまうんだが、許して欲しい。…今更かもしれないけれどもね?さて、伝統…これは琴音ちゃん、君が説明してくれた様に明治以降に作られた言葉な訳だけれども、それの意味は色々だろうが、その一つの理由に、この”伝統”という言葉も翻訳されたものだろう事が予想される。でだ、伝統という言葉はそもそも何という単語の翻訳かを見てみると…」

とここで神谷さんはおもむろに何時もの電子辞書を取り出した。それに何かを打ち込むと、また私に開いたまま回してきた。受け取り見ると、そこには”Traditional”と出ていた。そして原義には”引き渡されたもの”と書かれていた。

「引き渡されたもの…」

そう呟きつつ神谷さんに辞書を返した。

「そう、そう書いてあるね」

神谷さんはそう返しつつ受け取った。

「確認のために言えば、伝統という言葉は明治以降に作られた言葉なわけだが、この英語を訳したものと考えられる。…で、今君が読んでくれたように、原義では”引き渡されたもの”と書かれていたね?これはとても興味深く面白くて、似たような言葉に”Trade”という言葉がある。君もこの単語の意味を知っているだろう?そう、よく使われている訳し方で言えば、貿易だとかの意味になるわけだが、この原義もまた面白い。それはね…”道”なんだ」

「道…」

私は先ほどからまたメモを取り始めていた。紙に目を落としていたので実際には見ていなかったが、それでも視界の端で神谷さんが頷いていそうな気配を感じていた。

「そう、”道”…。これらから何が分かるか、私が何が言いたいのか、君ならもう察しているだろうけれど、敢えて言えば、『”伝統”とは、その時代時代の人々が、その前の時代の人々から”引き渡された”習慣や習俗などを受け取り、それを後の子孫に受け渡してきた、この途切れることなく連続した”流れ”…それを”道”と称してもいいと思うが、その一連の動きの事だと言える』となると思う。…どうかな?何かおかしい所や、反論の余地はあるかね?」

「んー…いえ、ありません」

小細工など必要なかっただろうが、何だか即答してしまっては、変に気を使ったと受け取られて、”取り敢えず同意しました”的な印象を持たれてしまうのは私の意図としたところでは無かったので、敢えて一度溜めてからはっきりとした口調で返した。

まぁ尤も、まだこうして神谷さんと会話し議論するのは二度目だったから断言すべきでは無いとは思うが、それでもこの時点で、私は神谷さんについてある種の”信用”を置いていたので、こんな保険を敷く必要は無かったのかもしれなかったが、さっきはああ言ったが、とはいえ過去の呪縛が残っているのだと感じずには居れなかった。

私の返答に神谷さんは笑顔でまた頷くと、続きを話した。

「君と義一君の話とも関連すると思うが、今私が言った”道”…これは確かに現代まで延長されてきた訳だけれども、ただ単純に後ろを振り返り、すでに出来上がった道を眺めているだけではいけない…。君が教えてくれた、マーラーが言ったという、博物館の灰を拝むように、何も生み出さない、昔をただ懐かしむだけの”懐古主義”に落ち込んでしまう。それでは結局今出来ている道路で終わってしまうだけで、もしかしたら将来的にもっと伸びたかも知れない可能性をみすみす潰してしまう事になる。昔の人を敬うつもりで過去に思いを馳せて、ただ眺めているだけというのは、むしろ先人達のしてきた事を否定しかねない…」

「…昔の人達は、受け継いできただけでなく、その道の先端から少しづつ新たに増築して延長してきたんですもんね」

と私が相槌を入れると、神谷さんは今度は明るく目を細めて笑って見せた。満足げだ。

「その通り。…まぁ最初にも断ったけど、正直君たちの議論に付け加えることは無かったんだが、少しでもアクセントにでもなればと思って、口を挟んでみた」

と、話が終わった事を示すように、神谷さんはまた好々爺の表情を浮かべて、クシャッと少し照れ臭そうに笑った。

私はこの場合は何も返すべきでは無いと判断して、微笑みつつ顔を左右に振るだけだった。

それからほんの少しの間和やかな時が流れたが、「…んー」と痰を切るかのような掠れ声で唸り声を上げた人がいた。言うまでもなく、その主は師匠だった。

その声に一同は一斉に師匠の方を向いた。師匠は眉間にシワをぐっと寄せて、腕を組み考えこむポーズを取っていた。

と、皆に注目されているのに気付いた師匠は、はたと唸り声を止めて、まず神谷さん、義一、そして最後に私に視線を向けると、静かに口を開いた。

「いやぁー…今の先生の話もそうだし、俺自身頷いて見せたように、義一…そして琴音の話した”伝統”について、反論があるどころか、勉強にもなったし、心の底まで納得させて貰ったから、今更何か言おうというんじゃねぇんだけれどもよー…、ただ今みたいな話は、”ここ”という特別な連中の集まる場では共有出来る事ではあるが…」

師匠は人差し指を下に向けて言った。

「その他の所謂”世間”には通用しない…。どんなに正論だとしてもな。やはり、好き嫌いは抜きにしても、否応無く俺ら芸人は、そんな事微塵も考えた事ないような…いやそんな七面倒くさい事なんぞ考えたくない大衆を相手に演らなければならないという、言うなれば”悲哀”の様なものはどうしても解決が出来ない…そうだろ?」

これには私だけではなく、美保子と百合子も静かな面持ちで何も言わずに頷いた。

「んー…。さっきお前が触れた職人の話…伝統的と言われたら、それは過去の物を何の疑問を持たずに、アナクロだろうと何だろうと、明らかに無理が出てきているのにも関わらず、無視を決め込んで頑なに方法を変えようとしない事だと認識していたな?…正直俺もそうだったんだが…。その”世間”が一向にそういう認識を持つ限りは、こっちも仕方なしに嫌々ながらも付き合いつつ抗わなけりゃいけねぇ。…んー」

師匠はここまで言うと、急に頭をボリボリと乱暴に掻いて見せて、少しバツが悪そうに笑いつつ、

「…何だかこんがらがってきちまった…。いや、俺が言いたかったのは、それでも今の所は世間のそんな認識に合わせつつ、且つ俺みたいな奴等の事をアナクロだと断じる輩について、はっきりと正面切って戦おうって事だ」

と言い終えた。その瞬間、私と美保子、そして百合子と顔を見合わせると、ほんの一瞬間があったが、申し合わせたわけでもないのにフッと微笑み合おうと、「はい」と同意と決意の意を含んだ返事をしたのだった。師匠はそれを受けて”何故か”照れ臭そうに笑うだけだった。


ここでまた和やかな空気が流れ始めようとしたその瞬間、イヤに良いタイミングで、カートを押しながらマスターとママが部屋に入ってきた。そして前回同様空いたお皿を手際良く片していくのだった。

まるで今までの会話を、何処かで聞いていたみたいなタイミングね…

などと当時は思ったりしたが、私が知らないだけで、もしかしたら何処かにマイクか何かがあって、それをマスターとママは別室で聞いてたりしているのかも知れない…なんて事まで妄想を膨らませたりしていた。でももしかしたら下衆の勘ぐりって事で、どこか正鵠を射ているかも知れない。

そんな話はともかく、マスターとママは一同にお代わりの注文をとってから、カートを押して外に出て行った。そしてその数分後には二人して飲み物を乗せたトレイを持って部屋に戻ってきて、それらを配り終えた後、これまた前回と同様に、部屋を出て行かずにそのままもう一つのテーブルの席に向かい合って座り、前掛けだけを外して、自分たちの分のお酒を用意して、そして今度は二人を加えての再度乾杯をしたのだった。

それからは取り止めのない雑談を、それぞれ近くの人達で会話し合った。師匠はしばらく神谷さんと二人で静かな笑みをお互いに浮かべ合いながらおしゃべりしていた。その間私は、百合子の最近の舞台の話を聞いたり、美保子の近況を聞いたりと、それこそ今ここで取り上げるまでも無い…って言ったら二人に悪いかも知れないけれど、そんな話をし合って時を過ごしていた。義一はママとマスターの二人と、何故か料理談義に花を咲かせていた。

「そっかー…確か六月なんだよね?」

「うん」

話題は私のコンクールに移っていた。

美保子と百合子には勿論伝えてはいたが、面と向かって報告するのは初めてだったからか、二人とも興味を示してくれていた。

嬉しかった…いや、電話口なり何なりでも反応は同じだったが、この時も変わらず、私に対して”頑張れ”という言葉を投げてこなかった。ただひたすらに、そのコンクールの会場に見にいけないことに対して、二人して若干ふざけ合いつつ悔しんで見せていただけだった。その様子を私は苦笑まじりに見ているだけだった。

この手の話も何度もしたので触れないが、義一や絵里と似たような思考を持ってくれている美保子と百合子に対して、益々親近感が湧いたのは言うまでもない。

それからはまた美保子が百合子についての話題を振った。美保子が言うのには、前回この店に来た時にマサさんに説明されたように、百合子はある時期からめっきりテレビの仕事を引き受けなくなって、舞台演劇一辺倒にしているとの事だった。これを美保子が話している時は百合子は照れ臭そうにしていたが、元々視聴者的にはルックスで評判を得ていたのだが、テレビに出なくなってから益々”美”に磨きがかかってきたというんで、依頼自体は今でも頻繁に来ているらしいが、それを百合子は頑なに断り続けているという事だった。

この時に私がマジマジと見過ぎたせいか、百合子は照れ臭そうに苦笑いを浮かべつつ、こちらに話しかけてきた。

「良いのよ、テレビなんて…。それに、仮にテレビドラマだとかに出たとしても、肝心の今一番演技の感想を聞いてみたい人が、そもそもテレビを見てないんじゃ意味が無いからね」

そう言い終えると、私に軽くウィンクをしてきた。普段は哀愁を纏うような表情を浮かべているのに、途端にお茶目な顔つきになって、そんな仕草をされたので、自分が女だというのを忘れてドギマギした。因みに今の百合子の発言は、まだ付き合いが浅い私の感想は新鮮味があって良いって意味に受け取った。

それは置いといて、その後は美保子が話を引き継いだ。日本に住んでいた時にはそんなにテレビを見なかったらしいが、今はアメリカに住んでいるために、本人の弁をそのまま言えば『普段あまり日本語の番組を見ないせいか、無性に見たくなる時があるのよ』とのことで、取り敢えず一通り百合子に撮り溜めして貰って、こうして帰ってきた時に纏めて見るらしい。

「…でも結局、見れば見るほどつまらなくて、正直全て見終える前に飽きちゃってやめちゃうのよねぇー」

「…もーう、そんな事言うんなら、もう録ってあげないよ?」

「あぁー!ゴメンゴメン!つまらなくて良いから、録画お願いー!」

「ふふ…」

二人の仲良さげなやり取りを見て、思わず笑ってしまったが、不意に遠くから声を掛けられた。

「…ふーん、お嬢ちゃん、アンタはテレビを見ないのか?」

声の主は師匠だった。師匠は手元でクルクルとバカラグラスを弄んでいた。口元はニヤケている。

「はい」

と私はすぐに返した。若干また”お嬢さん”呼びになっていたのには引っ掛かったが、過去に師匠が出ていたテレビを見ていたら、親しい相手にもコロコロと呼び方を変えていたので、言うほどには気にならなかった。

「そっかー…今時はそうなのかな?」

と師匠が誰に対してというのでもない調子でボソッと言うと、

「…いやぁー」

と返したのは美保子だった。美保子は意地悪目な笑みを浮かべて視線だけ私に向けてきつつ、顔は師匠に向けたまま言った。

「確かに今時の若い子がテレビから離れつつあるって話は、良くそこかしこから聞かれますがねぇ…、そのテレビ離れしてる子達というのは、ネットの方に流れているわけですけれども、琴音ちゃんの場合は…ネットもロクにしてないようなんですよ。…ねっ、琴音ちゃん?」

「あ、ああ、うん、まぁ…ね」

目の前で自分の事を説明されて、居心地の悪さを感じつつそう返すと、師匠は先程のように少し前かがみになって、私の顔を覗き込むようにして話しかけてきた。

「ふーん…。いや、俺も当然というか…ネットがどうのとか全く分からねぇんだがよ…?今時では珍しいんだろ?…琴音は普段は何してるんだ?そのー…ピアノの練習以外には」

「え?…えぇっとー…」

そんな質問をされたので、こんな話で時間を使って良いものかと考えたりしながら、時折義一に目配せしつつ、学校の事とか、絵里のこと…これは一応”知り合いの図書館司書”だと誤魔化しておきつつ話したり、後は義一にたくさんの本を借りて、それをひたすら読んだりしている旨を言った。

私が言い終えると、「ほぉー」と師匠は私に感心した様な表情で初めは見てきつつ、その次に義一に顔を向けると、そちらには呆れ顔が少し混じった笑みを浮かべていた。

だがそれだけで、それ以上は特段何も声をかけないのだった。

「…今時よ」

と師匠は不意に隣の神谷さんに声をかけた。視線は私と義一二人に向けたままだ。

「世間の流行に目もくれずに、自分の好きなモノに一心に向かうなんて、今みてぇな物が豊富な時代では勿論希少だろうが、俺らがガキの頃の様な、戦争直後の物の無い時代ですら珍しい存在だなぁ」

「…ふふ、本当だね」

と微笑みつつ神谷さんは返した。師匠と同じ様に視線を私たち二人に向けながら。

「今日来てる中では美保子さんも百合子さんも、そして当然師匠あなたも、そんな”希少”な部類の人種だろうけど、個人的には”この二人”に対して、尚更そんな感覚を覚えるんだよ。義一君は高校に入りたての頃からの付き合いだし、琴音ちゃんに至っては、まだ中学一年生の頃からという…何の因果か、私としてはとても幸運に恵まれて二人と出会えた…。この二人を通して、希少な人種がどの様に幼少期、思春期…青春を過ごしていくのか、もしくはいけるのか、誤解を恐れずに言えば、とても面白く見させて貰っているんだ。こんな経験…いかに昔の”上等”な時代にいたとしても、中々経験が出来ないよ」

「”上等”…”Classic”ですね?」

義一は照れてるのを隠す様に、神谷さんの発言の中からわざわざ今取り上げなくても良い様な点を拾い上げて言った。

無闇に私を褒めてくる自分だって、褒められるのが苦手なくせに…

などと思いつつ、自然と口元だけをニヤケさせつつ義一の様子を見ていたが、ふと今の相槌に対して興味が湧いたので、それに乗っかることにした。

「…え?それってどういう事?」

「うん、それはねぇ…先生お願いします」

と義一が流れる様に神谷さんにスルーパスをした。

神谷さんは呆れた笑いで私たち二人を眺めていたが、ため息交じりに話し始めた。

「やれやれ…。では私が代わりに答えよう。琴音ちゃん、君はクラシック音楽という芸能の中にいるわけだが、そもそもクラシックってどういう意味だろう?」

「え?クラシックですか?うーん…日本語にすると、一般的には古典とかになるんですかねぇ?」

私はあやふやながらそう答えた。それを聞いた神谷さんはウンウンと頷いて見せてから言った。

「そうそう。確かに一般的には古典と訳されることが多いんだけれど、それは一番の意味では無いんだ…」

とここで言い辞めて、ふと懐を弄ろうとしたが、面倒そうな表情を一瞬浮かべると、私に苦笑交じりに言った。

「本当はまた辞書を見てもらうのが一番なんだが…宴もここまで深まっているのに、ここでお堅い辞書を取り出すのは流石に無粋だから、悪いけど話すだけでいいかな?」

「はい、確かに言われる所は分かりますから」

と、私は思った事を素直にそのまま返した。残念と言えば残念だが、今もこうしてさり気なくメモを取っているわけだし、それを後で自分で確認とれば良いだけだと思い至ったので、快く了承したのだった。

神谷さんは何も言わず表情だけで感謝の意を示すと、続きを話した。

「ゴホン…さて、確かに一般的には古典的だとか、そう言った風に訳されることが多いのだが、辞書において一番上の訳語は”最高級”と出てるんだ」

「最高級…?」

「そう、最高級。そもそも”Classic”のそのまた元の字を辿ると”Class”なんだ」

「Class…」

私は神谷さんが喋るままに書き込んだ。気付けばこの場で声を発しているのは私と神谷さんだけになっていた。この時ばかりは私だけがメモを取っていて、それ以外の人はただ穏やかな表情で会話を聞いていた。これは後で分かった事だが、この時に誰もメモを取っていなかったのは、何度も神谷さんが話していたかららしい。

「そう、Class。この場合のClassは、教室のクラス分けとかで使う意味ではなくて、この場合は”階級”の意味なんだ」

「階級…」

「そう、だからそこから派生したクラシックの原義を見てみても、ハッキリと”最高級”と出ているんだ。要は階級が上の人…古来から続く由緒ある、言うなれば貴族階級の”スタイル”がクラシックとも言えると思うね」

「なるほど…」

クラシック…これに関してはあまりにも身近過ぎて、クラシックの意味など疑問に思った事も無かった。だからこの様に解説をして貰って、今回に限らないが、大げさな言い方かも知れないが”啓蒙”されてると強く感じるのだった。

そんな感嘆している私の様子を微笑ましげに見ていた神谷さんだったが、不意に少し表情を暗くしつつ、

「うーん…これを話したんだから、少しだけ踏み込んで話したほうがいいと思うんだけれど…」

と言いかけて、隣の師匠に視線を流した。

師匠はそれにすぐに気が付き、ニヤッと笑いつつ「俺に構わず先を話してくれ」と言った。

それを聞いた神谷さんは軽く感謝を示したが、表情はまだ少しくらいままだった。

「…うん、何を話そうとしてるかって言うとね?この繋がりで”文化とは何か?”という、ある種とても遠大な議題なんだ。琴音ちゃん…、今までの話と少しズレる様だけれど、総てが繋がっているから、我慢して議論に付き合ってね?」

「はい」

今までだってズレてる様で全てが繋がっているのを見せて聞かせて貰っていたので、今更何を…と言いたげな調子で答えた。

神谷さんは師匠に対してした様に、私にも感謝を示すと、穏やかな表情を浮かべつつ話し始めた。

「…”文化”これを考えるにあたって、少し変わったアプローチをしてみたい。文化…これも例によって明治以降に翻訳して作られた、一説によれば坪内逍遥がそう訳したんじゃないかって説もあるくらいだけれど…」

この話を聞いた時、言うまでもなく小学生時代の夕方の土手を思い出したのは言うまでもない。

「まずはこの字が漢字で書かれている点から、何故こう称されてるのかを解いて見たい。これは元々略字でね、これも色んな説があるんだが、意味合いからして有力だと思われる説を取れば元の字は”文治教化”って言葉なんだ」

「…」

義一が助手の様に、すかさず自分の紙に”文治教化”と書いてくれたので、私はそれを書き写した。そんな様子を確認してから、神谷さんは続けた。

「文治教化は”口訓や威力を用いないで導き教える”って意味なんだ。対義語として”武化”って言葉があるけど、それは今は置いておこう…。今ではこの様な意味合いでは文化って言葉を使っていないね。…さて、ここでいつも通りというか、明治に訳された言葉なわけだけれど、その単語が何か辿ってみると…そう”Culture”だね。これはラテン語の”Colere”からきてるんだけど、その意味は”耕す”って意味なんだ」

「へぇー…」

先程からずっと義一が、私が分からないであろうと予測して単語を書いてくれていたので、それを書い移しつつ相槌だけ打った。勿論いい加減なものではなく、深い感心から来るものだった。

「そこからきて英語のCultureにもその意味が付されて、その延長として”洗練された”という意味合いを持つ様になったんだ。…ここまでは納得してくれてると思う。…ふふ、頷いてくれてありがとう。さて、こうして見ると、漢字文化圏と西洋文化圏…一見なんの繋がりも無さそうに見えるが、結局行き着く結論は一緒なのに気づくと思う。なかなか面白いよね?…さて、文化とは何かについて触れたわけだけれど、何故そうしたか?それは…人間性を”耕す”様な人材も、その担い手を養う貴族のような”階級”も、両方とも今では死滅してしまっているという否定しようの無い哀しい点からなんだ」

そう言い終えると、神谷さんはますます表情を曇らせるのだった。

口では点々で囲った部分を別段強調して話していたわけでは無かったが、ここまで注意深く聞いていた私はすぐに、そこが確信部分だと気付き、メモにも書き入れたのだった。

神谷さんは少し力無げに声のトーンを若干落としつつ続けた。

「そもそも古来から、文化を守ってきたのは貴族たちだった。一般論として、庶民が毎日汗水垂らして働いているのに、貴族は何もせずにお城や屋敷に引きこもって、領民から吸い上げた税金で贅沢の限りを尽くした…言ってしまえば労働者の敵だと見做されている…。勿論そんな側面もあったろう事は認めない訳ではないが、何も貴族は何もしていなかった訳ではない…。そう、何もしないから庶民が忙しくて考える暇も無いところを補う形で、国や領地のことを考えていたんだ。…文化の事もね」

「…」

またこの時も、あの夕方の土手を思い出していたのは勿論だ。

「それが近代に入って、民主主義だと言って十八世紀の終わり頃から徐々に貴族社会を根底から壊して排除していった。それでもまだ十九世紀の中頃まではイナーシャ(慣性)とでも言うのか、まだその名残があったんだが、とうとう二十世紀に入って全てが流れ落ちてしまった」

「…文明が進み過ぎて」

とここで不意に口を挟んだのは師匠だ。師匠も神谷さんと同じように、気持ち沈み込んだような表情を浮かべていた。

「文化を守ろうとしたり、受け入れる隙がなくなっちまって、今この瞬間のものでしかない文明を守ろうとするあまりに、加速度的に文化をぶっ壊しちまう…」

「そういえば…」

と次に口を挟んだのは義一だ。義一は前の二人と違って笑みを浮かべてはいたが、一言で言い表すと自嘲的なものだった。

「僕の大好きなロマン派の詩人で保守思想家でもあった、サミュエル・テイラー・コールリッジ が…」

「あ…」

と私は思わず小声を漏らした。義一に借りた古典の作家の中でも、最も好きな一人だったからだ。あと…これは今が初めてでは無かったが、義一…それに神谷さんが引用する人物のマクラによく置いていた”保守思想家”という言葉にも反応したのだ。”保守思想”…、勿論これを言う時の義一と神谷さんの話し振りから、すごく大切なワードだというのは分かっていたから、聞くたんびにそれが何なのか質問しようと考えたことがあったが、自分でもハッキリとは言えないが、何だか片手間に聞いていい様なものでは無いと感じさせられたというのがあって、今まで聞けずじまいだった。そしてこの時も、そのまま黙って今の話に集中しようと判断した。

「こんな面白い事を言っていたのを思い出しましたよ。…『文明が過剰になると色々な弊害が出てきたりするが、文化がいくら過剰になっても悪い事など無い』とね」

「まさしくその通りだね」

神谷さんが穏やかな笑みを浮かべつつ同意した。

この議論の間、全体的に沈み込んだ雰囲気が流れていたが、仕方のない事だろう。しかしこの場にいる、私を入れた全員が今の内容に対して全幅の同意をしていたのは間違いなかった。新参者の私でもそれは直ぐに感じ取れた。とその時、

「…んー、まぁ取り敢えずよ!」

と師匠が見るからに無理やり明るい調子で声を上げつつ言った。

「さっきの話でも出たけれどよ、そんな絶望的な状態な訳だけれど、そんな客に媚びずに己の信じる”道”を貫き通せば、まぁもしかしたらそれに感化された観客どもが増えていって、”芸”全体のレベルも相乗的に上がって行くんじゃないかって…そこだけは楽観的に考えてんだ」

師匠は途中から何気無く私の方を見ながら話している様に見えたので、私もこの話は私に向かって語りかけてくれてる物と受け取り

「はい」

とだけ短く、しかし力強く返したのだった。それを見た師匠は、ニコッと目を細めつつ穏やかな笑みをこちらに向けていた。

この場にいた一同…マスターやママまでもが、私たちのそんな様子を微笑ましげに見ているのだった。

それからはまたガラリと雰囲気が変わって、テレビを何故見ないかという話に流れていった。

「んー…何でって聞かれてもなぁ」

と私は砕けた口調で答えた。

「…単純につまらないんだもん」

そう言うと、師匠が「そうかそうか!」と愉快げに笑いながら言った。

「アレ、テレビに出ている芸人って、何て称されるの?」

美保子がおもむろに百合子に話しかけた。百合子は少し考えて見せてから

「…テレビ…芸人かしら…?」

とボソッと自信無げに答えた。

「テレビ芸人…ねぇー」

美保子は納得している様なしてない様なハッキリしない感じで漏らすと、頭の後ろで腕を組み天井を見上げた。

「まぁ見てて退屈なのは間違いないよね」

と義一が笑いながら私に話しかけた。

「うん」と私は返した。

「だって、全てがワンパターンっていうか…先の展開が何となく読めちゃうんだもん。一時間番組でも何でも、最初の五分か十分くらいで分かっちゃうから、その先を見る気が失せちゃうのよねぇ」

「ははは、なるほどねぇ」

と義一が返すと、それを皮切りに一同がお互いに顔を見合わせたりしながら笑いあった。私もつられて笑うのだった。

「こんな事師匠に聞くとは失礼だけれど…」

と神谷さんは師匠に話しかけた。

「今の芸人達を見て、『もっとしっかりとしろっ!』って気持ちにならない?」

「んー…」

「あのね」

師匠が腕を組んで考えてる間に、義一が私に話しかけた。

「今のお笑い界の中では、年齢のこともあるけど、芸の内容からしても誰も師匠に頭が上がらないんだよ。テレビに出ているという枠組みの中で大衆に支持されてるベテラン達でもね」

「勘弁してくれ…」

ふと師匠が義一に、思いっきりバツが悪そうな苦笑を浮かべつつ呟いた。「あ、すみません師匠」と義一も苦笑交じりに頭を下げるのだった。

師匠はしばらく苦笑いを浮かべていたが、ふと隣の神谷さんに顔を向けて、今度は呆れたという様な、はたまた寂しげとも取れる様な笑みを浮かべて答えた。

「まぁ今の俺の心情を言えと聞かれたら、『勝手にしろっ』ってところかなぁ…。義一はああ言ってくれたが、仮にそれが事実だとして、俺の事を尊敬していると言ってたり思っていたりしてたって、俺が今まで勉強してきた事をなぞろうともしないで、ただ口先だけでそう言われたって、俺からしたら『なーんだ、俺ってその程度にしか見られてないのか』ってな風に忸怩たる思いに駆られちまうんだ」

そう言う師匠は、これでもかって程に恥ずかしがって見せた。映像などで幾らでも見たことがあったが、こうして目の前で見ると、益々師匠に対して僭越ながら好印象の度合いを深めるのだった。

「まぁでも、話じゃあテレビの影響なり視聴率なりが下がってるって聞くが、それでもまだこれだけの人間が、本心はどうあれ、暇潰しにそんな退屈にしか見えない番組を見るんだから、今更俺が遠くから文句を言ったって無視されて終わりだからよ、もう一度言うが『勝手にしろっ』これに尽きる」

そう言い終えると師匠はチビっとウイスキーを飲んだ。

とここで不意に一つの疑問…というか聞いて見たい事を思いついたので、今聞いても構わないだろうと冷静(?)な判断をして聞いてみることにした。

「…師匠」

「ん?」

「…芸人と一般人の違いって、どこですかね?」

「…それはどう意味だ?」

師匠はまた前屈みになりつつ、顔には好奇心をめいいっぱい湛えながら返してきた。

「それはですね…。今ふと退屈な理由を自分で考えてみたんですけれど、思いついた事があったんです。それは…テレビに出てくる芸人と、普段私が接したり見たりしている、いわゆるムードメイカーと称される様な同級生と、何も変わらないからじゃないかって事なんです」

この時私に脳裏に浮かんでいたのはヒロだった。だからといって何もヒロの事を貶めたい目的でない事は、大丈夫だろうけど念の為に言っておく。

「ほう…」師匠は見るからに益々好奇心を擽られた様子だった。これは後で聞いた話だが、他のみんなも同様だったらしい。

「なるほどなぁ」

師匠はチビっとまたウイスキーをやってから、私に優しく話しかけた。「…流石の目方と言いてぇトコだなぁ。…そう、他のパンピーの本心は知る由がねぇが、テレビに出てくる様な奴等のことを、俺は”素人芸人”と称してるんだ。客とお手手繋いで仲良くする様なのをな」

「あぁ…素人、言い得て妙ですね」

私は生意気かなと思いつつも、素直な感想を述べた。それに対し師匠は嫌な顔をせず、むしろ面白そうに笑いつつ言った。

「クク…。あぁ、後、ネット内にあったって…これは誰に聞いたんだっけなぁー…確か弟子に聞いたんだったと思うが、上手いこと表現するなってフレーズがあったからそれを引用させて貰えりゃ、男女問わず”マジメ系クズ”が芸人やタレントと自称してのさばっているって事だな」「マジメ系クズ…?何ですか、それ?」

と私が質問すると、意外だったのか師匠は目を大きく見開かせてこちらを見てきた。だが、すぐに気付いたらしく、ニヤケながら言った。

「…あぁ、そっかそっか。アンタは普段ネットをしないんだったな?現代っ子のくせに。…クック、いや、いいんだ。さてと、芸人と一般人の違いねぇー…」

師匠はまた腕を組んで考えるポーズをして見せたが、これは今考えているというよりも、何から話そうかと悩んでそうに見えた。

しばらくして師匠はウンと頷くと、口を開いた。

「…あっ、そうだ。いや、ある奴が言ってたのを思い出したんだがな…?」

そう言った後に具体名が出された。その名前は普段テレビを見てない、芸能界に疎い私でも知っていた。尤も、その理由は師匠と深い関わりがある人物だったからだった。歳は確か師匠の丁度一回り下だった筈だ。その人物は関西で活躍していたお笑い芸人で、限界が見えたと言って十年以上前に引退してしまって隠居しているが、今だに関西のお笑い界では重鎮として慕われているらしい。深い関わりというのも、この人は心から師匠のことを慕って、本来は違うのだが本当の弟子の様に付き合っていたらしいのだ。個人的に分かりやすく表現すれば、義一と神谷さんの関係にとても似ていた。

「…でな、奴がある番組内で久し振りにテレビに出た俺と対談していた時に言った言葉を思い出したんだがな、会話の前後は忘れたがこんなだったんだ。『師匠、師匠がテレビに出てくれた事は本当に嬉しいですわ。この際ですからね、師匠には高座で見せるような”話芸”は封印して貰ってですね、楽屋ネタ内輪ネタでも構わんので、そんな普段は見せない素の姿を視聴者に見せて頂きたいんですよ』なーんてゴマスリ風な事を言いやがったんだ。で俺は特に返す言葉が無かったから『うーん…』って曖昧に漏らしたんだがな、それから…間に何か話したと思うがそれを思い出せねぇから…ちょっと脈絡が無くなっちまうけど勘弁してくれ?…で、奴がふとこう言ったんだ。『今時のテレビで、話芸の達人がその芸を見せたところで視聴者は分からないし、分からないから面白くないんですよ。今のテレビの中で面白くなりそうなのを考えると二つしかありません。”達人がプライベートを晒す”か、”素人が何かをする”かです』ってな」

「あぁー…」

私は師匠が何故その話題を振ったのか今分かり、その通りのリアクションをした。因みに、この時もその後も特にこちらからアレコレ言わなかったが、その番組を見た事があった。

師匠の自他共に認める芸における円熟期…つまり全盛期の九十年代に放映されていた深夜番組だった。もちろんリアルタイムでは見た事が無かったが、例によって義一に録画した映像を見して貰っていたのだった。

「…その様子じゃあ、俺の言いたい事が分かってると思うが…」

と、私は一言も発してないのに、師匠は意地悪げにニヤケつつそう言ってから先を続けた。私はというと、ただ苦笑を浮かべるしか無かった。「まず俺の考えを言う前に、さっきお前が触れた事の後付けのような事をさせて貰うとだな、俺は奴がそう言った時また唸って見せただけだったが、テレビのことについちゃあアッチがプロだからよ、そんなもんだろうなぁって思ったのよ。今から…もう二十年前ばかしの昔の時点で、素人ばかりを集めて番組を作って、そんでその番組に素人を出していたんだから、今ではもっとそれが進んでいるんだろう。…だから、お前が言った『テレビを見てても、素人しか見ない』ってのは正しいよ」

そう言い切ると、師匠はクシャッと顔にシワを浮かび上がらせながら無邪気な笑みを浮かべた。私は、これ言うと失礼の様だが、その様子が可愛く見えて、クスッと思わず笑ってしまいながら

「…私はそこまでハッキリ言ってませんけれどね」

とワザと生意気娘調に返すのだった。師匠は何も言わず、そのまま変わらぬ笑みを浮かべるだけだった。

ひと段落ついて、師匠はまた少し前かがみになってから話を進めた。

「はぁーあ、さて、次はお前さんの質問に答えてみようか。…”芸人と素人の違い”ねぇー…さっき散々パラ伝統についてお喋りしたわけだが、図らずもそれとモロ被りというか、かなり重なる部分がある…。俺が普段思っている事を話そうとは思うが、被っても我慢して聞いてくれ?」

「ふふ…はい」

師匠がワザとらしく哀願するような真似をしてきたので、私はまた思わず吹き出しながらそう返した。

「そうか…では話してみるかな?んー…久し振りにこの手の芸談を話すもんでなぁー…よし、さっきのお前さんが言ったことに引きつけてみよう。俺の時代ですらそうだったが…確かに学校のクラスには必ず一人や二人、盛り上げ役をするひょうきんな奴がいるもんだよな?因みに俺は違ったが…いや、それはともかく、言うまでもなくこのひょうきんな奴は、当然素人ということになる…お前もそのつもりで例えに出したよな?…じゃあ琴音、なんでそいつらの事を素人だと思ったんだ?」

「え?…んー」

私は師匠の真似をしたつもりでは無かったが、無意識に腕を組みつつ考えた。急に振られたというのもあったが、あまりに単純に見えたせいで、いざ考えてみると難しいという事にこの時になって初めて知らされたからでもあった。

それでも私は辿々しく何とか答えた。

「んー…今すぐに思いついたのは、彼らにはそれなりに楽しませて貰ったりしてますけど…それについての対価、いわゆるお金を払ってないって事ですかね…?下世話な答えで恥ずかしいですけれど…」

そう言った通り、終わった後で実際に恥ずかしくなったが、それを聞いた師匠はさも面白いといった明るい表情を見せて、口調も合わせて言った。

「クックック…。あ、いや、悪い、何せ今時銭の話しをするのを恥ずかしがるような奴がまだいる事を知って面白くてなぁ。まぁお前はまだ自分で稼いでない訳だが、それでも逆にその歳にして、お金の話を表立って話すのを恥ずかしがれるってのは、とても日本人的でいいぞ!…あ、いや、何が言いたいかってぇとな?俺も大体お前の今の意見には賛成ってこった。そう、一番分かりやすい、芸人と素人の違いっていうのは、対価として生活の為のお金を貰うかどうかと言えるな。今風というか、合わせてもっと分かりやすく言えば、”プロかアマチュアか”ってな具合で考えりゃ、もっとしっくりくると思う。…クック、そんな表情すんなよ?もちろんこれで終わりって訳じゃないさ。これは今度は芸についてっていう大袈裟な話に入っちまうんだが、俺がそれを話すには今日は少し疲れたからなぁ…」

と語尾を伸ばし気味に、ふと隣の神谷さんに目を流した。それにすぐに気づいた神谷さんは、自分に指を指して見せた。すると師匠が満面の笑みで頷くと、神谷さんは指を向けたまま一同をぐるっと見渡した。一同は神谷さんに何も言わず微笑み返すだけだった。最後に私と目が合った。心情としてはそのまま師匠に話してもらえたら御の字だったが、すぐに『今日はそういえば最後の高座を終えられて、疲れているところでの今だから、無理をさせてしまうような我儘は言えないな』と思い至って、他のみんなと同じ様に微笑み返した。

すると見るからにホッとした様子を見せると、また隣の師匠に視線を戻して、今度は苦笑まじりに言った。

「まったく…さっきも言ったけど、私みたいな者が本職の人達の前で偉そうに語るっていうのは、かなり勇気がいる事なんだけれど…」

「いやいや」

とここですかさず師匠はニヤニヤしながら

「先生、アンタはいつも結構語っているぜ?なぁ、みんな?」

と突っ込んでから、さっきの神谷さんの様に一同を見渡した。今回は出遅れる事なく、皆と一緒に笑顔で頷いた。

すると神谷さんは「何だよみんなしてー…」としょげて見せていたが、すぐにまた苦笑まじりに”語り”始めるのだった。

「やれやれ…。まぁ師匠からのお願いなら断れないからねぇー…琴音ちゃん、今度は芸についてという、また遠大で途方も無い事についてどう考えているかを、参考に話させて貰うね?…ふふ、ありがとう。これもさっきの伝統についてと同じで…いや、今日はまた君と義一君が新たな視点を加えてくれたけれど、基本的な所で我々の雑誌に集う人々の間では共有している考え方には変わりない…だから今から私が言う話もそうだというのを頭の片隅に置いといて欲しい。…さて、能書きはこのくらいにして、今さっき文化について考えて見る時に、漢字から辿ってみたから、折角だし今回もそこから入ってみよう。いいかな?」

「はい」

と私は手元に紙を用意してから返事した。いつもと違って漢字から辿って見るこの手法が珍しさと同時に面白かったので、大袈裟ではなくワクワクしていた。

神谷さんは返事を聞くと、少しの間微笑んで見せてから、いつもの静かな表情になって話し始めた。

「さて芸についてだが…そもそもこの漢字というのは省略された形で、元々は違う字だったんだ」

「え?」

「大戦前までは普通に使われていたんだけれど、戦後にいわゆる国語改革なる物がなされてね、難しい漢字だと思われるものは勝手に教育の場から排除されてしまったんだ」

「…!!あぁ…」

と私は思わず”ある”思いに駆られて声を漏らした。”言葉”についての議論を思い出したからだ。

神谷さんはそんな私に柔和な笑みを向けてきながら「ふふ」と笑った。

「今までたくさん話してきた事を覚えていてくれて嬉しいよ。しかもこの様な話題の時に瞬時に思い出してくれたのなら尚更ね?…ふふ、さて、話を戻してっと…義一君、口で説明するのは難しいから、本来の方の字を彼女に教えてあげてくれるかな?」

「はい。えぇっとねぇー…」

義一は自分の紙面に”藝”と書いた。私は見慣れないその字を注意深く観察しながら書き写した。パッと見”執”に見えたが、空目だと気づいて慎重になったのだった。作業が終わった事を確認したか、神谷さんはまた話し始めた。

「そう、見て分かると思うけど、”草冠”と”云う”の字の間に見慣れない漢字が挟まってるよね?これはね、二つ呼び方があるんだけれど、一つ目は”げい”…うん、芸と同じ読み方だよね?音読みではそう言うんだけれど、訓読みだとね…”うえる”と読むんだ」

「うえる…?」

「そう。字を分解するとね、人が跪いて両手を差し伸べたさまで、もう少し具体的に言うと、人が植物を土に植えて育てる意を示しているんだ。園芸ってあるだろう?あの芸の原字なんだ」

「へぇー」

私は感心しつつメモを取った。

「これで分かる様に、ある種一番大事な部分を略してしまったから、芸とは何かと考えようと試みようにも、取っ掛かりがない状態なんだ。言葉を見くびって安易に壊してしまった事による典型的な弊害と言えるね。さて琴音ちゃん、以上の事から君なりに整理して見て欲しいんだけれど…お願い出来るかな?」

「は、はい…」

私は自分のメモとにらめっこをしつつ、頭の中で整理した。

そしてゆっくりと口を開いたのだった。

「先生の話を聞いていた時に、不意にこんな情景を思い浮かべたのですが…それを話してみようと思います。えぇっと…私はふと農作業をしている農家の方達の姿が浮かんだんです。先祖伝来の土地を耕し、そこに種を植えて、育てて、実りの秋に収穫する姿が…」

この時頭にあったのは、ミレーの”落穂拾い”の絵だった。

とここであまりにも妄想が過ぎたかと、急に恥ずかしくなったが、ここまで話してしまったんだからと、そのまま話を続けた。

「つ、つまり何が言いたいかっていうと、芸というのは、過去から受け継がれて耕されてきた”土地”を廃らせる事なく守り、そこに現代の”品種”を撒き、それをまた現代風の手法や、伝統的な手法を織り交ぜつつ育て、出来た作物を収穫する…この一連の流れを総称して”藝”と呼ぶんじゃないでしょうか…?」

私は話し終えると、少しの間沈黙が流れた。一同は側の人と顔を見合わせたりしていた。とその時、フッと短く息を吐いたかと思うと、神谷さんが柔らかな笑みをこちらに向けてきながら話しかけてきた。

「…ふふ、さすが…まさしくその通りだよ。こりゃまたよくその様にまとめてくれたねぇ?先程の”伝統”についての議論まで踏まえてね。それに、途中でなかなか詩的な表現まで織り交ぜてくれて…」

「あ、いや、それは…」

また前半部分から褒めてきたので、またしても恥ずかしくなってきていたが、不意に妄想部分にも触れてきたので、その瞬間に褒められていた事を忘れて、別の意味で恥ずかしさが上塗りされたのだった。

そんな心境を察したのか、私以外のみんなはクスッと和やかに笑うのだった。私は苦笑いを浮かべるしかなかった。

少しして、神谷さんはまだ笑みが収まらないまま言った。

「そう、私たちが共有している”藝”に関しての考え方は、今君が言ってくれたのと全くの同じと言っても過言では無いよ。…師匠は今の琴音ちゃんの発言について、反論はあるかな?」

と神谷さんは師匠に顔を向けつつ聞いた。

すると師匠は腕を組み、眉間にシワを寄せて考え始めたので、私は少しずつ不安な気持ちになった。が、ふと勢い良く顔を上げたかと思うと、底抜けに明るい調子で言うのだった。顔もそんな調子だった。

「…反論も何もありゃしねぇーよ!俺だってこの店と深く関わっているんだ。…いや、それはさておいても、そんなの関係無く、今の琴音の定義には、全くの同意だよ!…さてと」

と師匠はここで急に落ち着きを払うと、また好奇心旺盛な子供の様な顔つきになりながら言った。

「芸についての議論もひと段落ついた事だし、元の議題に戻ろうか。…今までの事を引っくるめて言うと、芸人ってぇのは、そんな芸を身に付けるべく日々…俺は小っ恥ずかしくてあまり言いたくない言葉ではあるが、敢えて言えば、努力や研鑽を積んでいかなきゃいけねぇって事になるな?…圓生師匠が言った様に、『死ぬまで勉強』…これだよ」とここまで言うと、一息入れるように一口ウイスキーを飲んだ。

「んー…さてと、”芸人と素人の違い”…この質問に対して、大体は答えられたかな?」

「…はい。つまり…」

私は少し言い辛そうに口籠もりつつ言った。

「やはり結論としては変わらず、今テレビに出てくるような人達というのは、タレントだとか何だとかジャンルなど関係無く、総じて素人という事になります…ね?」

と最後だけ間を置いて質問調に気持ち語尾を上げつつ言うと、師匠は無邪気な笑みを浮かべつつ「そういう事!」と明るく言い切るのだった。その直後には、何故だかみんなで一斉にまた笑うのだった。が、これは恐らくこの場にいた皆が共有していた心情だと思うが、仕方無いという、ズバッと言ってしまえば諦観交じりの笑いであったのは間違いない。

ここで一つのインターバルになり、ママにそれぞれお代わりを頼んだ。皆同じお酒を頼んでいた。私もそうだった。

ママが私に新しいアイスティーを持って来てくれたので、お礼を言ったその時、

「…あっ」

とふと目に紙面が入って、同時に一つの単語が目に付いた。

そういえば、これが何の事なのか聞いてない。

「師匠…」

と早速私はまた師匠に話しかけた。

「おう、何だ?」

「そのー…」

と私はまた一度手元のメモに視線を落としてから、また師匠に視線を戻して聞いた。

「マジメ系クズって何なんですか?いや、今までの話の流れで、何となくは分かるんですけれど…」

「ん?…あぁ、それかぁ」

師匠は新たなウイスキーをチビチビやりながら言った。

「上手い言葉だよなぁー。マジメ系クズ…俺なりに解説すると、普段はマジメぶっているくせに、実は裏では怠けていて、何もせずに時間をいたずらに潰しながら生きている…そんな連中の事を指している言葉だと思うなぁ。…さっきの話で言う所の”素人”って事だ」

「あぁー…」

と私は行儀悪くストローを齧りながら声を漏らした。すっかり私の方で勝手に緊張が緩んでいた。しかしそんな態度でも師匠は嫌そうな顔をしないでくれた。むしろこの時はまた悪戯っぽくニタァーっと笑いながら続けるのだった。

「でな、そこからヒントを得てよ、新しい…ってほどの大層なものじゃ無いんだが、その対義語として作ったのがあるんだ。それはな…”クズ系マジメ”って言葉なんだよ」

「ふふ」

と直後に吹き出したのは、美保子だった。美保子は半笑いのまま師匠に言った。

「師匠ー…それってただ単に反対に入れ替えただけじゃないですかぁー」

「…だからよぉ」

師匠は不満げにジト目を美保子に向けつつ返した。

「大層なもんじゃねぇって言っただろう?…まぁいいや。琴音…これを言うとまた遠くから突っ込まれるかも知れねぇが、それでも言わせて貰うぜ?これは…俺たちの事を指している言葉なんだ。…この店に集う奴らのな」

「ここの…」

私は意味無いとは思ったが、無意識に部屋を見渡しつつ呟いた。

「そう。…まぁさっきの反対を言うだけなんだが、つまり、ぱっと見側から見てると世の風潮に逆らうし、何かにつけて空気を読まずに噛み付くから世間から除け者にされて外れ者になる…いわゆる”クズ”と見られてしまうが、実のところ、自分というもの…カッコつけて言えば、簡単にはブレない”芯”の様なものをしっかりと持っていて、また恥ずかしい言葉を繰り返せば、毎日周りの状況に流される事なく真剣に努力し研鑽している…そんな奴こそ本当の意味で”真面目な奴”と言えるんじゃないか…まぁ、あまりにも自分達について過剰評価も甚だしいが、そうありたいって願望も込めての言葉なんだが…どうよ?」

「…ふふ」

途中から本当に照れ臭そうに話す師匠の姿が微笑ましくて思わず笑みが溢れたが、そのまま

「私も…そうありたいと思います。…クズ系マジメに」

と答えて、最後に悪戯っぽく笑った。すると師匠も合わせて似た種類の笑みを返してくれた。他のみんなも同じく笑ってくれたが、神谷さんがウンウン頷いていたのが、何だか印象的だった。

「しっかしよぉー…」

穏やかな雰囲気がまた流れ出した頃、カランカランとバカラグラスの中の氷を鳴らしつつ、師匠は不満げに言った。

「本当に今時の自称芸人どもってぇのは勉強しねぇからなぁー…。勉強もしないし、その上俺に何も聞きに来ねぇんだからよぉ」

「それは師匠…」

とまた美保子がニタニタ笑いながら返した。

「師匠があまりに怖いからじゃないですかねぇー。…今時の子は、師匠みたいなタイプは近寄れないんですよ」

「はぁー…そんなもんかねぇ」

師匠はますます不満げにしながら呟くのだった。

とその時、この時の師匠の様子を見て、どういうわけか私は今なら聞いてもいいだろうと計算して、質問をぶつけてみたのだった。

「師匠、師匠は若手の頃、どんな勉強をしたんですか?」

「んー?…そうだなぁ」

この時はたまたま私の目論見が当たったか、師匠は少し機嫌良さそうに反応を示した。…が、途端に恥ずかしそうに頭を掻きつつ答えた。

「いやぁー…自分で言っといて何だが、時代のせいか知らんが、何だか勉強してるって言うのが恥ずかしいんだよ。でもまぁ、そうだなぁー…まぁそれこそ寝食忘れて噺を覚えたりしていたが…それはだって、自分で好きでやってた事だからなぁー…何も苦痛に感じずに飽く事なくずっと復習ってたよ」

「へぇ…」

この時少しまた意識の齟齬があると感じたので、ついついそれについて議論をしてみたくなってしまったが、この時ばかりは何とか抑えて、そのまま流れに合わせた。

「後は具体的にって言えば…やっぱり”ジョーク”かなぁ?」

「あぁ!」

と私は思わずテンションを上げて言った。

「師匠の高座を見ていると、よくマクラに小噺…ジョークを振ってますもんね」

と言うと、師匠は見るからに嬉しそうに笑みを浮かべつつ「おぉー!」と声を上げた。

「本当に俺の高座を…映像でとはいえ見てくれてんだなぁー。そうそう、俺はよく高座でジョークを演るが…っていうのもな、ジョークってのは俺が思うに、西洋版の落語じゃないかってガキの頃に思ったのよ」

「え?それってどういう…」

「それはな?」

師匠はここでまた区切りを付けるように一口ウイスキーを飲んでから続けた。

「ジョークってのは、それこそ有史以来ずっと作られ続けられてきたわけなんだが、一応元ネタがあったりするんだ」

「あぁ、それはシェイクスピアなんかもそうですね…あっ」

と思わず口を挟んでしまい、慌てて口に両手を当てたが遅かった。師匠は一瞬きょとんとした表情を浮かべていたが、すぐに笑顔になって「あははは!こうやってすぐに、しかもシェイクスピアなんぞ飛び出すなんて…変わり者にも程が有るぞ?」

と言いつつ、私と、そして何故か義一両方を交互に見比べるように見てきた。気まずくて視線を外した先に百合子の顔があり、百合子はテーブルの上にワイングラスを乗せたまま、グラスに指を這わせつつ、こちらに静かな笑みを向けてきていた。それはそれで恥ずかしくなって、また師匠に顔を戻したのだった。

「クック…まぁシェイクスピアはさておき」

師匠はまだ笑いが収まらないままに話を続けた。

「これは落語もそうでな、日本だとか中国とかの小噺にどんどん肉付けされて今の形で伝わって来てるんだが、ジョークも同じ様に、その時代時代に合わせた形で肉付けされたり、また逆に削がれたりしながら現代に伝わってるんだ。…な?似ているだろ?」

「はい」

「最初はー…そうそう、俺が真打になるかならないかくらいの時に、たまたま何かの雑誌を読んでいてな、あまり目立たない所にふとジョークが載っていたんだ。普通の奴なら素通りしそうなくらいに小さかったんだがな、何故か初めて見たその瞬間に魅了されてしまってよ、それからは本屋をハシゴして、片っ端から古今東西のジョーク集を買い漁ったんだ。…それが”勉強”といえば勉強だったかなぁ」

「へぇー…。それで、具体的には自分でどんな事が身に付いたと思います?」

と私が調子に乗って質問を続けると、師匠は途端にまた明るく笑った。「クックック、まるで芸能リポーターの様だな」

「あ、いや、そんなつもりじゃ…」

「いやいや」

と師匠は途端に優しい笑みにシフトチェンジすると、口調も柔らかく言った。

「芸能リポーターだって、そんな事俺に質問なんぞしてこねぇんだからな…むしろ褒めたつもりで言ったんだぜ?…まぁいいや。そうだなぁー…まぁ一つだけハッキリと言えるのは、ジョークをたらふく落語の噺と同様に気に入ったモノ…数えたことは無いが大体三百以上のジョークを覚え込んでいく過程で、噺の作り…その構成手法をアレコレ考えなくても気付いたら身に付いていたって事かなぁ」

「…あぁー」

とその言葉を聞いた瞬間に声が漏れた。何故なら私はアレコレと師匠の落語を見たのだが、同じ噺でも同じ内容のが一つとして無かったからだ。語弊があったかも知れないので、慎重に付け加えると、筋は同じだが、所々に入る”くすぐり”だとか、声の調子、登場人物の噺の内容に関わりの無い範囲での台詞回しの違いがあったりしたのだ。他の落語家にも無くはないのだが、この傾向は師匠が圧倒的だった。師匠は、このキャラクターにも原因があるが、落語家としての評価もかなり割れるタイプの落語家だったが、こんな所にもあったのだろう。だが、個人的な感想で言えば、そんな師匠の落語の方が、”藝”の本質に沿ったものだと、生意気ながら思っていた。

何故かというと、一緒にしたら師匠に失礼だが、私自身、ピアノを弾くにあたって、大体毎回録音をして、その後”私の師匠”と一緒に聞き直すのだが、一度とて同じ演奏が出来なかった。それに悩んだ時期があったが、師匠はそんな私の演奏を褒めてくれた。『演奏というのは、生身の人間が演る限りはズレるのが当たり前。勿論程度の差はあるけど、むしろそのズレから人は情感を感じたりするものなの。メトロノームの様な演奏を聞きたかったら、AIにでも弾かせれば良いのよ。これから先はどうなるかは分からないけれど、今の段階においては、人の心に訴えかける様な”ズレ”は再現できない。これこそが人間に残された最後の砦だと思うの』と、途中から少し話”も”ズレながらも、そう言って励ましてくれたのだ。考えてみれば、コレも数少ない師匠からの”本質的な”芸談だったとも言えるかも知れない。

…おっと、話を戻そう。

私は前段のくだりを、少し端折りながら師匠に話した。

すると師匠は、まず私の観察を褒めてくれた後、その次に私の師匠を褒めてくれた。

「…琴音、良い師匠を持ったな」

しみじみと、柔和な笑みで言ってくれたので、私自身が褒められる時よりも、何倍も嬉しかった。

それからは軽く私のピアノ遍歴を話したりしていたが、ふと義一が手元を見て「あっ」と声を上げた。私も思わず腕時計を見ると、何と十二時を五分ほど越えた辺りだった。体感的にもそこそこ時間が経っているのだろうくらいには思っていたが、予想以上に時が経っていた様だ。

義一がそろそろお暇する旨を伝えると、前回と同じ様に美保子と百合子が不満げな声を上げて”くれた”。

「あぁ、もうこんな時間か。まだ中学生の琴音ちゃんに、こんな夜分遅くまで付き合わせてしまって悪いね…」

と神谷さんが頭を下げそうな動作に入ったので、私は慌てて

「き、気にしないでください!」

と声をかけた。

そんなやり取りがあった中、ふと師匠はソファーから立ち上がり、そして静かに

「俺もそろそろ帰るよ」

と言い出した。これにまた美保子たちが声を上げたが、この場合は意外だといった風だった。驚きの声だった。

「いやいや…」

と師匠が何かを言いかけると、今度は大きな咳を断続的にした。その声は、聞いてるだけでも息苦しいものだった。これには私を含む皆で一斉に心配した。この時私の脳裏には、今日会ってすぐくらいの時の師匠の台詞がよぎっていた。

「師匠…」

師匠の咳が収まり始めた頃、心配げなトーンで話しかけたのは神谷さんだった。

「そういえば今日は一度も薬を飲んでいなかったね?」

「あ、そういえば」

と、私以外の一同が口々にそんな言葉を掛けていた。

いつの間に取りに行っていたのだろうか、ママがこれまた真剣な面持ちで、コップに入れた水を師匠に手渡した。「ありがとうママ…」と力無く言う師匠の声は、咳を頻りにしたせいか、もともと聞き取り辛かった声が、その何倍も掠れてしまっていた。でもそんなの気にする者はこの場にはいない。

師匠はママに空のグラスを手渡し、「弟子に連絡してくれ…」と頼むと、ママはコクンと頷き、マスターに目配せをし、二人して部屋を出て行った。

「何で…」

と神谷さんは、哀れみ半分、非難が半分といったトーンで話しかけた。

「何で師匠、薬を持ってこなかったんだい…?」

「…んだよ」

「え?」

何か師匠が言った気がしたが、すっかり掠れてしまって、付き合いの長いはずの他の皆も聞き取れなかった様だ。

すると急に師匠は大きく両手を真上に上げる様な伸びをして見せると、周りを見渡し、見るからに無理して明るく調子を上げつつ笑顔で言った。

「良いんだよ」

「…え?良いって何が…」

流石の神谷さんも、理解が出来ないといった風で、そう聞き返したが、師匠は笑顔のまま「良いんだよ」と繰り返すばかりだった。

そして、一向に一様に不安げな表情を浮かべる私たちを尻目に、

「ほら、ここにいねぇで、喫茶店の方で待ってようぜ?俺の事を送り出してくれるだろ?」

と言いながら、意気揚々とドアの方へと歩いて行った。

「何せ今日…あ、昨日か、昨日が俺の芸能生活の最後の日だったんだからよ」

そう言うと勢いよくドアを開け、こちらを振り返る事なく部屋の外に消えていった。師匠が出ていってから暫く…といってもほんの数秒だろうが、シーンと張り詰めた沈黙に包まれた。

と、ふと神谷さんが深呼吸の様に息を深く吐き出すと、一同を見渡し、苦笑交じりに言った。

「…まぁ師匠は”ああいう”人だからね…。琴音ちゃん達と一緒に送り出そうか」


ママ達は師匠のお弟子さんに連絡した後に、私たちのタクシーも呼んでくれた旨を教えてくれた。まずそのことに関してお礼を言い、そしてその後に、今日のもてなしについてもお礼を言った。ママは先程の深刻そうな表情とは打って変わって、普段通りの顔つきに戻っていた。マスターにも食事のお礼を言うと、マスターは無言ながら反応をして見せてくれた。

そして次に美保子と百合子にも挨拶をした。美保子は開口一番「今日は残念だったねぇ」と言ったので、私も「うん」と返した。

というのも、実は今日の事で、一つの約束をしていたのだ。何かと言うと…そう、今日この会の中で、どこかで隙が出来たら、一緒に演奏しようと計画していたのだった。これは義一にも内緒にしていた約束だった。私はその誘いに、『お誘いは嬉しいけど、美保子さんと演るには私が実力不足だと思う』と伝えたが、それでも構わないと言ってくれたので、快く了承したのだった。それからは何を演るかと相談しあって、私の知ってるジャズナンバーに曲目は決まり、楽譜をメールで送って貰ったのだった。当然の様にジャズは、普段から好んで聞いていたのが、弾くのはこれが初めてだった。だが、特にこの半年ばかりはずっとコンクールの練習に没頭していたので、ジャズの練習が良い気分転換になっていた。とまぁそんなわけで、だから今日は色んな議論をしつつも、頭のどこかにはずっとその事があったのだ。そしてさっき、場が落ち着いてきて、ちょうど私のピアノ遍歴の話になったので、そろそろかと思ってた矢先に、義一が時間に気づいて、この通り、オジャンとなってしまったのだった。

「仕方ない。これが最後って訳じゃないんだし、また次回にしましょう!」と美保子が笑顔で明るく言うので、私も笑顔で「うん!」と明るく返すのだった。

百合子は、「久し振りだというのに、そんなにお話出来なかったね」と言うので、私はまた今日も調子乗って喋り過ぎた事を、この時になって反省し、少しトーンを落とし気味に「うん…」と返すと、百合子は天真爛漫な笑みを珍しく…というか初めて私の前で見せつつ「気にしないで」と、これまた聞いた事の無い、普段の声の一オクターブ分くらい高めのトーンで返してきた。あまりの変貌ぶりにキョトンとしてしまったが、すぐに百合子なりに気を使ってくれたんだと察すると、私も明るい笑顔を作って「今度またお話ししましょう!」と声をかけた。すると百合子は、途端にまた普段のアンニュイな雰囲気を身に纏い、口調も戻して静かに笑みを浮かべつつ「えぇ…」と返してきた。そんなやり取りを見ていた美保子が百合子に戯れ付きだしたので、そこから離れると、次に神谷さんと師匠を探した。

二人が喫茶店のカウンターに横並びに座り、師匠はお代わりを貰ったのだろう、ゆっくりとグラスに入った水を飲んでおり、それを神谷さんがジッと静かに見つけていた。

と私が側に寄ると、神谷さんは明らかに作りましたという笑みを浮かべると「今日も面白かったよ。また今度は出来ればあまり間を置かずに来てね?」と冗談交じりに言ってくれたので、私もなるべく明るい笑顔で「はいっ!」と元気に返事した。それを見て神谷さんは満足げに頷いていたが、ふと師匠が私に顔を向けると、ほんの数秒の間、無表情で見つめてきた。私は思わぬことに少し緊張をしてしまったが、師匠はふと神谷さんに顔を向けると「…少しこの子と二人にしてくれ」と言った。この言葉に私が益々戸惑っている中、神谷さんは柔らかい眼差しを私と師匠に交互に向けてから、一度頷くと、「…分かった」と短く返事をし、席を外して何処かへ行ってしまった。

その後ろ姿を見てたが、ふと師匠が「…こっちに座ってくれるか?」と言うので、言われるままにカウンターの隣に座った。

私が隣に座ってからほんの数秒は何も言わずに水を飲んでいたが、ふとカウンター内正面のコーヒー豆が置いてある棚の方を見たまま口を開いた。

「…今日は楽しませて貰ったよ。…ありがとな」

「え?…あ、え、い、いえいえ!私こそありがとうございました!」

急にしんみりとした調子でそんな事を言われたので、私としては恐縮して返さざるを得なかった。

「クク…」

師匠は例の特徴ある笑みを漏らすと、ようやく顔をこちらに向けた。その顔には今日一番の柔和な笑みを浮かべていた。

師匠はそのまま無言で私の背中をポンポンと二度ほど軽く叩くと、声も穏やかに語りかける様に話しかけてきた。声質も、水を飲んだりして落ち着いたからか、さっきまで話していた程度には戻っていた。

「あーあ…俺がもう少し若いか、お前さんがもう少し早く生まれていたら、俺の良い時を見せられたのになぁー…」

その声の調子は、私では無い誰かに語るかの様だった。その目もどこか焦点があやふやで、遠き過去を見るかの様だった。

「…本人を前にして言うのは恥ずかしいがな」

師匠はさっきの咳で体力を消耗したのか、力無げに笑いつつ、しかし茶目っ気を含めて言った。私もそれに対して笑いかえしたはずだが、不自然ではなく、ちゃんと笑えてただろうかと今になっても思う時がある。

とその時、不意に目を大きく開かせたかと思うと、私にまた話しかけてきた。

「そういえばお前…俺のビデオを見てると言って、ジョークの話をした時に、興味を示していたな?」

「え?」

私は”ビデオ”という単語を師匠が使うのを聞いて、”いい意味で”時代を感じたが、思いもかけない言葉をかけられたので面を食らった。

「それって…?」

「あぁいや、あん時のお前さん、表情がパッと明るくなった様に見えたからよ、ジョークに興味があるんじゃないかと思ってな」

「…」

私は思わず自分の顔を手で摩って見せた。自分では分からなかったが、どうやら顔に出ていたらしい。確かに、師匠が言った様に私はジョークに少なからぬ関心があった。勿論それは、師匠の影響なわけだったが。

師匠はホッペをさする私の様子を見て、ニコッとこれまた優しい笑顔を見せたが、ふいに表情に影が差したかと思うと、声は柔らかめに言った。

「じゃあよ…その内俺にとって要らなくなったらよ、俺の持っているジョーク集…全てお前にやるよ」

「…え?」

『俺にとっていらなくなった時…』この言葉に真っ先に引っ掛かったが、師匠が私に向けてくる表情なりが、その質問をこっちにさせなかった。だから私はそう声を漏らすのが精一杯だった。師匠は表情なり何なりをそのままに続けた。

「あぁ…。まぁ、なんだ、俺って芸人のくせにマニアな部分があるから、貴重な資料が沢山あるのよ。この店に集まる面子には、それぞれあげる物が決まっているんだがな、今のところジョーク集を欲しがる奴がいないからさ…早い者勝ちって事で、貰ってくれるか?」

「…」

私は今何の話をされているのか、分からない…いや、勿論どこかで分かってはいたが、その不吉な考えを認めたくない私が別にいて、見ないよう見ないよう、誤魔化し誤魔化し

「…まぁ、師匠がそうしてくれると言うのなら、私は勿論喜んで頂きます」

と、ここでまた何とか笑みを作って返すのだった。この時は、自分でも分かる程に顔が引き攣り緊張しているのが感じられた。

それを師匠ほどに観察眼の優れた人が気づかない訳がないと思うが、ただ微笑みつつ、また私の背中にそっと手を置いて「…良かった」と呟くのだった。

それからは、そのジョーク集がいかに昔の本で、ありとあらゆるジョークを網羅していて、絶版というのもあって貴重な代物なんだと力説されていたが、不意に店の前に車が停まった気配がして、その瞬間玄関が開けられた。タクシーの運転手だった。

去り際に、また改めてそれぞれと挨拶を交わした。師匠にも最後に挨拶をすると、ただハニカミながら手を軽く上げるのみだった。本当に実際会う前に持っていたイメージ通りのシャイな人だと思った。

先に義一が外に出て、私もその後に続こうとしたその時、「琴音」と声をかけられた。師匠だった。

師匠はツカツカっと私に歩み寄ると、ふと私に耳元に顔を近付けたので、私も気持ち近寄った。師匠は何気にというか、昔の人にしては背が高めで、168ある私よりも少しあった。

師匠は手を口元に当てて、内緒話風な格好を取ると、小声で話しかけてきた。

「お前さん…人から褒められた時は、逃げずに、上手に受け取るか受け流す術を身に付けないといけないよ?」

「…へ?」

これまた予想外な言葉をかけられたので、思わず身を起こして師匠の顔を凝視した。すると師匠は明るく笑ってから、そのまま愉快げに続けた。

「恥ずかしいのは分かる。…それがマトモで、人として正当な反応だからな。…善いことをして褒められるってのは、何よりも恥ずかしいことだからよ。お前なら…何を意味してるか分かるよな?…ただな、俺も昔、尊敬していて付き合いのあった小説家先生にな、『君は僕が褒めれるとすぐに逃げるね』って怒られた事があったんだ…」

「おーい、琴音ちゃーん?そろそろ行くよー?」

とその時、義一が玄関のすぐ外から顔を覗かせて声をかけてきた。

「うーん、今行くー!」

と返事をすると、師匠に顔を戻して、

「…はい、何となくですけど、師匠が何を言いたいのか、私なりに分かった気がします。肝に銘じときますね」

と我ながら生意気な小娘っぽく意地悪げな笑みを浮かべつつ返した。

それを聞いた師匠は、両肩を少し持ち上げて見せて、呆れたという表情を見せたが、口元は笑っていた。

それから急に私の背後に回ったかと思うと、若干強めに背中を押して「ほら、叔父さんが待ってるんだ。早く行ってやりな!」と言うので、私は「今日は楽しかったです。ありがとうございました!」と改めて言い、深々とお辞儀をして、店内を振り返りつつ、手を振りながら外へと駆けて行った。

神谷さん含む皆は笑顔で手を振ってくれたが、師匠だけがまたハニカミつつ、恥ずかしげに軽く手を上げているのが印象的だった。

「すっかり遅くなってしまったねぇ…。僕がもっと早く気付けば良かったんだけれど…大丈夫かい?」

車内が真っ暗だったので、表情までは見えなかったが、声の調子から心配げなのが伝わってきた。

「うん、大丈夫だよ」

私は相手の顔が見えなくても、一応その方向に顔を向けて微笑みつつ返した。

タクシーに乗り込み、明かりの少ない住宅街の角をいくつか曲がった時、不意に義一が話しかけてきたのだった。

「そう?なら良いけど…」と義一はまだ心配が抜け切らないといった調子で言ったが、ふと急にトーンを変えて、少し意地悪げに話しかけてきた。

「ところで…今日はどうだった?」

「どうだったも何も…」

私は見えないのを承知でジト目を向けつつ答えた。

「そりゃあビックリしたわよ。まさか師匠が目の前に現れるなんて、思ってもみなかったんだから。…”誰かさん”は、その事を承知で内緒にするし…」

「ふふ、目論見通り驚いてくれた様だね」

その声は心から愉快だと言いたげだった。

「だって、そもそも…」

私はため息交じりに言った。

「義一さんが師匠と知り合いだったなんて…私、聞いてないよ?」

「あれ、そうだっけ?」

そうなのだ。今まで話を聞いてくれた中で、覚えておられる方がいるだろうか。私が小学生の頃に、義一が初めて師匠の言葉を引用してくれたから存在を知った訳だったが、それ以降、何度も一緒に師匠について話したり何なりしたというのに、一度も親しくしてるだなんて事を言わなかったし、素ぶりすらも見せなかったのだ。今回以前の私と同様の”一ファン”だと思っていたのだ。それが尚更驚くのに拍車をかける形となった。

「そうだよぉー」

と、これも相手から見えてるか分からなかったが、窓の方を向いてツンとして見せた。その間義一は、クスクスと控え目だったが暫く笑うのをやめなかった。

「もーう…まぁいいわ!」

イジけてツンとするフリにも飽きた私は、また義一の方に顔を向けて話しかけた。

「今回も前回同様に、色々と議論したりお喋りしたりして面白かったし、言うまでもないけど、師匠を交えて芸について深く語らえたんだもの。…あっ!」

今晩の数寄屋での出来事を思い返して余韻に浸っていると、突然ある事が放ったらかしのままであるのに気づいた。

私が急に素っ頓狂な声を上げたので、義一が苦笑交じりに「どうしたの?」と聞いてきた。

私は肩を落として、残念さを演出するために、普段よりもいくつかトーンを下げて答えた。

「…マサさんが悩んでいたっていう、イプセンの”人形の家”の話の続きを聞くの忘れてた…」

「…?…あっ、あぁー…」

義一もすぐにでは無かったが、気付いたようだった。

そう、今この時も、深夜だというのに仕上げるのに葛藤しているであろう、今秋に百合子が主演予定の”人形の家”…マサさんが言ったという悩みについて、どのように議論したのか聞くのを忘れていたのだ。

その話を聞いた時、もしチャンスがあれば観に行きたいと瞬時に思わされただけに、その後の濃い議論と会話のせいで忘却してしまっていたが、ふとこうして思い出してしまうと、急にフツフツと欲求が高まっていくのを感じるのだった。

「まぁー…」

義一は苦笑い気味の口調を変えないまま、私に諭すような口調で言った。

「後数日で、その議論を字に起こした文章が載っている”オーソドックス”の最新号が発売されるけど、今度それを君にあげるから、取り敢えずは自分でそれを読んでみてよ?読んでみて、どこか変に思ったり、疑問に感じたりした時は…いつでも”宝箱”においで。いつも通り、僕と二人で議論しよう」

「んー…分かったよ」

と私は、言葉の裏に妥協を匂わせつつ、しかし快く承諾したという風を漂わせるのを忘れずに返した。

それからは、私の家に着くまで取り留めのない雑談をして過ごした。心の内に、まだ聞くタイミングではないと判断した、普段から義一…そして神谷さんが言う”保守”とは何かという疑問を孕みながら。

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