第26話 コンクール(上)

初めてあのお店に行ってから、その次の週には師走に入っていた。

この頃からではなく、既に十一月に入った頃くらいから、街はすっかり早めのクリスマスムードで彩られていた。毎年変わらずに、どこか一箇所で電飾でモニュメントを飾り立てたかと思えば、順々に波状的に、どこもかしくもイルミネーションが始まるのだった。

それは私の通う学園も例外ではない。外部からお嬢様学校と目されているのが理由なのかは分からないが、表の通りに面している植木や花壇を控え目に飾る程度に抑えていたが、元々キリスト教学校であったから、実はかなりの力の入れようで、中庭に面した校舎部分に、電飾だけでクリスマスツリーを模したイルミネーションが付けられ、すっかり日の落ちるのが早くなったこの時期、五時を軽く過ぎるくらいまで部活や何かの用事で居残った生徒達は、そのツリーが光またたく光景を目にするのだった。私も何度か鉢合わせたことがある。

そんなこんなで、まして私達は新一年生、誰も彼もどこか浮ついた空気を醸し出していたが、残念な事に十二月の初めから期末テストが始まった関係で、そこまで心から楽しめてる生徒はいなかった。

しかしテスト期間が終わってしまえば、それからはテスト休みという、終業式までの一週間とちょっと程の、謎の休みがあったので、そこで思いおもいに年末の雰囲気を楽しむのだった。

私がいつも連んでいる、裕美、紫、藤花、律、このいつもの面子で少し羽を伸ばそうって話になったが、藤花が一人忙しいというんで、全員揃って遊ぶことは出来なかった。しかしその理由を聞いて、さもありなんと思った。前にも話した通り、藤花は学園から目と鼻の先の教会で、讃美歌を歌う団員の一人だ。この時はクリスマスシーズン真っ只中。教会が一番忙しい時だと言っても過言ではない。

藤花が一人忙しなくしているのを横目に、他の四人は呑気にたまにイルミネーションを見に学校で待ち合わせたりして過ごしていた。

ここまで聞いてくれた方なら、お気づきだと思うが、クリスマスの予定は自然と、残りの四人で藤花の歌を聞きに教会に行こうという話で纏まった。…一ヶ月ほど前だろうか、前に話した学校から少し離れた所にある喫茶店に入り、他の子も含めて我ながら気が早いと思うが、五人でクリスマスをどうするかって話になった。

一般的な女学生の様に、誰かの家に集まってワイワイやろうという話に当初はなったが、藤花が申し訳なさそうに、今話した様な内容を説明したのだった。そしたら律も、まぁこの二人の仲なら仕方ないとは思うけど、自分も藤花の歌を聞きたいっていうんで、今回はパスすると言い出した。それを聞いた私、裕美、紫は当然、形だけだが「えぇー」と不満げな表情を見せたが、後で聞いたら皆の心は同じ様に固まっていたらしい。ほぼ同時に声を揃える様にして、私達三人も聞きに行くとテンション高めに伝えた。それを聞いた瞬間、途端に律は目元を緩ませ、口元も若干ニコッとして見せたが、藤花は違った。ポカーンと口を「え?」と言いたげな形で固まっていたかと思うと、すぐその後に、両手を前に突き出し、大きく横に振りながら慌て気味に断ってきた。

「…へ?…あ、いやいやいやいや!いいよー別にー、そんな気を使わないでー」

「でもねぇー」

そんな藤花に対し、真っ先に返したのは裕美だ。

「そういえば、四月の終わりくらいだっけ…?あれから何だかんだ言って、藤花の歌を直に聞いてないもん。これを機会に久々に聞きたいわ。ねっ?」

と、私を挟んで向こうに座る紫に同意を求めた。因みに座り方も、毎度同じだ。片方に藤花と律が座り、もう片方に裕美、私、紫の順に座るのが、暗黙の了解となっていた。この喫茶店に限らず、何かにつけてこの順だ。遡れば、あの研修会旅行、あの時の布団の並べ方、あれがどうやら皆共通して心地良かったのか、それからずっと定着してしまっていた。

「そうそう!」

紫も裕美のテンションに合わせる様に、明るくハキハキと応えた。

「それに、別に藤花に気を使った訳じゃないよー。クリスマスを教会で過ごす…何だかロマンティックじゃない?」

「そうそう!紫、さっすが分かってるぅー」

すっかり裕美と紫が、私を挟んで盛り上がっていた。私と律は、お互いに目を合わせると、少し呆れ気味な表情を浮かべたが、軽く微笑むのだった。

藤花も苦笑交じりに言った。

「何だか分からないけど…そーう?…まぁ、裕美と紫…あと琴音もそれで良いって言うんだったら…」

「勿論」

藤花がまだ途中だったが、私は待ちきれず割り込む様にして言った。

「私もあなたの歌を聞きに行くのは大賛成よ。それに…」

私はチラッと隣の紫を見てから続けた。

「紫じゃないけど、クリスマスの日に讃美歌を聞いて過ごすなんて、ロマンティックそのものじゃない?」

私はそう言い終えると、ニヤッと意地悪く笑った。

「ちょっとー、遠回しにプレッシャーをかけてこないでよぉ」

藤花は先程から変わらず苦笑いを浮かべていた。

「…はぁーあ、でもそっか…うん、分かったわ」

藤花は「うん」と、”何か”に対して覚悟を決める様に言ってから、普段の天真爛漫な笑顔と口調で、気持ち良く了承してくれたのだった。

因みに、細かい変化があった事に気付かれただろうか。そう、藤花が裕美と紫を呼ぶ時に、”ちゃん付け”でなくなっていたのだ。先にも軽く触れた様に、藤花はまだ馴染みのない人相手には”さん付け”をする習慣があったらしいが、流石に半年以上もベッタリと仲良く付き合っていると、何も意識せずとも、すっかり下の名前を呼び捨てで呼び合う仲にまで打ち解けていた。これにより、この”グループ”がグループとして固まったと言えるだろう。

それはさておき、そういう顛末があってからの、クリスマス当日だ。

師匠も当然誘ったが、「大変行きたいけれども、琴音達の邪魔をしたくないから、行くにしてもコッソリ行くわ。行ったとしてもあなた達に合流する気は無いから、変に探さないでね?」とだけ言われた。クリスマスの時はとっくに冬休みに入っているので、それぞれ思い思いの私服で四ツ谷駅前で待ち合わせ、揃って教会に行ったのだった。

前にも入った主聖堂の中は、今まで見た中で一番の混み合い具合だった。チラッと話に出した様に、藤花が独唱をする日を狙って、たまに師匠と連れ立って何度か来ていたが、私と律以外は初めて来た時以来だったので、口々に人出の多さに対して感想を漏らしていた。

普段からそうだといえばそうだったが、いつも以上に厳かな雰囲気に満ちながらミサが執り行われた。

この日の司祭の説教は二部に分かれており、一部が終わると讃美歌隊の歌が始まった。四月の時の様に、皆して遠くから眺める席にいたが、そこからでも一際目立って小柄な少女が見えたので、すぐにそれが藤花だと判別出来た。両手で譜面を持ちながら、微動だにせず合唱をしていた。

それからまた司祭の説教が始まり、そして終わるといよいよ藤花の出番だ。普段と同じ様に、献金の時間を利用しての舞台だった。

これまた普段通り、祭壇脇にマイクスタンドが置かれ、おもむろに藤花が聖歌隊の列から歩み出て、その前に立った。そしてその場で藤花が軽く俯くと、何処からともなく大バッハの『平均律クラヴィーア曲集第一巻』の『前奏曲 第1番 ハ長調』が流れてきた。これを聞いた瞬間、私はすぐに何の曲が歌われるのか分かった。十九世紀に活躍したフランスの作曲家シャルル・グノーが、前段に言ったバッハの曲を伴奏に、ラテン語の聖句『アヴェ・マリア』を歌詞に用いて書いた声楽曲だった。一般の人にはどうでもいいだろうが、細かい話をすれば、グノーが引用した伴奏譜は、バッハとは別の者が前奏曲1番の22小節目の後に1小節新しい音形を挿入したものだ。

そんな誰が得するとも分からない説明はともかく、これまた偉く難しい曲にチャレンジしたものだと、第一声を待ち構える私は一人で内心少しドキっとした。しかし、四月に初めて聞いたのもそうだったが、あれほどの難曲を歌いこなしていた藤花、それ以降も何度か聞きにここへ来たが、そのどれもが負けず劣らずの難曲ぞろいだったのに、それをまた見事に歌いこなすのを見ていた。そのある種の経験を積んだお陰で、そんな伴奏を聞いても、初めての時ほどにはドキドキしていなかった。それほどに、藤花の歌唱力に対して”信頼”していたのだ。そしてその信頼は、崩される事なく、むしろまた新たに重ね塗られていくのだった。

藤花の歌を聴く時は毎度そうだが、第一声目でやられる。藤花の持ち味とも言える、何処までも透き通り、何処までも伸びやかな高音、それもまったく無理して出している様には見えない代物だった。この曲の最高音部分も楽々出して、抑揚もいつも通り完璧だった。三分弱の曲だったが、それが永遠とも感じられる程だった。この場に集まった人々も聞き入っていたせいか、隣から回ってくる献金袋が来てるのにも、すぐに気付かず、中々スムーズに事が進んでいなかった。今回に限らず、藤花が独唱する時はこの献金時だったが、どうも上手いこと行っていない点を毎度見ていたので、『献金を回収する時に、藤花に歌わせるのは寧ろ悪手ではないかな?』と余計な事を思ったりしていた。

四月に来た時は、信者でもないのだからと献金をしなかった。これは別に、信者だろうとなかろうと、自由だったからだ。

しかし、それ以降ここに来る時は、小遣いから捻出した千円を献金する事にしていた。その理由としては、そもそも月に一度の藤花の独唱がある日にしか行かなかったというのもあったし、藤花が照れるだろうから本人には言ってないが、お小遣いから出す程くらいには藤花の実力を、偉そうに言えば認めていたからだった。良いものを聴かせてもらったという意味での献金だ。これを聞いたら信者は怒るかもしれないが、本心なのだからしょうがない。

…本当はこの辺りの話は軽く流すつもりだったのだが、どうしても”芸能”、それも”音楽”の事となると、どうしても知らず知らずに熱くなって語ってしまう。私の悪い癖だ。もうすぐで終わるから、もう暫く我慢して頂きたい。

それはさておき、藤花の歌が終わると、これもいつもの事だったが万雷の拍手が聖堂を満たした。厳かな顔つきで神妙に歌っていた藤花だったが、拍手が湧くのと同時に照れ臭そうにハニカミつつ、大きくお辞儀を三度ほど、聖堂の各方面に向けてしてから、早足で聖歌隊の席に戻るのだった。四月から月一で歌っていたので、今回が九度目になるはずだったが、一向に慣れる様子が見られなかった。まぁ尤も、こういった称賛に足元を掬われる事なく、自分の事を過大評価して見失わずに、謙虚にペースを守る所は、藤花の数ある美点の一つだった。

それからは淡々と進行していき、ミサが終わると、四人で一斉に藤花に駆け寄った。四月以来の懐かしい感じだ。藤花は私達の姿を認めると苦笑いを浮かべていたが、皆一斉に抱きつくと、満更でも無いような笑みを零していた。

今日の所は後は暇だというのを知っていたので、このまま電車で紫の家に行く事になっていた。中学生の女の子らしい、誰かの家に集まって泊まるというアレだ。話す事でもないと触れなかったが、紫以外の四人は、それぞれ軽めのお泊まりセットを持参して来ていた。

ここで一つ補足させて貰うと、この日は二十五日、クリスマス当日だった。もしこの日がイブだったら、藤花は夜通しで教会に留まる為に、一緒に過ごせなかったが、クリスマス当日ともなると、前日からこの日にかけて大体の事は終わっているので、ミサが終わるともう自由になるらしかった。他の教会がどうとかはしらないが、少なくともここではそうだった。

藤花が着替えるのを待ってる間、久し振りに藤花の親御さんと会ったので、世間話をした。

紫には『藤花をよろしくね?』と言いながら、藤花のお父さんが何やらお土産を手渡していた。どうやらお菓子のようだった。藤花のお母さんはお母さんで、まず幼馴染の律に近況を軽く聞いてから、今度は私とお喋りをした。藤花のお母さんは、私がピアノを弾いているのを知っていたので、それに関係する話で終始していた。藤花の今日の出来を聞いてきたので、「最高でした」と何の衒いもなく自然な笑みで答えたのだった。

ちょうどそのくらいの時に、藤花が出てきたので、親御さん達に挨拶してから紫のお家へと向かった。

紫の家は、最寄駅から徒歩五分ほどの距離にある高層マンションの上部にあった。八十平米ほどもある、中々に広々とした作りになっていた。夏休みの所でも話したが、私は何度か一人でも訪れていた。文化祭にも来ていた、掛けているメガネの種類も含めて紫とソックリなお母さんが、ちょうど料理をテーブルに並べている所だった。入って来た私達に気付くと、笑顔で迎え入れてくれた。お父さんは、こんな年末だというのに、仕事で留守にしているようだった。

パッと見、このグループの中では一番庶民派な雰囲気を身に纏っている紫だったが、こんなタワーマンションに住んでるだけあって、中々の家庭だった。お母さんは一般企業に勤めているようだったが、お父さんの方は霞が関の経産省に勤める高級官僚だった。詳しくは知らない…というより、それを教えてくれた紫自身もはっきりと把握していないらしかったが、毎年年末もこうして忙しくしているらしかった。お母さんの方も、二十五日にこうして時間が取れたのは珍しい事のようだった。私達は早速紫の部屋に行き、思い思いに荷物を置き、リビングに戻って用意してもらった如何にもクリスマスらしい料理を食べるのだった。その間、紫のお母さんは、藤花のお父さんから貰ったお土産をお皿に盛り付けていた。思った通りお菓子だった。それも洒落たクッキーやチョコの詰め合わせのようだった。食事を終えると、それぞれ順番にお風呂を頂き、その時に持参していた寝間着がわりの服に着替えた。私は部屋にいる時も細身の服が好きなので、体のラインが出る長袖Tシャツと伸縮性のあるレギンスを身につけた。因みに他の子達のはどうか軽く触れてみよう。まず裕美。裕美とは何度かお互いの家でお泊まり会をしていたので、どんな格好をしているのか知っていた。スポーツ系女子らしく、冬場でも、勿論暖房が効いているのが大前提だが、上は大きめな長袖の灰色パーカーにショートパンツという、元気さと色気を併せ持った格好をしていた。一応念の為、寒かった場合を予測して、私のと似たようなレギンスを用意しているというのは本人の弁だ。次は実質今日の主役だった藤花。これまたイメージ通りというか何というか、上下がお揃いの、見るからにフワフワしていて、如何にも暖かそうなフリースだった。正面のチャックの開け閉めで着る形式のもので、下には別にTシャツを着ている様だった。普通の女の子が着たら、何を可愛子ぶってるんだと顰蹙買うこともありそうな格好だったが、藤花ほどまでに似合っていたら何も言われないだろう。お次は律。これもまぁ…想像していた通りだったが、コットン素材の黒と間違うほどに暗い紺色をしたワンピースパジャマだった。大人な雰囲気の律にマッチしていた。シャツの様にボタンを一つ一つとめる形式の上部分は、膝上五センチ程くらいまでの長さがあった。下はこれまたスポーツ系らしく、同色のショートパンツらしかったが、当然上がそこまで長いと、下に何か履いている様にはパッと見分からない風になっていた。つまり、上にシャツを羽織っているだけの様に見える訳だ。それが律本人の雰囲気と相まって、妙に大人っぽい色気を演出していた。本人は無自覚だったが、女の私から見ても、妙なエロさもあった。そして最後はホストの紫だ。これもまた紫のイメージ通りの、シンプルなものだった。上下が薄ピンク色のスウェットジャージだった。普段の紫を知っているせいか、可愛さを狙っていないスウェットに身を包んでいても、ダサくは感じなかった。誤解を恐れずに言えば、紫によく似合っていた。

とまぁ、風呂から上がり各々その様な部屋着を身につけた訳だが、暫くはお互いの部屋着について褒めあったりしていた。その時ドアをノックして紫のお母さんが、先ほどお皿に盛り付けたお菓子と、あらかじめ用意して頂いたのだろうその他のお菓子、そして人数分のグラスとジュースの入ったペットボトルを持って来てくれた。私達は行儀よく座り直しお礼を言うと、その代わりと言っては何だが、おばさんはおばさんで、私達の格好を褒めてくれた。

おばさんが出て行った後は、取り止めのない話に終始した。

比べるのも何だと思うが、十一月末の、あのお店での密度の濃い会話も私を興奮させ、知的好奇心が満たされるのを感じ幸せだったが、こうした何気ない、何の為にもならない会話も大好きだった。尤も、私の付き合う彼女達は、正直普通の子とも言えないのかも知れない。何故なら、前にも言ったように、紫を除いて、今現時点でやりたい事、目指したいものが明白にあるからだ。慌てて付け加えれば、何も紫を仲間外れにして貶めたい訳ではない。これも前に言った通りだ。それはさておいて、私が彼女達との会話が楽しかったのは、取り止めのない雑談もそうなのだが、結局それぞれの彼女達が従事している”道”に関して、それについての彼女達の想いも含めて聞く事だった。だから、これまた顰蹙を買うような事を言えば、彼女らが極々普通の女の子だったとしたら、ここまで仲良く付き合えなかったかも知れない。

それからは出されたお菓子を突きつつ、ジュースを飲みながら、誰も得意ではないのに恋話なども織り交ぜつつ会話を楽しんだ。この時も、裕美は決して胸の内を明かそうとはしなかった。周囲に合わせて明るく振る舞いはしゃいでいるだけだった。私も一緒になってはしゃぐ傍ら、横目で何度かチラチラと裕美を盗み見たのだった。

私含めて行儀正しいというのか、また健全な体育会系が混ざっているせいか、まず今日の大舞台をこなした藤花が寝落ちして、次に裕美と律が船を漕ぎ出したので、まだ目が冴えていた私と紫だったが、お互いに目を合わせると、示し合わせるのでもなくクスッと苦笑気味に笑い合うと、それぞれが手分けして、まず藤花を起こし、裕美と律の肩をポンポンと軽く叩いて、せめて寝るなら支度してからにしようと提案した。それからは順番に歯を磨き、戻って来た人から用意してもらった布団を敷いて、その上に横になった。布団の並べ方も研修会旅行時と全く同じだった。…いや、今回の場合は、紫だけ自分のベッドがあったので、それだけが違う点だった。藤花は一度起きたものの、布団の中に入ると、誰に言うでもなくボソッと「おやすみ…」と言うなりスヤスヤと寝てしまった。裕美と律も似たようなものだった。暫く敷布団に横になった私と、ベッドに入った紫とでお喋りしたが、周りに気を使っての会話はそう長くは続かず、すぐにお互いに挨拶してから寝てしまった。

これだけの人数で一緒の部屋で寝るのは久しぶりだったので、月並みだが良い思い出になった。これから先も何度かしたいなと、キャラに似合わない事まで思ったのだった。

それから二日ばかり経つと、我が家の恒例の家族旅行で海外に行ってしまったので、それからの冬休みは誰とも合わなかった。私を除く他の皆んなで、初詣に行ったらしい。私が海外の滞在先にいる時、四人がくれた、年が明けての”明けましておめでとう”のメッセージと一緒に、その時の写真が添えられていた。皆んな晴れ着でなく普段着だったが、その写真からでも十分正月の雰囲気が伝わってくるようだった。少し時間が後になるが、私も正月の挨拶と一緒に羨ましがって見せると、他の四人が気を使って、始業式後に学園から近い小さな神社に一緒に行って、私の初詣に付き合ってくれた。こうして三学期が始まった。



「…いやぁ、美味しかった!」

師匠は笑顔で明るくそう言うと、ズズッとコーヒーを啜った。

「はい、ごちそうさまでした」

私も笑顔で返すと、ホットミルクを同じ様に啜った。

二月の第一日曜日。一応念のために言えば、毎週日曜日は午前と午後を使うレッスンの日だ。この日は中休みに、前にも作った簡単なマフィンを、少し趣向を変えて拵えた。そして今はこうして食べ終え、ゆったりとしている所だ。

初めて私の想いを師匠に吐露して以来、この中休み中にお菓子を食べ終えた後、密かに進めている”コンサートに出てみる計画”の進捗具合を話し合うのが日課になっていた。

トントン。

師匠はおもむろに紙の束の底を、テーブルを使って揃えてから、ペラペラとメモを大量に書き込んだ楽譜を捲っていた。

「さてと…うん、大分片付いてきたねぇ」

師匠は不意にメガネをクイッと上げつつ、ボソッと独り言の様に言った。私が小学六年生になったくらいから、先生はピアノのレッスン時にメガネを掛けだしていたが、それ以外は裸眼で過ごしていた。だが、私がコンクールに出てみると言い出してからは、こうして家の中ではずっとメガネをしている時間が特段に増えていた。

そのメガネをフッと外し、それをテーブルの上に置きつつ続けた。

「今のペースでいけば、コンクールの地区予選の応募が始まる四月の頭には間に合いそうだね」

これは当然説明がいるだろう。私が出場してみようとしているコンクールは、日本でもかなりの歴史がある、伝統的なものだった。そしてこのコンクールは、過去に師匠が出たものと同じだった。これは一応言い訳じみたことを言わせて頂ければ、そんな縁があったからと、数あるコンクールの中から選んだ訳では無い。このコンクールに出てみる事を、師匠と二人で話し合って決めた訳だが、そもそも決め手になったのは、そのコンクールで出されている課題曲にあった。その課題曲のリストを見た時にピンと来たのだ。

まず地区予選の課題は、大きく分けて二つ設定されていた。まずそのうちの一つ目は、バロック・クラシック・ロマン・近現代のスタイルの作品から出場者自身がプログラムして演奏して見せろというものだった。これらはそもそも、ここまで話を聞いてくれた方なら分かると思うが、義一との話の絡みもあって、師匠から色濃くレッスンを受けていた類のものだったし、それにこの出場者の音楽に対する考え方を見ようとしている様な姿勢が見え隠れしていて、それが大いに気に入った。

そして二つ目は、これまた同じ様に出演者に二十分以上のプログラムを作成しろというものだった。ただ、全二十七曲あるショパンのエチュード(練習曲)から、二つばかりの具体的な課題曲を必ず入れる様にという指定だけがあった。しかしこれも、前々から師匠に、運指のトレーニング代わりに、それこそ何度も何度も弾かされ鍛え上げられてきたという自信があったので、これも決め手の一つだった。

そしてそれらの予選を通過した者が出れるセミファイナル、要は地区本戦だが、それには具体的な課題曲が発表されていた。それはハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンのソナタから、1つ以上の楽章を、これまた四十分以上のプログラムになる様に演奏しろというものだった。ここまで辛抱強く聞いてくれた人なら分かるだろう。前にも言ったから重複するが、このコンクールは出場者に対して、かなりの自主性を求めている事に。他の人は知らないが、具体的な課題曲の指定も含めて、こういった趣旨のものは、私にはもってこいだと感じられた。師匠も同意見の様だった。

これこそ気が早いが、一応念のためファイナルの課題曲を見ると、モーツァルトやベートーヴェンに始まる、あまりクラシックに造形の深く無い人からしても知ってるビッグネームから、その他にも珠玉な曲を世に送り出した偉大な作曲達の名前が、総勢十二人もの名前が羅列されていた。それらの偉人達が作曲した独奏曲の中から、それぞれの年代から一曲ずつ、計三曲を選ぶというものだった。

…ここだけの話、当時の私は試しにコンクールに出場してみるという浅はかな気持ちがあっただけで、正直ファイナルに出てみる、ましてや優勝しようなどとは微塵も考えていなかった。師匠の本心はどうかは知らないけれども。だからと言って、レッスンに手を抜いていたわけでは無い。当然師匠からの難しい要望にも、なんとか応えようと必死に取り組んではいた。だが、普通に考えて、私も予想がついていた事だったが、このコンクールに特化して、幼い頃から猛特訓をしてきた様な同年代の男女がごまんといると聞いて、しおらしく言うつもりはないが、そんな中に生半可な気持ちの私が混じって良いのだろうかという、漠然たる気持ちがあったのも事実だった。それを直接師匠に話してみると、苦笑いをして見せて「私もそうだった」と言ってくれたので、幾分かは気分が軽くなったという次第だ。それに…うん、一つ正直なところを話した方が良いだろう。いや、今まで話した事も本心だったわけだが、どこかでファイナルまで出て見たいという欲求があった。ここで慌てて付け加えなければいけないだろうが、何度も言うように、私は優勝を狙うが為に言ってるわけではない。私が惹かれたのは、その課題曲の欄の隅に書かれていた、ある一文だった。それは、『成績によって、後にオーケストラとの共演があります』というものだった。これには目を見張った。ある種この”オーケストラ”と一緒に演奏するということが、初めてピアノを弾き始めた頃くらいからの夢だったからだ。そこには備考も記載されていて、直前に指揮者合わせ及びリハーサルの時間があると出ていた。知る人からすれば当然なのかも知れないが、中々に本格的なプロの演奏者気分を味わえるということらしい。繰り返す様だが、これには惹かれた。長年…といってもまだ大した期間をピアノと過ごした訳でもないし、そもそもまだ生まれたばかりの様なものだろうが、それでも条件付きだが夢の一つが叶う可能性があるなんて、それこそ夢にも思わなかったから、私の心内としては、何としてもファイナルまで行きたいなと、固く強く思うのだった。

それで今に至る。話を戻そう。

私は師匠の手元にある楽譜群を、テーブルの向かいから覗き込む様にしつつ、両手でホットミルクの入ったマグカップを口につけていた。因みにこのマグカップは、師匠と一緒にいつだったか…そう、藤花の歌を初めて一緒に聴きに四ツ谷まで足を伸ばしたその帰りに、どこか量販店で買って頂いたものだった。「折角二人で初めて地元以外に足を伸ばしたのだから」と、師匠が子供っぽく無邪気に笑っていたのを思い出す。

「ふふ…あっ、そういえば」

師匠は折角綺麗にまとめた楽譜の束を、無造作と言うほどではないが”適当に”テーブルに置いて、またコーヒーに口つけていたが、何かを思い出した様な表情を見せた。そして少し困り顔になって見せつつ話しかけてきた。

「琴音…、まだ瑠美さん達にこの事を話してないんでしょ?」

「え?…は、はい…」

私はそう答えつつ、手元のマグカップ内の牛乳に目を落とした。

そう。師匠に決意表明したのが去年の十一月上旬、今は翌年の二月の上旬…丁度三ヶ月ばかりの月日が経っていた。その間、いくらでも、少なくともお母さんには話せるだけの機会は幾らもあったが、結局この日まで言えず仕舞いだった。中には何故だと聞かれる人もおられるだろう。…いや、もしかしたらそれが大半なのかも知れない。だが、あの受験の時の、私とお母さんとの一悶着…それを思い出して頂くだけですぐに思い至る方も多かろうと思う。あとついでに言えば、裕美にも内緒にしていた。これについては、まだ本当に師匠からGOサインが出るまでは胸張って言えないというのがあったし、あとは…ただ単純に伝えるのが恥ずかしかったというのも事実だ。何となく、裕美や藤花の気持ちが初めて分かった気がした。

「…そっか」

師匠は優しく微笑むと、また一口コーヒーを啜った。私も黙ってミルクを飲んだ。それから一分弱静寂が流れたが、フイに師匠は顔を上げると、思いついたような調子で聞いてきた。

「…今日は瑠美さん、お家にいるの?」

「え?…は、はい、いるはずです…けど?」

私は急にこう聞かれたので、その質問の意味を考えつつ答えたから、何故か語尾が疑問調になってしまった。因みにお父さんは留守にしている。

すると師匠は明るい笑みを浮かべて言った。

「…よしっ!琴音!今日は午後の練習を少し早めに切り上げて、あなたのお家に行こう!」

「…へ?」

青天の霹靂とはまさにこの事で、私はさっき以上に間抜けな顔して声を上げてしまった。

「それって…」

なんとなく理由は分かっていたが、念のために確かめる意味で聞き返した。すると、師匠は相変わらず笑みを絶やさずに答えた。

「勿論、瑠美さんにこの事を伝える為によ!」

「…えぇー」

私は思わず、自分でも分かる程の苦虫を潰したような表情を浮かべて、不平の含んだ声を漏らしてしまった。

すると師匠は、ジト目を向けてきつつ、しかし口元は緩めたまま言い足した。

「だってー、あなた、こうでもしないと、いつまで経っても瑠美さん達にこの事を伝えないでしょ?応募の時期がまだ二ヶ月あるとはいえ、まだあなたは未成年なんだし、いざ応募しようとするその直前に行ったら、当然混乱が起きるでしょ?…『何でこんな大切な事を今まで言わなかったの!?』って、私が瑠美さん達に怒られるのは別に構わないんだけれど、あなたも同じ様に怒られるだろうし…」

「…いや、そのー…勿論分かってるんですけど…」

途中から結局、教え諭す様な調子で師匠が言ってきたので、私はミルクの入ったマグカップをテーブルに置き、目を伏せ、両太腿の辺りに視線を落とした。

私はすぐに今言ったことに対して反応が返ってくるかと思い黙っていたが、いつまで経っても何も言ってこない。私は少し不思議に思って顔を上げると、そこには、優しい微笑を浮かべた師匠の顔があった。

私と視線が合うまで待っていたのか、静かに口を開いた。

「…ふふ、勿論、あなたが…特に瑠美さんね?瑠美さんにこの事を言い辛いのは、簡単に言うのは何だけど、私なりに理解しているつもりよ?何せ…受験の事で、普段は大人しい”フリ”しているあなたが、自分の母親とあんな一悶着を起こしたのだから」

師匠の口調からは、敢えて細かいことは言わないでおこうとする”気遣い”が感じられた。最低限の情報だけ盛り込み、相手に、この場合私だが、それとなく伝わる様に練られた、中々に高度なセリフだった。

私は言うまでもなく、師匠のことを当然尊敬し慕っているわけだが、そんな私でも感銘を受けずに居れなかった。

「…な、何で…?」

先程からと変わらず、私は最後まで敢えて言い切らずにいると、師匠はその微笑のままに、柔和な声で言った。

「何でって…それくらい分かるわよ。だって…私はあなたの師匠であり、そしてあなたは私にとっての、初めての弟子なんだもの」

そのセリフを黙って聞いていた私は、思わず視界がウルっと歪まずにはいられなかった。以前にも話した様に、私は人前で涙を流すのを、毛嫌いするどころか想像するだけで嫌悪を催していたのだが、理由が自分でも分からなかったが、思わず涙腺が緩んでしまったのだった。勿論師匠の裏表のない純粋な想いを直接聞けた事は、いつでもとても感動的な出来事なのだが、これに限らず普段から、師匠が私に施してくれる、厳しくも暖かな思いやりに満ちた”しごき”から、十分過ぎるほどに”情”を感じていたので、今更それを口にされただけで、ここまで脆くなるものなのかと、とても不思議な気持ちでいた。

そんな私の心境はともかく、師匠は少し表情に明るさを取り戻して、口調も明るめに言った。

「だから琴音、私がついて行ってどう好転するのかは分からないけど、でももし少しでもあなたの心の負担を分けられるのだとしたら、一緒に行こうと思うのだけれど…どう?」

師匠は最後の方で、少し顔に不安げな色を差し込みつつ言い終えた。

私はほんの数秒黙って、考えもしたが、自分の師匠が、ここまで弟子の私の事を心配して言ってくれてるのだから、そんなの答えは決まっていた。

「…はい、一緒にお願いします」

私は何とかカラ元気気味でも明るさを意識して答えた。笑顔も忘れずにだ。後になって考えれば、ここまで私の事を分かってくれてる、数少ない大人の一人の師匠に対して、こんな変な気遣いを私からしたら、余計に相手に心配させてしまうという事に、当時はそこまで気が回らなかった。

師匠は、その当時の私が気付かないほどに、ほんの一瞬寂しげな表情を見せてから、ニコッと満面の笑みを浮かべつつ「そう、良かった!」と大きな声を上げつつ、向かいに座る私の肩をポンポンと優しく数回叩くのだった。それに対しても私は、同じ様な満面の笑みでニコッと返すだけだった。

それからは、まだ片付けていなかった食器類、またすでに飲み終えて中身が空になった、お互いのマグカップをシンクまで運び、二人並んで仲良くそれらを洗った。それからはレッスン部屋に直行し、師匠に言われた通り、普段なら夕方の五時までみっちりやるのを、四時には外に出れる様に、それを目安にして短めの特訓をしたのだった。

実際には三時四十分に切り上げて、先生が自分が部屋着のままだからと、少し身支度して来る間、私は玄関でジッと待っていた。余計な事を言えば、師匠は自分の格好を、『部屋着だから外には出れないし、しかもお世話になってる瑠美さんに会うなら尚更だ』と言っていたが、私から見ると、表を歩いている誰よりも、綺麗な格好をしている様に見えた。上に着ていた無地のTシャツは、確かに着古した感が出ていたが、決して見すぼらしくはなかった。師匠も私と同じで、体型が出る様な細身の服装が好みだったので、家の中でも細めのジーンズを着ていた。前にも言った通り、師匠は175センチと長身で、本人曰くピアノを弾いているからと少し肩幅があったが、とてもスタイルがよかったので、師匠に対するバイアスが”すごく”かかっている様に聞こえるかもしれないが、それでも繰り返す様だけど、小綺麗にお洒落をしていると言う並の人々よりも、よっぽど師匠がお洒落…というよりそれよりも、”洗練”されて見えた。

…なーんて事を、ボーッと考えていると、師匠が自分のプライベートな自室から出て来た。顔はハニカミつつ照れ臭げだ。髪型はレッスン時と変わらず、ロングヘアーを後ろで束ねていた。服装は上にコートを羽織っただけのシンプルな装いだった。下のTシャツだけ、新しいのに着替えたらしいが、それをコートの前を開けて見せられても、正直違いが分からなかった。…さっきまでの服装で良かったんじゃないかと思わず突っ込みたくなったが、何とか抑えて、二人並んで靴を履き、一足先に師匠が外に出た。そして振り返り、玄関のドアを閉まらない様に抑えたまま、私が出るのを待っていた。私は立ち上がり、ふと下駄箱の上にある置き時計をチラッと見た。丁度四時を指していた。



師匠と私は二人仲良く並んで、私の家までの道を歩いていた。晴れやかで朗らかな天気だったが、まだ二月に入ったばかりのせいか、時折強く吹き抜ける風は、思わず首に巻いてるマフラーに顔を埋めたくなるほどだった。師匠の家から私の家までは、約五分ちょっとの距離があった。向かう間は、私の学校生活の話などに終始し、体感的にはあっという間に自宅玄関前についてしまった。

私は自分の家だというのに、ドアの手すりに手をかけるのを逡巡していたが、フッと後ろから肩に手をかけられたので振り返りみると、師匠が微笑を湛えながら、不安げな私と目が合うと、コクンとそのまま何も言わずに頷いて見せた。その無言の励ましに背中を押された心地を感じつつ、鍵穴に鍵を差し込み、回し中に入り、普段の調子を思い出しつつ声を上げた。

「た、ただいまー」

「あら?おかえりー」

と、居間の方からお母さんの声が聞こえた。そして居間のドアがガチャっと開けられると、何か洗い物をしていたのか、タオルで手を吹きつつ玄関まで出てきた。

「今日は早いわね…って、あら?」

お母さんは、私の背後に立っている師匠の姿を認めると、途端に明るい笑顔になりつつ、声をかけた。

「あらー、沙恵さんじゃなーい。久しぶりねぇ」

「ご無沙汰してます、瑠美さん」

と師匠も、お母さんに合わせた様な笑みを浮かべつつ返した。

お母さんはその笑顔のまま、タオルを持たない片方の手を、手前に向けてパタパタ動かしつつ言った。

「ほら、せっかく来てくれたのに立ち話も何だし、そんな所にいつまでも立ってないで、早く上がって上がって!」

「ふふ…。では、お邪魔します」

師匠はそう言うと、おもむろに靴を脱ぎ出したので、私も合わせる様に同時に靴を脱ぎ上がって、居間の方へと向かった。

「ほら、座って座って!」

居間に入ると、既にお母さんはキッチンにいて、何やらゴソゴソとカップを出したり忙しなくしつつ、こちらを見る事なく言った。

「今お茶を淹れるから。えぇっと…お茶はいいけど、茶菓子があったかしら…?」

「あ、そんな、お気遣いなく…」

師匠は初めは、お母さんの言いつけ通り、いつも食事を取っている食卓の一角に座りかけたが、お母さんがそんな事を呟きながら作業をしていたので、また立ち上がり、キッチンの方へと歩み出そうとしていた。こちらにずっと背を向けつつ作業をしていたので、気付く訳は無かったはずだが、気配を感じたのか、一旦手を止めて師匠の方を見て、見方によってはジト目に見れる様な視線を向けつつ、しかし口調は陽気に言った。

「あー、ダメダメ!沙恵さんは客人なんだから、そこで座って待っててよ」

「は、はい…」

師匠はお母さんの勢いにやられた形で、苦笑いを浮かべつつ、今度はちゃんと椅子に座ったのだった。師匠はコートを脱いで隣の椅子に掛け、私は急いで自室に戻して来た。

お母さんが言っていたが、考えて見たら、師匠がこうしてこの家に来るのは、かなり久し振りだった。勿論師匠とお母さんは友達だというんで、しょっちゅう私の知らない所で会っている様だったが、それは外のどこかのお店だったり、私がいない時の師匠のお家だったりだからだ。

最後に来たのは…そう、忘れもしない、皆さんも覚えておられるだろうか?私がどうしてもピアノを辞めたくないと、師匠のお家で、終いには泣きつつ訴えたあの日を。師匠も私の訴えに、微笑みを浮かべつつ慰めてくれながら、目元を潤ませてくれたあの日だ。あの時もその後、師匠が私の家まで付いて来て、その時は今のように上がらず玄関先での事だったが、私が顔を伏せて黙っている間、師匠がお母さんに『瑠美さんの考えも尤もだと思いますが、琴音ちゃんの気持ちも痛いほどに分かるんです。瑠美さんは私の過去を知っているから、お分かりでしょ?…いえ、何か言いたいんでは無いんです。お受験の事はお邪魔しません。ただ…邪魔しない範囲で留めて置くので、琴音ちゃんがピアノを続けるのを許して上げて下さい』と言い終えると、頭を深々と下げてくれたのだった。下げられたお母さんは、少し…いや、大分動揺しつつ、慌てて師匠に頭を上げるように言っていた。まぁ尤も、事の顛末を覚えておられる人なら分かると思うが、お母さんは何も今すぐにピアノを辞めろと言っていた訳ではなく、成績が落ちたらと一応条件を出していたのだった。だから、お母さんの中でも実際に辞めさせるつもりはこの時は無かったので、師匠には前々から私に受験させようという話はしていたようだったが、この条件のことまでは話していなかったようなのだ。しかしまだ幼い…いや、中学に入りたての私を見たら、今でも十分に幼いのだろうが、まだ小学生だった私に取ってはとても大きな問題だった訳で、被害妄想が膨らみに膨らみ、それを師匠にぶつけた結果が、こうなったという話だ。ここで慌てて自己弁護すると、以前にも話したが、この頃あたりから胸の奥に、あの真っ黒で重みのある、形容のしようが無い”ナニカ”が存在しだした時期だったので、自分で思っていたよりも混乱していたのだろうと付け加えさせて頂く。それはさておき、お母さんもお母さんで、ここまで大事になるとは思わなかったのだろう、師匠にそのまま玄関先で、出した条件について説明をすると、見るからに力が抜けていくような様相を見せて、師匠は私に力なく笑いつつ、何も言わずに頭をクシャクシャっと撫でてきたのだった。

とまぁ私の被害妄想のせいで、こんな事態にまで発展した訳だったが、もしかしたら師匠が頭を下げてくれたお陰で、お母さんの設けた条件が緩くなったのかも知れないと、後付けだがそう思っている。話を戻そう。


「はい、どうぞー。沙恵さんは紅茶に、何も要らない人だったわよね?」

「あっ、はい、そうです。すみません」

師匠が座ったまま軽くお辞儀をした前には、紅茶の入ったカップ三つと、クッキーやらチョコやらが盛り付けられたお皿がトレイに乗せられていた。因みにこのクッキーは、前に師匠と共に作ったものと同じヤツだった。家でもたまに、こうして作ることもあった。つい最近作ったものを、こうしてお母さんが出してくれたのだ。

師匠もすぐに気付いたらしく、

「…あれ?これって…」

と、向かいに座る私の顔を覗いてきた。

それに答えようと私が口を開きかけたその時、

「あぁ、それはね…この子が最近作ってくれた物なの」

と言いつつ、お母さんは私の隣に座った。ここで補足すると、今師匠が座っている位置に、普段はお父さんが座っている。

それはともかく、お母さんは途端に機転を利かしてくれたのだろう、師匠にこうして、私が一人で作ったクッキーを出してくれたのだから。師匠はそのクッキーを手に取り、マジマジとなぜか感心したように見ていたが、ふとお母さんの視線に気付くと、少し気まずそうな、照れ臭そうな表情を見せつつ「いただきます」と言いながら一口分を口に入れた。

「召し上がれー。…って、私が作った訳では無いんだけれど」

お母さんはそう言いながら、隣に座る私にニヤッと笑顔を向けた。私も無言で笑顔を返した。

師匠は少しの間、目を瞑り黙ってクッキーを味わって噛んでいたが、不意に目を大きく開けて、笑顔で私に話しかけた。

「…ウンウン、私の所で作った時よりも、もっと上手く作れているね」「あっ、そうですか?」

師匠に褒められたので、私は思わず当初の目的を忘れかけて、明るく笑顔で返した。そして自分も一つ手に取り、食べるのだった。

「あら、そうなのー?」

お母さんも、見るからに普段よりもテンション高めに声を上げつつ、同じ様にクッキーを一つ取り口に入れた。昔から分かっていた事だったが、お母さんも私に負けず劣らず師匠の事を気に入っている様だった。もちろん、私とは方向性が違っているけど。

お母さんは口の中を空にしてから、紅茶を一口啜りつつ言った。

「いやー、本当我が子ながら料理が好きな上に上手くて安心するわー。私に似たのねぇ」

そう言うと、お母さんは私の背中をポンポンと叩いた。お母さんの口癖だ。言われる度私としては、こそばゆいと言うのか何というのか、何とも形容のしようが無い気分になるのだった。師匠は笑顔で対応している。

お母さんは私の背中から手を離すと、師匠にまた顔を向けつつ言った。「あなたに感化されたのも大きいのだろうけど、今ではお菓子以外にも色々と作れる様になってるのよ」

「…あぁ、一人暮らしをする為の準備ってやつですか?」

師匠はそう言いながら、顔をお母さんに向けつつ視線だけ私に向けた。私は何故か視線を逸らすように、カップの中の紅茶に目を落とした。

この時初めて、師匠が私が高校生になった時に一人暮らしをするという事を知っているというのを知ったのだった。これに関しては、誰から先に伝わってもいい問題だったので、お母さんが裏で師匠に言ってても別に構わないし、何も感じなかった。

「そうなの。まだまだ先ではあるんだけど…親バカに見えるかも知れないけどね?この子ってこの通り、ヤケに大人びていてしっかりしてるでしょ?まぁ…頑固とも言えるけどね?」

お母さんはチラッと、私に意地悪い笑みでニヤッと笑った。

「でもそんな子だから、まったく心配していないのよ。…まぁ、また一つ短所を言えば、何でも一人で抱え込んじゃう所があるって事かな?」

お母さんはまた先程と同じ笑みを向けてきたが、私はそれを聞いて少しビクッとしてしまった。我が母ながら、よく見ているなぁ…と、生意気な感想を持ったのだった。

「…ふふ、そうですね」

師匠も、お母さんと似たようなタイプの笑みを私に向けてから応えた。

「琴音は賢い子ですから、何でも一人で解決しようとするあまり、大人でも参るような事まで抱え込んじゃうんですよねぇー。…もう少し、周りにいる人に頼って欲しいんですけれど」

「し、師匠ったらー」

私は何だか話の方向がおかしな方に行っているような気がしたので、慌てて軌道修正を図った。そんな私のあたふたしている様子を見て、お母さんと師匠は一瞬顔を見合わせたかと思うと、クスッとほぼ同時に吹き出し、そして笑い合うのだった。私は膨れて見せていたが、その後はやれやれといった調子で苦笑いをするのみだった。


「はぁーあ、さて…」

笑いが収まった頃合いになると、お母さんがおもむろに口火を切った。

「沙恵さん、あなたは今日は一体なんの用事があってここに来たのかしら?普段から来るならまだしも、珍しく立ち寄ってくれたって事は、何かしらの意味があるわけよね?それも琴音と一緒に連れ立って…」

先程までとは打って変わって、少し声のトーンを落とし気味に話し出したお母さんに対して、師匠は別に気にしない風に変わらぬ調子で「えぇまぁ…」と短く答えた。

「もしかして…琴音が何かしたのかしら?」

お母さんは私に目をくれる事無く、師匠から視線を外さずに聞いた。

それを聞いた師匠は、一瞬目を丸くしていたが、笑うのを堪えるように口元に手を持って行きつつ、明るく答えた。

「…ふふ、まさか。琴音が、少なくとも私の所に来て問題を起こした事なんて、今までに一度もありませんよ」

「あら、そう?…では、何なのかしら?」

何故だかお母さんは、警戒心を露わにしていた。過剰に見える程だった。師匠は師匠で、そんな様子に気後れするどころか、まったく気にも留めてないといった風で、今度は静かな笑みをまず私に向けてきた。私と視線が合っても何も言わずにいたが、その目から『自分から話す?』といったメッセージが見て取れた。少し悩みつつ、私は少し視線を外して隣に座るお母さんの横顔を盗み見たが、そこから何かしらの事を察したらしい、師匠は静かに紅茶を一口啜ると、お母さんに答えた。

「まぁ端的に言えばですね…琴音が、コンクールに出たがっているんですよ」

「…え?」

そう声を漏らしたお母さんの顔は、隣に座る私からは見ることが叶わなかったが、その口調からして凄く驚いているのが感じ取れた。

その後は暫しの沈黙が居間に流れた。お母さんは自分の中で情報を処理するのに黙っていたし、師匠も冷静な風で紅茶を音も立てずに啜っていた。私も当然、黙ったままだった。

どれほどだっただろう、もしかしたら三十秒も経ってなかったかも知れないが、体感的には十分ほどにも感じられた。

お母さんがゆっくりと顔を私に向けて、静かに声をかけてきた。

「…琴音、本当なの?」

その声は、私が勝手に感じていただけだったが、ピンと張りつめたこの場の空気に似つかわしい、何とも重みのあるものだった。

私は俯き加減でいたが、その体勢から小さくコクンと頷いた。

「…琴音?」

お母さんが少し疑問調で話しかけてきたので、思わず私はお母さんの方に顔を向けた。見たお母さんの顔は、いつに無く真剣な面持ちで、受験がどうのと話をしていた時以上に、ピリッとした顔つきをしていた。

「頷くだけじゃなく…琴音、あなたの口からちゃーんと聞きたいの。…あなた、本当にコンクールに出たいの?」

「…うん、私…コンクールに…出たい」

私は絞り出すようにやっとそう答えると、またそのまま俯いて、太もも辺りを見ていた。

「何でまた急に?」

そう聞いてきたお母さんの声のトーンは、さっきよりかは緊張が緩和されていたので、私も少しは気持ちも軽く答えられそう…だったが、いざその理由を問われると、色々な要因が絡み合い過ぎて、一口に説明しようとすると、困難だというのに今更ながら気づいた。初めて師匠に話したときの内容を、そのまま話せば良いとも思ったが、師匠にも言わなかった別の要因、ピアノを弾く上での一番のモチベーションとなっていたのは…そう、あの宝箱で義一に弾いて見せて、褒められたいが為でもあったのだ。ピアノを弾く事の、難しく中々上手くなれない事への苦痛感、課題を乗り越えたかと思えば、また新たな課題が増えてくる事による際限無い事への漠然とした不安感、でも振り返れば、真面目に取り組んだことへのご褒美、一昨年よりも去年、去年よりも今年と、確実に前進しているという達成感を感じられる、何物にも代え難い”面白さ”、それらは全て師匠から教えて貰って、今もそれは継続中な訳なのだが、このピアノに関しても、義一の存在が大きかった事は否めなかった。

そういう訳で、別に義一のことに触れずとも話せるのだが、師匠の場合と違って、直接関係のあるお母さんに話す場合とは勝手が違っていたのである。

しかし、いつまでも黙っているわけにも、聞かれたから今から理由を考えてるのかと思われてしまうのは本意では無かったので、結局師匠に話したそのままを、辿々しくではあったが、チラチラお母さんの顔を伺いつつ、ツラツラと想いを述べたのだった。

お母さんはその間、黙って微動だにせずに私の話を聞いていた。

私が話し終えると、また暫く沈黙が流れたが、今回は少し早めにお母さんがまた口を開いた。

「…なるほどねぇー。裕美ちゃん達の…」

お母さんは独り言のようにそう漏らすと、ずっと私に向けていた顔を今度は師匠に向けて聞いた。

「沙恵さん、あなたも今と同じ様な事を聞かされたの?」

「はい」

そう答える師匠の顔には、気持ち微笑が見えていた。

「そう…」

お母さんも、別に合わせた訳では無いだろうが、短くそう言うと、途端に「ふふ」と笑い声を漏らした。私は当然不審に思い、思わず顔を上げてお母さんの顔を見ると、やはり柔らかな微笑を浮かべて私を見ていた。

「琴音…あなた、良い友達に恵まれたわねぇ」

「え?…あ、う、うん…」

突然に裕美達の事を褒められたので、訳も分からないまま素直に同意した。お母さんは、私の返答に対して、満足げに頷いていた。

「そっか…。沙恵さん?」

お母さんは、微笑みつつ師匠に話しかけた。

「…良かったわね、ようやくこの子が決心してくれて」

「…え?」

お母さんが急に目を細めつつ、その様な事を言い出したので、私は驚いて声を上げたが、「…えぇ、そうですね」と師匠もお母さんにほほえみ返していたので、私一人が置いてけぼり状態になった。

「それって、どういう…?」

私は動揺を隠せないまま、おずおずと二人の顔を交互に見つつ言うと、まずお母さんが師匠に目配せをした。すると師匠は、ただ黙って笑みを返して紅茶を飲み出したので、一度大きく頷くと、私に顔を向けてから話し始めた。

「…ふふ、琴音?あなたは私と沙恵さんが仲の良い友達だというのは知ってるでしょ?あなたがいつ頃だったかしら…あ、そうそう!あなたが小学校のニ年生になったばかりの時に、沙恵さんの所にピアノを習いに行き出したのよね?」

「う、うん…」

これまた急に、昔を回想し出したので付いていけてはいなかったが、何となく相槌だけは打っておいた。お母さんは続けた。

「それでアレは…習い始めてから二年くらい経った頃かしら?…ねぇ?沙恵さん、あなたがこの子にコンクールに出てみて欲しいと言い出したのは」

「えぇっとー…えぇ、大体そのくらいの時期だと思いますね」

師匠は一瞬どこかに視線を飛ばしつつ考えて見せていたが、思い出した様な表情を見せつつ答えた。

因みに、当事者の私が細かい事を付け加えれば、初めて師匠にそんな事を提案されたのは、四年生の年末だったと思う。

私も初めて言われた頃のことを思い起こしていたが、それに構わず話は進んで行った。

「初めは当然琴音に最初に話した様だけれど、中々口説いてもオッケーの返事を出してくれないというんで、その後に私が相談を受けていたのよ」

「…へ?」

その言葉には、私が思い出に浸るのを遮るほどの力があった。

お母さんも、この話を聞かされていたんだ…。

と、一瞬それを不思議に思ったが、別に現実的に考えてみたら普通だというのに気づいた。何せ私はまだ未成年だ。

何度も繰り返しになってしまうが、当人の私が未成年だから、こうしてわざわざ師匠まで家まで来てもらって話をしているという訳で、裏でお母さんに話が通っていても、何も不思議では無かった。義一を始めとして、色んな人に”大人っぽい”だとか”自律してる”だとかと煽てられる事が多かったせいか、自分でも勘違いして、どうも自分が所謂”未成年”だというのを、たまに無自覚なまま忘れてしまう様だった。だからこんなに生意気な女の子になってしまったのだろう。

これも良い機会だから付け加えると、例のあのお店、”数寄屋”に聡に誘われて行った日、あの日はピアノのレッスンを休んでまで行ったのだが、その時にも話した通り、師匠には『”友達”と息抜きに遊ぶんで、休みを下さい』とちゃんと断った。その時にお父さんに連れ立って”医者の集まり旅行”に行ったお母さんにも、ちゃんと”友達”と遊ぶ旨は伝えてあった。何が言いたいのかというと、もし裏で師匠がこの事についてお母さんと話したとしても、何も問題は無かったという事だ。中にはどうなっているのかと思っておられる人が居るかも知れないので、この場を借りて補足させて貰った。話を戻すとしよう。

「…そうなんだ」

さっきも触れた様に、私はすぐに納得しつつ師匠の顔を見てみると、師匠は相変わらず何も言わないまま黙って、しかし微笑みを絶やさないまま紅茶のカップに口をつけていた。

「私もね?」

お母さんにしては行儀悪く、テーブルに肘をつき、顎を手に乗せながら、私にニヤケ面を見せつつ言った。

「初めて沙恵さんにその事を聞いた時、素敵じゃないって思ったのよ?私は呉服屋の娘だから、そんな煌びやかな世界とは縁遠い、”地味”な世界の中で少女時代、青春時代を過ごしていた訳だけれども、それを娘のあなたがその世界に出れるかも知れない、しかも沙恵さんの様な実力あって目の肥えたピアニストの方に推薦されるなんて、凄いことじゃない!っと思ったのよ」

途中から何故だか見るからにテンションを上げていきつつ話して、最後の方では興奮が最高潮に達していた。それを聞いていた師匠は

「い、いやいや!私なんか、もう引退した身ですし…それに、充分呉服屋の娘というだけで、中々のものだと思いますけど」

と慌てて謙虚な対応を見せていた。私も、何だか居心地が悪くなって、肩をすくめる他に無かった。お母さんは恐らく、私の実力がほんの二年余りの間に、コンクールに出れる程の実力を身につけたんだと思った様だったが、私は知っての通り師匠から事の顛末を聞いていたので、それはまるで違うなと思ったからだった。訂正してもよかったが、何だかそんなツッコミを入れると、話が脇道に逸れて、余計にややこしくなりそうな気がしたので、自重をしたというわけだ。

「そう?」と、何だか不満げに師匠に言うと、また気持ちを落ち着けて、今度は私の背中に手をそっと添えてきてから、打って変わって静かに柔和な笑みをこぼしつつ話し出した。

「コホン。…うん、だからー…なんて言えば良いのかなぁ?…琴音、あなたが本当に自分からコンクールに出たいと思ったのなら、それは私にとっても、とても喜ばしく嬉しい事なのよ?…いや、私だけではなく、お父さんにとってもね?ただこうして何度も確認を取るのもね、あなたが…」

ここでお母さんは、私の背中を上下にゆっくりと摩ってきながら目を細める様に笑みを見せつつ言った。

「周りの目を気にして、周りからの期待に応えようとするあまり、無理してやりたくも無い様な事をやろうとしているんじゃ無いかってね?…そう心配しちゃうのよ」

「お母さん…」

私はボソッと、お母さんの目を見つつ呟いた。と、これはハタから見たら、親子がお互いの心を通わせつつある微笑ましげな風景に映っていたのだろうが、当の私の心境としては違った。そのセリフ自体はとても美しく、慈愛に満ちてるとは思ったし、感じないわけでも無かったが、今までの過去の出来事を振り返ると、とてもじゃないが額面通りに受け入れる訳にもいかなかった。つまりこの時の私の心は、大目に見ても六割方は冷めていたのだった。我ながら情がないと思うが、こればかりは仕方ない。

それはともかく、その後は急に場の空気が一変して、お母さんがアレコレと師匠に対して質問攻めにしていた。現状の私はコンクールに出てどうなのかだとか、保護者である私はどの様な準備をすればいいのかと言った風にだ。どこからかメモ用紙を取ってきて、ボールペンで色々と書きなぐっていた。矢継ぎ早のお母さんからの質問に、師匠は一つ一つ真摯に答えていた。時折苦笑いを見せつつだったが。

私のコンクール出場に関する話に満足したのか、それからは取り止めのない雑談をしていたが、ふとお母さんが居間にある時計を見ると「あっ!」と驚いて声を上げた。私もつられて見ると、夕方の五時半を過ぎた所だった。

お母さんは慌てて立ち上がると、師匠に苦笑交じりに謝りつつ「今日はこの辺りにしましょう」と声をかけた。お母さんが言うのには、私と師匠がきた時に、ちょうどシンク周りを整理した後で、これから夕飯の買い物に行こうと駅前のスーパーに行こうとしていた所だったらしい。それが急の来客、それも師匠という珍しい客人だったという事もあって、嬉しさのあまりついつい夕飯の事をすっかり忘れてしまったという話だった。その説明を受けた師匠は、恐縮しつつペコっと頭を下げて、連絡なしの突然の来訪に対して謝っていたが、お母さんはお母さんで、最初に「本当よー」とジョークを飛ばしてから、そんなの気にしないでとフォローを入れていた。

「ちょっと待っててね?どうせなら一緒に出ましょう?」

とお母さんが言うので、お母さんが軽く外出用に着替えて来る間、師匠と二人でコートを着て居間で待っていた。私はこの間、少し師匠に今回の事について話そうかと思ったが、思ったより早くお母さんの支度が終わったので、それは叶わなかった。

それからは三人仲良く外に出た。もうすっかり暗くなっており、目の前の通りの街灯が、等間隔に列をなして光瞬いていた。西の空にさえ、陽の光の残光がもう消えかかっていた。二月とはいえ、空気も真冬と変わらぬ体感で、まだまだ防寒着は手放せなさそうだった。

お母さんは自転車に跨ると、「師匠にわざわざここまで来て貰ったのだから、家まで送っていきなさい」

と言った。私はすぐに同意して、師匠を連れ立って行こうとしたら、一歩踏み出す前に呼び止められた。「なに?」と聞き返すと、

「送った後で、スーパーに来てくれる?折角だから買い物に付き合って欲しいのよ」

と言うので、私はお母さんが何が言いたいのかすぐに察して、私も自転車を出した。

それを見たお母さんは、満足げに大きく一度頷くと、

「じゃあ先にスーパーに行ってるから。慌てずにゆっくり、車に気をつけて来るのよー?」と私に声を掛けてから、

「じゃあまたね、沙恵さん!また近々お茶でもしましょーう!」

と師匠にも声を掛けると、ペダルに足をかけて、何も言わずに数回私達に向かって大きく手を振りつつ、ゆっくりと自転車を発進させた。駅の方へと向かうお母さんの後ろ姿を、師匠と二人で眺めていたのだった。

お母さんがすぐの曲がり角を曲がったのを見届けた師匠は、私に顔を向け、優しい笑みを零しつつ言った。

「ふふ、じゃあ私達もそろそろ行こうか?」


「いやー、しかし…瑠美さんは相変わらずだなぁ」

師匠は愉快だと言いたげな調子で正面を見ながら言った。

駅の方とは逆方向の、師匠の家までの道をゆっくりと二人並んで歩いていた。私は自転車を両手で押してる形だ。

「あんなに底抜けに天真で居るかと思えば、着物を着付けたら途端に凛とした表情になって、背筋もピンと…いや、普段から背筋は伸びているけれど、そんな佇まいを見せるんだもんなぁ…そのギャップが良いよね?」

と、ふと私の方に顔を向けて、笑顔で聞いてきたので、私は少し困りつつ苦笑気味に返した。

「…師匠ー、これでもあの人の娘なんだから、母親のことを面と向かってそこまで褒められると、なんて答えたら良いのやら困ってしまいますよ?」

「え?…あぁ、そっか、そっか!そりゃそうだよねー。失礼しました」

アハハと師匠は、困り顔の私を尻目に明るく声を上げて笑うのだった。私もそれに合わせる様に笑みを浮かべたが、すぐに引っ込めて、先程お母さんの支度を待つ間に話そうと思っていた事を言おうと、口を開いた。

「…師匠」

「んー?何かな?…って、何だか外で『師匠』と呼ばれると、恥ずかしいわねぇ…」

師匠は照れ笑いを浮かべて言った。私も思わずまた合わせて笑いそうになったが、なんとか堪えて、その場で軽く頭を下げつつ言った。

「…今日は、ここまで付いて来て下さって、有難うございました」

「…へ?…ち、ちょ、ちょっとー、やめてよー、そんな仰々しく他人行儀なー…」

師匠がそう返すので顔を上げて表情を見てみると、確かに声の調子と同じ様に少し困り顔で笑って見せていた。

まぁでも確かに、師匠の言われた通り、少しばかり芝居掛かってしまったかなと思わないでも無かったが、当時の私は、弟子というのは師匠に対してこう接するものだという、ある種の刷り込みを施されていたので、別に違和感などは無かった。その原因を作ったのは…やはりと言うか、当然のように義一だった。

初めて話を聞いたのは五年生の時だったが、私が六年生に上がった頃辺りから、私がしている”音楽”という”芸”の話から、たまに別の…この場合でいうと”お笑い”という芸についてお喋りした事があった。その会話の中で、何かにつけて持ち出してきたのが”落語”だった。初めのうちは、幾ら義一が落語の話をしてきても、さほど興味が湧いてはこなかったが、私が一番当時興味を向けていた義一という男が、そこまで肩入れするほど落語の事をしょっちゅう話してくるものだから、知らず知らずの内に、いつの間にやら私自身も落語に興味を持つ様になっていった。…本人が自覚的かはともかく、義一が撒いた餌に飛び付いた形になってしまった。それからというもの、義一の宝箱に行くと、時間があったらという制約付きだが、義一のコレクション、それも今時の落語家ではなく、昭和の時代に活躍した”名人”達の映像を何本も見せて貰った。悪いことに(?)、何度も見ていく内に、すっかり落語の虜となってしまっていた。それからまた追い討ちを義一からかけられた。義一が今生きる落語家の中で一番好きな…いや、落語家としてだけではなく、その存在そのものに対して尊敬してると言って憚らない、老齢なその人の書いた”芸談”の本を借りて読まされた。…いや、途中から私が望んで借りて読んだのだった。

…うん、これ以上話すと、どんどん今度は芸談の方へと話が逸れてしまって、本来の筋に戻れなくなってしまうので、取り敢えず今回はこの辺りにしよう。これに関する話は、否応無く後々に話すことになるのだから。それはともかく、この話をした事によって何が言いたかったのかというと、繰り返しの様になるが、落語の映像ばかり見て来たものだから、師匠に対しては弟子はこう接するものだと思い込んでしまっていたので、こんな対応になってしまうという事だ。漸く結論に辿り着いた。話を戻そう。

私もお礼を言えたので、少し笑みを零しつつ続けた。

「でも、こういう時、何て師匠に対して言えば良いのか分からないんですもん」

そう言い終えると、少し挑戦的で生意気な笑顔を見せつけた。それを見た師匠は途端にウンザリげなジェスチャーを見せていたが、愉快な調子を抑えきれていなかった。師匠は不意に右手の人差し指を立てて、それを空に向かって指しつつ、目を瞑りながら

「そういう時はねー…有難うございましたで良いのよ!」

と、何故か得意げに言った。その様子を見て、私はクスッと笑ってから、改めて「今日は有難うございました」と言ったのだった。それを聞いた師匠は、その得意げな表情を崩す事なく「どういたしましてー」と、語尾を間延び気味に返すのだった。それからはまた二人で顔を見合わせつつ、クスクスと笑うのだった。

「さてと…あっ、着いたわね」

「はい」

これほどの短い会話をしただけで、もう師匠のお家の前に着いてしまった。まぁそれは仕方がない。何せ私の家から師匠の家まで、徒歩五分ほどの距離だったからだ。これでも普段よりかはゆっくりと歩いてきたのに、あっという間に感じられた。

私は自転車があったのでそこで良いと、門扉の辺りで足を止められた。師匠は玄関の鍵穴に鍵を差し込んだ…かと思うと、「あっ、そうだ」と私に聞こえる程の独り言を言ったすぐ後に、ふと後ろを振り返り、何かを思い出した様な顔つきで、私のいる所まで戻ってきた。私は師匠が家の中に入るのを見届けようとジッと立っていたのだが、何事かと少し身構えた。

私のすぐ側、門扉に手を掛けつつ師匠は顔だけ私に近付けて、優しく柔らかな声で言った。

「…琴音、ほら、試しに言ってみるもんでしょ?…これを機に、何もかも抱え込もうとしないで、私も含めて、頼りないかも知れないけど、もうちょっとだけ周りの大人を信用してみてね?…じゃあ、気をつけて帰…あ、いや、違うか…気をつけてスーパーに行くのよー!」

「え、あ、いや、ちょっと…」

「じゃあ、またねー!」

師匠は呆然としている私をほっといて、自分はいそいそと差しっぱなしの鍵を回してドアを開け、入り際にまた私に笑顔を向けつつ閉めて中に入ってしまった。私はそのまま変わらず呆然と立ち尽くし、閉められたドアをボーッと見ていたが、思わず知らずフッと鼻から力の抜ける息が漏れて、それを合図にその場で苦笑をするのだった。

師匠が私に急に話しかけた内容に対して、驚きと嬉しさが同時に胸の中を渦巻いて、どう自分でそれを解釈すればいいのか分からずに漏れた笑みだったが、もう一つの理由として、師匠が今見せた振る舞い行動に対して微笑ましく思ったのも事実だった。何せ正式に師弟の間柄になったのはついこの間だったが、付き合い自体は私が小学二年生に上がったのと同時くらいだったから、ほぼ五年の月日を互いに過ごしてきたのだった。大人にとってはあっという間だろうが、子供にとっての五年は簡単に言えるほどには短くないのである。とまぁそんな訳だから、師匠があの振る舞い方をした理由が、照れ隠しから来てることはすぐに分かってしまうのだ。向こうからしても私自身気づいていないクセを知っているのだろうけど。

それはさておき、今の情景を思い出し笑いしつつも、今頃夕方の買い物時で混み合うスーパーの中を、カゴを持って品定めをしているであろうお母さんの元へ向かうため、ペダルに足をかけ、少し強めに漕ぎ出したのだった。

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