第27話 数寄屋 A

「良かったねぇ、お母さん達が了承してくれて」

「うん」

あれから丁度一週間が経った日曜日の夜。絵里から電話が来たので、こうしてお喋りをしている所だった。

あの日の夜私は、義一、絵里、それに美保子と百合子にもこの事を知らせた。皆それぞれに、『頑張ってね』的な有りがちな文面を送ってきたけど、送り主が送り主なだけに素直に嬉しかった。今述べたように絵里にも伝えたし、励ましのメールもくれた筈だったが、久し振りに声が聞きたいと、こうして電話をしてきてくれたとの事だった。考えてみれば、いつもの絵里の冗談とは違って、本当に久し振りだった。もちろん、連絡はしょっちゅう取り合っていたが、絵里の言う通り声を聞くのは久し振りだった。何せ今までのルーティンでは、学校以外の活動としては、裕美達と遊んだり、義一の家に行ったり、図書館に行ったり、絵里の家にも行ったり、そしてピアノのレッスンと、それを月の中で回していたのだが、師匠にコンクールの旨を話した時から、今まで以上にピアノに比重が持っていかれて、どんどんスケジュールが圧迫していき、最終的に図書館と絵里の家に行く時間が削られてしまう結果になった。私は申し訳なく思い、その事について電話ではあったが詫びると、『あははは!そんなの気にしないでよー。…まぁ、少しだけ私が寂しくなるのは事実だけれど、そもそも琴音ちゃん、あなたには学校での素敵なお友達も”今は”いるんだし、これだけ明快な目標を持てて、それに邁進することが出来る様になったんだから、それだけで私は凄く嬉しいのよ?だから…暫くはちゃーんと練習に専念して、たまーに暇が出来て何もやる事がないなって思ったら、その時に私に連絡してねー?』と終始明るくサバサバとした調子で言ってくれたのだった。嬉しかった。大袈裟に言えば、絵里が言ってくれたその言葉も、私が気を取られる事なく練習に専念することが出来た要因の一つには違いなかった。

「はぁー…私も琴音ちゃんが弾くところ見てみたいなぁ」

「ふふ、何度か弾いて見せたじゃない?」

約束を果たす為とは大袈裟すぎるが、何度か絵里の前でも弾いて見せたことがあった。場所は…そう、勿論義一の宝箱の中でだ。本当は一人きりでじっくりと聞きたかったらしいが、ピアノが自由に使える場所がそこしか無かったので、仕方なかった。

絵里としては、誰か他にいるにしても、義一がいるのが我慢ならないと、本人を前にして膨れて見せていたが、いくらそう言っても、この二人の間に険悪な空気が流れるのはまず無かった。…いや、不可能とまで言い切っても良いほどに、どんなキツめの冗談でも微動だにしない、熟成された関係性が見て取れるのだった。

「あははは!そりゃあそうだけどさぁー…だって琴音ちゃん…あなたは当日、ちゃーんとおめかしして行くんでしょ?」

「え?あ、あぁ、うん。過去の写真を師匠に見せて貰ったんだけれど、どうも一次予選から皆ドレスアップして出るみたい」

「いいなぁー…いやだってさぁー、私は確かに何度か聴かせてもらったけれど、普段着のいつもの琴音ちゃんの姿なんだもの」

「ふふ、ラフな格好で見窄らしい姿を晒して、申し訳ありませんでしたね?」

「…そういう所、益々ギーさんに似てきたね」

その声にはウンザリ感を隠そうともしない、ため息混じりな口調だった。電話だというのに、表情まで容易に思い浮かべられた。

「いや、普段の格好で弾いて見せてくれたのも良かったよー?初めての時にも感想言ったでしょ?特にあなた、どんどんまた近頃身長が伸びてきて、それに伴って四肢も伸びるもんだから、それが上下左右に忙しなく、でも変に急いでないから優雅でもあって思わず見とれちゃったって」

「ふふ、相変わらず急に詩人みたいな表現をしてくるんだから」

「んー…まぁ、文学部出身故なのかな?」

「違うと思う」

私は口調だけでも伝わる様に、なるべく声に表情を持たせずにピシャッと言った。絵里は受話器越しにクスクス笑っている。

「まぁそんな事はともかく、そっかぁ…まぁ演奏の光景を見れないのは残念だけれど、もし写真が撮れるようだったら、誰か…この場合はお母さんかな?お母さんに撮って貰った写真でも今度見せてよ」

「うん、勿論構わないわ」

「そう、良かったぁー…って、琴音ちゃん!時計を見て」

「え?…」

そう言われたので、部屋の壁に掛かっている時計を見ると、十時半になる所だった。

「そっか、もうこんな時間なんだね」

「そう、良い子な中学生はもう寝なくちゃ」

「ふふ、じゃあ絵里さん、お休みなさい」

「うん、おやすみー」

ガチャッ。

受話器の向こうでツーツー音が鳴ったので、私の方も電話を切った。

久し振りにそうだなー…合計三十分は話しただろうか?声しか聞けなかったが、何も変わらない絵里の様子に、安堵と同時に嬉しさも相まって、色々な自分でも気付いていなかったストレスが和らいだ気がした。この日はそのままベッドに潜り込んだが、途端にスヤスヤと眠りに落ちた。

因みに裕美…いや、その他の友達、紫、律、それに藤花にも、私がコンクールに出ることをまだ話していなかった。前にも言ったと思うので重複する様だが、今まで人前に出たくないと特に裕美に話していたので、今更出場する話をするのも気が引けたというのもあったが、この時期の私の気持ちで大半を占めていたのは、何て言ったら良いのか…まだ予選すら始まってない時期に、そんなに慌てて発表することも無いだろうというものだった。これは認めたくないが、…裕美に関して言えば、裕美は小学生時代、二大会連続で都大会を優勝した様なスイマーな訳だが、片や漸くコンクールに出る決心がついて、まだ通るかどうかも分からない予選に挑む私とでは、正直…裕美は何とも思わないだろうけど、競技は違えど少しばかり引け目を感じているんじゃないかと指摘されたなら、私は渋々頷く他にない。そんな自分でも嫌になる卑屈さも、素直に裕美達に話せない要因であるのだろう。


この頃の学園生活自体は、取り立てて話すほどの話題は無かった。まぁそれだけ平穏に日々を過ごしたという事だが、相変わらず全員が集まる事は、それぞれに忙しいせいもあって中々無かったが、それでも毎日誰か最低一人とは一緒に過ごしていた。三学期に入ったかと思えば、いつの間にか期末テストの時期になり、この時期だけはクラブ活動も休止となるので、放課後教室に裕美達全員と集まって、試験勉強をした。当然面白い訳はなかったが、久し振りに全員が集まり、机を向かい合わせにして顔を突き合わせるというのは、貴重な時間であるのには違いなかった。まぁこれまでも、一学期から今までのテスト期間中もしてきた事だったが、それこそ取り上げる必要性を感じなかったから割愛してきたが、今回は何となく取り上げて見ることにした。まぁざっとこんなものだった。

それからは春休みに入り、ピアノのレッスンの合間、裕美達と会ったり、義一の家に行ったり、そしてこの休み期間中、一度だけだったが絵里の家にも遊びに行けた。美味しいケーキと紅茶を頂いたのだった。

そんなこんなで過ごしていると、三月も終わり、そしてとうとうコンクールの申し込み期間が訪れた。


師匠が言うのには、私が出場しようとしているコンクールは歴史が深いだけあって、全国から応募が殺到するらしく、申し込みにも人数制限があるとの事だった。なので、四月一日になった日の午後、師匠がまたわざわざ私の家まで来て、今度は私の部屋の中に入ってきた。何故なら、私の部屋には一台のパソコンがあったからだ。他の部屋、お父さんやお母さんの部屋にも一台ずつパソコンがあったが、私の事なのだからどうせならと、私の部屋のを使うことにしたのだ。それは置いといて、私の想像では何か必要書類を取り寄せ、それにペンか何かで必要事項を書き込み、それを郵送か何かで送る様なものだと思っていたが、師匠が受けた当時はそんな事もあったらしいが、今ではネットで気軽に申し込めるのが常套のやり方の様だった。先生が側で見守る中、私はキーボードを叩きつつ、モニター内に表示された要件を一つ一つ潰していった。そうしている中、どうでもいい事だが私の心中は少し冷めていた。私も”今時”の子な筈だったが、何だかボタンを押して気軽に作業をこなしていくのに違和を感じずには居れなかった。何せそれなりに覚悟して出場を決めたというのに、繰り返すようだが気軽に処理されてしまうと、私の気持ちの置き所がない様に感じたからだ。…まぁ尤も、そんなのコンクール自体とは何も関係が無いじゃないかと言われれば、それはそうだと頷く他にない。ただ個人的な気持ちの問題だ。だからやめろと言いたいのではなく、こんな心持ちの人もいるんだと言いたかっただけだ。これで終わりにする。

最後の方になると、師匠はお母さんを呼んだ。お母さんにはもう既に話が通っていたらしく、手には財布を持っていた。そして私の側まで来ると中からクレジットカードを取り出し、それを私に手渡してきた。私はそれを受け取ると、そこに記載されている番号を、間違わない様に注意深く慎重に打ち込んでいった。打ち終わると、カードをお母さんに返した。お母さんはそれからは、手続きが終わるまで、そのまま私のそばに立っていた。そして画面に”完了しました”と表示されると、私達三人は顔を見合わせて、少し間を置いてから微笑みあったのだった。

「お茶淹れるわねー。沙恵さんも飲むでしょー?」

「あ、はい。頂きます」

師匠がそう返答すると、満足そうに笑いつつ私の部屋を出て、下の階の居間へと降りて行った。

私が黙ってパソコンの電源を落としていると、不意に師匠が私の肩に手をかけて「いよいよね」と優しく落ち着いた口調の中に、力強さを感じる話し方で声を掛けてきたので、「はい」と私も微笑みつつだったが、声だけは少し語気を強めに返したのだった。それからは、示し合わせたのでも無いのに強く頷きあい、二人揃って居間の方へと向かったのだった。


新学期が始まるのと同時に、私は中学二年生になった。まぁ当たり前だが。

他の私立も大抵同じだろうが、この学園も一年毎にクラス替えをする。その結果は、始業式の朝、学校に来て見るまで分からないという、”ムダ”にバラエティー性のある制度だった。毎朝とまではいかないまでも、今だに小学生時代の様に裕美のマンション前で待ち合わせをして、そこから仲良く通学していた。前にも触れたが、小学生時代と制服姿以外の違う点は、裕美の髪型がベリーショートからショートボブに変化しているくらいだった。身長も伸びているのだろうが、ずっと一緒にいるし、それに私も伸びてる訳だから、自分達としては大して伸びてる実感が無いのが実情だった。

学園までの、乗り換え入れての約四十五分の通学時間、その間の話題はこの日に限ってはクラス替えについてに占められた。裕美は「また一緒だと良いね!勿論、紫達も」などと口調は明るかったが顔は心配げに言っていたのを、私は苦笑交じりに宥めつつ同調していたが、心の中では勿論同じ気持ちだった。途中の秋葉原で紫と落ち合い、そこから乗り換え無しの学園の最寄駅まで約十五分、三人仲良く電車に揺られていたが、その間の話題もクラス替えについてだった。四ツ谷に着き改札を出ると、すぐ近くの地下鉄連絡口の前に、藤花と律が揃って立っていた。紫もそうだが、普段はたまの思い付きでしかわざわざ待ち合わせないのだが、皆同じ気持ちという事なのだろう、誰が言い出したか忘れてしまったが、始業式の日は皆で登校しようという約束になったのだった。二人とも軽く挨拶して、ほんの五分ほどの距離にある学園目指して、二列に並んで歩いて行った。因みにどうでもいい事を話すと、こういった場合も、何だか取り決めたわけでも無いのに、いつも同じだった。前方を左から裕美、藤花、紫といった順に並び、その後ろを私、律と並ぶのが習慣化していた。

まぁ単純に、背が平均的なのが前方に行き、私や律の様なノッポが後ろに回っているというだけだ。…厳密には、前方は三列じゃないかというツッコミは受け付けないのでご容赦。それはさておき、前方では三人揃ってやはりクラス替えについて黄色い声を上げつつお喋りしていた。そんな様子を見て、私はまるで保護者の様な目線を送っていたが、ふと隣の律の顔を見てみると、同様の微笑みを向けていた。と、ふと私と目が合うと、相変わらず無表情を送ってきていたが、フッと小さな音で息を漏らすと、アンニュイな微笑みを私に見せてきた。私もつられて、同じように出来たかはともかく、気持ち的には合わせて微笑み返すのだった。

学園に着くと、早速正面玄関の前に長テーブルが設置されていて、その上に六つの紙の束がドカッと置かれていた。近づいて見ると、それぞれの前に学年の名前が書かれていた。要するにこの紙に、その年どこのクラスに自分が在籍するかが書かれているという訳だ。私たちは早速”新中学二年生”と書かれたその後ろの紙を、それぞれ一枚ずつ取って、皆で邪魔にならないようにその場から少し離れた。そして円陣を組むように顔を突き合わせ、誰か一人が大きく息を吐いたので、釣られるようにして皆で同じ様に大きく息を吐いてからその紙を見た。暫くは沈黙が流れた。それも仕方がないだろう。何故なら一学年に5クラスがあり、それぞれに四十人近くの生徒がいるので、いざ一から自分の名前を探すとなると大変なのだ。

とは言っても一分ほどだっただろうか、まず声を上げたのは藤花だった。

「…私、2組だったわ。…みんなは?」

「私も2組ー」

と紫が、紙をヒラヒラさせながら笑顔で答えた。それを聞いた途端、藤花は笑顔で「おぉー!」と言いながら紫の肩を叩いていた。

「…おっ、私もだ」

と裕美は、紙に目を落としたまま呟いた。

「…え?」

と、それを聞いた私は思わず顔を上げて、隣にいた裕美の横顔を覗いた。そんなぁ…

私のこの時の心境を他所に、裕美は藤花と紫から熱烈な歓迎を受けていた。流石の裕美も、二人のテンションには付いて行けないらしく、苦笑気味に返していた。…うーん。

「ほら、後はそこの二人だけだよ!」

藤花はその場で子供の様にピョンピョン飛び跳ねるんじゃないかと思わせるくらいにテンション高めに話しかけてきた。

…正直、藤花ほどではなかったが、とっくに私の名前は見つけていた…ただ、こんな雰囲気の中では言い出せなかっただけだ。まぁここまできたらしょうがない。そもそも、言うまでもなく決めたのは私ではないのだ。

「私はー…1組だった」

私は力無げに、紫の様に紙をヒラヒラさせて見せた。ただ紫と違うのは、紫は笑顔でだったが、私は笑顔は笑顔でも呆れた様子を滲ませた苦笑いだった事だ。

「…えぇー!」

暫く…と言っても数秒ほどだが、私の返答を聞くと、三人共が私の顔を目を丸くしつつ凝視してきた。そして三人はほぼ同時に、かぶりつく様にまた紙に目を通していた。そんな様子を、私は少し白けた視線で見守っていた。そうなるのも仕方ないだろう。何せいくら確認しても、私の名前は1組にあるのだから。

「…ホントだー!」

「えぇー何でー!」

「そんなぁー…」

と、藤花、紫、そして裕美の順に、私に向けて、憐れみともなんとも言えない表情をしてきていた。私はそれに、変わらぬ苦笑で返す他になかった。と、その時、

「…私も1組」

ふと裕美とは逆の私の隣にいた律がボソッと言った。

「…え?」

と、私にずっと憐憫の表情を向けてきていた藤花が、これまた大きく目を見開きながら律を見た。律はパッと見無表情ではあったが、やはり少し元気なさげに、字の書いてある側を他の四人に見える様にして見せた。勿論これは言うまでもない事だけれど、中身を見て貰おうとその側を向けた訳ではなかった。

それは置いといて、急に前置きなく律がそんな事を言うもんだから、同じクラスが決まった三人組がまた一斉に紙にかぶり付いたが、私もまた改めて”1組”の欄を覗いて見た。すると確かに、真ん中辺りに”富田律”の字が書かれていた。

「…えぇー、律までぇー?」

と、これまた先に声を上げたのは藤花だった。思いっきり肩をストンと落として見せていた。裕美と紫も同様だった。

「琴音と律がねぇー…」

「やっぱり上手く行かないもんだねぇ」

そんなリアクションをしつつガッカリするその傍らで、当人である私と律は、顔を見合わせると、ここまで来た時と似た様な苦笑を向け合うだけだった。

「…まっ、しょうがないか!」

と不意に裕美が、腰に手を当て伸びをしつつ言った。

「これで私たちはクラスで二つに別れた訳だけれども、それはクラスでってだけであって、私たちの付き合い自体は変わらないよ」

そう言い終えると、ふと裕美は私に悪戯っぽい子供らしい笑みを向けてきた。それを聞いた藤花も、この中では小さめな身体で大きく裕美の様に伸びをしつつ言った。

「そうだよねぇー!それに、この年度だけであって、もしかしたら来年度…私たちはまた同じクラスになるかもだしね!」

そう言い終えると、藤花は藤花で律に向けて、裕美と似た様な笑みを送った。

律はほっぺを掻きつつ”分かり辛く”笑っていた。

「気が早いなー」

と紫は笑いつつ、すぐ隣にいる藤花の肩に自分の肩をぶつけて言った。そして両手を腰に当てて、胸を張りつつ続けた。

「裕美も藤花も良いこと言うじゃない!」

「ふっふっふー、でっしょー?」

と裕美と藤花は示し合わせたかのように似た様なリアクションを取った。二人自身お互いに意外だったのか、一瞬顔を見合わせたが、すぐに大袈裟にはしゃいで見せつつじゃれ合い笑い合うのだった。

とここで裕美は、何か思いついた様な表情をしたかと思うと、途端にまた悪戯っ子な笑みを浮かべつつ私と律を見比べる様に見てから言った。

「まぁこれはこれで面白いかもね!何せこの中での”似た者同士”が揃って同じクラスになったんだから」

「あぁー、確かにー」

と今度は藤花と紫が似た様なリアクションを取り、これまた同じ様にじゃれ合い笑い合うのだった。途中から裕美も加わった。

そんな様子を私と律は、また顔を見合わせつつ何も言わないまま苦笑いを向け合うのだった。この日はお互いに、それしかしてない様な気がした。


始業式が終わり、それぞれの教室に入って、担任から事務的な話を聞いた。入学当初とは比べ物にならなかったが、内容は多かれ少なかれ同じ様なものだった。私と律のクラス、1組の担任は、一年生の頃と同じの有村先生だった。…んー、”有村先生”とは言ったが、正直生徒で彼女の事をそう呼ぶ人は稀だった。常日頃は面と向かって”志保ちゃん”と下の名前で呼んでいたのだ。呼ばれた本人が、正直のところどう感じていたのかは分からないが、私たち生徒側の意見を言わせて貰うと、親しみ易く心を許している証拠としての呼び名だった。別に馬鹿にして下に見ての事ではないのは分かって欲しい。…って、こんな所で言ってもしょうがないんだけれども。裕美たちのクラス、2組の担任は、”安野宏枝”という、五十代半ばで眼鏡を掛けた、身長も藤花と同じくらいと、言ってはなんだがどこにでもいる普通の”おばさん”といった印象の先生だった。どうやら今年の中学二年生の学年主任も勤めるらしい。そんな話をしていたと、後で裕美たちに聞いた。

ここで少し紹介がてら脇道に逸れるのを許して欲しい。ちょうど良い機会だから、少し先生たちの話をしようと思う。私に限らず、裕美たち全員が実は、安野先生の事をだいぶ前から知っていた。なぜなら、入試の時の面接官の一人が実は、安野先生だったからだ。たまたま私たち五人を担当していたのだ。安野先生は社会科を担当していて、一年生の時も歴史を教えに来ていたから、私たちは皆先生を見た瞬間に気付いたのだった。初めて授業を受けたその後の話題は、それで持ちきりだったのは言うまでもない。私たちグループのみんなは、その”面接官”に対してかなりの印象を植え付けられていたらしい。一応補足させて貰うと、”悪い”点ではない。因みに”志保ちゃん”が、あの時面接会場の教室まで案内してくれた黒服の女性だったのも、前にも触れたがまた付け加えさせて頂く。

とまぁそんなこんなで、皆が一緒のクラスにはなれなく残念だったが、これも一つの経験として受け入れ過ごしていこうと思った四月の上旬だった。


「何気に久しぶりだなぁ」

運転席から聡が声をかけてきた。

「まぁね」

私は生意気にツンとした態度で返すのだった。

今日は四月の第四土曜日。世間的にはゴールデンウィークの入口だ。今日は聡が今言ったように、久し振りに”数寄屋”に行く約束をしていた。久しぶりと言うか、そもそも去年の十一月に初めてあのお店に行って以来、なんだかんだで一度も行けてなかった。当初の予定通り、毎月一度の医者の慰安旅行にお母さんもほぼ毎度付いて行っていたので、そっちの心配は無用だったが、そもそも今年は初のコンクールの出場の事があったから、師匠からは何もこれといって言われていた訳では無かったが、私が自らを甘やかさないようにと、土曜日の午前で終わる学校から直接師匠の家まで出向いてレッスンを受けていたのだった。だから仮に両親二人ともが家を留守にしたとしても関係が無かったのだ。では何故今回は久し振りに休みにしたのかというと、当初の予定ではこの日もレッスンを受けるつもりだったのだが、師匠が四月の中旬あたりに「そろそろ予選が始まる訳だけれども、この数ヶ月間はそれまでよりも何倍も根を詰めて練習してきたのだから、ゴールデンウィークくらいは少し息抜きしなさい」と微笑みつつ”命令”してきたので、私はその心遣いに甘えて笑顔で了承したのだった。だからこの大型連休中は、久し振りに裕美、紫、藤花、律達と揃ってどこかに遊びに行く手筈が整っていた。私含めて五人が一斉に揃うのは、繰り返すようだけれど久し振りだったので今から楽しみにしていた。誰かの家で”お泊まり会”をする予定も入っていた。

前にも触れたようにクラス替えで二組に別れてしまった訳だが、少し離れてしまった分、皆それぞれが、この居心地の良いせっかく出来上がった関係性を壊したくない想いから、一年の時以上になるべく時間の都合がつく限り集まろうとする意志が強まっているのを”私は”感じていた。希望を含めてだが、私以外の皆も同じ想いだと信じている。

ついでと言ってはなんだが、久し振りに連休の最後あたりに、裕美と二人で絵里のマンションに遊びに行くことにもなっていた。これも当然今から楽しみにしていた。

…っと、話が大きく逸れてしまった、いけない、いけない…。

とまぁ師匠から羽根を伸ばす許可を頂いたので、何も”後ろめたい”気を起こす事なく早速義一に連絡を入れた。すると丁度両親二人が留守するこの日に”数寄屋”に行くというので、私からすれば願ったり叶ったりと付いて行っていいかと聞いた。すると家は大丈夫かの確認はされたが、大丈夫の旨を伝えると快く了承してくれた。それで今に至る。

「先生達も琴音と中々会えないって寂しがっていたぞー?」

と聡がバックミラー越しに私にニヤケつつ言うと、

「そう言われても仕方ないよねぇ?」

と義一が私に微笑みつつ

「だってもう本番まであと少しなんだから」

と言うその口調は、あまり表情を感じさせるものでは無かった。

何も知らない人が聞くと、何て冷たく突き放したように言うんだろうと怒り出す人もいるかも知れない調子だったが、言われた私としてはそれが心地良かった。入試の時のメールもそうだったが、義一は決して私に”頑張れ”といったような言葉は一切投げかけて来なかった。これから予選に挑む今もそれは変わらない。義一が何を思って私にそう接するのか、私なりの解釈を述べても構わないだろうが今は止めておく。私の話を聞いてくれた人の中には、わざわざ説明しなくても察してくれる方もいるだろうし。

…でもまぁ敢えてヒントらしい事を最後に付け加えさせて貰うと、義一が今私に対して「これから琴音ちゃんにとって大事なコンクールが控えているのだから、それに向けて頑張らないと」と”敢えて”言わなかった事に尽きると言っておこう。

「まぁね!」

と私も、義一よりかは感情の起伏を入れつつ返した。

そんな私達のやり取りを聞いていた聡は、尚も少しワザとらしく不満げに見せつつ、

「そりゃあ義一経由ではあるけど、琴音の事情は皆んな知ってる訳なんだがよぉ?」

と、まるで質問でもするみたいに語尾を挙げ気味に言い終えた。それをした事によって何かの効果を狙っている訳でも無さそうだったから、私は義一と顔を見合わせて、クスッと笑うのだった。それに釣られて義一も笑い返してくれた。

因みに今日は数寄屋に久し振りに行くにあたって色々と楽しみにしている事があった。義一が先生と慕う神谷さんに会うのも当然楽しみだったが、それと同時に美保子と百合子とも会える予定だったからだ。

美保子について言えば、丁度この日にアメリカから帰国するとの話を、私は直接本人から聞いた。覚えておられるだろうか?前回帰りのタクシーを待っていた頃、その場にいた美保子と百合子と連絡先を交換したお陰で、間に誰かを介さなくても、しょっちゅうとはいかないまでも途切れる事なく連絡を取り合っていた。頻繁では無かった理由は、何しろ時差もあるし、子供の私が生意気に急に親しげに連絡を寄越して良いものかと、流石の私でも考えたからだった。それはともかく、そういった経緯があったから今回の話も聞けたのだった。

話の流れ的に、百合子の事も軽く触れておこう。百合子とは、日本にいるお陰か、何気に美保子よりも頻繁に連絡を取り合っていた。その中で今年に入ってすぐくらいの時に一度メールで、『近々新しい劇を演るから、良かったら観に来ない?もしその気があったら、義一くん経由でチケットをプレゼントしたいのだけれど』と丁寧なお誘いを貰った。私は是非観に行きたいと本心から思ったが、何せコンクールの準備が煮詰まってきていた時期でもあったし、そして何より言うまでもなく私は未成年だったから、自分の時間を自由に使おうと思っても無理な話だった。その旨を丁寧に説明して渋々断りの返事を送ると、百合子さんはわざわざ電話を掛けてくれて、あのアンニュイな色っぽい口調で笑いつつ逆に謝ってきたのだった。

本人が言うのには、私と話していると、ついつい中学生を相手にしてるのを忘れてしまうとの事だった。当然私は、それにどう返せば良いのか分からなかったので笑って誤魔化したのは言うまでも無い。電話で話したのはそれきりで、やり取りはメール一本だったが、その内容は殆どが演劇についての話に尽きていた。百合子さんは演劇の裏側を色々と教えてくれた。それと、連絡先を交換した時にした約束通りというか、チェーホフなり何なりの今だに語り継がれ世界中で好まれて演られている戯曲についても語り合った。元々演劇部で、それと関係してるのかはイマイチ分からないが、古典にも詳しい絵里とも散々この様な会話はしてきていたが、もう一人、それも本業の人とお喋り出来たのがとても嬉しく楽しかった。

…とまぁそんなこんなで、軽く触れるつもりが長々と話してしまう何時もの調子になってしまったが、細かい話はともかく、それだけ私が二人と会うのを楽しみにしている事を感じて頂けたらそれで満足だ。また話を戻そう。

それからは他愛の無い雑談をしつつ、私は時折窓の外を流れる風景を見ていた。連休初日だからだろうか、前にも通った都心付近の繁華街を眺めていると、そこらじゅうが人で溢れ返っていた。歩道もパンパンだ。前回と同じくらいの時間…つまり夕方の五時半くらいだったが、こんなに混むものなのかと物珍しさに雑踏を眺めていたのだった。

歩道はこの通り混み合っていたが、車道はそうでもなく、予定通りというか前回と同じほどの時間をかけて、例の駐車場に辿り着いた。時刻は六時丁度を指していた。駐車場には見覚えのある車が停めてあった。この時に初めて教えて貰ったが、百合子の車との事だった。

聡はエンジンを掛けたまま私と義一を降ろすと、自分は降りずに窓だけ下ろした。車の中での雑談の中で出た事だったが、この後すぐに戻らなくてはいけないとの事だ。

もちろん車を降りてから、私は笑顔でここまで送ってくれた事についてお礼を言った。聡は何も返さず、人懐っこい笑顔を見せただけだった。そして軽く手を振るとそのまま車を発進させたのだった。

私と義一は聡の車が見えなくなるまで見送った後、すぐ脇の”数寄屋”のドアの前に立った。看板はこの日も中に仕舞われていた。

義一は一瞬私に目配せをしてきてから何も言わずドアを開けた。そして中に入って行ったので私も後に続いた。

中に入ってすぐ目に入ったのは、前回と同様、”表の顔”である喫茶店部分、そのカウンター内で何やら作業をしているマスターと、カウンターの上にトレイを置いて、その上で飲み物の準備をしていたママの姿だった。今日もビシッと服装が決まっていた。

私たちが入ると同時にマスターとママもこちらに気付いた。

「あら、いらっしゃい!」とママは手に持ったグラスをトレイに戻してから、手ぶらでわざわざ玄関近くまで寄って来てくれた。

「義一さんいらっしゃい!…琴音ちゃんも久しぶり!」

ママはまず義一に顔を向けた後、少し後ろに立っていた私にも同様に挨拶をしてくれた。なんと言えば良いのか…素直な感想を言ってしまえば、前回から何だかんだ半年近くが経っていて、そこそこ中身のある会話をした記憶はあったがこっちが覚えているだけで相手は覚えていないだろうと思っていたのが、私の名前までキチンと覚えられていた事に、大げさの様だが感動していた。

「はい、お久し振りです」

「うふふ、元気にしてたー?」

「はい、それはもう…あっ」

ママに合わせる様にして明るく返事をしていた時、視界の隅にマスターの顔が見えた。手は作業台に置いたままだったが、目は私の方にジッと向けてきていた。

「お、お久し振りです」

ママだけにでなくマスターにも挨拶しなくちゃと、少しママの後ろに隠れてしまっていたので若干体を横にずらし、何故か吃りつつ声をかけた。すると、前回と変わらぬ仏頂面だった表情が、少し緩くなったかと思うと、

「いらっしゃい」

バスの様な低いトーン…しかし優しげな柔らかい口調で返してくれた。前回の初対面時の様な、警戒心を隠そうともしない様な様子とは一転していた。マスターなりに気を許してくれたのだろう。それが分かって私も気持ちがほっこりした。

と、その時、

「…もーう、あなたったらー」

とママはその場で一回転したかと思うと、腰に手を当ててさも呆れたといった調子を見せつつ言った。

「そんな無表情でいるから、琴音ちゃんがこの通り緊張しちゃうんじゃなーい」

「え?あ、いや…」

突然何を言い出すんだと思い、慌てて訂正しようと思ったが、ママはその隙を与えないかの様に私に振り返り、「ねぇー?」と悪戯っぽくウィンクを向けてきた。

ねぇー?って言われても…。

と戸惑いつつも、何とか誤解を解こうと思ったが

「うーん…すまん」

とマスターは、私たちに視線を合わせずに、誰に向けたか分からない調子でボソッと言った。義一は一連の流れを黙って見ていたが、私の横でクスクスと笑っていた。

と、マスターの謝罪(?)を聞いたそのすぐ後で、「さてと!」と声を上げたかと思うと、ママは私と義一の背後に素早く回って、それぞれの背中を強めに強引に押してきた。

「ほらほら二人とも!こんな所でいつまでも突っ立ってないで、中に入った、入った!」

「え、あの、ちょっと…」

私と義一は背中を押されるままに、カーテンで仕切られた喫茶店部分の奥まで追いやられた。私は当然突然の事だったので驚いていたが、義一は依然として微笑みつつされるがままでいた。ママにこうされるのも日常茶飯事だという風だった。

しかし、余計な事を言えば、初めてママを見たときはお淑やかで如何にも上品なオーラを身に纏っていたが、今のママは前回の後半程の、お酒が入った時の陽気さ以上にはっちゃけて見えた。…いや、初対面のイメージと違うからといって文句を言いたいのでは無い。こういったサバサバして、妙にボディータッチをしてくる馴れ馴れしさは、絵里で十分に耐性が付いていたし、これまた絵里のお陰と言えるのか、そういった属性の人に対して好印象を抱ける様になっていた。勿論突然来られたら驚き戸惑うわけだが…。

それはさておき、カーテンの前まで押すとママはまた何食わぬ顔で作業に戻って行った。義一も今の出来事について感想を述べる事も無く、何も無かったかのようにカーテンを引いて、中から現れた両開きのドアの片方に手をかけ、そしてゆっくりと開けた。そして今度は私を振り返る事もなくそのまま中に入って行った。私もすぐ後に続いた。


「おっ、来たね?」

中に入るなり声を掛けられた。義一の真後ろにいたので姿はまだ見ていなかったがすぐに分かった。神谷さんだった。

「それに琴音ちゃんも、久し振り」

「はい、お久し振りです」

私は義一の陰に隠れていたのを、一旦横にズレてから改めて神谷さんの方を向いて言った。

「座ったままで、許しておくれよ?」

と神谷さんは表情は苦笑気味に、両膝あたりを摩りながら済まなそうに言った。服装は前回と似たような格好だったが、心なしか元気がなさそうに見えた。覇気が薄くなったとも言ってもいいかも知れない。

この時の私は、当然まだこれで顔を合わせるのが漸く二度目になったばかりだったので、神谷さんのそんな小さな異変が何を意味するかなどそ知る由もなかった。…これはまた別の話だ。

「いえいえ先生、先生は座っていて下さい」

義一はそんな事を微笑みつつ言いながら、前回と同じ座り位置に歩いて行くのだった。

私も合わせて後を付いて行こうとすると、駆け足で近づいてくる者がいた。実は神谷さんを見ていたその視界の脇で、すでに私の方を見つつ、その場で立ち上がっていた姿を見ていた。その人影は暫くの間そのままジッとしていたのだが、今か今かと動き出すのを我慢するかの様にウズウズしているのが、ハタから見て取れるほどだった。

背は私より低いが膨よかな迫力のある体型…もう言うまでも無いだろう。

「琴音ちゃーん、久し振りー!」

「うん…って、わっ!」

美保子が駆け寄って来てそのまま私に抱きついて来た。その勢いで少しよろけてしまった。豊満な胸が私を圧迫してくる。美保子の身体からは、いかにも海外製の物と思われる香水の匂いがした。

「元気にしてたー?」

美保子は笑顔で私の方をバシバシと強めに叩きつつ聞いた。

「う、うん、ぼちぼち…」

と私は、予想以上の熱烈な歓迎に戸惑いつつ、何とか冷静を保って返した。それを聞いた美保子は手を止めると、そのまま腰に当てて満足げに頷きつつ「そっか、そっか!」と言うとソファーに向かい、これまた前回と同じ位置に座るのだった。私も後について行き、以前と同じ義一の隣に座ると、

「…ふふ、驚いたでしょ?」

と柔和な口調で話しかけられた。これも説明するまでも無いだろう。

「う、うん…まぁね」

「ふふ…いきなり抱きつかれたら、誰でも驚くわよね?」

百合子は私に微笑みかけると、隣の美保子に視線を向けつつ言った。

「まぁ美保子さんの事、許してあげてよ。この人、あなたも知ってるだろうけど今日シカゴから帰って来たばかりなのよ。ほら…アメリカと日本ってだいぶ時差があるでしょ?美保子さんは時差ボケになると何故か妙にテンションが高くなって、やることなす事が大袈裟に大胆になってしまうのよ」

「そういうこと!」

美保子はここで百合子から急に言葉を引き継いだ。

「何て言うのかなぁー…そうそう、分かりやすく言えば徹夜明けのテンションってヤツね!…って、これはまだ琴音ちゃんには分かり辛いか」

「…ふふ、こう見えて私は夜更かしをした事が無いからね」

私はようやく普段の調子を取り戻し、約半年ぶりに会うというのに美保子、それに百合子に対しても、何の緊張感もなく話せる様になっていた。効果を狙った訳ではないだろうが、美保子の先制攻撃がこういった点で功を奏していた。

私が悪戯っぽく笑いつつそう言うと、美保子は声をあげて笑い、百合子も上品に口に手を当ててだがクスクスと笑っていた。

「何だか順番が、誰かさんのせいでアベコベになってしまったけど…」百合子さんはそう言いつつ、隣の美保子にジト目を向けた。

「何よー?」と美保子も子供の様にほっぺを膨らませて不満げに見せていた。そんな美保子のリアクションに構う事なく、正面を向いて私に微笑みかけてきながら「久し振りね、琴音ちゃん」と話しかけてきたので、私も微笑みつつ「うん、久し振り」とタメ口で馴れ馴れしく生意気に答えるのだった。その受け答えを聞いた二人は、嫌な顔をする事もなく、同じ様な笑みを見せて何も言わずに大きく頷いて見せたのだった。

前回以来、この二人がそう仕向けてくれたのかも知れないが、すっかり二周り以上の歳の差を忘れさせる様な心持ちを私に持たせてくれていた。先ほども言った様に、実際会うのはこれが二度目だったが、電話なりメールなりはやりとりしていたので、また一から信頼関係を築かなくてはいけない様な手間をしないで済んだのだった。楽しみにしていた事も述べたが、そうは言いつつ実際会った時に、私たちの間に流れる空気が変わっていたら嫌だなと、そうした漠然とした不安はあったのだが、何も変わっていなかった事に安堵したのは言うまでもない。そんな私たち三人のやり取りを見ていたのだろう、神谷さんは挨拶にひと段落がついたと見たのか、テーブルの上に置いてある卓上ベルをチリンと鳴らした。すると十秒もしないうちにドアが開けられ、ママが顔だけひょこっと出して見せた。ママが何かを言いかけたが、「ママさん、そろそろ頼むよ」と神谷さんが声をかけると、「はーい」と間延び気味に返しつつ、ドアの向こうに消えて行った。もう既にドアの向こうで準備をしていたのだろう、これまた間を置く事なくママはカートを押しながら入ってきた。上にはお酒類が乗せられていた。ママはカートを適当な位置に停めると、そこから手際良く、神谷さんには升に入れた日本酒を、美保子と百合子には赤ワイン、そして義一には生ビールと、お酒には当然疎い私だったが、前回も似た様なメニューだった事は覚えていた。でも然程おかしくは思わなかった。それだけ好きなのだろうと、取り立てて言うほどでもない感想を抱いたのだった。

「…はい、琴音ちゃん」

全員にお酒を配り終えた後、ママは私に笑顔であのメニューを手渡してきた。そう、このお店の昼の顔、喫茶店のメニューだった。

「はい、すみません」

私は一応お礼を言いつつメニューを開いた。ソフトドリンクと括られたページを数秒間眺めていたが、「…じゃあ私は、アイスティーを下さい」とメニューを閉じて手渡しつつ言った。

「…えー、またー?」

ママはメニューを受け取りつつ、驚いて見せながら言った。

「前回もアイスティーじゃなかった?良いのよ、他のを頼んでも?」

「あ、いやー…」

と私が答えようとした時、

「いや、琴音ちゃんはこれで良いんだよ」

と義一が口を挟み込んできた。

「この子はね、紅茶が好きなんだ。…というより、お茶全般が好きなんだよ。それも渋めのもね」

「うん、そうなの」

と思わず私もタメ口でママに応えた。こんな事で口を挟まれた事に対して、肩透かしを食らった分イラっとしなかった訳ではなかったが、義一の話した内容は事実だったので嫌味は言わない事にした。

「あら、そうなんだー。…ってごめんね?変な言い方をして。そんな気を回さないで良いよと言いたかったのだけれど、不躾な言い方になっちゃった」

と本気か演技か分かりづらい表情を見せたので、

「んーん、気にしてないよ?」

と私も、無意識的にタメ口が定着しつつ返した。

ママはそんな私の態度の変化に気付いてるのかどうか知らないが、

「うふふ、じゃあ少しの間だけ待っててねー?」

と普段と変わらぬ調子で笑顔で明るく言い放つと、メニューを小脇に抱えて部屋の外に出て行った。

ついでと言っては何だが、ハタから見てるとママの口ぶりも失礼ではないかと思われた人もいると思う。「またー?」と言うのは、何だか『またそれを頼むの?』という主張が見え隠れしているからだ。普段だったら私もそう思わないでも無かったろうが、この時の私はそれよりも、半年前に来ただけの私が注文した飲み物を覚えていた事に感心していたので、何も不快な思いはしなかったのだった。

それに今見た通り大袈裟な言い方だが非礼を詫びてきたので、むしろ小娘の私としては『気にしてないのに』と申し訳ない気持ちが湧いてくるほどだった。

それはさておき、『少しの間』の言葉の通り、ママはトレイにアイスティーを乗せて入ってきた。そして私の目の前のテーブルの上にコースターを敷いてから、その上に置きつつ「じゃあ今夜もゆっくりと楽しんでね?」とウィンクをしながら言った。

「はい、いただきます」と私も笑顔で返すと、ママは笑顔のまま何も言わずにゆったりとした動作で部屋を出て行ったのだった。


「さてと…」

ママが部屋を出て行くと、神谷さんがその場に座ったまま右手に今まで日本酒の入った升の中に入っていたグラスを手に持つと、お酒が滴らないようにオシボリで周りを包んだ。それを見た他の一同も、それぞれ自分のグラスを手に持った。わたしもそれに倣った。

神谷さんはそんな皆の様子を見渡してから、先を続けた。

「今日は最近の中では一番集まりの少ない日になったが…たまには良いだろう」

ここまで言うと、神谷さんは笑顔で私の方をチラッと見た。

「今日は久しぶりの客人が”二人”も見えるんだからね」

「…え?」

と私は思わず声を上げて周りを見渡した。確かに…というかまだここに来るのが二回目だから平均してどれだけの人がここに集まるのか知らなかったが、それでも”久し振り”と言うに相応しいのは私くらいじゃないかという予測くらいは立てられた。しかしこの時はすぐに『あぁ、美保子さんの事か』と自分なりに納得して、実際は黙って美保子の方を見たのだった。そんな私の様子を微笑ましげに、美保子は視線を返してきた。

神谷さんは、声を上げた私に何か話しかけるでもなく、手に持ったグラスを先ほどよりも高く掲げつつ言い放った。

「では…かんぱーい」

「かんぱーい」

神谷さんの音頭の後、それぞれ各々が近い席の人から順にコツンとグラスを当てあった。前回と変わらぬ光景だった。…いや、前回までと違う点を述べるとすれば、言うまでも無いことだがマサさんと勲がいない事だった。それ以外は聡を除いて前回と同じメンツで構成されていた。

…正直なところを言えば、その点だけは一人で勝手にがっかりしていた。勿論何度も言ったように、美保子や百合子と久しぶりに会えるというのはとても嬉しかったのだが、その他にもまだ会ったことのないここに集まる別の人達とも会えるのではないかと期待していたのに、代わり映えのしない面子だったからだ。前回から義一に、この集まりの骨子の一つである雑誌”オーソドックス”の過去の号を借りて読ませて貰っていた。隔月号で出された一つ一つの雑誌は、前にも感想を述べたが見た目的には、言ってはなんだが表紙の材質がとても安っぽくて、もし本屋で見かけても手に取ろうと思わせるような見た目をしていなかった。だが、中身を一度開いて見ると、他の雑誌では読めないような内容の濃い、義一が昔私に言った言葉を借りれば”上質な文章”で埋め尽くされていた。毎号毎号テーマが決まっているらしく、政治なら政治、経済なら経済、文化なら文化、中には天文物理化学、数学などなど、それぞれのジャンルに精通した人々が、これでもかと言わんばかりに、自分の専門分野に限らず、その時の世相に対する独自の考えなども書き切っていたのだった。文化的なことならまだしも、政治や経済などの細かい話にはついていけない部分が多々あったが、それでも世相を両断していく様な切れ味鋭い物の見方が書かれた部分は、とてもスリリングで、読む度に新しい考え方が頭に染み渡っていくのを感じるのだった。

…相変わらず話が長くなったが、話を戻すと、その文章を書いている本人達に会えると漠然と思っていたので、繰り返すようだが一人で少しだけガッカリしたのだった。ただその感情はほんの一時的なもので、乾杯後にはすっかり薄れてしまっていた。

一通り全員と乾杯した後、私は早速誰か特定の人に向けた風でなく、一同を軽く見渡した後、最後に左隣の義一に顔の向きを止めて聞いた。「さっき先生も言われていたけど、今日は前より人が少ないね?」

「うん、そうだねー…」

義一はビールを一口飲んでから、応えた。そして義一も同じ様に一同を見渡して、少しの間神谷さんの方を見てからまた私に視線を戻して続けた。

「確かあの時は…マサさんと、勲さんがいたんだったよね?」

「うん」

「あの二人も今日は来たがっていたんだけれどねぇー。マサさんなんかは、小生意気な小娘と久し振りに会えるというんで、楽しげに言ってたんだけれど」

「うふふ」

苦虫を潰した様な渋い表情を浮かべつつ話しているマサさんの姿が、目に浮かぶ様だった。

「でもねー…」

義一は思い出そうとしているかの様に、少し視線を上に向けつつ言った。

「今マサさんが手掛けている劇の脚本が煮詰まって来ている様でね、何とか今日一日くらい暇が取れる様に頑張ったらしいんだけれど、とうとう無理だってんで欠席してるんだよ」

「そうなんだ」

「うん。ついでと言っては何だけど、勲さんも今新作を書き上げてるってんで、どこかで缶詰状態にあるらしいんだ。だから今日は来れないって連絡があったんだよ」

「そうかー…、そりゃ残念だったね」

私はそう返しつつ、ストローから一口分アイスティーを啜った。

「…ふふ、そのマサさんが今手掛けている脚本というのがね」

と、不意に声を漏らしたのは、向かいに座る百合子だった。

私が視線を向けると、百合子は一呼吸を置く様に一口ワインを飲んでから続けた。

「今度の秋頃に私が出る予定の劇の物なの。イプセン原作の『人形の家』を現代風にアレンジしてね」

「へぇー!イプセンかぁー」

私は思わずテンション高めに声を上げた。自分で言うのは恥ずかしいが、文学少女の血が騒いだのだった。

「…という事は、百合子さんは”ノーラ”役ね?」

「んー…まぁ正直出来上がって見ないことには何とも言えないけれど…うん、打ち合わせ段階で話を聞いた限りでは、私にノーラ役を宛てがいたいと言ってたわ」

そう答える百合子は、少しばかり気恥ずかしそうにしていた。

その様子を見た私は、

「ふーん、そうなんだぁ」

と、自分でも理由がはっきりしなかったが、若干ニヤケ気味に返したのだった。まぁそれでも推測するに、他人事の様に話していた百合子が、実はその役を演る旨を話す間、嬉しさを隠しきれなかったのを見たからなのだろう。因みに、この後会話の中で少しだけ内容に触れるが、もしまだ『人形の家』を読んでなくて気になる方がいる様なら、これを機会に読んでみる事をお勧めする。

「毎回なんだけれど…」

とまた前触れもなく口を開いたのは神谷さんだった。

私が神谷さんの方を向くと、テーブルに置いたグラスを手で軽く弄びつつ言った。

「二月くらいだったかなぁー…?この場にマサさんが来た時、見るからに不機嫌そうな面持ちでいるもんだから、理由を聞いたんだよ」

「あの人が不機嫌そうなのは、毎度の事ですけどねー?」

と美保子は間髪入れずにスパッと口を挟んだ。顔は意地悪な笑みを浮かべていた。

話を遮られた形になってしまっていたが、別段それを不愉快に思ってないらしく、それどころか同意する様に同じ様な笑みを美保子に返しつつ続けた。

「ふふ、まぁね。でもその時は、普段のにもう一回り輪をかけて機嫌が悪かったよ。でね、その理由を聞いたらさ…ゆっくりと吐き捨てるかの様にツラツラと述べ始めたんだ」

その場にいなかったのは私だけだったのか、神谷さんはこちらの方ばかり見つつ言った。

「何でも今回そんな話が来たというんで、まずその興行主とどういう風な劇にするかの大まかな話し合いをして、それでその後、一人になった時に久し振りに『人形の家』を読み返したらしいんだ。マサさん本人も前回に読んだ時とはだいぶ時間が過ぎていた事もあってか、初めて読むかの様な新鮮な心持ちでジックリ味わいつつ読めたらしいんだが、ふとここで大きな問題…というよりも疑問にぶつかったらしいんだ」

「…疑問?」

私は行儀悪くストローを加えつつポロっと声を漏らした。言い訳をさせて貰えれば、最後までジッと黙って聞く気でいたから、自分でもまさか飲み物を飲んでいる時に口を挟むとは思っても見なかったのだ。…いや、言い訳になってないかな?

それはともかく、そんな態度の私に対して顔を一瞬でも曇らせる事なく、変わらない微笑を湛えつつ先を続けた。

「そう。でね、私も今の琴音ちゃんみたいに聞き直したんだ。そしたらね、『世間に広まってる”人形の家”のイメージと大分違うんだよなぁ』って言うんだよ」

「へぇー…イメージねぇー…ってそれって?」

この時は気付かなかったが、私は知らず知らず、義一と会話している様なテンションで神谷に返してしまった。それだけ神谷さんは、相手を萎縮させる様な雰囲気を持っていなかったのだった。前回も再三言ったが、まさに好々爺の典型の様な老人だった。

その好々爺の表情のまま、神谷さんは先を続けた。

「うん。私もまた聞き直したんだが、そしたら面倒臭そうにしつつ言ったんだ。『世間的には”人形の家”は、フェミニズム運動の勃興と共に語られるんだが、どーも世間一般に言われてる”フェミニズム”とは、この作品が直接的に関係してる様には思えないんだよ』ってね。…あっ、琴音ちゃんはフェミニズムって分かるかな?」

「…え?あ、あぁはい、えぇっと…何というか、今までの人間社会は男性が支配してきたという見方をして、その仕組みを組み換えようとする考え方…でしょうか?」

と私が戸惑いつつ答えると、

「…うん、大体その様な意味だね。よく自分の言葉でキチンと言えたね、流石だよ」

「え、あ、いや…」

と私は、前回の時の様に神谷さんが私を褒めてきたので、照れ隠しにホッペを掻きつつ返した。少し辿々しく答えてしまったが、然もありなんだと思う。今まで演劇…イプセンの”人形の家”について会話が始まると思っていたので、不意に”フェミニズムとは?”と話を振られると、誰でも戸惑うのは仕方ないと思う。…いや、私がまだ未熟だからかな?

それは置いといて、神谷さんはそんな私の様子を微笑ましげに見てから、また話の本筋に戻った。

「でまぁその時は…そうそう、確かその時この店に来ていたのはこの中では義一くんだけだったかな?」

「んー…あ、確かにそうです先生」

義一は少しの間考えて見せていたが、ふと勢いよく神谷さんの方を向くと口調も明るくそう返すのだった。それを聞いた私も思わず義一の方を向いた。

…なーんだ、私の思い違いだったのね。

とんだ一人の早合点に密かに苦笑をしてから、何気無く向かいに座る美保子と百合子を見た。ちょうどその時二人と視線が合い、微笑みをくれたので、私も何も言わず微笑み返すのだった。

とそんな微笑みをくれた美保子は、今度は神谷さんに視線を移して話しかけた。

「そうですねぇー…その時の話は後になって聞きましたよ。えぇーっと…あ、そうそう!私が前回こっちに戻ってきた時だから、三月の頭辺りですねぇー。あの時にここで直接マサさんに愚痴を聞かされたんでした」

「んー…あぁ、確かにそうだったね」

神谷さんも美保子のテンションに合わせる様に陽気に返した。

それにはニコッと何も言わずに返した美保子は、今度は隣に座る百合子に話しかけた。

「そういえばあなたも、その場に居なかったのね?でも三月の時再会して、ここで一緒にいた時には既に、事の詳細が分かっていたみたいだけど」

そう話しかけられた百合子は、クスッと上品に笑って、そのままチラッと私に視線を送りつつ答えた。

「…ふふ、だってさっきも彼女に話したけど、今話題に出ている作品は私が出る予定のものなんだもの…。私が知っていてもおかしくないでしょ?それに、私とマサさんとの間柄では尚更ね」

「あはは、それもそうね!」

美保子は自分で疑問を吹っかけた割にはすぐに納得したらしく、上機嫌にワインを飲むのだった。

と、ここまでの一連の話を聞いて、私はまた一つ大きな早合点をしていた事に気付いた。

…あぁそうか。美保子さん、前に私に三月頃日本に帰るって連絡くれたんだったなぁ。そうか…それでこのお店にも来てた訳だ…ん?

とここまで思考を巡らせていると、今度は一つの疑問が湧き上がって来た。

…あれ?じゃあ先生が話していた”久し振りの客人二人”…一人は私だとして、もう一人は誰だろう?

私の中に新たな疑問が湧いていたが、今は取り敢えず置いといて、この話題に集中する事にした。

「でまぁ、まとめると…」

美保子と百合子の会話が落ち着いたと見るや、神谷さんはまた私の方を向きつつ話を続けた。

「マサさんがその時に悩んでいたのは、世間のイメージを引き摺った興行主に合わせて作品を作るべきか、それとも自分で新たに見つけた認識を元にして、今までに無かった作品を模索するべきかって事だったんだ」

「…なるほどー」

と私は大きく何度か頷いて見せてから、間を作る為にアイスティーをまた一口分啜った。

勿論私には演劇の裏側の部分は知らなかったが、神谷さん経由ではあるが、マサさんの悩みも分かる様な気がしていた。というのも、ご存知の通り私は今コンクールに向けて準備をしているのだが、その課題曲、それらは当然今から百五十年以上前に書かれた曲が中心な訳で、それらを演奏する上で今までの長い歴史が積み上げられていて、ある種の演奏法の様なものが確立されているのだ。コンクールともなると、いくつかある審査基準の中に、それらの奏法にマッチしているかも大きな比重を占められているのだ…っと、私は師匠から聞かされていた。ただ、他の人は当然違うのだろうが、勿論好き勝手という訳にはいかなかったが、師匠は私にある程度の自由を与えてくれていたのだと思う。コンクールの心得の様なものは、この様な練習をし始める初期段階で聞かされていたが、それ以降はそれほど口の端に上ることは無いに等しかった。恐らく、私がそもそもコンクールに出る事自体に意義を見出しているのを、流石の師匠は何も言わずとも察して、それに合わせた練習プランを練っていたのだと思う。もし雁字搦めに練習を押し付けられていたら、やめることは無いにしても、相当の割合でピアノ…いや、下手すると音楽含めた芸能自体に嫌気がさしていたかも分からない。

…また話が長くなったが、そんな事もあって神谷さんの今話した内容は、何の戸惑いもなくスッと飲み込めたのだった。

「因みにね?」

と不意に義一が私に話しかけてきた。

「二月のその日に何故美保子さん達がいなかったかって言うとね、その日の議題は予め決まっていて、その時の世情についての話と、いわゆる政治についてという大雑把で大まかな物だったんだ。だから、文化芸能の時には対談に出席して貰っているけど、この時にはお誘いしなかったんだよ」

「ふーん」

「まぁ尤も、芸能に携わっている人でも、当然どんな議題だろうと出席して頂きたいのだけれどもね…いつも参加をしてくれるのは、マサさんくらいだよ。後たまに勲さんとか」

義一はそう言うと、ふと向かいの美保子達に恨めしそうな視線を向けた。すると途端に美保子が初めは軽い笑顔を見せつつ「マサさんはどっちかって言うと、お酒目的な気がするけどね?」と返していたが、不意に私に視線を向けると、苦笑交じりに話しかけてきた。

「んー…、いや、話自体は面白いから、その場に行く事自体は良いんだけれど、意見を求められたりするからさぁー…教養の無い私みたいな芸人では気の利いた事を返せないし、場の雰囲気を壊すだけだと思って遠慮してるだけなのよ。…ねっ、あなたもそうでしょ?」

話しかけられた百合子は、手に持ったワイングラスをテーブルに置いてから、「…そうね、私もそんなところ」と答えると、これまた何とも言えないアンニュイな笑みをこちらに向けていた。

「…こう言って逃げられちゃうんだよー…」

義一は納得いかない調子で、苦笑い気味にビールをグビッと飲むのだった。とここで、私は今日のも含めた義一の態度を見て、一つの事を思いついたので、早速ぶつけて見る事にした。

「…義一さんってさぁ…オーソドックスの編集をしてるの?」

「…へ?」

私の言葉を聞いた義一は、ビールを吹き出さんばかりに驚いて、口からジョッキを離し、私の顔を目を大きく見開いていた。

するとその後には、神谷さんも含む一同が、それぞれの仕方でクスクスと笑うのだった。

私一人が状況を飲み込めずにキョトンとしていると、まず美保子が笑い交じりに話しかけてきた。

「あははは!そうだよねぇー!義一君は確かに編集者って感じがするよ」

「ある意味…」

と今度は神谷さんが、優しい笑みを零しつつ言った。

「ここに集まる面子の中で、一番この雑誌…いや、この集まり自体を大切に想ってくれてるのは、義一君かも知れないねぇ」

「いやー…。あ、いや、琴音ちゃん?」

神谷さんに言われた言葉に対して、照れ臭そうに頭を掻いていたが、義一は私に視線を戻すと苦笑気味に返すのだった。

「僕はこの雑誌を編集してないよ。また別に、編集の人はいるんだ。西川さんが見つけてきた敏腕の方のね」

お忘れの方がいるかも知れないので一応念のために補足しておくと、西川さんはこのお店のオーナー兼雑誌の筆頭スポンサーだ。神谷さんの大学時代の後輩にあたる。

「その人は普段はここに来られないんだけど、雑誌のコーナの一つ、対談コーナーを書き起こす為にここに来るんだ。因みに、二月の事についてより詳しく説明すると、雑誌のコーナー内対談の本番時だったんだけれどね」

「…ふーん、なーんだ、違うんだね」

私は義一からの細かい情報には反応せずにガックシして見せたが、特にそれについての感慨は無かった。ただのポーズだった。それは義一も承知の上だった。

それからまた、今度は私も含めて笑い合ったのだが、ふと今までの話の流れを思い出し、誰に言うでもなくボソッと声を出した。

「…あっ、それで、マサさんの悩みの話はどうなったの?」

それを聞いた神谷さんは、苦笑気味に照れ臭そうにしながら受けた。

「…あぁ、そういえばまだ話の途中だったね。今ちょうどその時の集まりのことが出たから話しやすいんだが…そう、今義一君が言った様に、その時に集っていたのは、この雑誌の中でも”政治”…いや、もっといえば”政治思想”に見識のある人々だったんだ。だから、初めは雑誌の中身について話し合う前の雑談の一つとして、マサさんに話を聞いたんだが、中々にその中身が面白かったもんで、そのまま暫く”人形の家”について、その場にいた全員でお喋りを始めたんだ」

「…へぇー、政治を専門にしている様な方々でも、イプセンとかの古典を読むんですね?」

私は他意のない素直な感想をポロッと漏らした。

すると今まで和かだった神谷さんの顔つきが変わった。

尤も、マイナスの意味ではなく、前回にも見せた好奇心に満ちた笑みだった。

その顔つきのまま神谷さんは私に話しかけてきた。

「んー…琴音ちゃん、君は何でそういった感想を持ったのかな?」

「…え?…え、えぇっと…」

まさかそんな所に食いつかれるとは思わなかったので、少しドギマギしてしまった。だがすぐに答えるのが礼儀だと思ったので、動揺が収まらないままに応えた。

「そうですねぇ…うん、たまにしかテレビは見ないんですけど、テレビでやってる討論番組…って言うんですかね?それをたまに見ると、そこに出てくる出演者達は、大学教授だとか何々の専門家だとか大層な肩書きを名乗って出てくるんですけど、その人達の口から話される言葉というのがそのー…生意気な言い方ですけど、何か自分の専門分野についてペラペラと口が良く回るんですけど、そのー…内容空疎にしか感じなかったんです」

途中から、神谷さんの質問に答えてるつもりがズレていってしまってる事に気付きはしたが、そのままここまで話し切ってしまった。

神谷さん…いや、この場にいた全員がいつの間にかこちらに注目してきていたが、私が話し終えると、神谷さんは先程と変わらぬ表情のまま聞いてきた。

「…ふんふん、それで、そこから何で君が、政治を専門にしている人が古典を読んでいる事について疑問に思ったという話になるのかな?」

神谷さんの眼差しは、パッと見は優しげだったが、一方で射竦められるほどまっすぐな視線だったので、また私は少しタジタジになった。だが理由はそれだけではなく、そろそろ自分の頭の中だけでは限界がきている様に感じていたのだ。要するに、ここでメモ帳を取り出していいものかどうかを考えていたのだった。久しぶりというのもあってか、少しばかり悩んでしまったが、よく考えて見れば、前回も途中からメモを使っていたし、この場にいる全員もそれぞれメモを取っていたので、遠慮をすることはないと気付いたのだった。

私はおもむろに前回も持参したミニバッグから、これまた前回の時に使ったメモ帳を取り出すと、そこに今までの話の流れを書き込んだ。

とここで、前回もしたのだから良いだろうと思ったけど、一応断ってからのほうが良かったかと思い、恐る恐る顔を上げると、神谷さんは私に微笑みかけていた。そして手元には、いつの間にかメモ用紙一枚を置いて、すでにそこに何か書き込んでいた。

ふと周りを見渡すと、他の一同も皆それぞれのメモ帳を取り出し、何かを書き込んだ後らしく、ペンを握ったまま、これまた神谷さんと同じ様にこちらに微笑みを送っていた。隣にいた義一もだった。

と、少し長めにキョロキョロ見渡していたのだろう、神谷さんは私に苦笑気味に、

「続きをお願い出来るかな?特に最後に言った”内容空疎”と感じた訳についても」と促してきた。

その言葉にハッとし、少し照れ臭くなりつつ先を続けた。

「は、はい…。内容空疎と感じた訳は…その時もそうだったし、今でもそうなんですけど…うん、何というか話している言葉の数が絶望的に少なかったんです。…うーん、そう感じたとしか言えないんですけど…」

「…ふーん、なるほどねぇー」

神谷さんはまた何かを紙に書き込んだが、顔を上げると、真っ直ぐな視線を向けてきつつ質問してきた。

「言葉の数が足りない…それは要するに”語彙”が少ないと君が感じたという事だよね?…じゃあ、それが一体どうして内容空疎に繋がるのかな?」

「あっ、それは…」

今思えば、神谷さんが上手いこと疑問を呈して、私が一人では纏めて言葉に出来なかった考えを引き出してくれたのだろう。そう質問されてからはスラスラと言葉を紡いで返せた。何故なら…ここまで我慢強く話を聞いてくれた人ならお気付きだろう。…といっても大分昔の話だからお忘れの人もいるかも知れない。

”語彙”が大事…この様な話は既に、義一と何度も会話した内容だったからだった。義一が言った言葉、『子供の頃に、上質の文章に触れておかなければならない』この上質な文章という言葉から、今の話に合う様に少し発展させて言うと『上質な文章の条件の一つには、過去に生み出されてきた多種多様の”語彙表現”が含まれている事』となる。ここでまた一つ思い出して欲しい。これまで義一と二人で…いや、前回のここでの議論の中でも出た”言葉”の重要性。それらを要約して言うと、『自分が持っていて且つ使いこなしている言葉の数…言い換えるとそれが”語彙”となる訳だが、もし仮にその語彙の数が百しかないとしたら、百通りの考えしか出来ないというのと同じ意味になる』となる。人は物事を考える時、当然言葉を屈指し組み合わせつつ考えている訳だが、その言葉自体が少ないと、考えの幅がそれだけ小さくなってしまうという事なのだ。

と、ここまで述べてきた様な内容をツラツラと私は一人で話し続けていた。そして…

「…だから、勿論専門的な知識は当然私は持っていませんけど、その人の話す言葉自体に何て言うのか…”重さ”の様なものがない時点で、どんなに調子よく喋っているのを聞いても、空疎に感じて聞くに値しないと…思った…んです」

私は最後の方で急に自信が無くなってしまい、周りの顔色を伺いつつ途切れ途切れになってしまった。後、話し終えた直後に、今否定的に話していた人種に、自分がなってしまっていないかと自戒してしまったのだった。

少し熱っぽく話していたせいか、周りの様子が見えていなかったが、話し終えると辺りは静まり返っていた。時折一同がチラチラと、私と神谷さんの顔を見比べてたくらいだった。暫く神谷さんは手元のメモ用紙に目を落としていたが、ふと顔を上げた。その顔は初めの頃は無表情とも言っていい顔つきだったが、徐々に和らげていき、遂には普段の好々爺な笑みを浮かべていた。そして口調も柔らかく私に話しかけた。

「…ふふ、なるほど、君の言い分はよーく分かったよ。その番組を直接見た訳ではないけれど、大凡の見当は付く…うん、君の様な見解は、この場にいる…いや、ここに集うみんなの共通した見方だよ」

「…じゃあ」

「そう、反論の余地どころか、諸手を挙げて同意するよ。…ただ、私に同意されたからといって、何だと言われたら何も言い返せないんだけれどね」

神谷さんはまるで悪戯がバレた時の子供がする様な笑顔を見せつつ言った。私も合わせる様に笑顔を返したが、内心はホッとしていた。

神谷さんはああ言ったが、私としても、この様な考え方が世間一般ではないことくらいよく分かっているつもりだった。だからこそ、何度考えても正しいとしか思われないし、義一と何度も議論を重ねてもますます確信を深める結果になったとしても、その考え方を誰かに話すときは緊張してしまうのだ。分かられないばかりか、変人扱いされてしまう…世間に変人扱いされてしまうと、いくら我を張っていこうとしても、楽に生きるのは不可能に近いということは、様々な例…一番近くで言えば義一を見ればすぐに察しがつく。私も、何度めになるか忘れたが、幼稚園の時に変人扱いされて以来、なるべく周りに合わせて、悪目立ちをしない様に生きてきたつもりだ。だから、義一相手にもそうだったが、いくら意識の上ではこの場では”普通の子”を演じなくても良いことは分かっているつもりでも、幼稚園の頃からの”癖”は中々抜けないものなのだ。だからやはり緊張をしてしまう。

「しっかしまぁ…」

神谷さんは、やれやれと言いたげな呆れ顔で、私と義一を交互に見てから、まず義一に話しかけた。

「高校生の時に初めて義一君に出会った訳だが、その時にも君に対して、色々な物の見方について若年ながら深い見識に舌を巻いたものだったが、それと同時に何だか可哀想な気がしたものだった。…これは、初めから君に直接言っている事だね?…うん、さて…」

と今度は私に視線の向きを変えた。

「そして琴音ちゃん…君だよ。さっき義一君を形容したのと被ってしまうのだが、君はまだ中学生だというのに、既にそこまでの考え方…いや、もっとハッキリと言えばその歳にして、”思想”をしっかりと身に付けている。…これは嫌味で言いたい訳では無いことは、君なら分かってくれると思うが、勿論まだまだその”芽”が出て来た位のものではあるのだがね」

「はぁ…」

と私は何と答えていいのか分からずに、溜息とも受け取られかねない間の抜けた返事をしてしまった。これも前回から感じていた事だったが、気を遣ってくれているのは分かるのだが、中々に直ぐには分かり辛い言い回しのせいで、素直に喜んでいいのかどうしたらいいのか、受け手の私としては図りかねる所なんかは、本当に神谷さんと義一はそっくりだった。口ぶりでは”非公式”らしいが、流石は師弟といったところだろうか。

そんな私の反応には与せずに、神谷さんは言葉を続けた。

「…おほん。少し逸れてしまったが、琴音ちゃん、君はそんな若い歳にして、そこまで身の回りを含む世の中の矛盾を直ぐに嗅ぎつけて、しかも普通の人が流すところを君はその未発達な体を屈指してぶつかって行ってる様に見える…」

「…」私は黙って聞いていた。が、神谷さんがそんな話をし出したのと同時に、私は昔の懐かしい思い出に浸っていた。そう、今彼が話してくれている内容は、小学生の頃、義一が私に何度も話してくれた内容だったからだ。最近は流石に、義一本人が話し飽きたのか、それとも私が無意識に、何度も同じな話をされる故にうんざりな表情をしてしまったのか理由は定かでは無いが、この様な内容を話してくる事はなくなっていた。

なので、久しぶりという事で、ある意味新鮮な心持ちで真剣味を帯びつつ話を聞けた。

もしかしたら、先程に言った表情をしてしまったのか知らないが、急にここで話を止め、神谷さんは剃り上げられた頭を撫でつつ照れ臭そうに言った。

「…っと、いやー…こんな話をしたかった訳では無かったのだが、ついつい偉そうに一方的な人物評をしてしまった…。本人を前にしているのに、琴音ちゃんゴメンね?」

「え?あ、あぁ、いえ…」

と私は急に謝られたので、すかさず気にしてない旨を、少しばかり微笑を交えつつ伝えた。

「むしろ、そう気を遣って頂いて嬉しいです」

「ふふ、ありがとう。…でも、そういう君の今の言葉も、相当私に気を遣ってくれてるね?」

「あ、いや、その」

「あははは!ごめんよ?からかったつもりは…無い事もないけど、ついつい君が”出来過ぎ”な返しをしてくるものだから、こうしてからかい気味な言葉を放ってしまうんだ」

「はぁー…」

今回のコレは、無意識ではなく意識的に漏らした溜息だった。

そんな私の様子を愉快げに見ていた神谷さんだったが、その笑顔のまま続けた。

「まぁ前回にも…いや、言ったかな?ちょっと覚えてないから重なってしまうかも知れないけど、一つだけ言わせて貰えれば、君みたいなそんな一般から見たら過剰に敏感過ぎる様に見える精神が、せめてこの場にいる間は休めると良いなと、私は勝手に願っているという事を、頭の片隅に置いてくれるかな?」

そう言い終えると、神谷さんは目を瞑り、顔のシワが寄り集まってクシャッとした様な笑顔を見せた。その様子があまりにも明け透けで、失礼な言い方かも知れないが、可愛いとさえ思えて、私も思わず自然な微笑みで返した。とここまで静かに私達の話を聞いていた一同も、一緒になって笑い合うのだった。

と、今までの会話も、自分で大事だと思った点は漏らさずメモしてきた訳だったが、ふと、メモに目を落とすと、ある一つの言葉が目に付いた。それと同時に、またもや私の中の”なんでちゃん”が目を覚ますのを感じるのだった。こうなると聞かない。一応抑えようとしたのだが、時すでに遅く、口から声が漏れてしまった。

「…”思想”って」

「…ん?何かな?」

神谷さんは先程よりかは落ち着いた雰囲気の中、升に入った日本酒に口をつけた所だった。

私はこの一瞬のうちで、何とか先を述べるのを抑えて、結果的に黙り込んでしまったが、何かを察したか、神谷さんは柔和な微笑みを見せつつ話しかけてきた。

「…ふふ、さっきも言ったじゃないか?この場では遠慮は要らないと。それに…」

とここで神谷さんは、少し意地悪げな笑みを浮かべつつ言った。

「君は稀代の質問魔だそうじゃないか?」

「…へ?」

私は思わず声を上げたが、その後すぐに隣の義一に視線を向けた。そんな事を言いそうなのは、義一か聡のどちらかだったからだ。でもこの時何故か、そう言ったのは聡ではなく義一だと直感が働いた。それは今でもどこから来たものかは分からない。ただそう思ったが故に、すかさず義一を見たのだった。

私から熱い視線を向けられていた当の義一は、私に振り向く事なく、明るい調子で代わりに、

「そうなんですよー。琴音ちゃんは”なんでちゃん”なんですから」

と神谷さんに返すと、その直後に向かいに座る美保子が

「あぁー!前にも確か言ってたね?琴音ちゃんの事を”なんでちゃん”って」

と、少し酔いが回ってきてるのか、語気を少し強めに言い、その後に私に笑顔を向けてきた。私は一人タジタジとなっていた。

…余計なお世話かも知れないが、もしかしたら誤解されている人がいるかも知れないので、念の為言わせて頂く。ここまでの単純なやり取り…もしこれが例えば…うん、お父さん達がとぐろを巻いている”社交”の場において、私を称して今の様な会話がなされたら、憤りと同時に深く傷を負っただろうが、この場合は違う。義一はそれこそ初めて出会った頃からそうだったが、先程も神谷さんが言ってくれた様に、私にとっては多過ぎるほどに”本当の私”に対して最大限に気を遣う姿を見せてくれていた。その上での今の様な冗談めかした会話。当然からかいの気があったのは事実だが、それはそれ、私にとって最重要な事…そのからかいの中に”悪意”もしくは”敵意”の様なものが含まれていなければ、私も素直に冗談を受け止めることが”今では”出来るようになっていた。だから、タジタジとなっていたが、これは単純に、場に充満する冗談を言う雰囲気に、どう合わせればいいのかに戸惑っているだけだった。

それを知ってか知らずか…いや、勿論知っててしてるのだろう、私が苦笑いしてホッペを掻いているのを、皆して微笑ましげとも言える程に笑いが続いたが、ふと神谷さんはまた柔和な顔つきに戻って私に話しかけた。

「…だから琴音ちゃん、遠慮せずに何でも疑問に思ったら、どんなことでも良いから質問をぶつけてみなさい?質問された方としても、改めて色々と分かった気でいた事のなかから、新たな発見が見いだせるかも知れないのだしね?…我々の為にも頼むよ?それに…」

神谷さんはそう言い終えると、一瞬間を開けたかと思うとまた先程にも見せた意地悪げな笑みを浮かべつつ言った。

「…前回の君は、初めから全開で私達に質問攻めをしてきていたじゃないか?」

「…ふふ」

痛いところを突かれた私は、自分でも分からないまま何故か笑みを零し、その直後に苦笑に変わった表情を神谷さん…そして一同にも向けた。皆は特にこれといった動作は見せなかったが、何も言わずとも顔に『その通りだ』と出ているのを私は察した。それで益々気まずくはなったのだが、萎縮する様なものでは無かったので、神谷さんの言葉には触れる事なく、言われるままに質問をぶつけてみる事にした。

「えぇっと…し、思想って何ですかね?」

「…ほぉー」

私の言葉を聞いた神谷さんは、感心とも何とも言えない様な表情で声を漏らした。ふと視線を感じたので、目だけを隣に向けると、義一も声は漏らしていなかったが、神谷さんと同じくらいに口を開けていた。

「うーん…思想かぁ…」

神谷さんはそう呟きながら、紙に何かを書き付けていた。私の位置からは見えなかったが、おそらく”思想”とだけ書いたのだと思う。

「…これまた難しい質問が飛んで来たねぇ」

そう漏らす神谷さんの表情は苦笑気味だったが、何故か口調は楽しげだった。

「琴音ちゃん以外にも、今日はもう一人大事な客人が来られるんだけれども…」

「…え?」

ふと神谷さんが独り言の様に言った発言に、私はすぐに引っかかった。ん?もう一人この場に誰か来るのか?しかも、あんなにしみじみと、しかも”大事な”だなんて枕詞を添えてまで…。一体誰の事で、どんな人なんだろう?

と、私としては当然の事のように頭の中をそんな思考が渦を巻いていたが、折角の質問の機会、これを逃すわけにはいかないと、新たに湧いた虫を何とか抑え込み、神谷さんの先を待った。

「…っと、思想についてだったね?んー…あっ」

とここまで見るからにどうまとめて説明しようか思案している様子だったが、神谷さんはこれまたあからさまに何かを思いついたような様子を見せると、表情は前回の時の様に柔らかくはあっても眼光だけは鋭めに私のことをまっすぐ見ながら静かに言った。

「…琴音ちゃん、思想という言葉に触れる前に、少し寄り道というか、考えるヒントとして一つ上げたい言葉があるんだ。…思想と似たような言葉に”哲学”というのがあるね?」

「あ、はい」

私はさっき紙に書いた思想の横に、新たに”哲学”の言葉を書き足しつつ返した。

「思想と哲学…この二つの違いって何だと思う?」

「え?…んー」

私は手をメモ帳の上に置いたまま顔を上げて、一度神谷さんの顔を見てからまた目を落とし考え込んだ。

思想と哲学。この両者について今まで考えない事は無かった。そのきっかけは勿論、私と義一が再開したての頃に、義一が私に何故平日の昼間から土手で”逍遥”しているのかを説明してもらった時からだった。あの時は、アリストテレスを引き合いに出しつつ説明をしてくれた訳だったが、それ以降も度々色々な名前を引き合いに出して、その人の持つ哲学や思想を教え聞かせてくれていた。また、義一が宝箱の中から貸し出してくれた、今に語り継がれる珠玉の文学の数々。それらの中身どれを見ても、物語の中の随所で主人公やその他の登場人物らが突然自分の哲学や思想を語り始めるのだった。勿論物語自体にも引き込まれるのだが、ポツポツと述べられるその言葉の端々に、一々感心したり感動したり、大げさに言えば啓蒙されてる気がするのだった。

ここで一つ、よく言われる事なので、その事について反論したいが為に、勝手にここで述べさせて頂くことを許してもらいたい。…よく世間一般的な言い方の一つで、私みたいなのが物語の登場人物の言葉を引き合いに出して話すと、『小説などの物語というのは、”嘘”が書かれているんだから、本気で真面目に捉えるんじゃない』と、知ったかぶったしたり顔の大人達がよく言うものだが、私の考えは全く違う。勿論、”嘘”いう表現が正しいかどうかは置いといて、小説はフィクションと言う位のものだから中身を丸々信じてしまうのはどうかと思うけど、小説に限らず物語というものは全ての全てが作り話ではない。過去の文豪誰一人として、現実にあった出来事を元ネタに書かなかったのはいなかったのだ。何か一つの出来事にインスピレーションを刺激されて、それを書いてみようという意欲が湧き上がり、出来事自体はそのまま現実として存在する訳だが、それを見た作者自身の考え方…言ってしまえば各々の持っている独自のフィルターを通して見るから、ありのままを書いているつもりでも差異が生じてきて、そこに面白みが生まれるというものなのだ。それをまるで物語を全てが虚構の物と何も考えないまま”極論”を押し付けて来る”一般常識”をそのまま述べる大人達というのは、害悪でしかないとハッキリ言ってしまいたい。己の持てる全てを削りながら描ききっている作品には、読み手に何かしらの新しい考え、もしくは考え方を教えてくれるものなのだ。

…いや、日頃の鬱憤…もしくは義一との会話の中で築かれた文学についての見方が急に溢れ出してきて、止め処なく終わりを見つけることも出来ないままに無駄に話を長くしてしまった。…ただ、全員とは言わないが、ここまで辛抱強く私の話を聞いてくれた人なら、何となくでも私の言わんとする意図が分かって頂けると信じてこれで終える。

話を戻そう。神谷さんの問いかけについて、この時実際に頭を過ぎったのは、実はフレデリック・ショパンの事だった。それは何故かというと、ショパンが友人知人達に書き送っている所謂書簡集の様なものを、例によって師匠の蔵書の中から借りて読んだのだが、その中の一節にこんな言葉があったのだ。それは正確な引用ではないが『音楽家は哲学的であらねばならない』というものだった。勿論これは何気無く書かれた言葉であるし、ショパン自身がこの言葉についてどれほどの思索を重ねていたのかは判断つきかねるが、取り敢えずこの場で言いたかったのは、”音楽の詩人”と称されるショパンが、多かれ少なかれ”哲学”と”音楽”を絡ませて考えていたという事だ。課題曲なのも理由ではあるが、前にも言った様に散々エチュードを今まで好んで弾いてきた身としても、この見解は私にも大きな影響を与えていた。まとめを言うと、興味の発端は義一からだったが、師匠の蔵書を読み込んでいくうちに、尚更自分に”哲学”というものに本格的に触れたいという欲求が高まっていた時期だったという事だ。

また前置きが長くなった。話を戻そう。

私も私なりに、哲学と思想の違いを考えたことがあった訳ではなかったが、少なくとも哲学については興味がある事だけでも示そうと、経緯を話してみる事にした。

「…自信を持って述べられる程には深く思索したことは無かったんですけれど…哲学については、それなりに興味がありました」

この様な前置きを述べた上で、前段で長々と話した様なことを、私なりに頑張って纏めて掻い摘んで説明した。簡単に言えば、義一の件と師匠の件だ。

私の話を神谷さんを始め、一同が真剣な眼差しを向けてきつつ耳を傾けていた。考えてみたら、私の口から率先してこの類の事について話す事は無かったので、義一も真面目な顔をしてこちらを見てきていたが、好奇心を抑えられないのか目が爛々と輝きを放っていた。しかし妙な所で恥ずかしがり屋なので、義一の件の所を話すと、遮りはしなかったが、一人気まずそうに苦笑いを浮かべていたのだった。

私が話し終えると、一同は黙々とメモを取っていたので、辺りはテーブルとペンが当たるカリカリ音だけが、しばらく…およそ十秒間ほど鳴り響いていた。

予想では神谷さんから何か反応があるのかと思っていたが、まず口を開いたのは美保子さんだった。

「…なるほどねぇ、確かにショパンがそんな事をどっかで書いているのを見たことがあったわ…」

美保子はそう言う間、自分のメモに目を落としたままだったが、ふと顔を上げると、義一ばりの好奇心に満ちた眼差しを向けつつ言った。

「今まで何だかんだ…、いや、ふた回り以上年上の私が図図しく聞くのも、もしかしたらあなたに負担かもと思って敢えて聞いてこなかったんだけれども…あなたの師匠って何者なの?」

「え?」

まぁ師匠の話にも触れたから、話の方向がそっちにも及ぶかなくらいには思っていたが、いざこうして直接問われると、少し面を食らってしまった。

…確かに、初めの方でも言ったが、美保子や百合子にはまだ、私の師匠がどんな人で、どんな経歴を持っているかは話していなかった。といっても、何も秘密主義でした訳でもないし、何か後ろめたい事があったからでもない。何と言うか…今美保子が自分の口で言っていたが、そこまで聞かれることが無かったので、私も私で、連絡は取り合っていたといっても、直接会うのはこれで二度目というのがあって、ズケズケと自分を自ら曝け出す様な真似は…それなりに私も恥ずかしかったのか、話せなかったのだ。勿論私に”師”がいる事は話していたが、どの様な教えを請いていたかはまだだったのだ。繰り返しになるが、聞かれたらで良いと思った、ただそれだけだった。

美保子の質問にどこまで答えれば良いのか…いや、時間の許す限りにおいて粗方話しても良いと個人的には思ってはいたが、ただでさえ話が逸れてきているのに益々逸れてしまうんじゃないかと気が気じゃ無かった。結局、師匠の遍歴を話すのは時間が後であったら話すと前置きをおいて、師匠の蔵書には、その様な所謂ロマン派辺りまでの作曲家なり演奏家が書き残した芸論なりエッセイが大量にあって、それをちょくちょく借りている旨を説明するに終わった。その間は美保子だけではなく、百合子も神谷さんも興味津々に聞いていた。ただ義一だけは、この件に関しては何度か話したことがあったので、なんとか必死に纏めて話そうとしている私の横顔を、黙って微笑みつつ見ているだけだった。

取り敢えずのところ美保子が納得してみせると、今度は神谷さんが表情柔らかく話しかけてきた。

「なるほどねぇ…いや、この場では美保子さんは流石と言うべきか知っていたみたいだけれど、私は今初めて聞いて、深く感銘を受けたよ。…また嫌な顔をされるかも知れないけれど、それを今話した琴音ちゃん、君に対してもね?…ふふ。さて、それは置いといてだ、君は今話してくれたけど、敬愛しているショパンが哲学について触れたということで、音楽という芸能…ある種、言葉を使わない芸能にいるという立ち位置から考えれば、そんなに関係ないと思っていた”哲学”について関心を”深めた”のだね?」

神谷さんが最後の点々で囲った部分を強調して話してくれたので、私もその意図を容易に察して、すぐさま返答した。

「はい、その通りです。今先生の言われた通り、深めたのはそうですが…発端というかキッカケになったのは、ここにいる義一さんです」

私は話の途中から、神谷さんから義一へと顔の向きを変えつつ喋っていた。話題に取り上げられた当人は、何も言わず照れ臭そうに頭を掻いていた。神谷さんも私から視線を義一に変えて、そのまま話しかけた。

「なるほどー…そうそう、義一君からだと話していたね?義一君…今聞いたら、琴音ちゃんがまだ小学校五年生だったって話じゃないか?そんな年端もいかない…いや、今の年齢でもこの様な話についてこれるだけで凄いんだけれど、小学生の女の子に対して”アリストテレス”だの”逍遥”だのは無いんじゃないかね?」

字面にすると下手すれば叱っている様に見えるかも知れないが、実際は神谷さんの表情や口調は、苦笑いが三割、残り七割は心から愉快だといった調子だった。神谷さんがそう言い終えると、その他の美保子や百合子は顔を見合わせながら「そうそう!」だとか「義一君らしい!」と黄色い声を上げながら言い合っていた。私も場の雰囲気に流されたのか、自然と愉快になって「そうですよねー?」と乗っかったのだった。まぁ私の場合は、先ほどの”なんでちゃん”の事をイジられた”お返し”の意味合いもあったのは事実だった。

そんな中、義一は相変わらず苦笑いで照れ臭そうに頭を掻いているだけだったが、笑いが落ち着いてくると、口調も苦笑まじりにチラチラとたまに私に視線だけ流してきながら神谷さんに言った。

「いやー、今この場には僕の味方がいない様で、琴音ちゃんまで乗っかっちゃうから、言い訳しても言い訳にすら捉えてくれなさそうですがね?うーん…まぁちょっと卑怯に聞こえるかも知れませんが”事実”だけ言うと、琴音ちゃんにせがまれたんですよ…。っと、ここで慌てて付け加えれば、何も彼女を敵役にしようと企ててる訳ではなくて…うーん、まぁ一口に言うとですね、琴音ちゃんと話をしていて、ふと色々と質問をしてくれた時に、ついつい真剣味を帯びた目付きで見つめてくるものだから、聞かれたこっちも、相手の年齢の事を忘れて、大の大人だって面倒臭がって逃げ出す様な話で返してしまったんですよー…。先生だって…、それに美保子さん、百合子さんだってそうじゃありませんか?」

義一は途中までは何とか今の劣勢を乗り切ろうと、あれやこれやと辿々しく言葉を紡いでいっていたが、途中から何かに気づいたのか、あからさまに元気になって、最後には神谷さんと女性陣二人に向かって、強めに言い放って見せたのだった。…こう言うと語弊があったかも知れないが、勿論冗談交じりの臭目の演技だった。

「…ふふ、まぁそうだなぁー…。今回もそうだが、前回も大分深く込み入った本質的な議論をしてしまった」

そう答える神谷さんも、先程までの義一と同じように照れ臭そうに頭を撫でていた。

「ふふ、そう言われたら私もそうだわ」

「…私も」

美保子と百合子もそう口から漏らすと、こちらは男性陣と違って、そんな自分の事が自分で愉快だと言いたげに笑顔を見せていた。

しかしここでまた困ったのは私だった。また目の前で私の事を話されてしまったので、どういう態度、どういう表情でいれば良いのか皆目分からなかった。自分では当然見れていなかったが、おそらく何とも形容のしようの無い表情を浮かべていた事だろう。

場の雰囲気も、何とも言えない微妙としか言いようのない空気が流れたが、不意にその空気を入れ替えるように、神谷さんが口火を切った。「まぁこの話は、この場にいる全員が”有罪”ということにして…決して開き直る訳ではないが、こうして琴音ちゃん自身が望んで質問を投げかけてくれたのだから、話を戻そうと思う。…良いかな琴音ちゃん?」

「はい、是非!」

私は待ってましたと、意気揚々とペンを開いたメモ帳のページの上に置いた。準備は万端だ。

そんな私の様子を見て、一瞬愉快げに笑ったかと思うと、例の柔和な表情を浮かべつつ、静かで鋭い視線を向けてきながら話し始めた。

「さて…。まず確認なのだが、義一君、今までずっと彼女は君の書庫から本を借りて読んでいるって話だったが、話ぶりから察するに、まだ哲学やら思想の類の本は貸してないようだね?」

「はい。…でも、ほんの数年で古典文学の”王道”と見られる所は網羅し始めたので、今は”歴史”を中心に貸して上げています」

「ほっほぉー…文学から今は歴史ねぇ…」

神谷さんは、そんな事を呟くと、一度私と義一の顔を見比べるように交互に見てから、また義一に話しかけた。

「…それは、谷さんの説だね?」

「はい、その通りです」

「…谷さんって?」

新たな名前が出てきたので、慌てて私は横槍を入れた。何となくそのまま流れてしまいそうでもあったからだ。

すると義一は私の方に振り返ると、柔らかな笑みを浮かべつつ答えた。

「ほら琴音ちゃん、覚えていないかなぁ…君に何故まず古典文学を貸して、そして今は歴史の本を中心に読んでもらっている理由」

「勿論覚えているよ」

私は若干ムキになってすかさず返した。義一には悪気など露ほどもなかったのだろうが、こう躍起になって応えたのは…まぁ単純に私自身がまだまだ精神的に未熟だったのだろう。

「アレでしょ?確か数学者だって人が、これに括る事は無いんだけれど、一応の目安として、まず文学を修めて、次に歴史、その次に哲学や思想を中心に修めた方が良いって言ってたって」

私はまだ興奮が冷めやらないままに、鼻息荒くそう応えた。

義一はそんな私の様子を、これまた微笑ましげに見つつ聞いていたが、その表情のまま声も明るく返した。

「そうそう!流石の琴音ちゃん。ちゃーんと覚えていたんだね」

「…もーう、良いからそれは。…あっ、って事はその数学者っていうのは…」

「そう!今話に出た谷さんの事なんだ」

義一はお茶目”ぶって”ウィンクをしてきながら言った。

「ふーん」と私もつい素っ気なく返したが、ふと周りを見て我に帰った。とここで、もっと詳しくその”谷さん”の詳細を聞こうと思ったが、義一が途中から宝箱での普段の調子を見せるものだから、ついつい私も忘れて普段の気の抜けた感じになっているのに気づいた。神谷さん含む一同は、これまた微笑ましげな表情で私と義一の事を見てきていた。私は少し気恥ずかしくなったが、義一は違うらしく平然としていた。こういったところで、私と義一の感性が違っていた。また新たな不思議要素が追加されて、また”なんでちゃん”が目を覚ますのを感じたが、流石にここでまた疑問を発すると、もしかしたら今夜中に話が終わらなくなってしまうのでは無いかと、大袈裟ではなく危惧したので、何とか踏みとどまる事にした。

それはともかく、黙って私たち二人の会話を聞いていた神谷さんだったが、終わったと見たのか、また静かに口を開いた。「…なるほど、義一君はその真意まで話した上で貸しているんだね?」

「…あっ、いや、それはまだです!」

私は慌ててまた口を挟んだ。こうして一々話を止めるのは無作法なのは承知しているが、それでは話がズレてしまうと思ったから、失礼だと思っても訂正しない訳にはいかなかったのだ。

「ん?何がだい?」

「はい、私はまだ、何故文学の次に触れておくべきものが歴史なのか、その訳をまだ教えてもらってません」

「…え?…あぁ、そうなんだねぇ」

神谷さんはそう言いながら、視線だけを義一に向けた。

義一は一瞬面を食らったような様子を見せていたが、すぐに神谷さんに説明した。

「…ふふ、流石よく覚えているなぁ琴音ちゃんは。そうです、何だかんだ訳を説明するのが遅れてしまったんです。別に変に出し惜しんで先送りにしていた訳では無かったんですが…」

「ふーん、そうなのかい?えぇっと…」

とここで神谷さんは何故か時間を確認しだした。羽織っていたジャケットの裏ポケットから懐中時計を取り出し、文字盤を見ながら「まだ大丈夫かな…?」と呟いたので、私もつられるように腕時計で時刻をか確認した。七時になるところだった。

神谷さんは顔を上げると義一に穏やかな調子で話しかけた。

「…ではまぁ、まだ時間に余裕がある事だし、義一君、折角だから今説明して上げたら?私から話してもいいけど、それまでの経緯を詳しく知っている訳では無いから、ここは君が説明するのが良いと思うんだ」

「そ、そうですか…?いや、まぁ僕はそれで構わないのですが…」

と義一は言葉をここで止めると、向かいに座る美保子と百合子の方を向いた。すると二人とも、別に構わないと笑顔で了承した。

それを見た義一は少し躊躇い気味に私の顔を直視して、そして微笑みとも苦笑とも受け取れる、何とも言えない笑みを浮かべつつ話しかけてきた。

「んー…少しだけ言い訳させて貰うと、さっき先生にも言ったけど出し惜しみをしていた訳では無かったんだ。ただ…”色々”な出来事が起きたおかげで、タイミングがなかっただけなんだよ」

「ふふ、そんなの一々言われなくても分かっているよ」

義一の表情が少しだけ陰りを見せつつあったので、私は明るく笑いつつそう返した。義一は本当にこれまで見てきた人なら分かると思うが、大変に不器用なくせに、こうして相手に気を遣う事を忘れない人だから、何だか分かり辛い言葉や気の回し方をしてしまうのだった。他の人はどう感じるか知らないが、私はそんな義一の、昔に二人で議論しあった”本当の意味での優しさ”が大好きだった。勿論こんな、裕美のセリフじゃ無いけど『恥ずい』セリフは本人には言ってあげないけど。

「そうかい?じゃあ…」

義一は私の反応を見て安心したのか、こういう時に良く見せる、落ち着いた軽く微笑を湛えた様な表情をこちらに向けて来つつ、話し始めた。

「どこから話そうかなぁ…。あっ、琴音ちゃん、前に君と話している時に、『道徳とは何か?』について議論をしたことを覚えているかな?」

「もちろん!」

今度はムキにならずに自然体で返した。当然覚えていた。

「道徳とは何かを考えるに当たって、ヒントとして英語のmoralの語源を辿ることから始めたのよね…」

私はここで、以前…具体的に言えば去年の夏休みに義一と議論し、お互いに一応納得のいった答えに至るまでの道筋を掻い摘んで話した。その間私は隣に座る義一の顔をジッと見つめながら話していたので、視界の隅に見えた、僅かに微笑を浮かべている神谷さんの顔の他は、この時点では見えなかった。

と、私が話し終えると、そのすぐ後で向かいに座る美保子がため息交じりに口を開けた。

「…琴音ちゃん、よくもまぁその隣に座る”変人君”の話す内容を、そこまで自分の物にして、それを今みたいに順序立てて話せるねぇ…。しかもよりによって道徳についてだなんて」

「あ、いや…」

「ほらほら美保子さん?」

私がまた言い淀んでいると、今回は義一が横から助けに入ってきた。

「彼女は善いことをした事について褒められるのを、一番恥ずかしいと思う、本当の意味で謙虚な人間なんだから、あまり面と向かって褒めてあげないでよ」

と義一は呆れ顔でそう言ったが、すると美保子も意地悪く笑いつつ

「それはあなたも琴音ちゃんにしてる事でしょー?」

と返すもんだから、私もすかさず間に割り込み

「二人ともだから!」

と慌てて突っ込んだ。その後はほんの一瞬間が空いたが、すぐにその場の一同…私も入れてお互いに顔を見合わせたりしながら笑い合うのだった。

「はぁー…さてと」

笑いがひと段落つくと、義一はまたさっきの表情に戻り私に話しかけた。

「そう、今君が話してくれた様に、僕らの間では道徳についてその様な解釈が出来ると了解したね?…ちなみに一応念のために言っておくと、この場に集まる人らは皆同じ認識を持っているよ。ただそれを具体的にどう捉えるかで、それぞれに若干見方が違うだけでね?…君が前回ここに来た時に問題提起の一つとして話してくれた、本当の意味での”人それぞれ”という事だね」

「うん」

私は前回ここで、勲さん、そして神谷さんと”センス”について議論しあったのを思い出していた。

「…さて、ここで改めて歴史を学ばなければならない理由を話す前に、また一つ確認しておきたい事があるんだ。…いいかい?」

「うん」

私はメモに一度目を落としてから返した。準備は万端だ。

「そう…。では話すとね、これはキチンと口にして言ったことが無かったように思うけど、でも君には一々言わなくても大丈夫と思って省いていたんだ。…それはね、何故小学生の頃から”国語”…もっと言えば”文字”に親しんでおかなければならないのかって事なんだ」

「…ん?」

私は一応今義一が話した内容の中で重要だと思われる、点々で囲った部分だけをメモに書いたが、すぐに突っ込んだ。

「…いや、その理由はもう議論しあったし、お互いに了解してるのに、何でまた繰り返すの?」

「…ふふ」

私が若干ジト目気味の視線を送りつつ聞いたのに対し、義一は何も変える事なく答えた。

「いやいや、初めに断ったでしょ?君には一々言わなくても大丈夫と思ったって。…あぁ、まずこう言っとかなきゃいけなかったねぇ…”一般論”って。そう、今から僕が言う事は、あくまで一般論として聞いてくれるかな?」

「う、うん」

後出しジャンケンされた気分は拭えなかったが、今はそんな下らない事で時間を浪費してる場合じゃ無かった。先を促した。

義一は私の心境を察したか、少し照れ臭そうにしてから、すぐにまた表情に冷静さを取り戻すと、私の要望通り先を続けた。

「さて…。僕が君に文学…特に古典を読むように薦めた理由は、よく理解してくれてると思う。…でもこれも、本来はいきなり小学生に薦めるべき事では無かった…というのに、後で気付いたんだ」

「え?どういうこと?」

私は一瞬にして顔を曇らせたのは言うまでもない。では今までの話は何だったのか?

そんな私の表情を見て、想定内だと言わんばかりに義一は表情を変えずに落ち着いた様子で続けた。

「ふふ、さっきから言ってるでしょ?あくまで一般論だって。…また不用意に褒めてしまうことになるかも知れないけど、当時も言ったかなぁ…今の君も相当他の同年代の子達とは比べ物にならない程に成熟しているけど、当時…小学生の頃から君は、子供としては相当精神が成育していたんだ。…覚えているかな?君の繰り出す言葉一つ一つが、実によく練られていて、慎重に選び取って話している…その言葉遣いが面白いって」

確かに言われた覚えはあった。…それも一度ならずも。義一の他からも、例えば絵里、裕美、師匠からも。みんな同じ様に、飽きれて馬鹿にするのではなく、面白んでくれた。

「その言葉遣いを褒めた時にも言ったと思うけど、その源泉には、昔から…僕とここまで親しくなる以前から、しっかりと古典を読んでいたことにあって、しかもそれを自分の血肉にしていたからこその芸当だろうってね」

「血肉…」

私は思わず自分の体を見渡した。同じ様な事を言われたのを覚えてはいたが、改めて言われると、それがどういう意味を含んでいるのか考えると、すぐには飲み込めないことに気づいた。

義一はそんな私の様子を優しく見守る様な視線を向けつつ、先を続けた。

「うん。…ここで人の名前を急に出して悪いけど、十九世紀を代表する歴史家にして保守思想家と称されるヨハン・ホイジンガが言った言葉を参照させて貰うね。…それは、こんなだった。『今の時代…』これは勿論一九世紀当時の事だね?『過去の経験を絶する”一般国民教育”という名の、ありとあらゆる知識が大衆にもたらされている。だが大衆は、その知識を生活のなかにとりこむことが出来ずに戸惑う。消化しきれぬ知識は判断を阻害し、知恵のゆくてをはばむ。一般国民教育(オンデルワイス)、すなわち下等の賢さ(オンデルワイス)。これは忌むべき言葉のあそびではある。だが、不幸にも、この意味するところは深い』ってね」

「オンデルワイス…」

私は今の義一の話した内容を、聞きつつその場で要約し、それを紙に書き込んでいった。そしてキーワードである”オンデルワイス”という聞き覚えのない単語を恐る恐る呟いてみた。だからといって、別に急に親しみを覚える事は現時点では無かったが。それよりも今は、何故義一がこの話を私にしてくれたのかを考えた。しかし、当たり前といえば当たり前だが、すぐにはその意図を汲み取ることは叶わなかった。だが、義一は普段から、本人も認めている様に、少しばかり前フリなどが長くなってしまう兆候があったが、その話す内容どれ一つ取っても、無駄なものなど無いばかりか、結果的にキチンと何故その話をしたのかを納得させてくれていた。だから、今回の話も、関係がなさそうに見えて関係があるだろう事は十分推察できた。だが結局…

「んー…今の話はとても面白かったし、参考にもなって、十分納得のいく事だったけど、これが今までの話とどう関係してくるわけ?」

と素直に疑問をぶつける事にした。

すると義一は、普段”宝箱”で私に見せる、好奇心に満ち溢れた子供の様な笑みを一瞬浮かべてからゆっくりと話始めた。

「ふふ、それはねぇ…今名前を出したホイジンガ…彼が指摘したのは、大衆たちは以前と比べたら確かに学校で教育を受けてるから、覚えた知識の数は多くなったけれど、要は覚えただけで、それを自分の人生に全く生かせていけてないって事なんだ。つまり…頭でっかちになっただけで、血肉には出来てないって事なんだよ。で、ここからが本題…何故彼ら…いや当然今の時代の大衆にも言える事なんだけど、何故に折角覚えたはずの知識を生かせないのか…?それは…」

「…あっ」

とここまで黙って聞いていたのだが、ふと義一の説明を聞いて、一つの考えが浮かんだ。それで思わず声を上げたのだった。

そんな私の様子を見て、義一は話を中断し、私の言葉を待った。いつもこうして義一は、私に考えを述べる隙を作ってくれる。

私はゆっくりと、思いついた事を話した。

「それって…要はテストで良い点取るためには必死に覚えるけれど、テストが終わってしまえば、その時に覚えたものを忘れてしまうっていうのと…同じ事なのかな?」

「…ふふ、そう、その通り!」

義一は大袈裟に喜びを見せつつ返してきた。ふと、義一の肩越しにチラッと見えた神谷さんもが、和かにこちらに笑みを向けてきてるのが見えた。

「あぁ、確かにねぇー」

言葉を発したのは美保子だ。

美保子は、ワインの入ったグラスを揺らし、中の液体を攪拌させつつ言った。

「確かにそんな感じだったわぁ。…テストが終わっちゃうと、もう忘れちゃってるの」

「…美保子さん、それって何年前のこと?」

静かな調子だが毒っ気を多く含ませて言ったのは百合子だ。顔は雰囲気に似合わず多少意地悪な笑みを浮かべていた。初めて見た表情だった。すると美保子は薄目で百合子を見て、「あなただって、私と変わらない歳でしょー?」と言いながら肩を軽くぶつけていた。その直後には二人で笑い合っていた。

そんな二人がじゃれ合っているのを見ていると、義一がコホンっと一度咳払いを小さくしてから、私に和やかな表情を向けつつ続けた。

「…とまぁ、とりあえず、今君が具体例を示してくれたけど、次はその理由を考えて見なければならない。…それはね、こうだと僕は思うんだよ。今君と美保子さんが言った様に、そもそも試験が終わるなり忘れてしまうの自体どうかと思うけど…」

「いやぁ…」

美保子は照れ笑いを浮かべていた。私もそれを見てクスッとしたが、義一は一瞥をくれただけで調子を変えずに続けた。

「まぁそれ自体にフォーカスを当てて考えると、マニュアル通りにしか教える事が出来ない教師だとか、それ用にしか作られていない教科書…それらの複合的な原因によって生み出される、試験でいい点を取ることしか考えていない”打算的”な生徒…っていう具合に、どんどん話が逸れていってしまうから、この辺で止めとくけど…じゃあもしそれらの問題が全部一掃されたら、知識や知恵が”血肉”になる様になるかというと…必ずしもそうは思えないんだ。そこで出てくるのが…文字に親しむ力…読解力なんだ」

「…あぁー」

ここに来るのかぁー…っと、私はそこまでは言わずに、声を漏らしただけに留めた。また話を中断させてしまうのは意図するところではなかったからだ。その意を汲み取ってか、少し陽気な顔を見せつつ先を続けた。

「…ふふ、何故かって言うとね?もし皆が漸く今までの”教育法”に誤りがあったと認めて、いざ過去から続けられてきた”正攻法”に取り組もうとしても、読解力…いや、もっと単純に言って、文字がズラッと並んでいる文章を見て、嫌気が差さず、我慢強く辛抱して、何百ページもある本を、一編ではないにしても、読破できるほどの基礎体力がなくちゃ、とてもじゃないけど、本当の意味での”学ぶ”ことが出来ないんだ」

本当の…

これが義一が撒いた餌だというのは、仮に付き合いが浅くても分かりそうなものだったが、こういう時はいつも”敢えてわざと”その餌に食らいつくのが習慣になっていた。

「学ぶ…ねぇ…。”本当の”だなんて枕を一々ワザとらしく置いたって意図は、説明してくれるんでしょ?」

と私は少し挑戦的な視線を向けて、生意気な相手を試す様なニヤケ面を見せた。ここまでが”普段通り””いつものやつ”だった。

待ってましたとばかりにニコッと満面に笑みを浮かべると、また一段明るく調子を上げて言った。

「うん、その通り。…って、この”学ぶ”については君と深く議論をしてみたかった事なんだけれど…まぁ、遅かれ早かれ自分でも君なら、今から僕が話す程度のことは到達していただろうから、このまま言おうかな?…コホン、それはねぇ…またいつもの様に語源を辿って見るとヒントが見つかるんだ。…はは、そんな目をしてこなくても、ちゃんと話すから待ってて?…この”学ぶ”の語源はねぇ…”まねぶ”から来てるんだよ」

「マネブ?」

私は一応メモにそう書いてから、また先程の様に口に出してみた。確かに”まなぶ”と似ているといえば似ているが、それが何を意味してるのかまではまだ分からなかった。

「…ん?あはは!そうそう…まねぶ」

義一はふと私のメモを見ると、私の手から何も言わずペンを取り、そして”マネブ”と書いた字の下に”真似ぶ”と書き入れて、ペンを私に返した。「…あぁー」と私はすぐにその字を見て一人納得しかけていたが、そんな私の様子を見つつ、それには触れずに話を続けた。

「そう、もう君はどこかで気づいたかも知れないけど、改めてこれに僕の意見を付け加えつつ説明すればこうなんだ。”学ぶ”とは、過去に生きた先人達の残した技芸を真似ることにある…ってね」

「…そっか、真似るという事は、既にその対象が存在していなくてはならない…だって、今無いものを真似ようったって、そんなの不可能だもん。…だから必然的に、学ぶという事は、過去の叡智を真似るという事になるんだね」

「そっ!ご名答ー」

義一はそう声をかけてきながら、私の背中を優しく何度か撫でた。この時はまた、さっきみたいに”宝箱”にいる時と変わらず振舞っていたので、ついつい今が”数寄屋”にいるって事を忘れていた。だから、それなりに心を許している人たちの前とはいえ、普段だったらすぐに恥ずかしがっちゃう所だったが、この時はそのまま義一にされるがままになっていた。

義一は私の背中から手を離すと、また調子を戻してゆっくりと話し始めた。

「だから少し話を戻すと、”正攻法”で学ぼうとしたら必然的に過去の文献なり古典文学なりを読まざるを得ないわけだけど、そもそも字がいっぱい並んでいるのを見ただけでゲンナリしちゃう様な子供が、我慢して一冊一冊の本を読めると思うかい?」

「無理ね」

私は即答した。そんな間髪入れない返答が愉快だと言いたげに、また少し表情を明るくしつつ続けた。

「…ふふ、まぁだから人文社会科学系を学ぶにしても、天文物理化学生物系を学ぶにしても、まず先人達の研究成果なり何なりを学ぶところから始まるわけで、それをキチンと成る可く誤読しない様にする為には、まず読解力を磨かなくてはならない…全てはそこから始まると思うんだよね」

「…うん、それは分かった…っていうかまた一つ何で”国語”が大事かの理由が付け加えられて、とても満足なんだけど…」

と私は、今までの話をメモしたページを見つつ言った。

「それは良いんだけど…それで次に”歴史”が来るっていうのはどういう事なの?…いや、今までの話を聞いてて、読解力を身に付けてなければ歴史書だろうと何だろうと読み込めないと言いたいだろう事は、何となくでは分かるんだけど、それをもっと分かる様に説明して欲しいな」

「んー…」

私がそう言うと、義一はここにきて、この先のことをどう説明したら良いのか迷っている素振りを見せた。

しかし、自分で言うのも何だが私が視線を逸らさず真っ直ぐに見据えていたせいか、「ふぅ…」っと一度短くため息をついて見せてから観念した様に話し始めた。

「んー…いや勿論、これまで話してきたこと…僕の家の中で二人で話し合ってきたこと、そこで僕が発言した事は一切の誤魔化しもない本心を話してきたつもりだけど…やはり今だに、君にこれ以上ある種の”理想”を押し付けるのに引け目を感じてしまってるんだ」

「理想…」

「そう、理想…。今話してきた事だって、まず今の教育システムが瓦解してくれない事にはどうにもならない訳だけど、瓦解させるにはどうすれば良いのか、見当もつかないんだ…ここ数寄屋で何度も繰り返し繰り返し議論し話し合っているのにも関わらずね?」

「…」

義一の発言を受けて、私は思わずその向こうの神谷さんの顔を見た。神谷さんは笑顔だったが、少し寂しそうに気落ちしている様にも見えた。

「だからって、諦めてる訳ではないんだよ?折角さっきホイジンガの事に触れたから、彼の印象的な言葉…彼の発言の中で一番好きな言葉を引用させて貰うとね、この様なフレーズだったんだ。『私がこの世に対してどう見ているのかを書いたり話したりすると、絶望を振りまくな、そんな気が重くなる事ばかりを言うんじゃないとよく言われる。確かに彼らの言う通り、私が話す内容というのは絶望に満ちているのかもしれない、だが私は、私自身に対してとても”楽観主義者”だと考えている。何故なら…こんなに今の世に絶望しているのにも関わらず、私は死ぬ事なくこうしてペンを取り、書物を書き表したり、人前で話したりしているからだ』とね。ここで少し僕なりに補足すると、何故死なずにいて、絶望してても書いたり話したりしているのが”楽観的だ”と彼が称したのか…それは、絶望しつつも、もしかしたらこうして発言をし続けていれば、そのうち心のある少数の人々の耳に届いて、そこから何かしら救いが生まれるのではないかと言いたかったんじゃないかって思うんだ」

「…なるほど、確かに良い言葉ね」

私は今義一が引用したホイジンガの言葉をメモに書き加え、そして顔を上げてまた義一の顔を真っ直ぐ見つめて感慨深げに言った。少し微笑みを混ぜたと思う。義一は満足そうに笑うと、また続きを話した。

「彼は『朝の陰の中に』の前文に書いているんだけど、このフレーズが僕は大好きでねぇー…何度励まされたか知れないよ。僕らのやろうとしている事も、決して無駄ではないんだとね」

「…?僕らのやろうとしている事?」

と私が思わずその点について話を聞こうと試みたその時、

「義一君…」

と静かな声が投げかけられた。声の主は神谷さんだった。

その聞いたことの無い声の調子に、思わずまだ神谷さんの顔を見たが、その時にはいつもの好々爺な笑みを浮かべていた。

義一も神谷さんの顔に振り向いた。それと同時に神谷さんが呆れ笑いを交えつつ義一に言った。

「その話もいいけど…またどんどん話が逸れていってしまってるよ?何故歴史が大事かを説明してあげるのではなかったかな?」

「あっ、そうでした」

義一はワザとらしく頭を掻いて見せた。これは、本当に照れた時の動作でない事は、私には分かった。

それはともかく、”師”にそう突っ込まれた義一は少しバツが悪そうな表情を浮かべつつ、また私の方に向き直り話を続けた。

「ふふ、ゴメンね琴音ちゃん。また話が大きく逸れちゃった…。さて、話を戻すと、読解力を身に付けた後で何故次に歴史が大事になってくるのか…君はさっき”何となくはわかる”ってポロッと零していたね?…ふふ、僕はこう見えて人を見る目だけは自信があるんだ。何が言いたいかっていうと、君のその直感に近い感覚は間違っていないだろうって推測する事が出来るって事さ。君はこの様な思考回路を有していて、この様に答えを導き出すだろうってね?…はは、そんな呆れた顔をしないでよ?すぐに本題に入るから。…うん、この様な話をした時に、僕が言った言葉を繰り返させて貰うと、小学校に入ったら国語を、中学校に入ったら歴史を、そして高校に入ったら思想を中心に学ぶべきだ…この様な事だったと思う。…さっき先生が触れられていたけど、元ネタは、このお店に集まる一人、数学者の谷さんの言葉だったわけだけどね」

義一の顔つきは、すっかり宝箱で時折見せる”先生モード”だった。この場で見るのは初めてだった。神谷さんに遠慮してか、さっきまでの会話でも普段の表情を崩していなかったが、私と同じく、すっかり自宅にいる様な気になっていたのだろう。

「で、その時も言ったと思うけど、基本的には谷さんの言い分には賛成なんだけど、そこまで厳密にする必要はないんじゃ無いかとも思ってるんだ。いや勿論、小学生の時に大量に並ぶ文字に慣れる意味も含めて、国語を学ぶというのは大賛成なんだけどね。…さて、何故次に歴史を何故学ばなければならないのかだけど…琴音ちゃん、さっき君に、道徳について話を振ったよね?その時に二人で出した結論についての確認もしたと思うんだけど」

「え、えぇ…」

私は一応念のため、メモ帳の一つ前のページを見て確認した。ようやくここまで戻ってきたというわけだ。

「それでだけど…」

義一も私の開いたページを覗き見つつ、静かに声をかけてきた。

「何で僕が歴史の話をしようという時に、道徳とな何かについての確認を取ったと思うかい?」

「え?…んー」

私に考えさせる種をぶつけて来るタイミングも、いつも通りだった。本当に宝箱の中にいる気にさせられる。

私は少し考えては見たが、それはどちらかというと確認に近かった。それなりの考えは浮かんでいたのだ。何故なら…というか言うまでもなく、あらかじめ義一が”道徳”と”歴史”の間に親和性がある事を示唆して見せていたからだった。そしてこれは今に始まった事ではなく、既に”道徳”について話し合っていた時にもヒントが出ていたのだった。

私はスッと顔を上げると、義一の顔をまた直射する様に見つめつつ答えた。

「…義一さん、あなたは私にいつもの様に語源を辿って見せて、今回の場合は”道徳”について教えてくれたよね?道徳…つまり英語では”moral”なわけだけど、これの関連語の一つとして”mores”という言葉があるのを教えてくれた」

ここまで話した時、ふと私はこれまで誰も…神谷さんが義一に突っ込んだ以外に誰も言葉を発してないのに気付いた。一度ここで軽く区切り、何気無く周りを見渡して見ると、神谷さんもそうだったが、美保子と百合子までが何かをメモしていたのだった。と、ここで二人と目が合ったが、その目はとても真剣味を帯びていて、こっちが怖気てしまうほどだったが、すぐに思い直してまた義一に視線を戻した。思い直したのには色々理由があるが、敢えて一つだけ言えば、前回の時も、この二人は真剣にメモを取っていたのを思い出したのだった。

「それで…この”mores”という言葉の意味が”習俗、習慣”って意味なのも教えてくれたでしょ?」

「…うん、その通り」

義一はあの”モード”のまま、静かな、しかし優しげな口調で返した。

「それで、えぇっと…そうそう、道徳が何故大切かというと、昔から語り継がれてきた”善い”と信じられてきた事を重んじる事によって、その中を一貫して通っていた”道”の延長線上に、私達の向かうべき目的地があるんじゃないか、それを目標にして歩んでいくために色々と努力や研鑽を積んでいけば良いんじゃないか…そんな結論が出てたよね?」

「…うん、その通りだね。しかし…」

「う、うん…そ、それでね」

義一がまた私を褒めてきそうな雰囲気を醸し出してきたので、私は慌てて先を続けた。

「そこで歴史が出て来るんだと思うんだけど…うーん、ここからなのよねぇ」

私はメモしたものに目を落としつつ、ほおをペンの底で軽く押しながら呟いた。

「いや、何となく分かるのよ?習俗習慣が歴史に関係しているのは明らかだから、そこから何かを抽き出さなくてはいけないのだけれど…それが何かと聞かれたら、今の私じゃどう言えばいいのか…分からないわ」

そう言い終えると、今度は少しそのまま手元のメモに視線を落としたままの体勢でいた。何も後ろめたかった訳では無かったが、何故かこういう時は、こうして少し俯いて、黙って義一の発言を待つのが、これまた習慣の様になっていた。

ふとその時、私の背中に優しく義一が手を添えてきた。私が思わず勢いよく義一の方をみると、あの柔和で優しい微笑を顔一面に湛えていた。そして口調も合わせる様に、静かに声をかけてきた。

「…琴音ちゃん、君は嫌がるだろうけど、少しだけ褒めさせてね?

ほんと…今に始まった事じゃないから、これで何度目になるか分からないほどだけど、よくまぁその歳で、自分で言うのも馬鹿みたいだけど僕の様な分かり辛い物言いにも辛抱強く付き合って、終いにはそこまで深く理解し、そして今やって見せてくれた様に、自分なりの考えを付言するなんて…今この場にいる人も、皆して驚いていると思うよ?」

義一の言った通り、私は自分でも分かる程苦渋に満ちた苦笑いを浮かべていただろうが、そんな事を言うもんで、思わず一同をふと見渡すと、神谷さん、美保子、百合子と、それぞれが柔らかな笑みを浮かべていて、私と目が合うと、それぞれが一度づつ大きく頷くのだった。一周してまた義一の顔に戻ると、また静かに話し始めた。

「…さて、その話はこれくらいにして、今君が話してくれた事…ズバリ、それら全てが答えと言っても過言では無いんだよ」

「…え?どういう事?」

私は思わぬ言葉に、大きく目を見開かせながら聞いた。

「ふふ、それはねぇ…」

義一はまた軽く”先生モード”に戻ってから、先を述べた。

「まぁこれは…結論から話した方が分かりやすいと思うから言うとね、道徳というのは大事だ…それは僕たちだけではなく、一般論としてもそれは共有している価値観だと思う。ただ…琴音ちゃん、一口に道徳と言っても、”これ”という絶対的な定義というのは決められないんだよ」

「え?それって、どういう事?」

「うん、それはね?簡単に言えば、ある出来事が起きた時に、”絶対に”こう行うことが道徳的に正しいと、それこそマニュアル本に纏められるような代物ではないって意味なんだ」

「んー…」

今までの議論を引っくり返されるのかと早合点して、少し身構えたのだが、こうして説明されると、確かにそれは納得のいくものだった。

「確かに、そういう事はよくあるかも…。例えば…戦争だとか?」

と私は瞬間的に思いついた言葉を吐き出したが、それに対し、一瞬驚いた様な表情を見せたが、すぐに今度は和かな表情で私に話しかけてきた。

「そうそう!それが一番分かりやすい例えだよ。…戦争。確かに人を殺すというのは、人道的にも法的にもしてはいけないのは、人々が共有している価値観だと思うけど、でも戦争はどうだろう?もし自国の民を…いや、そんな大げさに言わなくても、自分の家族、恋人、友人達を守る為だったら、戦争で敵国民を殺す事も正義と言える…いや、少なくとも人類史を見れば、そんな争いばかりだったよね?」

「う、うん…」

ここで私が少し言い淀んだのは、若輩のくせして安易に戦争の話を振ってしまったという後悔…それも少しはあったのだが、それよりもふと、『そもそも何で、人を殺しちゃいけないのか?』という疑問が湧き上がってきたからだった。しかし流石に内容が内容だけに、普段…そう、宝箱で義一と二人っきりの時だったら、義一ならそんな質問をぶつけられても、流石に苦笑は禁じ得ないだろうが、辛抱強く私と一緒に考えてくれる、もしくは既に自分なりに導き出している考えを披瀝してくれるだろうとは思ったが、この場で”ついで”の様な形で質問するのは、とても勿体無い気がして、何とか思いとどまったのだった。

またこの時もう一つ、少し変わった事が私の中で起きていた…のに気づいた。それは、”私”の奥底に巣食っている、どす黒く、重さを持った、形容し難い”ナニカ”…それが、そんな疑問を思いついたと同時に、目を覚ました様な感覚を受けたからだった。だからといってこの時は、息苦しくなる様な事は起きなかった。だが、何か疑問を感じたと同時にその様な感覚を受けたのは初めてだったので、こうして記憶の中に鮮明に残っていたのだった。話を戻そう。

「…っと、先生」

義一はふと、神谷さんに振り向き話しかけた。

「まだ時間は大丈夫ですかね?」

「あっ、そうだねぇ…」

神谷さんはまたジャケットのポケットから懐中時計を取り出した。私もまたさっきと同じ様に、つられる様にして腕時計を見た。時刻は八時を過ぎた所だった。義一と二人で話している時も、そして前回の時もそうだったが、異様に時間が過ぎるのが早く感じた。

「…んー、まだ大丈夫…かなぁ?…琴音ちゃん?」

「あ、はい」

急に話しかけられたので、少しまごつきつつ返した。

すると神谷さんは、少し申し訳無さそうなので表情で言った。

「御免ね、まだ食事を出して貰ってなくて。…もうお腹がぺこぺこだろう?」

「え…あ、あぁ、いいえ…」

言われて気づいたが、まだ食事が運ばれていなかった。何度も言うように、ここに来るのは二度目だから、まだ色々なシステムを把握していたわけではなかったが、確かにそれにしても随分と料理が出るのが遅く感じられた。

「大丈夫です。こうして色々と話しているのが、何よりも楽しいですから」

と心からの笑みを神谷さんに送った。すると神谷さんは愉快だと言いたげに、あははと大きく笑うのだった。

一同もそれに合わせて笑う中、私は義一の耳元に口を近づけ小声で聞いた。

「ところでさぁ…そのもう一人って、一体誰が来るの?」

「え?」

義一は一瞬離れたが、私がそのままの体勢で動かないと見ると、またすぐに私の口元に耳を近づけた。

「だってさぁ…気になるじゃない?この場では一番のまとめ役であるはずの神谷さんが、こうして何だか”その人”に対して気を遣ってるように見えるんだもん」

「あぁー、確かにねぇー」

義一は一瞬神谷さんに視線を向けたかと思うと、今度は私の耳元に口を近づけて、小声で、しかし楽しげにこう言ったのだった。

「それはねぇ…内緒だよ。ただ…もしかしたら、その人を見たら琴音ちゃん、君も驚くか、もしかしたら喜ぶかもしれないよ?」



「さて、まだ話の途中だったね」

笑いが収まりかけた頃、義一がおもむろに口を開いた。

「そう、今君が例として戦争を出してくれたけど、これを少しまとめの様な形で言うとね、こうなると思うんだ。個人個人では正義だとしても、集団または全体として見ると不正義になったり、また逆に、個人対個人で見れば犯罪でも、集団対集団では”正義”となり得る…これは勿論戦争の事だけど、そう、こういったある種の矛盾が世の中にはあるわけだね」

「また一つ余計な付け足しをさせてもらえれば…」

とここで不意に話に入ってきたのは神谷さんだ。

神谷さんは口を挟んだ事について、今更になって恥ずかしそうにしていたが、そのまま話しだした。

「昔…そう、今から約百年前に活躍した経済学者…いや、厳密には違うんだが、イギリスにケインズって人がいてね…」

「あっ、ケインズ」

私は思わず知らず、その名前をおうむ返ししてしまった。そのすぐ後でハッとなったが後の祭り、神谷さんが目を大きめに開きつつ、興味を抑えきれないと言った様相で私の顔を覗き込む様にしながら聞いてきた。

「おっ、琴音ちゃん、ケインズを知ってるのかい?」

「え、あ、いえ…」

とここで義一の顔を盗み見ると、義一が笑顔で黙って大きく頷いたので、私は一度大きく息を吐いてから、説明した。

昔に義一に『勉強を何故しないといけないのか?』と質問した時に、ある女流経済学者の言葉を引用して見せてくれた事、その経済学者の師匠がケインズって人だと言うのを後で教えて貰った事などだ。敢えて、受験をするのが嫌だと、訴えつつだった事は伏せといた。言う必要を感じなかったし、何よりも…流石の私でもあの時の自分が熱くなりすぎていた様に感じて、今思い起こしても恥ずかしかったからだった。

私の説明を聞くと、神谷さんは一度義一に、感心した様な、呆れた様な、その二つをミックスさせた様な笑みを向けると、今度は私に向き直り、こちらには明るい笑顔を向けてきながら話しかけてきた。

「ふふ、なるほどねぇー。…では、そのケインズが何を言ったのかというとね、…”合成の誤謬”という言葉だったんだ」

「合成の誤謬…?」

私はまた口に出して見つつ、メモにその言葉を書いた。何だか一目では、またどんどん話が逸れて言ってる様に感じない訳では無かったが、一々その話の一つ一つが面白くて、ついつい夢中になって聞いてしまうのだった。

神谷さんは大きく一度頷くと先を続けた。

「そう、合成の誤謬…。これがどういう意味かと言うとね、さっき義一君が話したことの繰り返しになってしまうんだけれど、個々では正しくても、それらを合わせて集団として見ると、間違いになると言うことがあるって話なんだよ。…ふふ、少し分かり辛いね?んー…じゃあ一つ例を挙げると、ケインズに合わせて経済で考えてみようか?…ん?あははは!そんな難しい顔をしないでおくれよ、経済なんてとても簡単で単純な事なんだから。特に聡明な君ならすぐに理解出来るような話だよ。そもそもありとあらゆる学問と呼ばれるものの中で、最も簡単で、最も単純で、そして最もクダラナイ学問なのだから…。あ、いや、そんなことはどうでも良いね…さて、そんな経済の観点から考えてみよう。まず経済というのは単純に言えば、お金が世の中をどこかに停滞する事なく、グルグル循環する事によって成り立つと言って良いと思う。これを大前提として考えてみてね?…うん、で、あともう一つ、これはもしかしたら固定概念に囚われていると受け入れ難いかも…いや、君くらい若ければ大丈夫かな?この話は大人になればなるほど受け入れてくれない類いの話だからね…ゴホン、今我々は善かれ悪しかれ資本主義の世界に生きている。…うん、この資本主義とは何かについて語ると、とてもじゃないけど時間が足りないから、これも単純化して今の所は勘弁して貰うけど、取り敢えず資本主義というのを”誰かがまず借金をして何かに投資することから始まる”と頭に入れておいてね?…ふふ、頷いてくれてありがとう。では、今挙げた二つの大前提…経済とは世の中をお金がグルグル循環する事、あともう一つは、資本主義とは誰かが借金して、工場建てたりお店を構えたりする事から始まる…とここで琴音ちゃん?」

「…へ?あ、はい」

一心不乱にメモを書き付けていたので、まさか話を振られるとは思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。

それには特に触れずに、神谷さんは和やかな微笑をこちらに向けてきつつ聞いてきた。

「さて琴音ちゃん…今私が話した内容から、これまでの話も引っくるめて、何か思うところはあるかな?」

「え?…えぇっと…」

こりゃまたアヤフヤなフワッとした話題を振られたな…

と内心とても戸惑っていたが、ここでよく分かりませんと言うのも何だか癪だったので、何とか神谷さんの質問の意図を汲み取ろうと必死になって考えた。

「んー…まず思う所というか、こういう点でだろうなと思った点があって…それはですね、何で大人には受け入れられ辛いのかといった点なんです」

「うん、続けて?」

神谷さんは、あの柔和な笑みを浮かべつつも眼光は冷たく鋭い、例の表情をこちらに向けてきつつ言った。私は臆する事なくそのまま視線をぶつけつつ、チラチラたまにメモを見ながら続けた。

「はい、えぇっと…まぁ当たり前と言えば当たり前なんですけど、普通は借金というのは成る可くならしたくないものですよね?言うまでもなく。でも今先生が言われた様に、資本主義というのは誰かが借金をして投資…?と言うんですかね?それをしない事には経済が回らない…そんなことを話されたと思うんですけど、私は今聞いて素直に受け入れましたけど、確かに一般的な大人達は反発するだろうと思うんです。だって、個人で考えたら借金なんて”悪”に決まっているのに、社会全体で見たら、借金する事が”善”だなんて、単純に考えれば矛盾にしか思えないだろうからです」

「…うん、そうだねぇ」

神谷さんは、あの鋭い目を細めて、ニコリと笑みを浮かべつつ返した。

「…そう、それが合成の誤謬なんだ。個々においては良いとされている事でも、良い物を集めたからって、それで出来上がった物が良い物だとは限らないって事なんだよ。…君なら、これらの話を理解出来るよね?」

「はい、それはもう…」

危うく”簡単に”分かりますと言いそうになった。この時何故か、誰かに言われたわけでもないのに、容易くそう答えるべきではないと思い留まったのだった。

「さて…」

とこれまで黙って神谷さんの話を聞いていた義一が、ここでふと口を開いた。

「ここでグッと話を戻して、君が出してくれた疑問…何故歴史を次に読み込まなければならないのか…?これについてようやく準備が整った様だから、話し合ってみよう」

「う、うん」

毎度毎度の事だが、一つの疑問を出す度に、義一はいきなりどこか遠くの話をし始めてしまうので、ついつい元々何について会話していたのか忘れかける事がよくあった。その為にも、メモが手放せないのだった。だが別に不便だとか、ウンザリするだとかの感情を抱いた事は一度もなかった。何せ、今ではこの店に集まる人々と繋がりが出来たから、その限りでは無いが、義一が話す内容は、どれも初めて耳にする事ばかりで、しかも難しい話にも関わらず興味を惹かれる事ばかりだったからだ。…っと、この様な話は何度もしていたか、失敬失敬。

義一は一度神谷さんに振り向き、私には分からないような方法で何かの確認を取っていたが、神谷さんが何も言わずにコクンと頷いたのを見ると、また私に向き直り、そしてまた軽めの”先生モード”に戻りつつ話を始めた。

「さて…今確認したのは、さっきも同じような事を言ったけど、それに付け加える形で改めて言えば、道徳と一口に言っても、その状況状況によって何が正しいのか、変わってきてしまうといった様な事だったと思う…そこまではいいかい?」

「うん」

私は自分の取ったメモを確認しつつ応えた。

「良かった。…さて、ここからが本題、何故順番的に歴史を学ばなくてはいけないのか?…それはね、歴史に名を残した人物、もしくは国家が、その都度起きた危機に対して、どう対抗し、処理し、治めようとしてきたのか、その具体例が示されているからなんだよ」

「…」

私は変に相槌を打つ事なく、黙ったまま今までの話をメモを見返しつつ、今の義一の発言も合わせて考えた。

…なるほど

「なるほどぉー…。私なりに言い直せば、道徳が大事といくら言っても、いざ現実に生きてる私達が危機に直面した時に、どのように対処したらいいのか…それが導き出せない様では、道徳という言葉が空と化してしまう。それを知るには自分でアレコレ考える前に、まずは過去に似たような事例がないかを思い起こし、当時の人々がどう必死に当たっていたのかを知る必要があるってわけね?」

私がそう言い終えると、少しの間この場に静寂が流れた。その誰もが私に視線を注いでいたが、ふと隣同士で顔を見合わせるので、もしかして変な事を言ってしまったかと少しばかり不安になったが、ふとまた先程のように義一が私の背中に手を添えてきた。隣を見ると、義一はあの優しい微笑をこちらに向けてきていた。

私と視線が合うと、手をゆっくりと離してから柔らかな口調で語りかけてきた。

「…ふふ、良くこんなあっち行ったりこっち行ったりした会話の中で、そこまで自分の中で纏め上げる事が出来たね。…うん、その通りだよ。過去のいわゆる”道徳家”達は、道徳とは何かを説明しようとした時には、古今東西問わずに、過去の事例を引いていたんだ。琴音ちゃん、君でも知っていそうな所で言えば、西洋だったらいわゆる”五賢帝”とかカトーを持ち出したり、東洋…この場合は古代の中国だけど、”聖王”と現代まで崇められてる”文王””武王”親子だとかね、そういった実際の現実に対処して”政”をしてきた事例を紐解けば、ソックリそのままは当然時代も何も全然違うからやれないけれども、少なくともヒントはあるはずだ…って考えられていたんだ。そういった考え方自体は、今の世でも通用すると思うんだけどね?…これで大体説明としては終わりなんだけど…どう?納得してくれたかな?」

「…うん」

私は余計な言葉を付け加えることは無いだろうと、短く、しかしハッキリと目を合わせて答えた。

それを見た義一は、目を細めてニコッと笑いかけてきたが、ふと何かを思い出したような表情になると、表情は和かなまま言った。

「そうだなぁー…まぁ、ここまで話したのだから言ってしまってもいいか…。琴音ちゃん、ついでだからさっきの事も説明するとね?…さっきというのは、谷さん程には厳密にする事はないだろうという事なんだけど…つまり、国語教育は大前提として初期段階で学ぶべきなのはそうなんだけど、後は何も歴史にだけ括るんじゃなくて、同時に”思想”を学んでも良いんじゃないかって事なんだ」

「…あ」

私はここで、何で今までこんな話をしていたのかを思い出した。

そうだった…哲学と思想について質問していたんだった…。

まぁでも先程も言った事だが、あっちこっちに話が行くもんで、元の話が分からなくなってしまうのはよくあったし、仮に私が忘れてしまっても、こうして本線に戻してくれるので、そこまで私が心配する必要は無かった。

「…察しのいい君の事だからもう薄々と分かってるんだろうけど、敢えて言うとね?歴史を学ぶというのは、今までの話を引っ括めて端的に言えば、過去の人々がどんな”哲学や思想”を持って、それらをどう現実世界に活かしていったのかを見極めるためだったよね?…そう、つまりしっかり読解力を身に付けたこの段階まで来たら、歴史だけに拘らず、哲学書などに手を伸ばして読むのも良いだろうって事なんだよ。むしろ、その時代時代の人々が、どんな哲学書や思想に影響されたのかを知っておいた方が、もっと深く学べると思うんだよね」

「うん、私もそれには賛成ー…ってあれ?」

当然というか今の発言に引っ掛かったので、すぐさま疑問をぶつけた。「…でも義一さん、そう言ってるけど、まだ私、義一さんから”それ”関係の本を貸して貰ってないんだけれど…?」

と聞くと、義一はあからさまに苦虫を潰したような、しまったと言いたげな表情を見せた。そして、おデコに手を当てつつ苦笑気味に答えた。

「…アイタタタ、痛い所を突かれたなぁー…。うん、君の言う通り、まだ僕は君に”それら”を貸したことは無かったね…?うーん…言い訳にもならないかも知れないけど、今話した事は本心からで、普段からそう思っているんだけれど、でもどこかで谷さんの言った事に支配されていたのかもねぇ…ゴメン」

義一は言い終えると大袈裟にその場で頭を下げてきた。私はそれが、いつもの義一なりの”ジョーク”なのを知っていたので、特に合わせるまでもなく、ただ普通に「気にしてないから」と声をかけたのだった。「次からはちゃんと、それらも貸してよね?」と付け加えながら。義一は何も言わずに、ただ笑顔で頷くだけだった。

それに対して私も微笑み返していると、「…ゴホン」と咳払いが聞こえた。音の方を見ると神谷さんだった。顔は笑顔だったが、口調は静かに声をかけてきた。

「…さて、こうして”意義”のある”遠回り”をしてきた訳だが、ここでようやく本来の話…琴音ちゃん、君から貰った疑問…『思想とは何か?』について入ろうと思う。…いいかな?」

「はい、もちろんです」

私はメモ帳に手を置きつつ返した。

私の返事を聞いた神谷さんは、一度ニコッと目を細めると静かに話を始めた。

「そうかい?良かった…。さて、話をグッと戻そう。私達は思想とは何かを考えようとした時に、その考えるヒントとして、似たような言葉”哲学”について考えようとしていたんだったね?」

「はい」

「さて、今までの君と義一君の会話や、前回の君の態度から察するに、語源から辿るのに対して違和感が無いようだから、そのままその方法を取らせて貰おうか…。”哲学”…これも勿論、明治以降に入ってきた外来語を訳して出来た言葉な訳だけれど、英語では“Philosophy”と言うんだ」

「…」

私は知っていたが、それに一々反応する事は無いだろうと、俯きつつ書きながら頷いて見せた。

神谷さんも私からの反応を期待してなかったようで、そのまま澱みなく先を続けた。

「これはギリシャ語の”Philosophia”に由来していてね、sophia(智)をphilein(愛する)という意味なんだ。つまり、知を愛するって事だね」

「知を愛する…」

私はそう呟くと、そう書いた字を眺めつつ、その意味を汲み取ろうと考えた。その姿をどう解釈したか、神谷さんは少し口調を和らげつつ言った。

「…ふふ、まぁ元の意味というのは押し並べて曖昧模糊とした、抽象的なものだから、すぐにハッと本質を掴むのは至難の業だよ。…さて、今のを聞いて君はどう感じたか…いや、そんな構えなくて大丈夫だよ?これは君にまた考えを聞こうとしたんでないからね。…先程の誰かさんのように、あくまで一般論として言うと、哲学と聞くと、普通は何だか観念的で、フワッとした、現実的で無い夢想する学問だと捉えられがちなんだが、今の語源を見る限り、それは違ってないかな?」

「…はい、そんな狭いモノでは無いように見えます」

私は慎重にそう答えつつ、頭の中で”一般論”の代表者…お父さんやその周りの人々を思い浮かべていた。

「同意してくれてありがとう。…では同意してくれたのだから、先へ進もう。…おっと、ちょっとここで一つ寄り道…と言ってもすぐに終わるけど、良いかな?これもあくまで軽く触れるけど…昔、そう、古代ギリシャ・ローマ時代からルネサンス期にかけてね、一般教養を目的とした諸学科があったんだ。その名もラテン語で”Artes Liberales”…英語では”Liberal arts”…原義では”人を自由にする学問”と呼ばれるものなんだけれど…」

「…あぁ、なんだか聞いたことがあります。…それだけですけど」

私は今まで黙って聞いていたので、ふと聞いた事のある言葉が出てくると、意識をしないまま口を挟んでしまった。特段それについて話す内容を持っていないというのにだ。口にしてしまった瞬間、余計なことをしてしまったと反省したが、当の神谷さんはニコニコと笑いながら返すのだった。

「ふーん、何だろう…?あっそうか、今やたらと色んな所で”リベラルアーツ”が云々と、言葉だけがそこら中で乱用されているから、それが耳に入ったのかもねぇー?…ふふ、さて、話を戻そうか…?リベラルアーツ…”自由七科”と訳されてるんだが、七科と呼ばれるくらいだから、七つの学科が含まれている。文法、基本的には演説の技術で近代では廃れてしまった修辞学、思考の形式及び法則である”論理”を成り立たせるつながりを明確にし、論証を過不足なく行う為にどうしたら良いかを研究する論理学、以上の三学に、算術、幾何学、天文学そして…音楽の四科を加えた合計七科の事なんだ」

「へぇー」

神谷さんが”ワザと”溜めてから”音楽”と言ったので、私は思わず顔を上げ神谷さんを見つつ声を上げた。他の六つは何となく共通性が見えたが、あまりにもこの中では音楽が異質に見えたからだ。

神谷さんも狙い通りの反応が返ってきたからか、表情からは窺い知れなかったが口調からはご機嫌な様子が取れた。

「ふふ、そう、音楽も入ってるんだよ。興味を持ってくれたようだから、ついでに付け加えると…”藝術”という言葉があるよね?…ふふ、言われんでもって顔しないでおくれよ?この藝術って言葉は実は明治以降に出来た言葉でね、啓蒙家として著名だった西周が、このリベラルアーツを訳した時に造った言葉だったんだ」

「へぇー」

私は声の調子を先程よりも上げただけで、それ以外は全く変わらない反応をするのみだった。…またすぐに突っ込まれそうだから、敢えて予めに話しておくと、前にも言ったが、人間本当に驚いたり感心したりすると、言葉数が少なくなるものなのだ。…グルメ番組などでのリポーターの様に、アレコレと口数多くぺちゃくちゃ喋るのは、それだけその対象に驚いていない証なのだ…と私は思っている。とまぁそんな無駄な批評は兎も角、それだけ私は感心し、また神谷さんの言う通り、このリベラルアーツに対して興味を深めたのは言うまでも無い。

実際神谷さん自身、私の大して代わり映えのないリアクションに対して、すっかり気分が良くなった様に見受けられた。その証拠に、また少しだけ声のトーンを上げつつ続きを話したのだった。

「これ以上詳しくは、まぁ話の流れに沿うようだったら触れるけど、一先ず今は置いといて、何故今この…先ほども言ったように、一般教養を身につける為を目的としたリベラルアーツに触れたかというとだね、この一般教養と伝統的に見られていた七科の上位に位置し、自由七科を統治すると考えられたのが…そう、哲学だったんだ。今までの事をお浚いがわりにまとめると、哲学というのは現代で一般的に言われている様なものではなく、ありとあらゆる知識、知恵、教養などを網羅しようとするものと、取り敢えずは定義する事が出来ると思う」

「つまり…」

ここで不意に義一が話に入ってきた。神谷さんの話を引き継ぐ形で、私の方を向きつつ言った。

「今の琴音ちゃんにはまだ馴染みがないだろうけど、日本では文系、理系などという、まるで意味のない分け方をしているんだけど、そんな中で哲学は文系に分類されるんだ。でも今までの話を聞いたら分かるよね?」

「う、うん」

私は手元のメモを見つつ、また、義一に話を取られた形になった神谷さんの顔を覗いて見たが、相変わらず穏やかな表情でいたので、私は安心して答えた。

「私なりに文系と理系って分けているのは知ってるけど、今までの話を聞いていたら、その分け方自体が無意味なのはよーく分かったよ。さっき先生が話されたリベラルアーツで見たって、文系に分けられるものと理系に分けられるものが一括りにされている点からして一目瞭然だし、もっと簡単な所から見れば、そもそも語源が”知を愛する”って時点で、文系も何もない…ありとあらゆる知識に向けられているのだから、そんな細かい分類なんて意味が無いのは良く分かるよ」

”良く分かる”を連発してしまったが、それは私の語彙の少なさによるものだ。しかしながら、それでも素直な心の内を話せたと思う。変に神谷さんや義一に媚びて、言われたことを鵜呑みにしたわけではない事は、前にも同じ様なことを言った気がするが、何度でも確認の意味を込めて繰り返すのも無駄ではないだろう。

…それはさておき、私がそう答えると、義一だけではなく神谷さんまでもが、こちらに向かって微笑を送ってくるのだった。それを送られた私はと言うと、変な事を言ってないのだと安心するばかりだった。

少しだけ不自然な間が空いたが、静かに神谷さんが表情をまた元に戻してから口火を切った。

「…そう、今君と義一君が話してくれた通りだよ。文系理系だなんて無粋な分け方には、なんの意味もない。…そもそも海外にはそんな分け方が存在してない…少なくとも英語圏には存在してないから、向こうの人には説明のしようがないんだよ。…とまぁそんな雑学めいた事は置いといて、哲学について、大まかとはいえ概略は見えてきたと思う。少し今までに出た結論に付け加えると、あらゆる学問の裏側には、哲学が潜んでいる…」

「リベラルアーツ…この場合は藝術って意味でですけど、音楽もって事ですね?」

私は少し真面目なトーンを自分で演出しつつ口を挟んだ。これに関しては、自分で言うのは恥ずかしいが、それなりに変な横槍では無かったと思う。

神谷さんは大きく頷いてみせてから続きを話した。

「そう、その通り。だから…さっき君が話してくれた、ショパンが哲学に関して、少なくとも関心を抱いていた事を披露してくれたけど…これについてまた、私なりの解釈を話しても良いかな?」

「あ、はい!是非!」

「ふふ、ありがとう。…まぁそんなに大した事を話そうっていうんじゃないから、気楽に聞いて欲しいけど…簡単に言ってしまえば、当時…そう、ショパンだけで無く、それこそ音楽に限らず、それ以外の芸に従事していた凡そ十九世紀までに活躍していた芸術家たちというのは、皆して哲学書を読み込んでいたりしていたものなんだよ」

「…あっ」

私はここで今更ながら、フツフツと過去に読んだ本達を思い出していた。それは義一のに限らず、師匠から借りて読んだのも含まれていた。義一から借りたのは、当然古典文学ばかりだったが、これは大分前にも触れた様に、どの作者も作品の主人公にいわゆる哲学を話させていたし、師匠から借りて読んだ過去の作曲家達の日記なり書簡集なりでも、先程はショパンしか思い出せなかったが、それこそ同時代の作曲家達は、並べてそれぞれが自分の曲にどんな”哲学”的な意味を含ませているのかを書いていた。私がよく練習で弾くフランツ・リスト、彼について特にこの時は思い起こしていた。最愛の父が亡くなった後、失意の中二年間ばかり表に出なかった。その間何をしていたのかというと、猛烈に読書に耽っていたのだった。聖書を含めたありとあらゆる哲学書、ありとあらゆる古典文学など広範にわたっていた。幼少期はレッスン漬けの毎日を送っていたお陰で、さっきチラッと義一が触れていたが、その”一般教育”なるものを受けてこなかったリストは、それらを補うかのように猛烈に独学で”リベラルアーツ”を勉強していたのだった。

…とまぁそんな事柄を思い出したので、特に聞かれたわけでもないのに、ついつい声を上げた後に、いま話したような内容をツラツラと話してしまった。その間は自然と一同に向かって視線を配っていたので、それまでそんなに視線を向けていなかった美保子や百合子の表情も見る事が出来た。二人は相変わらず、若輩の私の話を時折「へぇー」などの在り来たりな相槌を打ちつつ、真剣な面持ちで耳を傾けてくれていた。それによってツイツイ私も口が滑らかに滑るのだった。

かかったと言っても二、三分だろう、私が話し終えるとほんの数秒ほど一同は各々それぞれ思いに耽っていた。

とここで、やはりと言うか…当然の事として神谷さんが静かに口を開いた。目を細めつつ眼差しは優しげだった。

「…なるほどねぇ、君のその直ぐに議題に合った内容を思い出して披露する事ができる能力も流石だけど、さっき美保子さんが言ったように、君の師匠さん…”なかなか”の人らしいね」

「あ、い、いや…あ、あぁ、はい!その通りです!」

しつこいようだが周りがしつこいから言わざるを得ない訳だが、また私のことを軽く褒めだしたのかと一瞬身構えたのだが、その後に不意に師匠のことを褒められたので、直ぐに我が事のように嬉しくなり、そのような感情のブレによって、この様なへんてこりんな反応になってしまった。そんなあたふたしている私の様子を見て、義一を含めた一同はクスッと笑うのだった。

「本当に機会があったら、一度お会いしてみたいわぁ」

まだ笑いの続く中でそう漏らしたのは美保子だ。美保子はテーブルに空になったワイングラスを置いてから、私に笑顔を見せつつ言ったのだった。

私はこの瞬間、頭の中を色んな考えが去来していたが、直ぐにはまとめられずに、結局苦笑いしながら頭を掻くのみだった。実際に見はしなかったが、義一の視線はヒシヒシと感じていた。

「さて琴音ちゃん…」

朗らかな空気がまだ流れる中、神谷さんは私を直視しつつ静かに声をかけてきた。今度はあの議論の時に見せる表情に戻っていた。察した私を含む他の一同は、シンと静まり返る…との表現は大袈裟だとしても、先程までの空気と比べたら、そんな気がしないことも無かった。

「またここで確認の意味を込めてまとめさせて貰えれば、哲学というのは、ありとあらゆる学問のベースになるもので、逆に言えば、哲学の無い学問なんぞ学問の名に値しない…こう言えるというのには、異論はないかな?」

「はい」

私は一度手元のメモに目を落としてから、また視線を戻して返した。

神谷さんは一度大きく頷くと先を続けた。

「うん…。さて、ここで漸く君の最初の疑問について答える段階まで辿り着いた…そう、『思想とは何か?』という疑問に」

「…」

私は真っ黒に書き込まれたメモのページを、数ページめくり戻し、”思想について”とだけ書いたページを開いた。

神谷さんは私がこうして手元を覗くと、毎回では無いが、この様に時と場合によって一度言葉を止める事があった。神谷さんの座り位置からは見えないだろうが、何が為に手元を覗いているのかくらいの事は分かるらしい。その気遣いは、まだまだ若輩の私でも察する事が出来た。

「思想とは何か…ふふ、予め前置きしておいた様に、ある意味今まで散々それについてのある種の答えを求めて、似た様な言葉である哲学について議論をしてきた訳だから、正直言ってもうこの議論の着地点は目の前とも言える」

「…”哲学と思想の違いは?”という点でですね?」

と私が相槌代わりに返すと、神谷さんは一瞬笑顔を見せつつ頷いた。

とこの時、不意に何かを思い出した様な表情を見せると、一旦顔をドアの方に向けて、そしてまた時間を確認した。私もまた時計を覗くと、八時半を過ぎた所だった。

神谷さんは少し苦笑いを浮かべると、

「いやぁーもうこんな時間か…。まぁここまでキチンと出来たから良いかな…?っと」

といったような言葉を独り言の様に呟いていたが、不意に私と目が合うと、何だか済まなそうな顔持ちで私に話しかけてきた。

「ふふ、そんな怪訝な表情をしなくても、最後までキチンと続けるから心配しないでおくれ?…おほん、さっきも言った通り、もうゴールは間近なのだからね。…ここからは、私が言う内容に同意してくれるか、それとも反論があるかどうか、聞いた上で正直に応えておくれね?」

「は、はい」

私がそう返すと、神谷さんは一度日本酒を口に含んでから話し始めようとしたが、ふとその前に、私から視線を外したかと思うと、何かを思い出すかの様に遠くを見る様な目で義一に微笑みかけた。そして何も言わないまま、また私に視線を戻すと、表情はそのままに話を始めた。

「…ふふ、懐かしいなぁー…ここに来て今思い出したけど、こんな話は義一君、君がここに出入りする様になった最初の頃以来だねぇー」

「…はい、勿論覚えていますよ。僕が高校生の頃でした」

顔は見なかったが、口調から思い出に浸っている様子が知れた。

「まさかこうして君の姪っ子とも、この様な話をする事になるだなんてねぇ…。しかもその子が中学生の段階にして、ここまで深い議論について来るばかりか、新たな見方を提供してくれるのだからねぇ…」

「…」

私は早く先を話してくれと、この時ばかりは一々反応せずに、無言を貫いたのだった。

その意図が汲み取られたらしく、神谷さんはまた前の調子に戻って先を続けた。

「…っとそうだ、ここで慌てて言っておかなければならないのだが…君も了解してくれてる様に、今回に限らず、我々…少なくとも私とここにいる義一君は、まずその対象について考える時に、まずその言葉の定義から始める、大袈裟に言えば流儀な訳だけれども、こと思想については、何とも語源を辿ろうにも辿れないという点は、了承しておいて欲しい…良いかね?」

「あー…はい」

気持ちの上ではもっと気を遣って答えたつもりだったが、こうして字面を見ると、不満タラタラなのが見え見えだったと、今初めて気づいた。自分では当然分からなかったが、表情の上では出ていたのだろう、神谷さんは苦笑まじりに自分の頭を撫でつつ言った。

「すまんねぇ…何故辿れないかはすぐに済む話なんだが、話の流れ上関らふ暇が今は無いもんでね。…後で時間がある様だったら、私か義一君に遠慮なく聞いておくれよ…今はそれで良いかい?…うん、有難う。さて、さっきも触れた様に、まだ高校生だった義一君に質問された時に、こう答えたんだというのを話させてもらうよ。確かあの時は…そうそう、あの時もまず『哲学って何ですかね?』と聞かれたんだったね?」

「そうです。話の流れとしては私が薄っぺらかったせいか全く違っていて、今回の方がよっぽど内容が深かったですけど。…質問者のクオリティーのお陰でしょうか」

義一はそう言うと、私をチラッと見た。私はあくまで無表情で見つめ返した。

「…ふふ、で、それに対して私はこう答えたはずなんだ…『哲学というのは”論理”…”在るモノ”の定義をして、その定義の下で”在るモノ”を論証したり説明したりするものなんだ』とね」

「はい、確かにそうでした。それで当時の僕は『あぁ、”ヨーロッパ的”なんですね?』と、先程まで議論に出ていた古代ギリシャ・ローマ時代の哲学者の名前を出して見せながら、恥なく偉そうにくっちゃべったのを覚えています」

そう卑下して返しても、そこからは”裏”を感じられなかった。返す義一の顔つきが、如何にも昔の黒歴史を話した時の様な苦笑具合だったからかも知れない。

…高校生の時点で先生の話を理解して、咄嗟に哲学者の名前を列挙する事のどこが”薄っぺらい”のよ…?

と感想を覚えたのは勿論だ。

「うんうん、…まぁ尤も、それ以前から君は自分からアレコレと気後れする事なく話す方だったから、この時もそう話してくれて、私は楽しかったけれどねぇー。…他の人はどうだったか知らないけれど。…っと、思い出話はそれくらいにして、当時の私も君のその相槌に同意しつつ、次に思想についてはこう答えたんだ」

「…」

私は何も言わなかったが、待ってましたとばかりに神谷さんに熱い視線を送った。そんな私とは対照的に、神谷さんはあくまでも穏やかな様子を崩さずに先を続けたのだった。

「『思想というのは、何か物事を単に論理的に説明するのでは無くて、そこに一種の”情”の様なモノが入ってくる…つまり論理だけではなく、そこに感情の様なものが入ってくるんだ。この”感情”というのは、個人個人が人生を生きて来た中で、情念の様なものが生じて形成されていくわけだけど、現実世界ではどうしてもこの二つはぶつかり合ってしまう。つまり、論理的にはこうだけど、感情的には許せない、受け入れられない…そういった事というのは多々あるものだよね?」

「…はい、それは今日の今までの議論の中でもよく分かる話です」

私はメモを見ずに、今日の議論を反芻しながら答えた。

そんな私からの変哲も無い返答に、神谷さん…そして何故か義一までもが満足そうに頷いて見せていた。

「ふふ…。だから思想というのはこういった部分で内部で矛盾を抱えているものな訳だけど、それを”表現”のレベルで、論理的なモノと感情的なモノを混ぜ合わせていく他に無いんだ…つまり思想というのは”表現”というものと結びつくんだ』…といった風に、結局曖昧で抽象的で、フワッとした返しをしたんだけれども…琴音ちゃん、今のを聞いて…いや、今までの長い議論をしてきた上で、今の話を君はどう思ったかな?」

神谷さんは途中までは…例えるなら静かな表情としか言いようの無い面持ちで話していたが、最後の方で少し照れ臭そうにはにかみつつ話していたのが印象的だった。

私は今の神谷さんの話を、私なりにまとめてメモを取っていたが、ふとそう話を振られたので、少し自分の頭の中で整理しつつ口を開いた。尤も、意見を求められたから少し考えただけで、同意するかしないかでいったら言わずもがなだった。

「…はい、とても難しかったですけど…私なりに納得していると思います…何故か他人事の様な言い方になってしまいましたが」

「そうかい?…それは良かった」

神谷さんは辞令的ではなく、本心からホッとして見せたので、私はそれに対してまた驚いてしまったが、すぐさま一つだけ確認したかった事があったので、忘れないうちにと

「それで…せ、先生…?」

と、まだ正直呼び慣れない調子で声をかけた。

「ん?何だい?」

「あのー…一つだけ確認したいんですけど、良いですか?」

「あぁ、言ってごらん?」

日本酒をチビチビとやりだした神谷さんは、普段の好々爺に戻っていた。

「そのー…”表現”って所なんですけど…」

「うん」

私はここで一度また、自分の頭に浮かんだ考えを反芻して見てから、静かな調子でおずおずと言った。

「この表現には…音楽などの芸能も含まれているんでしょうか?」

「…」

この時ちょうど口にグラスをつけていた所だったせいか、少し返答に時間がかかった。が、ゆっくりと口からグラスを離すと、神谷さんは柔和な笑みを浮かべて、これまたゆっくりとした動作で一度頷いて見せてから答えた。

「…そう、その通りだよ。まぁ当時義一君に説明した時に想定していたのは、いわゆる評論だとかそういった狭苦しい範囲だったけれどね。でも今君が言った通り…いや、ある種最も思想を語るのに向いているのは、芸術なのかも知れないよ。詩だとか文学などは勿論のこと、絵画や彫刻それに…音楽もね?」

いつだかみたいに、神谷さんは最後のセリフを言う前に一度溜めてきたので、一人でにデジャブ感を覚えていた訳だったが、それを聞いた私は自然と笑みが溢れて、ただ一言「よく分かりました」と返したのだった。そう返す頭の中には、ショパンの事やリストの事…それ以外の音楽家たち…それと同時に過去の偉大な文学者たちの事も思い出していた。それらについても何か触れるべきかと一瞬思ったが、すぐに一人頭を振った。今無粋にそんな話を振るのは”違う”と言うことくらいは、さすがの私でも理解していた。それに一々心情を吐露しなくても、神谷さんが黙って笑顔で頷いてくれた事によって、伝わっている事が分かっただけで十分だった。


ようやく大きな議題がひと段落ついたとして、一同で軽く雑談をし始めてきた頃、そう…時計を見ていた訳では無かったから正確ではないが、その間五分も無かっただろう、不意にドアが少し開けられた。

そして隙間からママが顔を出したのだが、薄暗い部屋の照明下でもわかるほど、若干テンションが上がっている様に見受けられた。実際その見立ては正しかったらしく、口調も普段以上に明るめに言い放った。

「先生方、ご歓談中申し訳ありませんが、今”師匠”が来られました!」

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